レストランの人間模様 - 078 | 遠い夏に想いを

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 さて幻と消えたレストランを諦めて、他の店を覗いて歩いた。しかし、どこも満員で空き席がない。仕方なく一本裏の通りに入った。間口の狭い、小さなリストランテがあった。店内も小さくてごちゃごちゃした店だ。狭い三角形の店内には2人がけのテーブルが6つ押しこんである。よくもこんな狭いところに押し込んだという以外表現のしようがない。客が座ったら、もう通り抜けられない。テーブルが1つ空いている。椅子は2脚しかない。


 そして、やたらと明るく、壁は真黄色に塗ってある。フィレンツェのレストランではありえない。入り口で一瞬たじろいだが、このあたりの気の利いた店は既に満員だ。そう思っているうちに入ってしまった。ウエイターは一人。忙しそうに動き回っている。店のおやじがコックで大きな声でウエイターの男の子を怒鳴っている。しかし、料理の味はまあまあ美味しい方だとノッコは言う。


 私達の右隣はドイツのシュトゥットガルトから車でやって来たと言う30代の夫婦。小さい2人掛けの椅子とテーブルで窮屈そうに夕食をとっている。奥さんが太めで愛くるしい。
「シュトゥットガルトにある自動車会社で働いています」
「シュトゥットガルトの自動車会社といえばメルセデス・ベンツですか」
「そうです」
「メルセデス・ベンツの車は日本では大変なプレステージ・カ-ですよ」
「ドイツでもそうです」
日本にも行きたいが何時がいいかという。夏は暑くて湿度が高いから止めて、春の桜の頃に来なさいと伝えておく。


 シュトゥットガルトといえば、私にはシュトゥットガルト室内管弦楽団(30人程度の小オーケストラ)しか記憶にない。1945年にカール・ミュヒンガーという人が設立し、指揮をしていて、イタリアのイムジーチと同様にバロック音楽に力を入れて世界に名をはせたことは記憶にあった。


 右奥にはフランスから来た恋人同士(若夫婦かもしれない)。その隣、入り口のところには、日本の中年の観光客夫婦。この旦那、医者らしい。医学用語をポツポツと英語かドイツ語で覚えている程度。奥さんは口をつぐんだまま、ひたすら食べることに集中している。医学用語も英語かドイツ語が定かでないらしいい。同じ単語を英語風、ドイツ語風、何語風、と言い直す。


 狭いレストランだから話し声が否応なく耳に入る。このフランス人、パリ大学で医学を勉強し始めたばかりのようだ。とにかく、この日本のお医者の旦那が一方的に話す、と言うより、医学用語らしき単語を並べるたてる。会話の押し売りだ。意味が殆ど通じない。フランス人にとっては拷問に等しい。日本人の医者は得意満面で『国際交流ここに成せり』とでも言いたげに意気揚々と引き上げて行く。残ったフランス人カップル肩を落とし、溜め息をついて、黙りこくってしまった。可哀相に。


 我々は黙っていた。この上声をかけて慰めても、かえってありがた迷惑だろう。フランス語で「あの日本人には参ったよ」と男の方。せっかくの夕食も台無しだ。これは正に反面教師で、大きな教訓になる。知らない者に、やたら長話を一方的にするべきではない。相手が辛抱して聞く心があれば、余計迷惑で可哀相だ。最低、「こんにちは、日本から来たのですよ。どちらからおいでですか。料理は如何でしたか。美味しい。それは結構」程度にすべきではないだろうか。

 ミネソタの遠い日々 - New (シカゴへの旅パート3を追加) -
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学へ留学した記録のホームページにもどうぞ