72年の夏に来た時、今は見当たらないこの店で夕食をとった。まだ時間が早く余り客はいなかった。当時、パリの帰途、ジュネーヴ、ウイーン、ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマ、アテネ、ベイルートを旅行しながら帰国した。
貧乏旅行で到着した空港の案内所で安ホテルを紹介してもらっていた。食事は街でパンやハム・ソーセージにサラダ用の野菜を買ってきて、持参して歩いたプレートとフォークを使って夕食にしていた。飲み物はジュースやインスタント・コーヒーを買ってきた。これでは余りに侘しいので、街ごとに1度は外食することにしていた。
店の入り口付近の席に座って、飲めないのでハウスワインの赤を4分の1カラーフ頼んだ。何を間違えたのか、どうも2分の1カラーフを持って来たらしいい。量が多いと思いながら、結局、ノッコと2人では飲みきれなかった。そんな時、チャオが喉が渇いたと言い出し、とりあえずワインを少し飲ませたら、旨い旨いと言いながら小さなグラスで一杯は飲んだ。
遺伝で、ノッコに似たら飲める、私に似たら飲めない。しかし、チャオはどっちに似ているか判らない。すっかり満足し、支払いを済ませて店を出た。チャオが赤い顔をして、千鳥足で歩いている。遺伝的に私に似ていた。これには大笑いになった。あの頃のチャオは7歳になったばかりで、快活で利発な子だった。
子供とアルコールで、思い出すのは、古い話で恐縮ですが、戦前の思い出です。戦前は実家が菓子店で小さな工場で数人の若者が働いていました。その内の1人が召集され、皆で壮行会をやったのです。宴もたけなわになって、彼は私をつかまえて、ビールを飲ませたのです。酒が入って、面白半分でしたが、私は真っ赤になって、ふらふら歩いていたのを思い出します。その彼は南方の戦地に送られて、帰らぬ人となりました。あの時、酒を飲ませてくれたので記憶に残ったのですね。それでなければ彼のことも、召集されて再び戻ってこなかったのも、記憶になかったかも知れません。
それから、不思議だったのは親友とアメリカのニュー・ジャージー州の彼の友達の家に遊びに行った時のこと、フィンランド人の奥さんが小さな子供にビールを与えている。
「フィンランドでは子供にビールを飲ませるのですか」
私は驚いて訊いた。
「ビールは体にいいのです。ビール酵母があるので。フィンランドでは子供用のビールがあるんです。アメリカのビールは3.5%ですが、アルコール・フリーのもありますから」
私もアメリカのスーパーなどでアルコール・フリーの「スプリング・ウォター」とういうローカル・ビールを買ったことがあった。アメリカのビール、特に、ナショナル・ブランドは不味い。地ビールのようなビールでなければ駄目だ。日本でもアルコール・フリーのビールが売り出されて大流行だそうだ。私も元々飲めないので愛飲しているが、でも子供に飲ませようと思わないだろう。ビールというイメージではなく、製品名表示の通り「炭酸飲料」とでもしてくれたら、子供にもと思う親もいるかも知れない。(写真はご存知国産のノン・アルコール・ビール:この他にもアメリカ産やオーストラリア産もあるが、左端のドイツのものは「ビールとはモルトとホップだけで他の余計なものを添加しない」と法律で決まっているらしく、アルコール・フリーのものも麦とホップという頑固さで、炭酸飲料というよりは本物のビールのような味である)
ミネソタの遠い日々
- New (シカゴへの旅パート3を追加) -
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学へ留学した記録のホームページにもどうぞ