消えたリストランテ - 076 | 遠い夏に想いを

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

遠い夏に想いを-夕暮れドゥオーモ01  夕日がドゥオーモのクーポラとジョットの塔を紅く染めていた。いかにもフィレンツェの夕暮れだ。
「明日の朝、ドゥオーモに来よう」
ドゥオーモの周りを散歩して、店屋を覗きながら歩いた。


 さて、時刻は6時を回っている。夕食はどこで取ろうか。アルノ川に再び戻った。と言うのは、アルノ川に面したリストランテにメニューが張り出されていて、献立といい、値段といい手頃だったのを思い出したからだ。店に入る段になって、先に子供連れの日本人夫婦が店先にいた。
「レストランだから、ちゃんとして静かに食べるのよ」
母親が大きな声で言い聞かせながら入っていった。日本人だからという訳でなく、日頃、レストランではおとなしくしていない子供かもしれない。


 「よそへ行こう。昔、チャオと3人で入ったノヴェルラ教会の近くの安レストランに行ってみようか。90年に来た時にはまだあったのだから、多分、今でもあるだろう」
 ドゥオーモの前のチェレターニ通りをノヴェルラ教会の方角に真っ直ぐ歩いた。しかし、バンキニ通りまで来ても、当然あるべきそのリストランテがない。
「この辺だと思うけど・・・」
「ないなんて、信じられないわね。折角、思い出の店なのに」
ノヴェルラ教会からさほど遠くはない筈だ。しかし、ない。こんなことは滅多にあることではない。日本と違って建物が新しくなることはない。どうもレストラン以外の店になったようだ。現実が一つ消え、記憶だけが残った。


 ヨーロッパの建物は殆ど変わらないから、店屋も常に同じ場所でやっていると、こっちは早合点してしまう。98年に行ったウィーンでも昔の思い出のレストランを懸命に探したが、既に店はなかった。当たり前のことなのに、何か納得のいかない気持ちになるのは、旅人の勝手な思いだろうか。パリでも建物は変わらないが、店屋が変わってしまったなどいうことは、旅行していてよくあることだ。変わらないと思っているのは自分だけだ。


 日本はもっとひどい。学生時代に井の頭線の久我山に家があり、私はそこに住んでいた。井の頭線はしょっちゅう使うのだが、久我山で降りたことがなかったので、50年ぶりに行ってみた。駅前の薬屋と本屋以外全て無くなっていた。本屋さんで訊いてみたのだが、代が変わって詳しいことは判らないという。東郷青児の大邸宅も跡かたなく消えていたし、自分の住んでいた場所も確認できない始末。


遠い夏に想いを-夕暮れドゥオーモ02  そのレストランは前回の90年に来た時にはここにあった。ノッコと2人で店の奥に案内され、テーブルについた。ノッコがメニューを眺めながら無意識にフランス語で話していたら、黒いチョッキと黒ズボンに白いシャツ、白い前掛をしたパリのギャルソン風のカメリエリが綺麗なフランス語で返事をしている。
「フランス語で注文してたよ」
「あら、私、フランス語で話してたのね」
「しかし、たいしたもんだよ、ここのカメリエリは。流暢にフランス語を話すんだから」
ノッコはイタリア語を勉強してからイタリア語とフランス語がごちゃ混ぜになるとこぼしていた。同じラテン系の言葉で単語も類似したものが多いせいだ。


 この辺りから駅の方にかけて、「最近は物乞いや浮浪者が多くなったから気を付けてね」と旅行社の友達からの助言を思い出した。何ごともなかったが、物騒な世の中になった。イタリアでは気のいい人たちに出会い、いい思い出ばかりだが、どこにでもスリや置き引き、ドロボーや詐欺師などがいるものだ。彼らにめぐり合わなかったのは、幸運の一語に尽きるだろうが、これからも気を付けていないと、と気を引き締める。

 ミネソタの遠い日々 - New (シカゴへの旅パート3を追加) -
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