モーツアルトで話が脱線してしまった。これからも時々脱線すると思うのでご辛抱願います。
レーマー広場のインフォメーション・センターに立ち寄り、街の音楽会について訊いてみた。
受付には女性が2人いて閑そうだった。奥にいた女性がやって来たので訊いた。
私の質問に彼女は頭を抱えている。
「市立劇場は、えーと、なんだったけ、イタリアの出し物ね」
「リゴレットですよ」
「ああ、それ」
なんだ、知ってんじゃないのって顔をする。
「いや、オペラじゃなくて、何かリサイタルはないですか」
「えーと」
資料のページをめくっている。
「ブラームスとシューマンの室内楽が・・・教会で7時半から」
「・・・教会って、どうやって行くのですか」
すっかり方向感覚を失って自信を喪失していたので、少ししつこく聞いた。
地図を広げて色々説明してくれたがさっぱり要領を得ない。地図を貰って出て来たが、探すのは無理だろうと諦らめてしまった。
私たちは昔からオペラに殆ど関心がない。初めてオペラに接した昔の思い出がある。
1956年イタリアオペラの東京公演が初めて東京宝塚劇場でおこなわれた。演目はアイーダ。大学生になったばかりで、オーケストラ部の学生達が練習用のトラにかりだされた。ヴェルディのアイーダはご存知のように大勢のエキストラが舞台にのる。準備段階の練習だから員数あわせだ。これ一回だけのエキストラだったが、面白い経験をした。
それでも、オペラには関心がわかなかった。生涯でオペラを鑑賞したのはドニゼッティの「愛の妙薬」とモーツアルトの「魔笛」だけだ。両方とも海外の歌劇団だった。しかも、友人や親戚が「切符はあるのだが、急用で行かれなくなったから」という理由だった。
日本でオペラが根付かないのが一因でないかと思う。親戚には音大の声楽の教授だった人や、プロのメゾソプラノ歌手もいるのだが。日本にはコンサート・ホールはあるが、オペラ専用のオペラ座がない。ヨーロッパには各街々に大なり小なりオペラ座がある。指揮者も全員オペラ座を経験して成長する。日本ではコンサート中心の指揮者だ。若手指揮者は彼らのアシスタントをしながら育ってくる。大きな違いである。
Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学へ留学した記録のホームページにもどうぞ