暑さが少し和らいでから、街に出て暫らく歩くと、ドゥオーモと洗礼堂が見えてくる。
この八角形の洗礼堂は形もユニークだが、中はもっと素晴らしい。天井まで八角形が垂直に立ち上がって、八角形のビックリ箱のようだ。
内部の壁には四季にちなんだ絵が画かれ、彫刻が彫られている。まるでヴィヴァルディの四季を彷彿させる場面である。そして、農民の耕作の時期に合わせて色々な場面が現れる。しかも、外側も内側もピンクの大理石だ。
更に、隣のドゥオーモに行く。ドウオーモの内部は荘厳な趣をかもし出し、天涯にはコレッジオの傑作が画かれている。
『マリア被昇天』だ。これは配光が非常に良くいっているし、じっと見上げていると、イエスに引き上げられるマリアが光の中に消えて行く様子が幻の如く見えてくる。マリアは無原罪だが、神ではないので自分では天国に上れないのでイェスが引き上げなければならない。『マリア被昇天』はイタリアやフランスでは祝日になっており、カトリックの国ではマリア信仰が強い。
短縮法で描かれているので、遠近感が強調されている。広がりと奥行きが強調されて素晴らしい天井画である。絵が完了した時に、依頼主の教会側はここの絵に不満で支払いを渋ったらしい。こんなに素晴らしい天井画なのに。
このフレスコ画にはペルゴレージの、場面と主題は異なるが、『スタバート・マーテル』(聖母の悲しみ)の曲が一番似合う。コレッジオは16世紀初めの人だし、ペルゴレージは18世紀初めに26才で一生を終えた人で、ナポリの人だからここパルマのコレッジオのフレスコ画は見ていないと思うが、静かで緩やかな曲は苦悩と悲しみと哀愁に溢れていて、このフレスコ画を前にすると自然と音楽が周りに響き渡ってくるようだ。
更に、2分ほど歩くと、サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ教会がある。ここにもコレッジオの作品がある。聖ヨハネのフレスコ画は光線の取り入れ方でかなり損をしている。大きな教会だが特に印象に残るものはない。
西洋の絵画・彫刻を見ていると、いつも不思議に思うことがある。女性の裸体画だ。当時は画家というよりも職人として教会の要望で描くか、金持の要求に応じて描いていたと思われる。キリスト教の範疇にある聖女は決して裸にしない。マグダラのマリアは唯一の例外。ティツィアーノの胸をはだけたマグダラのマリアを見たことがある。裸体といえばギリシャ神話の女神や登場人物が殆どだ。17世紀頃までは一般女性の裸体画は殆どない。フランスのブーグローの「ヴィナスの誕生」みたいに、既に印象派が活躍している頃になっても裸体といえば神話の世界なのである。(右の絵はコレッジオのギリシャ神話の「イーオー」)
この約束事は日本人には不思議に思う。裸体は一切駄目と言うなら倫理的な面から納得がいくが、題材がギリシャ神話ならよろしいと言うのは理解不能である。欧米人が日本人の混浴に驚くようなものなのか。日本では浮世絵でも子供に母乳を与える女性を描いているが、全くの裸婦は春画以外は見当たらない。せいぜい死者の姿でしか描かれない。だから、19世紀の終わりに日本人が描いた裸婦像の展示には大衆が驚きをもって見つめたらしい。
ミネソタの遠い日々
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