今回、ドイツとオーストリアを訪れたのには訳があった。 古い話になるが、1972年のパリからの帰国時に、北廻りで北欧を旅して帰ろうか、南回りでイタリア、ギリシャを旅して帰ろうか、大いに迷った。
海外旅行の自由化で日本の若者達がヨーロッパに一番近い国、フィンランドに押し寄せていた。彼らは出国するときに殆ど金を持たない。自由化といっても持ち出せるのは500ドルだけだ。彼等は違法と知りながらレストランの皿洗をしながら食いつないだようだ。そして、フィンランドの若い女の子をたぶらかして、悪事を重ねる。フィンランドでも問題になっていたし、日本人のイメージは地に落ちていた。このことはミネソタ大学の東洋図書館で1ケ月遅れの朝日新聞を読んで知っていた。
我々はそんな所に飛び込むのはいやだった。フィンランドは北国生まれの私にとって憧れの国であった。シベリュウスの北国らしい透明感のある音楽の影響かもしれない。女の子が生まれたら名前にSUOMI(フィンランドの国名)と付けるつもりだった。
しかし、この際、フランス語かイタリア語が使える国に行こう。ノッコは早稲田の仏文だし、私も早稲田で第2語学がフランス語、フランス語経営学のクラスもとっていた。そこで南廻りを選んで、スイス、オーストリア、イタリア、ギリシャ、レバノンを旅して帰国した。
私はドイツ語ができなかった。高校の課外授業でドイツ語とフランス語を取った。ところが、当時のドイツ語のテキストは全てゴシック体で書かれており、これには降参してしまった。遂に、ギヴアップ。フランス語だけを取り続けた。
イタリア語は大手町でサラリーマンをしていた頃に九段上のイタリア文化会館に2年間通った。ミネソタ大学でも中級イタリア語会話のクラスに顔を出していたので、片言の会話ができるようになった。
数年前のある日、その話をしていたら、早稲田の独文にいた後輩の女性が言った。
「ゴッシク文字が魅力じゃないの」
彼女のお父さんはドイツ領事館で働いていたので、ドイツ語もペラペラだったようだ。彼女はヴァイオリンを小学生から弾き始めたから、当時のアマチュアとしては上手だった。今でも彼女と時々アンサンブルをやるが、大学のオーケストラでは、マドンナと持てはやされるほどの美人だった。
72年にウィーンに立ち寄ったのは、言葉は判らなくとも、音楽の聖地だからどうしても行きたかった。しかし、この時は余りにも短期間だった。2泊3日で、正味1日しかない。
それで、今度は日数をかけて2人でドイツ・オーストリアだけを廻ることにした。それにノッコは語学マニアでアメリカ・フランスから帰国後、カルチャー・センターでイタリア語、スエーデン語、フィンランド語、スペイン語とドイツ語を順次習っていったから、ドイツ・オーストリアに来ても少しは役に立つと思った。
Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学へ留学した記録のホームページにもどうぞ