遠い夏に想いを -183ページ目

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

遠い夏に想いを-Duomo04  ドゥオーモの裏側の通りを歩いてみた。聖堂の白や緑やピンクの大理石の模様が壁に沿って延々と続く。午後になったが、相変わらす太陽が眩しい。余り人が歩いていない。


 小奇麗な金物屋があった。こうゆう所に入るのは結構楽しい。ブランドの服装品には若いときから全く関心が無く、海外でも全くその類の店舗に入ったことはないのだが、こうゆう店は楽しい。すばらしいデザインの品々が並んでいる。日本では見かけないものが多い。


遠い夏に想いを-Machina  鋳物でできたエスプレッソ器があった。
「これ、面白い形ね」

ノッコが首をかしげる。

「これ、面白い形をしていますね」
「それは小さくて、2人用です」
「普通、コーヒーが沸くと、ポットの上部に溜まりますよね。これはどうなっているのですか」
「この二本のパイプからコーヒーが出てきてカップに溜まるのです」
本当に小さいので2人分以上は無理だが、ノッコと2人で楽しむのには好都合だ。


遠い夏に想いを-Creamer  「あら、またまた、変なものがあるはよ」

ノッコが手にとる。

 ステンレス製で、黒い大きなつまみの付いた蓋がマグの上に乗っけたような格好のものがある。蓋を開けてみると、蓋に一本の芯が付いていて先端には容器に丁度入る程度の輪っかが付いている。
「これ、いったい何をするものですか」
「ああ、それはクリーマーですよ、カプチーノの」
店の可愛らしい中年女性が手を上下する。
「なるほど。これを上下するだけで、本当に泡が出るのかしら」

ノッコは疑心難儀だ。
「ええ、私も家で使っていますよ。カフェ並みに出来ますよ」


 カプチーノの味にすっかりかぶれていた時だし、とは言っても、自分で入れるには、泡は無理だしと思いかけていた時だけに、「これぞ!」という気持ちで買い求めた。値段は3万5千リラくらいだし、駄目でもともと思った。結果を発表すると、最高に最高! クリーミーに仕上げるには少々コツがいるが、日本ではカプチーノの美味しい店は少ないので(東京の地下鉄日比谷線の銀座駅の地下に「カフェ カプシーオ トーア 銀座店」という気楽に立ち寄れる店がある。ここのはアメリカ系・日本系のフランチャイズ喫茶店と違って、カプチーノはイタリアで飲むのと殆ど同じ味です)、我が家でも大変重宝している。


遠い夏に想いを-Scrambler  今では気の利いた輸入雑貨の店ならどこでもこの製品を置いている。これ以外にも日本製で泡立て器がでている。電動式だから手軽にできる。小さな鍋にミルクを少々入れて、60度くらいまで温め、この泡立て器を突っ込んで、泡を立てる。泡が立っていない部分を先にコーヒーに入れ、最後に泡をスプーンですくってコーヒーにのせる。出来上がり!


遠い夏に想いを-Capucino  帰国してから暫らく重宝して使っていたが、エスプレッソ専用の沸かし器を使わないと美味しくないので、段々不精になって使わなくなってしまった。




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 ポンテ・ヴェッキオからドゥオーモへ抜ける通り、即ち、ローマ通りのカフェで、カプチーノとクロワッサンの朝食をとる。


 今日は近くのチェレターニ通りの小さな聖堂、サンタ・マリア・マジョーレ教会から見ることにする。この教会は結構古く、最初の建物は10世紀にまで遡るのだそうです。教会の内部は薄暗く、何やら部分的な改修工事らしく櫓が組んである。見られるのは聖母子像だけだが、前はもっと奥の通り寄りにあったと思う。オルサン・ミケーレ教会に立ち寄って、隣の毛織物美術館に入ろうとするのだが、まだ閉まっていて入れない。


遠い夏に想いを-East Door  再びドゥオーモへ行く。ドゥオーモの前にあるサン・ジョヴァンニ洗礼堂には72年の夏に来た時に入っているが、前回の90年の時には入っていないので、今回はどうしても入りたい。時間がまだ早く洗礼堂は閉まっているので、ギベルティの有名な東門を眺めた後に、サンタ・マリア・デル・フィオーレ教会へ入る。72年の時にはミケランジェロのピエタが置かれていたと思うのだが、今は通りの向うの付属美術館にあるらしい。建物の外観の美しさに比べて、堂内の装飾はわりとシンプルで、祭壇の周りのステンド・グラスとドームの「最後の審判」以外、目を見張るものはない。堂内を一巡してドゥオーモを出る。


遠い夏に想いを-s.croce  リカルディ宮を経由して、サンタ・クローチェ教会に行く。
「どうしてなのか判らないが、サン・マルコ教会に行くつもりが、毎回、サンタ・クローチェに来てしまう」
「どうしてだろうね。フラ・アンジェリコが見たいって、毎回言っていたのにね」
「前回来た時もサン・マルコ教会へ行くつもりがサンタ・クローチェに来てしまい、サン・マルコを諦めたんだよね」






遠い夏に想いを-Giotto01  しかし、何度来てもサンタ・クローチェは飽きない教会だ。16の礼拝堂があり、特にジョットが美しい。ガリレオ、ミケランジェロ、ロッシーニなどがこの教会に埋葬されている。街中の広場としては、サンタ・クローチェ教会広場はかなり広い。この広場では色々の催しものが開かれるらしい。








遠い夏に想いを-Pazzi  メディチ家の宿敵パッツィ家の礼拝堂を見る。ブルネレスキが建物をデザインしたらしく、特に回廊と小さな白壁のドームは大変に優雅で美しい。












遠い夏に想いを-San Giovanni  さてドゥオーモに再び戻る。サン・ジョヴァンニ洗礼堂が開いていた。ロマネスク様式でドゥオーモやジョットの鐘楼より古いらしい。72年の夏に来た時にも見たのだが、ビザンチン風の金色に輝く堂内は衝撃的だった。ラヴェンナを廻って来た今回は余り衝撃的とは言いがたいが、それでもすばらしい。ビザンチン風の金色のモザイクがまるで螺旋階段状に「最後の審判」や「福音書」の話が洗礼堂一面に描かれている。


 ここに有名な「天国の扉」と呼ばれる扉がある。ギベルティの作品なのだが、この時ブルネレスキが負けたために彼の作品が採用されなかった。そのため、彼はローマに赴き建築を学んだ。このコンクールに敗れたために、ドゥオーモのクーポラが出来たのかもしれない。それまで誰も出来なかったのをブルネレスキがやり遂げたのだから。


 今ある扉はレプリカで、本物は付属博物かにある。72年にきた時には、扉に本物がはめてあった。煤で汚れていた。腐食もあったらしく、レプリカでもしょうがないだろう。それに、レプリカを造ったのは日本人だそうだから。

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 さて幻と消えたレストランを諦めて、他の店を覗いて歩いた。しかし、どこも満員で空き席がない。仕方なく一本裏の通りに入った。間口の狭い、小さなリストランテがあった。店内も小さくてごちゃごちゃした店だ。狭い三角形の店内には2人がけのテーブルが6つ押しこんである。よくもこんな狭いところに押し込んだという以外表現のしようがない。客が座ったら、もう通り抜けられない。テーブルが1つ空いている。椅子は2脚しかない。


 そして、やたらと明るく、壁は真黄色に塗ってある。フィレンツェのレストランではありえない。入り口で一瞬たじろいだが、このあたりの気の利いた店は既に満員だ。そう思っているうちに入ってしまった。ウエイターは一人。忙しそうに動き回っている。店のおやじがコックで大きな声でウエイターの男の子を怒鳴っている。しかし、料理の味はまあまあ美味しい方だとノッコは言う。


 私達の右隣はドイツのシュトゥットガルトから車でやって来たと言う30代の夫婦。小さい2人掛けの椅子とテーブルで窮屈そうに夕食をとっている。奥さんが太めで愛くるしい。
「シュトゥットガルトにある自動車会社で働いています」
「シュトゥットガルトの自動車会社といえばメルセデス・ベンツですか」
「そうです」
「メルセデス・ベンツの車は日本では大変なプレステージ・カ-ですよ」
「ドイツでもそうです」
日本にも行きたいが何時がいいかという。夏は暑くて湿度が高いから止めて、春の桜の頃に来なさいと伝えておく。


 シュトゥットガルトといえば、私にはシュトゥットガルト室内管弦楽団(30人程度の小オーケストラ)しか記憶にない。1945年にカール・ミュヒンガーという人が設立し、指揮をしていて、イタリアのイムジーチと同様にバロック音楽に力を入れて世界に名をはせたことは記憶にあった。


 右奥にはフランスから来た恋人同士(若夫婦かもしれない)。その隣、入り口のところには、日本の中年の観光客夫婦。この旦那、医者らしい。医学用語をポツポツと英語かドイツ語で覚えている程度。奥さんは口をつぐんだまま、ひたすら食べることに集中している。医学用語も英語かドイツ語が定かでないらしいい。同じ単語を英語風、ドイツ語風、何語風、と言い直す。


 狭いレストランだから話し声が否応なく耳に入る。このフランス人、パリ大学で医学を勉強し始めたばかりのようだ。とにかく、この日本のお医者の旦那が一方的に話す、と言うより、医学用語らしき単語を並べるたてる。会話の押し売りだ。意味が殆ど通じない。フランス人にとっては拷問に等しい。日本人の医者は得意満面で『国際交流ここに成せり』とでも言いたげに意気揚々と引き上げて行く。残ったフランス人カップル肩を落とし、溜め息をついて、黙りこくってしまった。可哀相に。


 我々は黙っていた。この上声をかけて慰めても、かえってありがた迷惑だろう。フランス語で「あの日本人には参ったよ」と男の方。せっかくの夕食も台無しだ。これは正に反面教師で、大きな教訓になる。知らない者に、やたら長話を一方的にするべきではない。相手が辛抱して聞く心があれば、余計迷惑で可哀相だ。最低、「こんにちは、日本から来たのですよ。どちらからおいでですか。料理は如何でしたか。美味しい。それは結構」程度にすべきではないだろうか。

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 72年の夏に来た時、今は見当たらないこの店で夕食をとった。まだ時間が早く余り客はいなかった。当時、パリの帰途、ジュネーヴ、ウイーン、ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマ、アテネ、ベイルートを旅行しながら帰国した。


 貧乏旅行で到着した空港の案内所で安ホテルを紹介してもらっていた。食事は街でパンやハム・ソーセージにサラダ用の野菜を買ってきて、持参して歩いたプレートとフォークを使って夕食にしていた。飲み物はジュースやインスタント・コーヒーを買ってきた。これでは余りに侘しいので、街ごとに1度は外食することにしていた。


 店の入り口付近の席に座って、飲めないのでハウスワインの赤を4分の1カラーフ頼んだ。何を間違えたのか、どうも2分の1カラーフを持って来たらしいい。量が多いと思いながら、結局、ノッコと2人では飲みきれなかった。そんな時、チャオが喉が渇いたと言い出し、とりあえずワインを少し飲ませたら、旨い旨いと言いながら小さなグラスで一杯は飲んだ。


 遺伝で、ノッコに似たら飲める、私に似たら飲めない。しかし、チャオはどっちに似ているか判らない。すっかり満足し、支払いを済ませて店を出た。チャオが赤い顔をして、千鳥足で歩いている。遺伝的に私に似ていた。これには大笑いになった。あの頃のチャオは7歳になったばかりで、快活で利発な子だった。


 子供とアルコールで、思い出すのは、古い話で恐縮ですが、戦前の思い出です。戦前は実家が菓子店で小さな工場で数人の若者が働いていました。その内の1人が召集され、皆で壮行会をやったのです。宴もたけなわになって、彼は私をつかまえて、ビールを飲ませたのです。酒が入って、面白半分でしたが、私は真っ赤になって、ふらふら歩いていたのを思い出します。その彼は南方の戦地に送られて、帰らぬ人となりました。あの時、酒を飲ませてくれたので記憶に残ったのですね。それでなければ彼のことも、召集されて再び戻ってこなかったのも、記憶になかったかも知れません。


 それから、不思議だったのは親友とアメリカのニュー・ジャージー州の彼の友達の家に遊びに行った時のこと、フィンランド人の奥さんが小さな子供にビールを与えている。
「フィンランドでは子供にビールを飲ませるのですか」
私は驚いて訊いた。
「ビールは体にいいのです。ビール酵母があるので。フィンランドでは子供用のビールがあるんです。アメリカのビールは3.5%ですが、アルコール・フリーのもありますから」


遠い夏に想いを-Beer  私もアメリカのスーパーなどでアルコール・フリーの「スプリング・ウォター」とういうローカル・ビールを買ったことがあった。アメリカのビール、特に、ナショナル・ブランドは不味い。地ビールのようなビールでなければ駄目だ。日本でもアルコール・フリーのビールが売り出されて大流行だそうだ。私も元々飲めないので愛飲しているが、でも子供に飲ませようと思わないだろう。ビールというイメージではなく、製品名表示の通り「炭酸飲料」とでもしてくれたら、子供にもと思う親もいるかも知れない。(写真はご存知国産のノン・アルコール・ビール:この他にもアメリカ産やオーストラリア産もあるが、左端のドイツのものは「ビールとはモルトとホップだけで他の余計なものを添加しない」と法律で決まっているらしく、アルコール・フリーのものも麦とホップという頑固さで、炭酸飲料というよりは本物のビールのような味である)


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遠い夏に想いを-夕暮れドゥオーモ01  夕日がドゥオーモのクーポラとジョットの塔を紅く染めていた。いかにもフィレンツェの夕暮れだ。
「明日の朝、ドゥオーモに来よう」
ドゥオーモの周りを散歩して、店屋を覗きながら歩いた。


 さて、時刻は6時を回っている。夕食はどこで取ろうか。アルノ川に再び戻った。と言うのは、アルノ川に面したリストランテにメニューが張り出されていて、献立といい、値段といい手頃だったのを思い出したからだ。店に入る段になって、先に子供連れの日本人夫婦が店先にいた。
「レストランだから、ちゃんとして静かに食べるのよ」
母親が大きな声で言い聞かせながら入っていった。日本人だからという訳でなく、日頃、レストランではおとなしくしていない子供かもしれない。


 「よそへ行こう。昔、チャオと3人で入ったノヴェルラ教会の近くの安レストランに行ってみようか。90年に来た時にはまだあったのだから、多分、今でもあるだろう」
 ドゥオーモの前のチェレターニ通りをノヴェルラ教会の方角に真っ直ぐ歩いた。しかし、バンキニ通りまで来ても、当然あるべきそのリストランテがない。
「この辺だと思うけど・・・」
「ないなんて、信じられないわね。折角、思い出の店なのに」
ノヴェルラ教会からさほど遠くはない筈だ。しかし、ない。こんなことは滅多にあることではない。日本と違って建物が新しくなることはない。どうもレストラン以外の店になったようだ。現実が一つ消え、記憶だけが残った。


 ヨーロッパの建物は殆ど変わらないから、店屋も常に同じ場所でやっていると、こっちは早合点してしまう。98年に行ったウィーンでも昔の思い出のレストランを懸命に探したが、既に店はなかった。当たり前のことなのに、何か納得のいかない気持ちになるのは、旅人の勝手な思いだろうか。パリでも建物は変わらないが、店屋が変わってしまったなどいうことは、旅行していてよくあることだ。変わらないと思っているのは自分だけだ。


 日本はもっとひどい。学生時代に井の頭線の久我山に家があり、私はそこに住んでいた。井の頭線はしょっちゅう使うのだが、久我山で降りたことがなかったので、50年ぶりに行ってみた。駅前の薬屋と本屋以外全て無くなっていた。本屋さんで訊いてみたのだが、代が変わって詳しいことは判らないという。東郷青児の大邸宅も跡かたなく消えていたし、自分の住んでいた場所も確認できない始末。


遠い夏に想いを-夕暮れドゥオーモ02  そのレストランは前回の90年に来た時にはここにあった。ノッコと2人で店の奥に案内され、テーブルについた。ノッコがメニューを眺めながら無意識にフランス語で話していたら、黒いチョッキと黒ズボンに白いシャツ、白い前掛をしたパリのギャルソン風のカメリエリが綺麗なフランス語で返事をしている。
「フランス語で注文してたよ」
「あら、私、フランス語で話してたのね」
「しかし、たいしたもんだよ、ここのカメリエリは。流暢にフランス語を話すんだから」
ノッコはイタリア語を勉強してからイタリア語とフランス語がごちゃ混ぜになるとこぼしていた。同じラテン系の言葉で単語も類似したものが多いせいだ。


 この辺りから駅の方にかけて、「最近は物乞いや浮浪者が多くなったから気を付けてね」と旅行社の友達からの助言を思い出した。何ごともなかったが、物騒な世の中になった。イタリアでは気のいい人たちに出会い、いい思い出ばかりだが、どこにでもスリや置き引き、ドロボーや詐欺師などがいるものだ。彼らにめぐり合わなかったのは、幸運の一語に尽きるだろうが、これからも気を付けていないと、と気を引き締める。

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