フィレンツェのタクシー - 074 | 遠い夏に想いを

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

遠い夏に想いを-空からの街  90年の夏は空港から駅に着いて、運転手に言われたとおり駅の両替所に行きリラに交換した。シエナ行きのバスの停留所も訊いて、駅の玄関に出た。


 今ではフィレンツエの街も概略覚えている。最初に来た1972年には、重い荷物(大きなトランクを2個とボストンバッグを2個)を持って、街の様子も判らないのにホテルまで歩くと言い出してノッコに大反対された。当時は今のように小さなキャリング・バッグでなかった。


 当時の空港バスは駅向かいの左角がバス・ターミナルだった。72年の夏のホテルは空港の案内所で紹介してもらった安宿だった。地図を見るとさして遠くない。そこで、節約のため歩くことにした。当時はひどい貧乏旅行だった。石畳の道をカラコロ重い荷物を引きずりながら歩き始めて、凸凹道を250メートルほど歩いてギヴアップ。結果として膨れ面のノッコとチャオを道の途中に残して、タクシーを拾いに一人で駅まで戻った。90年のパリでもエトワール広場からホテルまでノッコの反対を押し切り、荷物を引っ張りバッサノ通りを歩いた。やはり貧乏性は抜けないらしい。


遠い夏に想いを-駅玄関  今の駅は改修工事のためか、様子がすっかり変わってしまった。当時は、駅も閑散として旅行者もほとんどいなかった。運転手はタクシーのドアーを開けっ放しにして、同僚の運転手と駅の入り口の隅でカードをやっている。運転手をつかまえて、ホテルまで行く道筋を説明するのが大変だ。なにせ英語が通じない。かたことのイタリア語で訊くしかない。
「空いてるかい」
「そうだよ、どこへ行くのかね」
「妻と子供が待っている。ここを左に行き、バスの発着所の処を右に曲がって、真っ直ぐ200メートル行く。今度は右に回って50メートル行くと彼女と子供がいる。彼女と子供を乗せて、左に曲がって真っ直ぐ200メートル行って左に曲がるとホテルがある」
 ホテルのカードを見ながら、ここまで必死になって説明していると、客待ちのタクシーの運転手達が5~6人集まって来て、その場所は何通りだ、いやホテルはその通りにはない・・・と喧喧諤諤となってしまった。
 私が何か喋っている最中に、運転手たちはポンポンとイタリア語で聴いてくるので、話が一向に進まない。
「判ったのかね」
ついに私は訊いた。
「判った。よし大丈夫」
わがタクシー運転手はやっと飲み込めたらしい。
とたんに周りの運転手達から歓声が上がった。
話の要領がつかめた途端、「ブラボー」の歓声が沸き起こって、肩を叩く者、握手を求める者、はては抱きついてくる者もいて、私をタクシーに詰め込み、送り出してくれた。


 そんな経験も遠い昔の出来事になってしまた。駅の中央口の様子は当時とすっかり変わってしまったような気がする。あの時は、右も左も判らずだったのに、金がないから、徒歩で行こうなどと考えたこと自体無謀であった。


 私がイタリア語を始めたのは、前にも書いたが、45年くらい前のことで、当時はNHKの語学講座にもイタリア語はなく、民間の語学学校でもイタリア語を教えるところがない。東京の九段上にあるイタリア文化会館に通った。講師は上智大学の先生だったと思う。その後、ミネソタ大学に留学し、時間に余裕があったので、イタリア語中級会話というクラスをとった。インストラクターのノラについてはこの旅行記のミラノの項で述べた。実際は旅行に余り不自由のない程度のイタリア語なのだが。


 このとき泊まったホテルは大変な安ホテルで、ホテルの女主人は中年の太ったおばさんでイタリア語しか喋らないから、こちらが片言のイタリア語を話すと判ると、機関銃のようにまくしたてる。「ベッドでタバコを吸うな、水道は流しっぱなしで使うな、シャワーも水を節約して使え、・・・etc.」と口うるさい。「Capito、capito」といってその場を逃げるしかなかった。


 こんなことは覚えているが、ホテルの名前も場所も記憶にない。