遠い夏に想いを -181ページ目

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

遠い夏に想いを-市庁舎広場  教会を出て、ガリバルディ広場まで歩く。中世は今よりもパルマは大きな影響力を持っていたこともあって、イタリアバロックの音楽家がこの街を拠点として活躍している。




遠い夏に想いを-音楽堂  また、パルマはヴェルディの生まれた街でもある。「リゴレット」、「椿姫」、「アイーダ」などの偉大なオペラ作曲家。マンゾーニを追悼して書いた「レクイエム」は日本でもよく演奏され、その中の「怒りの日」などはテレビのバックグランド音楽に使われている。ザルツブルグがモーツアルトを誇りにするように、パルマもヴェルディを誇りにする。(写真はパルマの音楽堂)


遠い夏に想いを-アイスクリーム  あまり暑いので、ガリバルディ広場からの帰り道でアイスクリームを食べる。通りに面して古い書類や楽譜を売っている店があり、店内に入ってみた。














遠い夏に想いを-ネウマ  16世紀から18世紀頃までの楽譜(ネウマという聖歌を記した楽譜)が1枚3万リラから6万リラくらいの値段だ。手書き写本は少なく、有っても値段が高い。特に綺麗な絵入りのネウマはものすごく高い。ブロック印刷の方は手ごろな価格だ。18世紀のものを1枚3万5千リラで買う。夕食に出掛ける前に、一度ホテルに帰って休むことにする。








遠い夏に想いを-総菜屋  夕食をとりに再び出掛ける。ホテルから近いガリバルディ通りにあるリストランテは小さいが、店の格はしっかりしていて値段も高い。街の中心街へ行く。食料品店の前を通る。店頭に並んでいるパルメザン・チーズやプロシュットが美味しいそうだ。日本ではパルメザン・チーズを粉末にして調理したり、ふりかけて食べる。そうしないで、これを薄くスライスして赤ワインと一緒に食べると、えも言われない美味さで舌がとろける。お試しあれ。


 道路に突き出してテラスを作っているトラッタリアがあった。あまり、上等ではないが入ってみる。隣のテーブルには中年のフランス人夫婦。奥さんが時々こちらをチラリチラリと見る。我々はメロンと生ハムの皿からスタートした。これには驚いた。イタリアに来て最高の生ハムだ。生ハムにも産地によって種類は色々と異なるらしいが、ここパルマで食べるプロシュットは香りといい、柔らかさといい、歯ざわりといい、口の中で旨みが広がって、とろけるような味わいは最高だ。その他の皿もクレモナに次いで美味しい。ただし、赤のハウス・ワインは残念ながらイタリアで飲んだ全てのワインの中で最下位だった。

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遠い夏に想いを-パルマ洗礼堂  暑さが少し和らいでから、街に出て暫らく歩くと、ドゥオーモと洗礼堂が見えてくる。















遠い夏に想いを-洗礼堂01  この八角形の洗礼堂は形もユニークだが、中はもっと素晴らしい。天井まで八角形が垂直に立ち上がって、八角形のビックリ箱のようだ。














遠い夏に想いを-洗礼堂02
 内部の壁には四季にちなんだ絵が画かれ、彫刻が彫られている。まるでヴィヴァルディの四季を彷彿させる場面である。そして、農民の耕作の時期に合わせて色々な場面が現れる。しかも、外側も内側もピンクの大理石だ。









遠い夏に想いを-パルマドゥオーモ

 更に、隣のドゥオーモに行く。ドウオーモの内部は荘厳な趣をかもし出し、天涯にはコレッジオの傑作が画かれている。   

 







遠い夏に想いを-ドゥオーモ01  『マリア被昇天』だ。これは配光が非常に良くいっているし、じっと見上げていると、イエスに引き上げられるマリアが光の中に消えて行く様子が幻の如く見えてくる。マリアは無原罪だが、神ではないので自分では天国に上れないのでイェスが引き上げなければならない。『マリア被昇天』はイタリアやフランスでは祝日になっており、カトリックの国ではマリア信仰が強い。





遠い夏に想いを-天井画  短縮法で描かれているので、遠近感が強調されている。広がりと奥行きが強調されて素晴らしい天井画である。絵が完了した時に、依頼主の教会側はここの絵に不満で支払いを渋ったらしい。こんなに素晴らしい天井画なのに。


 このフレスコ画にはペルゴレージの、場面と主題は異なるが、『スタバート・マーテル』(聖母の悲しみ)の曲が一番似合う。コレッジオは16世紀初めの人だし、ペルゴレージは18世紀初めに26才で一生を終えた人で、ナポリの人だからここパルマのコレッジオのフレスコ画は見ていないと思うが、静かで緩やかな曲は苦悩と悲しみと哀愁に溢れていて、このフレスコ画を前にすると自然と音楽が周りに響き渡ってくるようだ。


遠い夏に想いを-ヨハネ福音教会  更に、2分ほど歩くと、サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ教会がある。ここにもコレッジオの作品がある。聖ヨハネのフレスコ画は光線の取り入れ方でかなり損をしている。大きな教会だが特に印象に残るものはない。










 西洋の絵画・彫刻を見ていると、いつも不思議に思うことがある。女性の裸体画だ。当時は画家というよりも職人として教会の要望で描くか、金持の要求に応じて描いていたと思われる。キリスト教の範疇にある聖女は決して裸にしない。マグダラのマリアは唯一の例外。ティツィアーノの胸をはだけたマグダラのマリアを見たことがある。裸体といえばギリシャ神話の女神や登場人物が殆どだ。17世紀頃までは一般女性の裸体画は殆どない。フランスのブーグローの「ヴィナスの誕生」みたいに、既に印象派が活躍している頃になっても裸体といえば神話の世界なのである。(右の絵はコレッジオのギリシャ神話の「イーオー」)


 この約束事は日本人には不思議に思う。裸体は一切駄目と言うなら倫理的な面から納得がいくが、題材がギリシャ神話ならよろしいと言うのは理解不能である。欧米人が日本人の混浴に驚くようなものなのか。日本では浮世絵でも子供に母乳を与える女性を描いているが、全くの裸婦は春画以外は見当たらない。せいぜい死者の姿でしか描かれない。だから、19世紀の終わりに日本人が描いた裸婦像の展示には大衆が驚きをもって見つめたらしい。

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 ホテルの前のピロタ宮に行ってみる。ここには国立美術館があり、コレッジオの部屋とパルマ派の画家達、コレッジオ、パルミジャニーノ、更にカナレットやダヴィンチのデッサンなどがある。


遠い夏に想いを-美術館

遠い夏に想いを-アンテア  パルマのファルネーゼ家から法王パウルス3世が出て、息子にパルマ公国として残した話は前回した。当然、ファルネーゼの屋敷もローマにあった。しかし、ナポリ王国はスペインの植民地だった関係から、統治者の関係によりナポリ王国に大半の美術・工芸品がナポリに移った。(写真上はパルマの国立美術館の見取り図)


 今、ナポリのカポディモンテ美術館展が東京で催されている。美術品・工芸品の殆どがパルマのファルネーゼ家からのものだ。(写真右上は展覧会に出展されたパルミジャニーノの「アンテア」)


遠い夏に想いを-劇場  この宮殿で驚かされるのはテアトロ・フォルネーゼだ。宮殿の2階にこれだけ大きな劇場があるとは想像がつかない。3千人は入ろうという広さだ。しかも、全部木製。ロンドンのシエクスピアのグローブ座が再建された話しは知っているが、あれは天井のない半分オープンな建物だ。ここは天井のある馬蹄形の大空間である。真ん中はカンポといって、コロセアムのようになっている。オペラの上演中に生きた馬が使われたというから広さが想像つこうというもの。ちっとしたヒポドロームくらいある。舞台は勿論、座席も、壁も、床も、全て木で出来ている。飴色というか、蜂蜜色というか、黄色がかった褐色のモノトーンだ。17世紀初めにここの公爵が建てさせた劇場の再現である。第二次大戦でひどく損傷したために、再建を開始したのが1950年で、50年近く経った今でも建築は続けているというから気の長い話しだ。


遠い夏に想いを-広場市  夏の市が出ているピロタ宮の広場を横切って、今度はガリバルディ通りを駅の方へ歩いてみる。暑いので日陰になっている通りを歩く。今回のイタリア旅行で一番暑い。日照りの中を歩いていると、くらくら目眩がしてくる。息抜きに、角の食材店を覗く。イタリア料理は大好きだから、大いに関心があった。ウインドー越しに生ハムやチーズが見える。材料はさまざまあって本当に豊富だ。当然、惣菜や料理済みの食物もいろいろ見える。パルマにはパスタメーカーのバリラがある。ディ・チェーコにも飽きたのでバリラに切り替えるか。とにかく一度ホテルに戻ることにする。暑くてかなわない。

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 朝食をとりに外出した帰りに、ホテルの近くのフィレンツェのアリタリア支店に行き、帰りの便のコンファームをしてくる。ホテルに戻って身支度をし、タクシーを呼んでもらい駅まで行った。


 最後の目的地はパルマ。既に、フィデンツァまでは間違って行っているので、今度は間違えない。パルマまでは各駅停車で1時間程で着いた。


遠い夏に想いを-parma hotel 「パルマの町はなとなく生ハムやパルメジアーノ・チーズの匂いがするな」
私が鼻をくんくんさせながら言った。
「錯覚でしょ」
ノッコが一笑にふす。
「何となく匂うんだがな・・・」
 

 ホテルは駅前の通りを6~7分真っ直ぐ歩いて、お城の手前のホテル・スタンダール。スタンダールといえば、パルムの僧院を思い出すが、あれはパルマであってもパドヴァであってもパレルモであても、どこでもよい感じの話だ。(写真右上はホテル・スタンダール)


遠い夏に想いを-romance  高校時代に読んだ小説だが、当時は「赤と黒」の若い主人公ジュリアン・ソレルや「パルムの僧院」のファブリスに夢中になって読んだものだ。ナポレオンの時代で、ナポレオンがイタリア侵入した状況にあわせてフランス人のスタンダールが書いた小説である。イタリア人はナポレオンを北部のオーストラリアや南部のスペインを追い払ってくれる解放軍と考え受け入れたが、現実はとんでもない男で、イタリア王となりイタリアをフランスの支配下に置いてしまう。そのころのフランス軍の動向に沿って書かれた結構分厚い小説だ。ナポレオンはフランスでは英雄だが、他国にとってはただの侵略者にしか過ぎない。


 それよりも、シエクスピアの方が遥かに場所の設定にそれらしさと、史実に即していなくとも、忠実だと思わせるうまさがある。


 パルマはパルマ公国として覚えている。たしか、16世紀の中頃パルマを支配していたファルネーゼ家からパウルス3世という教皇がでていて、息子にパルマ公国として跡を継がせたと記憶していた。


 我々はパルマを中継点として選んでいるので、明朝は早く発たないといけない。従って、市内を見るのは今日だけだ。今は11時頃だから、この小さな町を回るには十分だろう。ホテルの部屋は広いのだが、少々陰気臭い感じがする。荷を解いて、直ぐに街にでた。

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 今夜はフィレンツェ最後の夜だ。夕食はエノティカ・ピンキオーリとまでゆかなくとも、少しはまともで気の利いた店で取りたい。と言って気の利いた店を知っている訳でもない。
「三つ星だの、何星だのという類の店には入らないわよ。エノティカ・ピンキオーリとかサバティーニなんて、着てゆく洋服がないから」
そういう一札が出発前にノッコから入っているので、庶民的で安くて気の利いた店を探さなくてはならない。


 東京のエノティカ・ピンキオーリとかサバティーニには仕事やプライベートで何度か行ったことがあった。素晴らしいレストランである。これ等の店の本店がフィレンツェにあるが、ノッコから「ノー」の一札が入っているので諦めた。


遠い夏に想いを-Duomo04  ドゥオーモの南側の界隈を歩き、一軒のリストランテに入った。店は余り大きくなく、時間が早めなので割と空いていた。席に就いてメニューを読んでいると、中年の日本人(大半が女性)の団体客が入って来て入り口近くの席に一列に座った。中年の女性だが話し声が小さい。外国のレストランだからだろうか、みな静かである。


 我々がオーダーしようとする段になって、今度は日本人の女の子が一人で入って来た。後ろの団体席のはずれに座ったが、我々の隣の席が空いていたのでこちらに移って来た。痩せて、小さな胸で、少し色ぐろで、頬笑むと愛嬌があり、東アジア的な容姿は、まさに72年にパリでオペールをしていて、我々も大変に世話になった洋子さんの再来かと思うばかりだ。洋子さんは帰国して、カナダ大使館に勤めていた。その後彼氏を追ってカナダへ行ったはずだから、こんな所にいる筈がない。でも、よく似ている。彼女は座るといきなりウエイターに英語で告げる。
「セット・メニュー、プリーズ」
年配のウエイターは意味が分からず何度も聞き直す。何とか意味が通じたらしい。
「ツーリスト・メニューはありません」
年配のウエイターが丁寧に答える。
何を思ったのか、彼女この皿、あの皿とオーダーしている。
「多かったかなー?」
彼女は独り言をいった。


 しばらくして、ノッコが声をかけた。
「お一人で旅行ですか」
「ええ、夜行列車でフランスから来て、今日着いたのです。私、お金が無いんで、安いレストランと思って入ったんですけど、ここ、高いですか」
「私達も初めてで判りません。旅行客向けの専門店よりは高いと思うけど」
彼女はこの後ナポリまで足を伸ばすらしい。我々は明日パルマに発つ。いろいろ楽しい話をして、「お元気で、気をつけてね」と言葉を交わして別れた。私達は支払いを済ませて店を出た。味は少々裏切られた感じだ。でも、楽しかった。

 フィレンツェは見所の多い街だ。この他にも数多くの場所を訪れた。思い出は多いが、全部は書ききれないので、フィレンツェの項はこれくらいしようと思う。


 通りを散歩しながらホテルへ戻った。通りの真ん中で火を吹いている大道芸を披露している男、パリでも一度見たが、ここでは周りに観衆は殆どいないのがさみしい。街角でバグパイプでアイルランド民謡を吹きならテラ銭をあつめる男にも、誰一人として聞いている者はいなかった。人さまざまで、フィレンツェの夏の夜はふけてゆく。

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