日本の娘と一緒に - 086 | 遠い夏に想いを

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 今夜はフィレンツェ最後の夜だ。夕食はエノティカ・ピンキオーリとまでゆかなくとも、少しはまともで気の利いた店で取りたい。と言って気の利いた店を知っている訳でもない。
「三つ星だの、何星だのという類の店には入らないわよ。エノティカ・ピンキオーリとかサバティーニなんて、着てゆく洋服がないから」
そういう一札が出発前にノッコから入っているので、庶民的で安くて気の利いた店を探さなくてはならない。


 東京のエノティカ・ピンキオーリとかサバティーニには仕事やプライベートで何度か行ったことがあった。素晴らしいレストランである。これ等の店の本店がフィレンツェにあるが、ノッコから「ノー」の一札が入っているので諦めた。


遠い夏に想いを-Duomo04  ドゥオーモの南側の界隈を歩き、一軒のリストランテに入った。店は余り大きくなく、時間が早めなので割と空いていた。席に就いてメニューを読んでいると、中年の日本人(大半が女性)の団体客が入って来て入り口近くの席に一列に座った。中年の女性だが話し声が小さい。外国のレストランだからだろうか、みな静かである。


 我々がオーダーしようとする段になって、今度は日本人の女の子が一人で入って来た。後ろの団体席のはずれに座ったが、我々の隣の席が空いていたのでこちらに移って来た。痩せて、小さな胸で、少し色ぐろで、頬笑むと愛嬌があり、東アジア的な容姿は、まさに72年にパリでオペールをしていて、我々も大変に世話になった洋子さんの再来かと思うばかりだ。洋子さんは帰国して、カナダ大使館に勤めていた。その後彼氏を追ってカナダへ行ったはずだから、こんな所にいる筈がない。でも、よく似ている。彼女は座るといきなりウエイターに英語で告げる。
「セット・メニュー、プリーズ」
年配のウエイターは意味が分からず何度も聞き直す。何とか意味が通じたらしい。
「ツーリスト・メニューはありません」
年配のウエイターが丁寧に答える。
何を思ったのか、彼女この皿、あの皿とオーダーしている。
「多かったかなー?」
彼女は独り言をいった。


 しばらくして、ノッコが声をかけた。
「お一人で旅行ですか」
「ええ、夜行列車でフランスから来て、今日着いたのです。私、お金が無いんで、安いレストランと思って入ったんですけど、ここ、高いですか」
「私達も初めてで判りません。旅行客向けの専門店よりは高いと思うけど」
彼女はこの後ナポリまで足を伸ばすらしい。我々は明日パルマに発つ。いろいろ楽しい話をして、「お元気で、気をつけてね」と言葉を交わして別れた。私達は支払いを済ませて店を出た。味は少々裏切られた感じだ。でも、楽しかった。

 フィレンツェは見所の多い街だ。この他にも数多くの場所を訪れた。思い出は多いが、全部は書ききれないので、フィレンツェの項はこれくらいしようと思う。


 通りを散歩しながらホテルへ戻った。通りの真ん中で火を吹いている大道芸を披露している男、パリでも一度見たが、ここでは周りに観衆は殆どいないのがさみしい。街角でバグパイプでアイルランド民謡を吹きならテラ銭をあつめる男にも、誰一人として聞いている者はいなかった。人さまざまで、フィレンツェの夏の夜はふけてゆく。

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