神聖ローマ皇帝 - 017 | 遠い夏に想いを

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 神聖ローマ帝国って何だろうか。神聖ローマ帝国については高校の世界史で習う。私は世界史が大好きだったけれども、ひとつピント来なかった。


 古代ローマが崩壊して、キリスト教がその後を引き継ぎ、東西ローマ帝国をつくったのは知っている。自分たちの武力で東西ローマ帝国を維持できなくなると、ヨーロッパを統合するのに力の強い王様に任せるしかない。神聖ローマ皇帝は10世紀の中頃のドイツ王オットー1世が初めらしい。


 フランクフルトは『フランク族の浅瀬』がそもそもの意味らしい。ここではカール大帝が顔を出す。8世紀のこの王様はヨーロッパ中にその足跡を残しているかのようだ。


 そう言えばフランスもフランクの文字が入っているし、シャルル・マニュー(シャルル大帝)と尊敬されている。もともとフランスのカロリング王朝の出だからフランス王なのだ。カール大帝はローマ皇帝になった。当時のヨーロッパの地図は現在のものとは違う。フランク王国は9世紀の中頃まではヨーロッパの中心部にあって、領土を拡大して行く一大王国であった。だから神聖ローマ皇帝も意味あがあった。フランク王国を治めていればヨーロッパを統治していることになる。


 鎌倉時代の「将軍家」(神聖ローマ皇帝)が「天皇家」(ローマ教皇)に許可をもらって日本(ヨーロッパ)を統治するに等しいのか。その後、ヨーロッパが分裂・変遷し、ヨーロッパの一国が諸国を統治することが現実的でなくなった。


 9世紀の中頃には神聖ローマ帝国も名目的で形骸化して存在したようにしか思えない。神聖ローマ皇帝はその後ボヘミア(今のチェコ)のカール4世からオーストラリアのハプスブルグ家へ変わってゆく。神聖ローマ帝国はゲルマン民族諸国家を統合するに過ぎない。たとえ、ハプスブルグ家はスペインを含め、南米大陸まで地域を広めたがだ。しかし、宗教改革が起こり、プロセインが強大化してくるから、それも益々形骸化してしまう。


遠い夏に想いを-市庁舎

 そのカール大帝がフランクフルトでフランク族の大会議を開いたらしい。神聖ローマ帝国はそれ以来綿々とナポレオンの出現まで続く。それまでは神聖ローマ帝国の王様はレーマー広場で戴冠式を行ってきたのだ。由緒ある広場には違いない。(写真はレーマー広場にある旧市庁舎、2階に皇帝の間がある)


 歴史を大切にするヨーロッパの人達は、戦争なんぞで破壊されようと、再び元通りにしてしまう。これは生易しいことではない。文化的に断絶が起こらないし、民族のアイデンティティにもなる。


 Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学へ留学した記録のホームページにもどうぞ