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遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 モーツアルトで話が脱線してしまった。これからも時々脱線すると思うのでご辛抱願います。


遠い夏に想いを-レーマー広場  レーマー広場のインフォメーション・センターに立ち寄り、街の音楽会について訊いてみた。


 受付には女性が2人いて閑そうだった。奥にいた女性がやって来たので訊いた。


 私の質問に彼女は頭を抱えている。
「市立劇場は、えーと、なんだったけ、イタリアの出し物ね」
「リゴレットですよ」
「ああ、それ」
なんだ、知ってんじゃないのって顔をする。
「いや、オペラじゃなくて、何かリサイタルはないですか」
「えーと」
資料のページをめくっている。
「ブラームスとシューマンの室内楽が・・・教会で7時半から」
「・・・教会って、どうやって行くのですか」
すっかり方向感覚を失って自信を喪失していたので、少ししつこく聞いた。


 地図を広げて色々説明してくれたがさっぱり要領を得ない。地図を貰って出て来たが、探すのは無理だろうと諦らめてしまった。


 私たちは昔からオペラに殆ど関心がない。初めてオペラに接した昔の思い出がある。


 1956年イタリアオペラの東京公演が初めて東京宝塚劇場でおこなわれた。演目はアイーダ。大学生になったばかりで、オーケストラ部の学生達が練習用のトラにかりだされた。ヴェルディのアイーダはご存知のように大勢のエキストラが舞台にのる。準備段階の練習だから員数あわせだ。これ一回だけのエキストラだったが、面白い経験をした。


 それでも、オペラには関心がわかなかった。生涯でオペラを鑑賞したのはドニゼッティの「愛の妙薬」とモーツアルトの「魔笛」だけだ。両方とも海外の歌劇団だった。しかも、友人や親戚が「切符はあるのだが、急用で行かれなくなったから」という理由だった。


 日本でオペラが根付かないのが一因でないかと思う。親戚には音大の声楽の教授だった人や、プロのメゾソプラノ歌手もいるのだが。日本にはコンサート・ホールはあるが、オペラ専用のオペラ座がない。ヨーロッパには各街々に大なり小なりオペラ座がある。指揮者も全員オペラ座を経験して成長する。日本ではコンサート中心の指揮者だ。若手指揮者は彼らのアシスタントをしながら育ってくる。大きな違いである。


 Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学へ留学した記録のホームページにもどうぞ

 私は就職して弾くのをやめてしまった。丁度、神武景気の後で、会社の業務が忙しく、ヴァイオリンを弾いている暇がない。仕事から帰宅するのは夜遅くで、週末は疲れ果てて、ヴァイオリンを弾く気にもなれない。せっかく甥たちが私のことをヴィオおじちゃんと呼んでいたので、もう弾かないのは残念だったが、やもうえなかった。この時期、楽器を諦めた友人達が多かった。当時は仕事第一だったから。それに住宅事情も悪かった点もある。


 定年が間近になったころ、「定年後に何か趣味を持たなきゃ」と考えたがヴァイオリンを弾くことしか思い当たらなかった。


 丁度、自転車やスケートを子供のときに覚えると、長い間乗らなくとも自然と身体が覚えている。外国語は10歳くらいまで外国にいてマスターしても、ずっと話す環境にいなければ、大人になって聴くことも話すことも忘れてしまう。専門家でないので解らないが、脳の記憶システムが違うからなのだろう。不思議である。


 楽器も歳をとってから覚えると、その後長い間弾いていなくとも弾くことはできる。しかし、若いときに覚えた自転車でも、暫らく乗っていないと、若いときのようには乗れない。人ごみの中や細い道をスイスイとはいかない。楽器も同じだ。


 妻のノッコが結婚して以来35年以上も離れていたチェロを近くの先生について再開し始めた。私も35年以上ヴァイオリンと離れていた。私と同じくやめていた友人達も、中年を過ぎ、埃をかぶっていた楽器を引っぱりだして再開し、皆でアンサンブルをつくって楽しんだ。


遠い夏に想いを-35  再開に当たって新作楽器を手にいれ、現在、老骨に鞭打って何とか弾いている。35年のブランクと筋力の低下は計り知れない。大学時代の仲間7~8人で始めたアンサンブルが、上手な後輩が参加してくれて、今では50人以上のオーケストラになった(写真は練習準備中の仲間たち)。


 若い頃のように気合で何とかなる歳ではない。集中力も、視力も、肉体的にもハンデを負っている。上手くならないが、まあ楽しめればいいと思っている。


 歳をとってからヴァイオリンを始めた皆さんも楽しむことを第一に続けてください。きっと、あなたの人生の宝ものになるでしょう。


 ドイツにプロの音楽家だけの老人ホームがあるらしい。テレビで見たことがある。年老いて歩くのがやっとというおじいちゃんがおばーちゃんのピアノ伴奏でヴァイオリンを弾いてみせた。彼の弾くベートーベンのト長調のロマンスは枯れた小枝のように震えていた。だが、曲の表情には陰影と味わいがあり、とても興奮したのを覚えている。


 私の弾くモーツアルトはモーツアルトになっていないが、それでも構わない。モーツアルトが大好きだし、彼のソナタは40曲以上ある。


 その昔、シモン・ゴールドベルク(ユダヤ系)とリリー・クラウス(ユダヤ系)の弾くモーツアルトはレコードで聴くだけだが素晴らしかった。やはりレコードだけだがクララ・ハスキル(ユダヤ系)とグリュミオーのコンビのモーツアルトも大好きだった。モーツアルト弾きの名手と呼ばれる演奏家がいた。モーツアルト演奏にはスペシャリストが必要だ。現在ではヘブラーとかピリスが弾くモーツアルトのピアノ曲には華麗さと軽妙なタッチと輝きがある。


 モーツアルトのレコードの埃を払いながら、過ぎ去った少年の日に想いを巡らしていた。


 Viosan の「ミネソタの遠い日々」
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遠い夏に想いを-ベートーベン  ある日、書棚の整理をいていたら、古い仏語の語学レコード集と古いモーツアルトのSPレコードに古いベートーベンの弦楽四重奏曲全集のLPレコード(今はないバリリー四重奏団)が奥から埃をかぶって出てきた。このモーツアルトのレコードには特別な思い出があった。




 ところで、歳をとってからヴァイオリンを始めた皆さん、何がきっかけでヴァイオリンを選びましたか?
 *何となく、ヴァイオリンが気に入っていたから。
 *好きな演奏家がいたから。
 *友達がヴァイオリンを弾いていたから。
 *家に大人用のヴァイオリンがあったから。
 *メンデルスゾーン、ベートーベン、ブラームス、

  チャイコフスキー、 などのヴァイオリンの名曲が好きだったから。


 理由を挙げたら、きりがないでしょうが、私がヴァイオリンを始めたきっかけは、多分、他の人達と少々変わっていたと思う。


 最初、ピアノを習いたかった。しかし、実家はクラッシクなどまるで縁のない商家だし、戦後間もない頃ではピアノのような高価なものを買う余裕もない。姉がドイツ系のミッション・スクールに通っていたので(と言っても我々はクリスチャンではない)、彼女が時々口ずさむシューベルトの歌曲くらいがクラッシクと縁がある程度だった。


 中学3年生のある日、レコード店の前を通ったら、何とも美しい曲が流れてきた。余りに綺麗な曲なので、お店に入り曲名を店の人に尋ねた。
「モーツアルトのヴァイオリン協奏曲5番だよ」
という答えが店の主人から返ってきた。


遠い夏に想いを-モーツアルト1  急いで家に戻り、貯めてあった小遣いを握り締め、再びレコード店に急いだ。そして重いSP盤のレコード4枚アルバムを抱えて家に急いだ。それ以来モーツアルトは私の大好きな作曲家となった。演奏はゲオルク・クーレンカンプというドイツのヴァイオリニスト。


遠い夏に想いを-モーツアルト2
 ヴァイオリニストにはどういう訳かユダヤ系の人が圧倒的に多い。名ヴァイオリニストの90%近くはユダヤ系と言っても過言ではない。

 クライスラー、ハイフェッツ、エルマン、メニューヒン、オイストラフ、コーガン、シェリング、ミンツ、ミルシュタイン、スターン、パールマンなど例を挙げたらきりがない。戦争中はナチス・ドイツがユダヤ人芸術家を国外に追放したので、唯一ドイツ人のクーレンカンプをドイツの名バイオリニストとして売り出すしかなかった。しかし、モノラルからの復刻版のCD(残念ながらモーツアルトではなくて、ブラームスのソナタだが)を聴くとやはり素晴らしいと思う。


 私が好きな演奏家にイスラエルのギル・シャハムという人がいるが、彼がヴァイオリンを始めたのは7歳で、10歳の時エルサレム交響楽団と競演している。7歳とうのは少々遅いみたいだが、驚くべき天才少年だったのだろう。ユダヤ人には特別の音楽的才能があるのかも知れない。


 それ以来ヴァイオリンの魅力に取り付かれ、どうしてもヴァイオリンが欲しくなる。そして、親と交渉の末ヴァイオリンを遂に買ってもらった。スズキの安いヴァイオリンだったが、懸命に練習した。


 当時、日本には戦後海外から戻ってきた諏訪根自子がいた。美貌の天才女性ヴァイオリニストだった。地方都市ではクラッシクの演奏会は殆どないし、聴きに行く機会もない。


 中学3年生の1年間、高校で2年間(受験で3年生の時と浪人時代の1年間は休止)。大学に入ってドイツの楽器を買い求め、大学のオーケストラで4年間、大して上手にならなかったが、あわせて7年間弾いた。


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遠い夏に想いを-モーツアルト  モーツアルト一家が1763年8月、モーツアルトが7歳の時に、大ヨーロッパ旅行に出かける。












遠い夏に想いを-市役所  旅の途中に、初めてフランクフルトを訪れている。モーツアルトの父レオポルドは「レーマーについては、私はもっと違ったものを想像していました。広場についても、議事堂についても何も申し上げる必要はないでしょう」と手紙でザルツブルグの家主に書き送っている。これが何を意味するのか難しいところだが、神聖ローマ帝国皇帝の戴冠式をとり行うには、余りにも貧弱な広場であり、建物だと思ったからだろうか。


 フランスの歴代の国王が戴冠式をおこなって来た場所として、ランスのカテドラルがあるが、遥かに壮大な建物なのだ。イギリス国王が戴冠式をおこなうウェストミンスター・アビーも遥かに立派である。


 ヴォルフガング・モーツアルトは晩年の1790年に、レオポルド2世の神聖ローマ皇帝への戴冠式の際に演奏会を開催するために、フランクフルトにやってくる。しかし客が集まらず、予約演奏会は大失敗に終わる。


 だが、この一家の西方への大旅行の際には、フランクルフトで、計4回の演奏会を催している。神童ヴォルフガングと天才少女姉のナンネルの演奏会は市民の大評判であったらしく、滞在を延ばして演奏会を4回もおこなっている。演奏会と言っても、現在の劇場やホールのような場所ではなく、金持ちや貴族の私邸の広間での開催だから、人数も40人以下だろう。しかし、晩年のモーツアルトを思えば嘘のように華やかな出来事である。


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 神聖ローマ帝国って何だろうか。神聖ローマ帝国については高校の世界史で習う。私は世界史が大好きだったけれども、ひとつピント来なかった。


 古代ローマが崩壊して、キリスト教がその後を引き継ぎ、東西ローマ帝国をつくったのは知っている。自分たちの武力で東西ローマ帝国を維持できなくなると、ヨーロッパを統合するのに力の強い王様に任せるしかない。神聖ローマ皇帝は10世紀の中頃のドイツ王オットー1世が初めらしい。


 フランクフルトは『フランク族の浅瀬』がそもそもの意味らしい。ここではカール大帝が顔を出す。8世紀のこの王様はヨーロッパ中にその足跡を残しているかのようだ。


 そう言えばフランスもフランクの文字が入っているし、シャルル・マニュー(シャルル大帝)と尊敬されている。もともとフランスのカロリング王朝の出だからフランス王なのだ。カール大帝はローマ皇帝になった。当時のヨーロッパの地図は現在のものとは違う。フランク王国は9世紀の中頃まではヨーロッパの中心部にあって、領土を拡大して行く一大王国であった。だから神聖ローマ皇帝も意味あがあった。フランク王国を治めていればヨーロッパを統治していることになる。


 鎌倉時代の「将軍家」(神聖ローマ皇帝)が「天皇家」(ローマ教皇)に許可をもらって日本(ヨーロッパ)を統治するに等しいのか。その後、ヨーロッパが分裂・変遷し、ヨーロッパの一国が諸国を統治することが現実的でなくなった。


 9世紀の中頃には神聖ローマ帝国も名目的で形骸化して存在したようにしか思えない。神聖ローマ皇帝はその後ボヘミア(今のチェコ)のカール4世からオーストラリアのハプスブルグ家へ変わってゆく。神聖ローマ帝国はゲルマン民族諸国家を統合するに過ぎない。たとえ、ハプスブルグ家はスペインを含め、南米大陸まで地域を広めたがだ。しかし、宗教改革が起こり、プロセインが強大化してくるから、それも益々形骸化してしまう。


遠い夏に想いを-市庁舎

 そのカール大帝がフランクフルトでフランク族の大会議を開いたらしい。神聖ローマ帝国はそれ以来綿々とナポレオンの出現まで続く。それまでは神聖ローマ帝国の王様はレーマー広場で戴冠式を行ってきたのだ。由緒ある広場には違いない。(写真はレーマー広場にある旧市庁舎、2階に皇帝の間がある)


 歴史を大切にするヨーロッパの人達は、戦争なんぞで破壊されようと、再び元通りにしてしまう。これは生易しいことではない。文化的に断絶が起こらないし、民族のアイデンティティにもなる。


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