アリアーニ洗礼堂 - 067 | 遠い夏に想いを

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

遠い夏に想いを-アリアーニ概観  スピリト・サント教会に行く。かってはアリアーニ聖堂と呼ばれていた。ここの洗礼堂(写真右側の建物)は薄暗く小さいお堂のようなところだが、扉を開けると狭いドーム一杯にモザイクが広がり美しい。周りに12使徒を控えて中央にイエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネにより洗礼を受けている。


遠い夏に想いを-天井画03  もともとはテオドリックがこの地を支配していた。彼の部族のゴート族は北方から移動してきた北方ゲルルマンの一派で、みなアリウス派を信仰していた。キリストは神ではなく偉大なる預言者であるという立場をとっていた。


 しかし、カトリックはキリストを神の子だとし、三位一体という訳の判らない説を展開する。ユダヤ教もイスラム教もイエスを預言者としているそうだ。これでキリスト教は単なるファンタジーと化した。理性では理解できないファンタジー。



 時のローマ皇帝コンスタンティヌスが混乱したローマ帝国を統一すために325年ニカエアで公会議を開き、アリウス派を異端として排斥してしまう。宗教界も権力闘争が激しいところだから、教義は譲れない。キリスト教で不思議なのはキリスト=神であるとする教義だ。これを説明するのに「三位一体」というわけの分からない教義を持ち出す。アリウス派を排斥した理由は、自分の息子を当時禁止されていた跡継ぎの皇帝にするのに、その神の後ろ盾があることで、民衆の誰もが否定することも、逆らうことも出来ない状況の方が好都合だったからといわれている。実際、コンスタンティヌスは死の直前にローマの国教となったキリスト教に改宗している。


遠い夏に想いを-ニーチェ  私はキリスト教徒ではないが、若い頃メノナイト派のアメリカ人達と親交があり、新約聖書も読み、キリスト教の歴史に関心があった。ニーチェの『キリスト教批判の試み』などもキリスト教の本質を理解するのに役立つ。


 アリウス派はもともとアレキサンドリアのアリウスという司教が唱えた教義である。異端審判の後もゲルマン系の人達が信じていた宗派で、「キリストは神と民衆をつなぐ特別な人で、神から預かった言葉を伝える人間である」、即ち預言者だと主張する。この主張のほうがローマカトリックに潜む諸々の矛盾を抱え込まなくてすむ。だがコンスタンティヌスはイエスが神であるとする考えを支持したのだ。


 12世紀に南フランスでカタリ派の信者数万人がローマカトリックがすすめるアルビジョア十字軍よって虐殺された。彼らの教義は「肉体と物質は悪で魂と霊は善である」とするイラン周辺に起こった古いゾロアスター教(ニーチェのツアラストラとは同じ)のグノーシス主義の色彩が強く、キリストの神聖を否定する。彼らの説に従うとキリストは実体のない幽霊のような存在になってしまう。これ以降、カトリックによる悪名高い異端審問が行われるようになる。自分たちの教義に反対する者は徹底的に排除した。


 プロテスタントはそもそも聖書に忠実でなければならないという原理主義で、アメリカでダーウィンの進化論を学校で教えるべきでないという論争が起きているのは皆さんもご存知だろう。だがしかし、キリスト教徒でなくとも世界中がキリスト教徒の欧米に思考方法も行動様式も大きく影響を受けている現実がある。


 唯一、アメリカのプロテスタントではユニタリアン教会派がアリウス派と同じキリストは神ではなく神と人間をつなく大切な存在であると主張する。アメリカに留学していた時に親しかった友人の家族がユニタリアン派だった。彼らが宗教に寛容であったのを思い出す。


遠い夏に想いを-天井画02  ニカエア公会議で異端とされたアリウス派はその後もゴート族の間では衰えていなかった。テオドリック王が奨励していたアリウス派の教会として、5世紀末にスピリト・サント教会付属の礼拝堂として建てられたものだが、その後勢力をつけたローマカトリックがアリウス派を異端として排斥して、この礼拝堂を小礼拝堂にしてしまった。洗礼堂のモザイクはドームの部分(但し、ネオニアーノ洗礼堂のモザイク画のうつしだが、洗礼者ヨハネの位置が逆である)しか残っておらず、壁の部分は何もない状態であった。