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遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 今日は廻れるだけ廻らなくてはならない。ホテルから西に向かって歩くと、観光ルートの一番西端にある大きなドゥオーモに行きつく。ドゥオーモ(又はカテドラル)はイタリアの街では中心的な存在なのだが、パドヴァやラヴェンナのドゥオーモは我々観光客にとってはどうも影の薄い散在である。

 

遠い夏に想いを-ravenna duomo01 ここのドゥオーモの起源は5世紀に遡るらしい。塔は10世紀に建てられたものだが、教会の建物は18世紀の中頃に再建されたものだ。観光的に、教会内部は見るべきものがないので、ネオニアーノ洗礼堂を探す。場所が判らずドゥオーモの周りや堂内を探したあげく、やっと裏手の入り口にネオニアーノ洗礼堂という表示を発見。


遠い夏に想いを-neonian礼拝堂  中は美しいモザイク画がドームの内側に鮮やかに輝いている。ラヴェンナで最も古い遺跡で、5世紀頃に建てられた建物です。この当時はアリアーニ派が主流だったラヴェンナでカトリック派が建てた洗礼堂で、名前は当時(5世紀中頃)の司教のネオーネに由来している。








遠い夏に想いを-天井絵01  八角形の礼拝堂である。一般的に礼拝堂は小さいものや大きいいもの、八角形であったり四角形であったり、さまざまだが、八角形が一番多いようだ。中央には大理石の大きな洗礼用の水鉢があり、ドームの天井には洗礼者ヨハネにヨルダン川で洗礼を受けているキリストと周りに十二使徒が描かれ、濃紺色と金色が渾然一体なって迫ってくる。狭く、薄暗いお堂のなかで、ブルーに輝く天井から金色の光が差してくるようで、大変に効果的です。



遠い夏に想いを-ネオニアーノ内部  初期の礼拝堂は、洗礼用の水鉢を中心に置いた、小さな建物だったようだ。後世の若干の修復があるものの5世紀のモザイクはこのうえなく素晴らしい。












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 夕食後リストランテを出た。満腹。ノッコはヨーロッパに来るとよく食べる。朝と昼はシンプルだが、夜は私と同じように、時には、私以上に食べる。消化するのに、街を散歩して帰ることにする。


 ラヴェンナのコムーネはPiazza del Popoloという市民広場で、昼間は余り人出は見られないが、夜になると周辺のレストランやカフェからテーブルと椅子が出て多くの市民で埋めつくされる。特に金曜日の夜はすごい人出だ。


遠い夏に想いを-時計塔  広場は矩形で、東側に現在銀行が入っている18世紀に建てられた時計塔がある。その隣にはスフラッジオ教会が建っている。広場の西側には15世紀に造られた2本の柱が建っている。ヴェネツィア統治時代に造れたもので、ヴェネツィアのサン・マルコ広場に建っている2本の柱と同じ趣向だ。柱の上には聖アポリナーレと聖ヴィターレが乗っている。柱の奥には17世紀に造られたアーケイドがありリストランテやカフェなどの飲食店が入っている。



遠い夏に想いを-夜の広場  夜になるとこれ等の店からテーブルや椅子が持ち出せれ、広場は人で溢れる。子供から年寄りまで。気を付けていないと、ぶつかってしまう程だ。どうなってるのだろうか、この街は。





 ホテルに戻る途中に、新しいアーケードの前を通りすぎた。古い街には珍しく新しい店だ。中に入ると奥の小さな空間で若い男の子が2人、チェロとフルートを広げて何やら準備している。やがて、二重奏が始まった。音楽学校の学生だろうか、腕はまあまあだ。腕はともかく、旅の途中にチェロとフルートの音色を聞くのは心地よい。ところが、可哀相なことに、立って聴いている(ストリート・プレーヤーを聞いているようだ)人は私達以外に2~3人しかいない。我々もそこそこで引き上げることにする。通りに溢れた人達をかきわけかきわけ進み、ホテルへ帰った。

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遠い夏に想いを-ポポロ広場01  ポポロ広場を散策して、広場の裏通りにある(写真の建物の後ろの通り)リストランテに入った。店内は落ち着いた雰囲気で大変に落ち着く。まだ時間が早いので客は我々以外に一組だけ。しかし、時間が経つにつれて満席となってしまった。ここの料理は大変美味しい。味はクレモナで食べたパスタなみに美味しい。


 特に、『トマトソース、如何ようにでも』というパスタが抜群だった。トマトはオリーブオイルと玉ねぎとにんにくでとろとろになるまで煮込んだソースで、なんとも言えない味が出ている。トマトはよく煮ると酸味が抜け、味に深みが増して、まろやかになる。イタリアの料理にはハーモニーがあるといわれるが、ハーモニーどころじゃない。シンフォニーがある。


 それに比べて日本の料理(本物は洗練されているだろうが)は単旋律をアカペラで歌っているようなものですね。イタリアやフランス(中国だってそうだが)では最大限の組み合わせで最大限の効果を出そうとする。


 日本料理には醤油と砂糖が欠かせない。醤油や味噌なしで料理しろといったら、大変に困るだろう。醤油や味噌は万能調味料だから、これと砂糖があれば全て料理できる。家では私の担当がパスタ料理なので、独特の旨味をだすのに苦労する。欧米では醤油に相当するものがないから、ゼロから味を作り出さなければならない。野菜や香辛料や脂肪から甘みもうま味も出すから味に深みがある。


 日本では魚を見ると『生で食べる』ことばかり考える。だから、魚の扱いは日本が世界一なのだが、火を通すのが料理の基本だとすると、これは細工師の技と言うべきであろう。


 このことは料理の世界だけでなく、日本人のあらゆる生活様式、芸術、考え方に共通する傾向だ。と言うことは、『単味』こそ日本の文化や日本人の行動を律するキー・ファクターと言える。複合的に考え統合的に計画することが苦手なのも日本人だから。

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遠い夏に想いを-catalogue  それよりも、ミノッツィの工房に行かなくては。今回の旅行はこれがキーポイントであった。『現代イタリアの弦楽器製作者100人』という本のミノッツィのぺージをコピーして持参して来た。


 聖アポリナーレ・ヌオーヴォ教会を出て更に左側、街の南に当たる一角に彼の工房はあった。小さな工房の中は見えないが、玄関の扉には『面会には電話で予約を』と張り紙がしてある。家の前でうろうろしていると、向いの家から中年のおばさんが出てきた。そのまま我々を見ている。

遠い夏に想いを-home 「ミノッツィさんはいるんですかね」
「さあ、たまには見かけるけど、今日はいるかどうか」
「旅行にはいってないですよね」
「さあ、判らないね。奥さんに赤ん坊が生まれるらしいから」

 仕方が無いので、ホテルから電話する事にする。今日は金曜日だし、明日、明後日は土・日ときている。イタリアで週末、それも8月の週末となれば休みに決まっている。クレモナもそうだが、ここラヴェンナもスケジュール上どうしても週末の到着は免れないのだ。



遠い夏に想いを-シシ門  彼の家を離れてもう一度通りに出ると、右側に小さな門が見える。シシ・バッサ門と言うらしいが、意味は分からない。ラヴェンナの城壁には数多く門が残っているが、これは街の南側に位置し、18世紀に建てられたもので、わりと新しい。駅から歩いても10分くらいだから、旧市街がいかに小さいかが判る。


 ホテルに戻って、ミノッツィ氏に電話を入れる。電話に出たのは本人だった。私が彼の93年作のヴァイオリンを持っている事、ノッコのためにチェロを作って欲しい事、土・日しかラヴェンナにいない事を告げた。土曜日は都合が悪いが日曜の朝に来なさいという。


 さて、気が落ち着いたら、お腹が空いてきた。食事に街に出掛ける事にする。ホテルの横の駅前通りを市街地に向かって進む。ここは不思議な街だ。金曜日の夜は町の人達全員が街に集まって来たかのように、人、人、人だ。ポポロ広場の近くのリストランテがよさそうだが、まだ、準備中らしい。繁華街を一回りして時間を潰す。


 夏はラヴェンナでも音楽会や芸能会が所々で開催されている。ラヴェンナには正式な音楽祭があるのだが、時期は6月上旬だからとっくに過ぎている。この音楽祭では毎年テーマを決めてプログラムを組むらしい。名指揮者のリッカルド・ムーティが音楽監督として、オーケストラの演奏会やらオペラが上演される。


 店のカウンターに夏の音楽・芸能祭のパンフレットが置いてあり、ノッコが読みながら『チェロとフルートの演奏』があると言う。だが、どうしても場所が分からない。

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遠い夏に想いを-テオドリックの家  ここの直ぐ近くに、ゴート族の王、テオドリックの居住跡が道の脇に保存されている。6世紀のものだが、閉まっていて、外からしか見られないので、廃虚の様子はよく判らない。テオドリックの墓が駅の右手の方にあるが今回は諦めた。ラヴェンナはテオドリックの街だから、いろいろ見て歩くうちに、テオドリックについて述べてみようと思う。


 ここから近いところにダンテの墓がある筈である。サン・フランチェスコ教会の近くまで来た。しかし、いくら探しても見当たらない。あたりは工事中で囲いがしてある。忽然と消えた訳ではあるまいに、彼の墓は探せなかった。(ラファエロ前派の画家の絵画)



遠い夏に想いを-ダンテの家  ダンテは政敵から逃れて、ラヴェンナまで流れ着いた。そして、1321年彼はラヴェンナで一生を終える。フィレンツェのアルノ川のたもとでダンテがベアトリーチェに再会する絵を思い出すが、実際、『神曲』はラヴェンナで書かれた。まあ、昔、フィレンツェでダンテが一時期住んでいた家に入った事があるからいいだろう。(写真はフィレンツェのダンテの住居といわれる建物)

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