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遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 前回の90年にフィレンツェを訪問した際に、日帰りでいったシエナの旅について書こうと思う。旅に発つ前に、勤めていた会社のイタリア人の役員にフィレンツェからの日帰りならどこがお勧めか尋ねた。
「そうだね、ボローニャは一日で廻るのは無理だろう。ピサやサン・ジミニャーノも面白いだろうが、やはり、シエナだろうね。歴史的にも観光的にもいい所だからね」


 ロンドンのホテルで会ったトスカナのから団体客のお勧めもあり、シエナに行くことに決めた。乗り物はフィレンツェの空港バスの運転手に聞いていた通り、駅のバス乗り場から、シエナ行きの急行バスに乗った。


 車窓からトスカナ地方の田園風景を楽しみながら南下する。約1時間半で街の入り口に着いた。トスカナ地方でもシエナ県はいわづと知れたトスカナ・ワインの産地。イタリアを代表するワインとしてブルネルロ・ディ・モンタルチーノが産する。フランスのボルドーのグラン・クリュよりも安いからお勧めかもしれない。イタリア・ワインならピエモンテのものが美味いといわれる方もいると思うけれど(私もピエモンテのネビオーロ種の赤ワインが大好き)。


遠い夏に想いを-立像  街はさして大きくない。街は城壁に囲まれている。バスはマッテオッティ広場で停まり、ここで降りて、バンッキ・ディ・ソプラ通りをコムーネまで歩く。途中、サリンベーニ広場という小さな広場に17世紀に市民図書館を設立したバンディーニという人物の像が立っている。








遠い夏に想いを-ナンニーニ  更に、この道を進むと、有名なナンニーニの菓子店がある。ナンニーニ姉弟が有名だ。姉のジャンナは有名なロック歌手で、弟のアレッサンドロは素晴らしいF1レーサーだった。彼はレーサー現役の頃、ヘリコプターの事故で選手生命を奪われた。ここの店の名物菓子は砂糖でコーティングしたアーモンドの粒で、口に入れると、得もいわれね美味しさで、頬っぺたが落ちそうになると表現したくなるほどだ。通りには中年の男たちが数人立ち話を盛んにやっている。あっちにも、こっちにもいるのだ。何か日本の下町で縁台に座っておじさん達が世間話をしている情景を思い出す。


遠い夏に想いを-シエナ塔  カンポと呼ばれる広場に入ると、そこは広大な闘牛場のような、古代ギリシャの屋外劇場のような広場だ。正面に14世紀に建てられたゴッシク様式のプブリコ宮が見え、102メートルの高さを誇るマンジャの塔が聳える。









遠い夏に想いを-広場  ここの広場に座り込んでナンニーニのお菓子をボリボリと食べながら周囲を見渡す。このカンポの周囲に砂をまいて、パリオという裸馬の競馬が開催される。テレビでしか見たことはないが、こんな狭いところで行われるとは想像するだけで空恐ろしい。広場の片隅に泉がある。これはレプリカらしいのだが、ローマのトレヴィの泉に比べると余りに品祖である。


遠い夏に想いを-大聖堂01  カンポ広場を抜けて、ペレグリーニ通りを進み、ドゥオーモに出る。ここの大聖堂はまさに圧巻で、白と緑の大理石を使って何かオリエント風に13世紀に造られたロマネスク・ゴシック様式の建物である。身廊の列柱も何かエジプトを思わせるような縞々模様である。豪華絢爛と言うに相応しいカテドラルである。


遠い夏に想いを-大聖堂02  プブリコ宮にしろカテドラルにしろ見る所がまだまだあるが、日帰りで見学するには余りにも時間が足りない。4時頃のバスでフィレンツェに戻ることにした。


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 今日は街の北東部へ行き、サンマルコ美術館を見てから、近くを散策する。今日も朝から暑い。この天候なら、今年はいいワインができるだろう。広い通りを歩いていると楽器屋があった。どうゆう訳か楽器屋というものを余り見かけない。ここは結構大きな楽器店だがギターの類やポップ系の楽器が中心で、クラシックのものは安物のヴァイオリンが3~4台置いてあるだけ。チェロはなく、ただケースはいいものがあった。値段は日本よりも遥かに安い。

 
 さて、直ぐ近くのアカデミアに戻る。陽は大分傾いて来たが、相変わらずの行列だ。60メートルくらいの列になっている。よく見ていると少しずつ流れている。ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツイエ教会のようなことはない。


遠い夏に想いを-ダヴィデ  ここは、ミケランジェロのダヴィデの本物が唯一の見世物だ。当初、シニョリーア広場にダヴィデ像はあったのだが、アカデミアに移された。ダヴィデ像はいかにもミケランジェロの彫刻で、筋肉隆々とした均整の取れた像である。動きは余り感じられないが、安定感のある立像で、遠方をにらみつける視線は物凄い。



遠い夏に想いを-ダヴィデ・コピー  



現在シニョリーア広場にあるお馴染みのダヴィデ像はレプリカである。



遠い夏に想いを-ピエタ


 更に、ピエタがある。パレストリーナという町に長い間あったので、パレストリーナのピエタと呼ばれている。聖母マリアとマグダラのマリアに抱えられたイエス。他のピエタはヴァチカン、フィレンツェのドゥオーモ、ミラノのスフォルツア城にある。彫刻を見ていると、ミケランジェロは画家ではなくて、彫刻家だなーって思いを益々強くする。その他、一連の「奴隷像」がおかれており、見上げると、素晴らしい迫力を感じる。


 あとは、ボッティチェリなどの絵画があるが、量的には展示している数は少ないので観客の回転は早い。


遠い夏に想いを-サンタ・マリア・ノヴェルラ  アカデミアの帰りに、駅の傍のサンタ・マリア・ノヴェッラ教会に立ち寄る。毎回来ているので、スッキプしようと思ったのだが、時間があったので入ってみる。ドメニコ派の教会で、建築は12世紀に始まったらしい。ロマネスク・ゴシック様式の教会正面のデザインは白と緑とピンクの大理石で目にも鮮やかだ。堂内は広々として荘厳である。マザッチオの「三位一体」が見ることができる。遠近法で描かれた大作である。


遠い夏に想いを-マテルり  帰り道、マルテッリ通りの本屋に行く。この本屋は前回来た時にも、本を沢山買った記憶がある。うなぎの寝床のように奥に広い店で、余り綺麗な店とはいかないが、殆どの種類の本が手に入る。今回は、ノッコがフランス語を教えている生徒に頼まれた料理の本を買った。5センチくらい厚い本で、イタリア料理の歴史をふまえた料理本だ。ついでに、我が家用にパスタ料理の作り方の本を買う。イタリア語なので、帰国後に料理イタリア語辞書を買った。写真はそれぞれ素晴らしいのだが、結局、辞書引き引きでは料理するときの役に立たない。

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遠い夏に想いを-サン・マルコ  サン・マルコとアカデミアはフィレンツエに来るたび(と言っても、3回目だが)寄らずじまいだった。だから、ウフィッツイなど前回まで必ず寄っていた所を犠牲にしてでも、この2ヵ所はぜひ来たかった。アカデミアの前面は工事中で櫓が組んであり、その下に70メートルほどの行列が出来ている。時間の関係でこれを後回しにして、サン・マルコへ行った。


 ここは、殆ど行列は出来ていないので、わりと直ぐに入ることが出来た。薄暗い廊下を抜けて、階段を昇り、踊り場から見上げた途端「あっ!」と声を出してしまう。そうだろうと予想していても、見上げた瞬間「あっ!」と声を発する。


遠い夏に想いを-フラ・アンジェリコ01  『あの絵』が見えるからだ。フラ・アンジェリコの画く主人公はどうしてこう優しいのだろうか。僧坊の各部屋には、みなフレスコ画が画かれている。全部フラ・アンジェリコだ。フラ・アンジェリコはダ・ヴィンチよりも65年も先に生まれている。ルネッサンス初期の僧侶兼絵師である。フィリッポ・リッピは性癖が良くなかったが、同じく僧侶兼絵師なのだ。サン・マルコはメディチ家の援助により再興された教会である。


 でも、こんなに多くのフラ・アンジェリコの絵があるとは想像もしなかった。全部見て回った。もう一度、いや、何度でも見たくなる。


遠い夏に想いを-フラ・アンジェリコ02  僧坊の中にも、同じ『受胎告知』の絵がある。こちらは大天使ミカエルもマリアも立ったままで、マリアの神妙な表情は同じだ。ミカエルは高圧的にただ告げている感じだ。


 階段の上にある有名な『受胎告知』の絵は、天使が膝を折ってマリアより頭を低くして、ひそひそと話しをしている気配で、マリアの「えっ、ほんとですか? まさか!」と上目遣いで不審に思っている表情がいい。



 最近日本にもやってきたダ・ヴィンチの『受胎告知』は大天使ミカエルもマリアも余りにも表情が冷たくて、好きになれない。むしろ、イギリスのラファエロ前派のロッセッティの『受胎告知』は告げているのが大天使ミカエルらしくないが、マリアの表情がとてもいい。


 マリアの「処女懐妊」についてはさまざまな議論がなされてきた。『イエスのミステリー』(1993年-NHK出版)でバーバラ・スイーリングという女性が面白い説を唱えている。戦後発見された『死海文書』の関係を云々しているが、これはエッセネ派というキリスト以前のユダヤ教の一派についてだから、多分直接関係はないように思える。それに処女懐妊の記述については4福音書のうち『マタイ伝』と『ルカ伝』だけだ。


 そして女史によると、当時の集団のなかでは婚約・結婚に厳格で複雑な取り決めがあったらしい。正式な婚礼の前に身ごもってしまったら、「処女懐妊」とみなされ、その子は非嫡出子となってしまう。マリアの場合も同じで、イエスは私生児扱いになる。救い主はダヴィデの血筋からくると言われていたので、イエスは処女懐妊で生まれたとしたのだろう。マサダの戦いで西暦70年に自滅したイスラエルの人達がヘレニズムの世界に散っていき、ギリシャ語を話すユダヤ人がギリシャ神話に登場する処女懐妊説を布教のだめに広めたのではないだろうか。実際は、「受胎告知」でいう聖霊とはダヴィデの流れをくむ夫ヨセフ(救い主はダヴィデの子孫からという伝承があった)のことだという。当時のユダヤ教の一派では、「天使」とは司祭をさしたという(天使は男性の姿で現れるのが普通)。


遠い夏に想いを-フラ・アンジェリコ03  また、ある僧坊に『最後の晩餐』がある。ここでは、L字型のテーブルに、こちらを向いて使徒が8人が座り、キリストが中央に立って、左手前に4人の使徒がいるという構図である。『最後の晩餐』ほど色々な構図で描かれたモチーフも珍しい。しかし、ジオットのきびしい目付きの聖人達の絵と比べて、アンジェリコの描く人々はなんと穏やかで優しい目をしていることか。右側の4人の中で後輪の黒い人物が多分ユダであろう。ユダに後輪がないのが普通だが、黒くとも後輪をつけてあげるフラ・アンジェリコの優しさが伝わってくる。このフレスコ画にはマリアと思しき人物も描き入れられている。


遠い夏に想いを-サン・マルコ02  中庭に下りて、回廊をゆっくり散歩しながら、今見てきたフラ・アンジェリコに思いを馳せた。すっかり、フラ・アンジェリコが大好きになっている自分を発見し、少々の驚きがあった。

 ピッティを過ぎてサン・フェリーチェ広場とう小さな広場を右に曲がる。マゼッタ通りを少し歩くと右側にサンテ・スピリト教会があり、更に暫らく行くと左側にサンタ・マリア・デル・カルミネ教会がある。


遠い夏に想いを-マザッチオ01  カルミネ教会のブランカッチ礼拝堂にはマザッチオの『楽園追放』と『貢の銭』のフレスコ画がある。『楽園追放』(写真の左側の絵)は線ではなく彫刻のように面で描いたヴォリューム感と豊かな表情は真に迫るものがある。『貢の銭』(写真の右側の大きな絵)はイエスと12人の使途一行を描いたフレスコ画だ。余り見受けない主題である。一行に税を要求する収税吏を描いた福音書の一場面を描いたフレスコ画で、背景を含め絵の構成が素晴らしい。マザッチオは初期ルネッサンスの画家で、その遠近法などの革新さが際立っている。



遠い夏に想いを-アルノ川02  外に出ると、とにかく暑い。真っ直ぐアルノ川まで歩く。カッライア橋を渡って反対側に出る。こちら側は日差しが強いのだが商店が並んでいる。しかし、大半は3時半まで閉店だ。ウフィッツイまで歩いてみたものの、ここはものすごい列だ。ポテ・ヴェッキオまで行列が出来ている。フィリッポ・リッピやボッティチエリやダヴィンチに会えないのは寂しいが、前回来ているから諦めることにする。



遠い夏に想いを-シニョリーア02  夕方、早めに夕食をとる。シニョリーア広場のヴェッキオ宮の前にあるロッジア・デッラ・シニョリーアの並びの建物に突き出したピッツエリアのテラスで簡単に食べる。


 今夜はオルガンの演奏会が近くの教会で催される。ダンテの家の近くにコルソ通りがある。それに面して小さいが、がっちりした造りの教会がある。


 サンタ・マリア・デ・リッチ教会だ。正面の祭壇はなかなか豪華である。ここの教会ではよくアマチュアの演奏会も開かれるらしい。オルガンは伝統的なスタイルのものでなく、何やら近代的な方式で、演奏家は祭壇の前で客席と同じ高さで演奏する。とい言っても移動式のオルガンではない。イタリヤの教会独特の響きはするのだが、オルガンの音色はシンセサイザーのように固くイメージしていたのとは全く違う。


 イタリアでも鍵盤楽器の名手がいない訳ではない。ドメニコ・スカルダッティだ。バッハやヘンデルに勝るとも劣らない素晴らしいオルガン奏者で、チェンバロの曲を沢山残している。スカルラッティはナポリ生まれで、スペインで一生過ごした。


 今夜のプログラムはフレスコバルディから始まってバッハ、リストでお終い。バロックを中心の選曲だが、耳には心地よいと言う響きではなく疲れる。やはり、イタリアの教会はドイツやフランスおゴシックの教会と違ってオルガン演奏には向いていない。何よりも、教会がオルガン向きに出来ていないのだ。イタリア・バロックは器楽曲全盛だ。コレルリ、ヴィヴァルディ、ヴェラチーニ、ジェミニアーノ、タルティーニ等の時代以降、モーツアルトなどが出てきた頃には、イタリアの器楽の系統は消えてしまう。ベートーベンはタルティーニが死んだ年に生まれている。バロックから古典派への流れに象徴的な感じさえする。ベートーベンの頃にはドニゼッティなどが出てきてオペラが全盛になって来る。ドニゼッティは器楽曲も結構書いているが、やはいり『愛の妙薬』などのオペラしか知られていない。


 ロッシーニがウイーンで大人気で、ベートーベンなどは霞んでいた。モンテヴェルディなどの系統があるから歌やオペラが全盛になるのは理解できるが、行きつく先はヴェルディの全盛時代となって、プッチーニでイタリア音楽は終ってしまう。オペラは伝統芸術である。ベルカント風な発声で、イタリアはオペラの世界をリードして来た。バッハは最も古い伝統を守ったオルガニスト兼作曲家だ。音楽が数学のように自然科学として扱われていたルネッサンスの精神を執拗に守る。イタリアが器楽で復興するのは20世紀のレスピーギを待たなければならない。だから、器楽演奏としてのオルガンの演奏会はイタリアではつまらないのだ。残念ながら、パリのサン・シュルピス聖堂のような素晴らしいオルガンの響きとは程遠い。

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遠い夏に想いを-ピッティ01  ポンテ・ヴェッキオを渡って川向うへ行く。暫らく歩くと広場にでる。左側はピッティ宮の薄茶の石壁が続く。前回来た時に入っているが、もう一度入ってみる。





遠い夏に想いを-ピッティ02  最初、ピッティ宮の建設は当時の資産家であったビッティという人が始めたのだが、完成を見ずして亡くなったので、当時権勢を振るっていたメディチ家が引継ぎ完成させた壮大な建物だ。



遠い夏に想いを-回廊  ウフィツィとはポンテ・ヴェッキオのヴァザーリの回廊という緊急避難用の裏通路が通じていたという。(写真:ウッフィツィの2階廊下の窓より撮影)






遠い夏に想いを-リッピ01  ここにはメディチ家が集めた膨大な美術品がある。お気に入りのリィッピの聖母子像もあるし、ラファエロの聖母子像もある。とにかく元々美術館ではなくて私邸だから、宮内は豪華絢爛そのものである。ピッティ宮の中は左右に47室もあり、左側のパラティーナ・ギャラリーだけでも23室ある。丁寧に見ていたら時間が足りない。時間節約のために見たい絵の部屋を事前に調べておいて見てまわる。


遠い夏に想いを-リッピ02  大好きなリッピの聖母子(右上の絵)がある。ウフィツィにあるリッピの聖母子像(右横の絵)の愛情に満ちた表情がなんともいえないが、ここのリッピの絵は聖母の伏目がちな表情に気品と愛情が満ちている。ボッティチェリ(麗しのシモネッタ)とラファエロ(大公の聖母)が素晴らしい。








遠い夏に想いを-ラファエロ01  「小椅子の聖母」はその丸みを帯びた表情と言い、聖母と言えばブルーと赤が基本だが、緑をくわえたその絵は聖母子というより、優しい母と子という印象を受ける。まさにルネッサンスの精神「人間性の回復」に相応しい。またヴェールの女(右下の絵)も柔らかな笑みを浮かべた美しい女性像だ。テツイアーノ(マグダラのマリア)もいい。



遠い夏に想いを-ラファエロ02
















遠い夏に想いを-ムリーヨ  また大好きなムリーリョもある(聖母子)。ムリーリョはまさに聖母の画家である。柔らかいタッチで描かれた聖母は美しい。日本の仏教では宮島の弁財天(弁財天は神道にもはいって七福神の一人になる)とか、奈良の九品寺の吉祥天とか、奈良の秋篠寺の伎芸天など、彫刻が殆どで、余り女性の偶像がないのでキリスト教の聖母像は特に美しく感じる。ボッティチェリの描き方は日本の浮世絵のように線画的で親しみやすい。







遠い夏に想いを-ピッティ庭園01  ギャラリーを抜けて庭へ出た。ここはボボリ庭園という植物園として作られているから大変に美しい。夏の陽の光をいっぱい浴びて、坂を登って行く。


遠い夏に想いを-フィレンツェ市街  空は澄みたったって、ミケランジェロがフィレンツェ防衛のために造ったというフォルテ・ディ・ベルベデ-レとう所からはドゥオーモやフィレイツェの街が見渡せる。まさにパノラマだ。ここでノッコと一息いれて、フィレンツェの眺望を楽しむ。


 パリのリュクサンブール庭園はカトリーヌ・ド・メデシスがピッティ宮を模して造らせたというが、あまり似ているとはいえない。リュクサンブール庭園にはリュクサンブール宮、現在の上院があり、大泉水もピッティ宮のネプチューンの泉を模したのだろう、その先は一段高くなっている。だが、余り似ているとは思えない。


 樹木や植物や花の名前が覚えられないので、旅行している時は残念である。ここも緑がいっぱいで素晴らしい所だ。

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