遠い夏に想いを -184ページ目

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 今回は、どの位の距離でどう行けばよいか判っていた。人混みの観光客の間を、荷物を引き引き歩くのも馬鹿馬鹿しいと思いタクシーに乗る。アルノ川のポンテ・ヴェッキオの直ぐ傍にホテル・アウグストゥスがある。前回訪れた時のホテルは街の北へバスで行ったところにあり、決して不便ではないのだが、ポンテ・ヴェッキオの直ぐ傍のこのホテルなら便利だねなどと話し合っていた。今回は、偶然に取ってくれたのがこのホテルだった。
 制服をきちんと着込んだ年老いたボーイに案内されて部屋まで行く。内部は安普請だが意外とモダンで、白塗りの明るい作りだ。窓を開けてもアルノ川が見える訳でなし、特に眺めはいい訳でもない。

遠い夏に想いを-ponte vecchio  もう5時近かったが、直ぐに街に出ることにした。ポンテ・ヴェッキオの金細工店を覗きながら橋の中央に出る。大勢の観光客がたむろしている。アルノ川を眺めているのでもなく、街の景色を眺めているでもなく、ただブラブラと集まっている若い人達で溢れんばかりだ。


 この橋はその名の通りフィレンツェで一番古い橋だ。12世紀初めに出来た橋も14世紀に出来た橋も相次いでアルノ川の洪水で流されて、1345年に作られたのが現在の橋だ。パリのポンヌフ(「新橋」だがパリで一番古い)よりも古い。


 出来た当初、橋の上の商店はみな肉屋だったらしい。その後、野菜屋とか靴屋とか鍛冶屋などが店開きし始める。16世紀の末にこうした店舗が排除されて、金細工屋とか宝石商だけが店舗をかまえることが許されたらしい。家が建っていた橋は世界にもいろいろあるだろうが、昔のロンドン・ブリッジには民家や商店、教会まであったという。13世紀ごろに建てられて、17世紀のロンドン大火まで残っていたらしい。パリでもシテ島に通じるノートルダム橋とかプティポン橋など、かっては民家があったらしい。15世紀頃までに造られたユーラシア大陸の橋は家付きが多かったのだろう。


 72年に初めてフィレンツェに来たときは、1966年のアルノ川の氾濫の泥の跡が川岸の建物の外壁に残っていた。2メートルくらいの高さまで泥がこびり付いていたのを思い出す。街中が水で溢れ、サンタ・クローチェの地区では浸水が5メートルにもなったらしい。あの時は絵画や古文書類が相当の被害をこうむって、修復するのに大変だったと聞いている。

遠い夏に想いを-uffizi  そのまま橋の中央から引き返し、アルノ川沿いにウッフィツィまで歩く。この広場には余り人がいない。今日は日曜日でウッフィツィはどうゆう訳か1時で終わっている。明日は月曜日で休館だ。8月の月曜日は特別に1部開館とか何とか、それらしいことは書いてあるが、実際に開いているのだろうか。









 ウッフィツィは以前訪れているので、今回はスキップした。ウッフィツィは英語のオフィスと同じで事務所をさす。16世紀にメディチ家のオフィスとして建てられた。(上下の絵はウッフィツィにあるボッティチェリの「春」と「ヴィナスの誕生」)




 今はルネッサンス絵画の宝庫だから、見たいのはやまやまだが時間がない。

遠い夏に想いを-signoria01  シニョリーア広場のすぐ傍のカフェでカプチーノをのむ。ここは昔、チャオと3人で立ち寄った記憶があった。
 帰りに、シニョリーア広場の片隅に音楽会のポスター(と言うより大型のチラシ)をノッコが見つけた。
「ほら、教会で音楽会があるよ」
「オルガンか」
イタリアでオルガンというのがピンと来なかったのだ。
「オルガンでもいわよ。夜はすることが無いんだから行こうよ」
そして行くことに決めた。ドイツやフランスならオルガンも悪くないがイタリアではどんなものか聴いてみなくては。

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遠い夏に想いを-空からの街  90年の夏は空港から駅に着いて、運転手に言われたとおり駅の両替所に行きリラに交換した。シエナ行きのバスの停留所も訊いて、駅の玄関に出た。


 今ではフィレンツエの街も概略覚えている。最初に来た1972年には、重い荷物(大きなトランクを2個とボストンバッグを2個)を持って、街の様子も判らないのにホテルまで歩くと言い出してノッコに大反対された。当時は今のように小さなキャリング・バッグでなかった。


 当時の空港バスは駅向かいの左角がバス・ターミナルだった。72年の夏のホテルは空港の案内所で紹介してもらった安宿だった。地図を見るとさして遠くない。そこで、節約のため歩くことにした。当時はひどい貧乏旅行だった。石畳の道をカラコロ重い荷物を引きずりながら歩き始めて、凸凹道を250メートルほど歩いてギヴアップ。結果として膨れ面のノッコとチャオを道の途中に残して、タクシーを拾いに一人で駅まで戻った。90年のパリでもエトワール広場からホテルまでノッコの反対を押し切り、荷物を引っ張りバッサノ通りを歩いた。やはり貧乏性は抜けないらしい。


遠い夏に想いを-駅玄関  今の駅は改修工事のためか、様子がすっかり変わってしまった。当時は、駅も閑散として旅行者もほとんどいなかった。運転手はタクシーのドアーを開けっ放しにして、同僚の運転手と駅の入り口の隅でカードをやっている。運転手をつかまえて、ホテルまで行く道筋を説明するのが大変だ。なにせ英語が通じない。かたことのイタリア語で訊くしかない。
「空いてるかい」
「そうだよ、どこへ行くのかね」
「妻と子供が待っている。ここを左に行き、バスの発着所の処を右に曲がって、真っ直ぐ200メートル行く。今度は右に回って50メートル行くと彼女と子供がいる。彼女と子供を乗せて、左に曲がって真っ直ぐ200メートル行って左に曲がるとホテルがある」
 ホテルのカードを見ながら、ここまで必死になって説明していると、客待ちのタクシーの運転手達が5~6人集まって来て、その場所は何通りだ、いやホテルはその通りにはない・・・と喧喧諤諤となってしまった。
 私が何か喋っている最中に、運転手たちはポンポンとイタリア語で聴いてくるので、話が一向に進まない。
「判ったのかね」
ついに私は訊いた。
「判った。よし大丈夫」
わがタクシー運転手はやっと飲み込めたらしい。
とたんに周りの運転手達から歓声が上がった。
話の要領がつかめた途端、「ブラボー」の歓声が沸き起こって、肩を叩く者、握手を求める者、はては抱きついてくる者もいて、私をタクシーに詰め込み、送り出してくれた。


 そんな経験も遠い昔の出来事になってしまた。駅の中央口の様子は当時とすっかり変わってしまったような気がする。あの時は、右も左も判らずだったのに、金がないから、徒歩で行こうなどと考えたこと自体無謀であった。


 私がイタリア語を始めたのは、前にも書いたが、45年くらい前のことで、当時はNHKの語学講座にもイタリア語はなく、民間の語学学校でもイタリア語を教えるところがない。東京の九段上にあるイタリア文化会館に通った。講師は上智大学の先生だったと思う。その後、ミネソタ大学に留学し、時間に余裕があったので、イタリア語中級会話というクラスをとった。インストラクターのノラについてはこの旅行記のミラノの項で述べた。実際は旅行に余り不自由のない程度のイタリア語なのだが。


 このとき泊まったホテルは大変な安ホテルで、ホテルの女主人は中年の太ったおばさんでイタリア語しか喋らないから、こちらが片言のイタリア語を話すと判ると、機関銃のようにまくしたてる。「ベッドでタバコを吸うな、水道は流しっぱなしで使うな、シャワーも水を節約して使え、・・・etc.」と口うるさい。「Capito、capito」といってその場を逃げるしかなかった。


 こんなことは覚えているが、ホテルの名前も場所も記憶にない。

遠い夏に想いを-airport  やっとフィレンツエに到着した。フィレツェは3度目だが、汽車で着いたのは初めてだ。72年と90年に来た時には飛行機で到着した。ペレートラ空港だった。小さくて大きな飛行機は離発着できない。昔も今も何一つ変わっていない空港である。
 空港バスの運転手は相変わらず英語が苦手である。72年の時はイギリス人女性の観光客がバスの運転手に英語で話しかけている。運転手は両手を挙げて困り果てている。見かねて下手なイタリア語で通訳をしてあげた。イタリア人とイギリス人の会話に日本人が下手なイタリア語で通訳してあげるなんて。この時は、ご婦人はバスに乗らずに行ってしまった。タクシーにでも乗ったのだろうか。
 また、90年に来た時には、やはり同じく、ご婦人が運転手にいろいろ問いかけている。何となく聞いていると、彼女はフランス語で訊いている。運転手は相変わらず解らずに、両手を挙げて困り果てた様子だ。やおらノッコが助け舟をだした。この頃はノッコはフランス語の医薬文献の翻訳や語学学校でフランス語を教えるかたわら、ロマンス語族ということでイタリア語の医薬文献の翻訳も手がけ始めていた。ご婦人はバスに乗るかどうか思案していたらしい。
「バスはどこまで行くの?」
「駅の裏の停留所までさ」
「タクシーで行くと、料金はどのくらい?」
「そうさなー、詳しいことは判らないけど、1万リラくらいかな。大してかからないよ。時間も、多分1
5分くらいかな」
「そう、じゃタクシーでホテルまで行くからいいわ」
と言って結局乗らずに行ってしまった。
 90年の時は、パリから着たばかりで、私はリラの持ち合わせがなかった。運転手に両替所の場所を聴くと、彼は両替の場所を教えようと、空港の両替所までついてきてくれた。多分、銀行の出張所みたいなものだが、丁度12時になり、目の前で昼休みの案内札を出して、係員が姿を消そうとしていた。私が大声で両替を頼むと、このバスの運転手が聞きつけてとんできた。大声で怒鳴っているが、係員は手を振って去ってしまった。
 その時はリラの持ち合わせが全くなくバスにも乗れなかったので、困り果てていたら、この運転手君、売店へ行って、おやじに大声で言う。
「両替してやれや」
「両替はしない」

 おやじはそっけない。それでも運転手君の執ようさに負けたのか、駄菓子を買ったら、本当にバス代くらいのつり銭を、率は悪いがくれた。イタリアの思い出は色々あるがどれも心暖まるものばかりだ。

遠い夏に想いを-fidenza02  フィデンツアでは、窓口に行ってボローニャまでの切符を買い直す。窓口には中年の女性職員がいるのだが、イタリア語しか話さない。
「ボローニャでフィレンツェ行きに乗るには何時で何番線ですか」
彼女はよその駅の事まで、すぐには分らないらしい。男性の駅員も寄ってきて、あれこれ調べている。


 ノッコと私でやっと乗車時間と乗り場を聞き出した。安心して行ける。フィデンツアは地図を見るともうミラノに近い。1時間半かけて、ボローニャに戻り、言われた通りの乗り場で待っていた。どーもおかしい。時間が迫っているのに、ホームの案内はフィレンツェの方向ではない。慌てて、ホームにいた駅員に聞いた。
「えっ、フィデンツアの駅員がここで待てと? 何を教えているんだ。あきれたもんだ。ここじゃないよ。反対側のホームに汽車が入ってくるから、急いで行きなさい」


 私達はまたもや違った汽車に乗る羽目になるところだった。急いで跨線橋を駆け上がり、反対側の乗り場に行った。「ハーハー」息切れしながら、やっと間に合った。もう歳だからのんびりなどと言ってられない。その時、汽車がホームに入ってきたので、慌てて乗り込んだ。


 フィレンツェ行きの汽車にやっと乗れた。ラヴェンナを予定よりも早く出発して、フィレンツェには1時頃には着く予定だったのに、リジョナーレが予定より遅れたのと、フィデンツア騒動で、この分だとフィレンツェには4時半頃になってしまいそうだ。


 汽車に乗って気持ちが落着いたら、何か損をした気持ちになった。せっかくフィデンツアで降りたのだから、どうして2時間くらい街を見てこなかったのだろうか。神様が我々をわざわざフィダンツアに来させたのかもしれないのに。と思うと、残念でもあり、動転していた自分達がおかしくなってきた。


 しかし、フィデンツアについては旅行案内書に何も記述がない。2万4千人ほどの小さい町で、町の聖堂が美しいらしい。急行列車が停車するのだから見るところはあると思うのだが、歩いても目ぼしいものは何もないのかも知れない。

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 ホテルに戻り、チェック・アウトして、ラヴェンナの駅へ向かった。思ったより早く発てそうなので、リジョナーレ(各期停車)で行くことにした。結果としてこれが失敗だった。今回の鉄道旅行で一番厄介な乗り継ぎがある。ラヴェンナからフィレンツェへの直通列車は一日に2本くらいしかない。フィレンツェへ行くには、ボローニャで乗り換えなければならない。ところが、このリジョナーレ遅れること25分。ボローニャでは同時にフィレンツェ行きの汽車が出てしまった。フィレンツェ行きが出る別のホームまで走って行けば間一髪間にあったかもしれない。しかし、歳を取ってから、無理するのは諦めた。


 時刻表を見てもフィレンツェ行きの汽車については要領が得ないので、駅のインフォメーションに行き聴こうと思った。ところが、各列車が遅れて、ダイヤは大混乱。長い行列を作って、人々が事情や予定を聴こうと、順番を待っている。「この次のフィレンツェ行きの汽車は何番線か」という単純な質問なのに、何か要領の得ない返事しか返ってこない。


 電光板の示すホームで汽車を待つ。駅の電光板の時刻表にはフィレンツェ行きが1番ホーム、ミラノ行きが4番ホームで同じ時間に発つことになっている。ところが、1番ホームに行くと、ミラノ行きの表示が出ている。


 汽車が来た。4番線に汽車は入ってこない。何の気なしに、1番線から汽車に乗った。ユーロ特急だ。ボローニャからの特急券は持っている。間違いないだろう。少し不安はあったが、通路の簡易シートを倒して車窓を眺めていた。


遠い夏に想いを-fidenza01  そのうち車掌が検札に来た。太って背の低い女性の車掌だ。我々の切符を見るなり言う。
「この汽車はミラノ行きで、反対に乗ったみたいです」
「さー、大変だ」
多分、同時に入ってくる4番線のフィレンツェ行きの汽車が遅れていたのだろう。だから、何の不思議も抱かずに1番線にきた汽車に乗ったのだと思う。ダイヤが乱れていて、我々の頭も混乱していたのだろう。
「次の、停まる駅は・・・」
彼女は時刻表をめくっている。
「フィデンツアで下りて、ボーローニャまで戻りなさい。フィデンツアからの帰りの汽車は・・・えーと・・・」
とにかく親切に教えてくれた。有り難いことに、彼女の英語はイタリア人にしてはすばらしかった。

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