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遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 朝は雲が切れて一部青空が覗いていた。昨夜は明け方まで外で男達が大きな声でわめくのが絶えなかった。土曜日の夜のせいも有るが、殆どが浮浪者だ。昨夜、駅からホテルまで荷物を引きずりながら歩いて来た時にも、通りのあちこちに大勢いた。フランクフルトは市内の人口が65万人で、35%はドイツ以外からの移民やら流入者だ。失業率も高い。だから駅周辺を歩く時は特に気を付けていなければならない。


遠い夏に想いを-高層ビル  ビジネスの中心地である新市街だけでなく、旧市街にも新しい高層ビルが建ち並び、フランクフルトがEUの経済の中心地としての役割は大きくなるから、街はどんどん変わるだろう。東京並みに変化する街だ。


 朝は1階のタイ料理のレストランで英語の分からぬタイ女性が1人で番をしている。ちょっと異様な感じであったが、洋食もあり、セルフは結構色々あって美味しい朝食であった。部屋に戻って、支度をして、外出する。今回の旅の第一歩を踏み出した。


 Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学へ留学した記録のホームページにもどうぞ

 今回、ドイツとオーストリアを訪れたのには訳があった。 古い話になるが、1972年のパリからの帰国時に、北廻りで北欧を旅して帰ろうか、南回りでイタリア、ギリシャを旅して帰ろうか、大いに迷った。


 海外旅行の自由化で日本の若者達がヨーロッパに一番近い国、フィンランドに押し寄せていた。彼らは出国するときに殆ど金を持たない。自由化といっても持ち出せるのは500ドルだけだ。彼等は違法と知りながらレストランの皿洗をしながら食いつないだようだ。そして、フィンランドの若い女の子をたぶらかして、悪事を重ねる。フィンランドでも問題になっていたし、日本人のイメージは地に落ちていた。このことはミネソタ大学の東洋図書館で1ケ月遅れの朝日新聞を読んで知っていた。


 我々はそんな所に飛び込むのはいやだった。フィンランドは北国生まれの私にとって憧れの国であった。シベリュウスの北国らしい透明感のある音楽の影響かもしれない。女の子が生まれたら名前にSUOMI(フィンランドの国名)と付けるつもりだった。


 しかし、この際、フランス語かイタリア語が使える国に行こう。ノッコは早稲田の仏文だし、私も早稲田で第2語学がフランス語、フランス語経営学のクラスもとっていた。そこで南廻りを選んで、スイス、オーストリア、イタリア、ギリシャ、レバノンを旅して帰国した。


 私はドイツ語ができなかった。高校の課外授業でドイツ語とフランス語を取った。ところが、当時のドイツ語のテキストは全てゴシック体で書かれており、これには降参してしまった。遂に、ギヴアップ。フランス語だけを取り続けた。


 イタリア語は大手町でサラリーマンをしていた頃に九段上のイタリア文化会館に2年間通った。ミネソタ大学でも中級イタリア語会話のクラスに顔を出していたので、片言の会話ができるようになった。


 数年前のある日、その話をしていたら、早稲田の独文にいた後輩の女性が言った。
「ゴッシク文字が魅力じゃないの」
彼女のお父さんはドイツ領事館で働いていたので、ドイツ語もペラペラだったようだ。彼女はヴァイオリンを小学生から弾き始めたから、当時のアマチュアとしては上手だった。今でも彼女と時々アンサンブルをやるが、大学のオーケストラでは、マドンナと持てはやされるほどの美人だった。


 72年にウィーンに立ち寄ったのは、言葉は判らなくとも、音楽の聖地だからどうしても行きたかった。しかし、この時は余りにも短期間だった。2泊3日で、正味1日しかない。


 それで、今度は日数をかけて2人でドイツ・オーストリアだけを廻ることにした。それにノッコは語学マニアでアメリカ・フランスから帰国後、カルチャー・センターでイタリア語、スエーデン語、フィンランド語、スペイン語とドイツ語を順次習っていったから、ドイツ・オーストリアに来ても少しは役に立つと思った。


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遠い夏に想いを-ホテルの通り  ヴェッサー通りまで行って右に曲がると、すぐのところにホテルは有った。一階はタイ料理店になっており、危なく通り過ごすところだった。


 『Cosmos』と表示がある、レストランの端の狭いドアを押して入ると、奥にドイツ人のホテル番がいる。ここでチェックインを済まし、東京の友人の旅行会社が手配してくれたホテルのクーポンを渡す。外国で現地通貨の余分な支払いをしたくないので、最近はこの方法をとる。


 ホテル番の男がバス会社からの手紙を渡してくれる。ドイツのバス会社にロマンティック街道の旅を東京から予約してあった。
「朝食は7時から。ミニバーか電話を使わなければ支払いはこれ以上要りません」


遠い夏に想いを-ホテル部屋  バスのことについては何を聞いても、関係ないし、判らないの一点張り。奥は小さなロビーになっていて、テレビとソファーが置いてある。エレベーターで4階まで昇る。部屋は表通りに面し、内装は割と粗末でビジネスホテルに毛の生えた程度である。現在、このホテルは北の方に移って、ここにはないようだ。


 我々はホテルに期待もしないし、多くを求めないタイプなので、これで充分だ。ホテルは寝るだけと割り切っている。豪華なホテルなど全く関心がない。貧乏性が身についているのだろう。


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遠い夏に想いを-frankfurt airport  日暮れが迫っている空港からは地下鉄で市内へ向かう。切符を買おうとするが、自動販売機の使い方が判らない。困っていたら1人の婦人が「こうするのですよ」と教えてくれた。彼女が去った後、その通りにやってみた。中央駅までの切符を買おうとすると、『売りきれ』の表示がでる。何度やっても『売り切れ』だ。1階の券売機へ行くが同じである。


 ノッコがガイドブックを広げて、叫んだ。
「あっ、あのおばさん間違って教えている」
券売機では昔パリのモンパルナス駅でも苦労した経験があり(ここをクリック
)、その時のことを思い出してしまった。


 しかし、ガイドブックの通りやると切符が出て来た。これからドイツ、オーストリアでの切符の買い方が思いやられる。ヨーロッパでも各国で切符の自動販売機の使い方が違う。対人販売だと何処の国でも同じだが、言葉が通じないことがある。切符で迷ったために7時48分の電車を逃してしまった。次は7時59分まで待たねばならない。


遠い夏に想いを-中央駅  地下鉄で来ると、駅が4つ目程で中央駅に着く。駅に着いた頃はもう雨は上がっていたが、外は暗闇になっていた。駅前のカイザー通りを真っ直ぐ旧市内の方向へ3ブロックほど行かなければならない。此の辺は非常に治安の状態が悪い。流入した移民が、たむろする所が駅前通り。夜間はヤクの売人や浮浪者がうようよしている。女性の1人歩きは危険だ。我々も早足で通り過ぎてゆく。


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遠い夏に想いを-wien airport  当然、ウイーンの空港も変わっていた。1972年にウイーンの空港をミラノに向けて出発した時も、時々雲の切れ目から陽がさしているのに、激しい雨が降っていた。「狐の嫁入り」ってオーストリアでは何と言うのだろう。雨の中、飛行機は午後の空港を飛び立っていった。オーストリア航空機はやはり清潔で清楚なデザインだった。金髪で背の高いスチュワーデスは笑顔を絶やさず、立ち振る舞いもきちんとしていて清楚だった。(写真は今回の旅での雨のウィーン空港)


 最初の目的地、フランクフルトへは、オーストリア航空のOS-1250便で17時40分に出発。B727の室内は少々くたびれているが、やはりオーストリア航空らしい清潔感溢れるデザインだ。かえって、こうゆう中型機の方が、人間味があって落ち着くのは私だけだろうか。19時10分にフランクフルトに到着した。もう夕暮れが迫っていた。


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