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遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 時々、雨が止み、雲が切れて空から日が射して来たりと、希望を持たせる一日が始まった。駅のコインロッカーにキャリー・バッグを2個入れ、4マルクを入れて鍵をする。今度は、案内所に行ってザルツブルグまでの普通列車の切符を買った。クレジットカードが使えるので便利だ。一日に.35本くらいザルツブルグ行きがある。我々の乗る汽車は3時37分発。それまで6時間くらいは見て歩ける。


 今日は中央駅から旧市内のマリエンプラッツまで地下鉄のUバーンで行くことにする。乗っている時間はアッと言う間だが、雨が降ったり寒い日などは大変便利だ。外に出ると、ノッコが言った。
「あら、さっきの人達」


遠い夏に想いを-旧市庁舎  ホテルで会った女の子達がこちらに歩いてくる。
「やあ、また会いましたね。ところで、どちらから来たのですか」
「群馬からです。さっきは助かりました」
「よくあることです。以前、我々もパリで同じような経験をしたことがあります」
「英語は出来ると思ったのですが、突然、パニック状態になって、全然言葉が出てこないんです」
「女性だけの旅でしょうから、くれぐれも気を付けてください」
そして、名前も訊かず、旧庁舎の前で別れた。


 Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学へ留学した記録のホームページにもどうぞ

 係りの男が説明を始めた。
「判りました。ただし、実状はこうです」
理由が判れば簡単なことだが、理由が判らないとホテル側に騙されたと思っても仕方がないだろう。


 外国を旅行していると、情報が的確に伝わらないことがよくある。この子達の場合もそうだ。日本を出発した後に、ミュンヘンで宿泊する予定の第2のホテル側に何らかの事情が起こり、宿泊不能を通知したらしいのだが、彼女達と連絡が取れない。旅行代理店を通じて前泊のホテルを探したらミュンヘンのゾリンだったので、ゾリンに宿泊の継続を依頼したという訳だ。この件につては、そのホテルからゾリン宛のファックスが残っていたので読まして貰った。そして、女の子達に一字一句訳してあげた。ファックスが英語で書いてあったので助かったが、ドイツ語だったらどうにもならなかったかも知れない。


「じゃあ、ホテルを移らなくとも、あと2日間このホテルに泊まってもいいのですね」
「係りの男は保証すると言っています。クーポンもこちらのホテルで取っていますし」
「返してくれない理由がわかって助かりました」


 こんなことは、よくあることだ。我々もパリのホテルに到着して、チェック・インしょうとしたら、係りの女の子が空き部屋がないと言う。宿泊客の男がもう一日宿泊を延長すると言って、出て行かないのだと言う。別のホテルを紹介してくれて決着がついたが、英語も仏語も話せなければ、万事休すである。


 困った時は、お互いさまだ。小雨模様のパウルヘイセ通りを、荷物をころころ引いて歩きだした。


遠い夏に想いを-st.paul church

 ホテルを出て直ぐの通りの奥に大きな寺院が見える。聖パウロ教会だ。但し、20世紀の初めに完成し、第二次世界大戦でも破壊され、1960年には航空機が離陸して高度が足りず、この塔に激突して、50人以上の死者がでたと言う、不幸な寺院である。堂内は殆ど見るべきものがないというので、素通りして駅まで歩いた。


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遠い夏に想いを-hotel tea lounge  2階のレストランで朝食をとってから、身支度をし、チェックアウトのために荷物をもって1階へ降りた。ティーラウンジで紅茶を飲んでから、フロントへ行った。
 ホテル代金はキューポンで到着した時に支払ってあるから、チェックアウトは大抵領収書の発行だけだ。
 日本の女の子が2人、何かもめごとなのか、背の高い係りの男と話している。我々がチェックインした時と同じ男だ。彼等の話はかみ合っていない。我々は急ぐ旅でもないが、チェックアウトして出て行こうとした。
「日本人の方ですか」
突然、後ろから声をかけられた。
「はあ...」
「英語できますよね」
2人の女の子の1人が訊いてきた。
「はあ...少しは...」
「話しが通じなくで困っているのです」
「はあ、どうしました?」
 フロントへ戻った。たまたま観光客が出払った後なので誰もいなかった。
「私達、ミュンヘンで4泊する予定なんです。このホテルで2日、別のホテルであと2日。それでチェックインした時にクーポンを渡しました。別のホテルの分も一緒に取られて、チェックアウトする時、返すからと言われたのです。でも、今日になって、どうしても返してくれないのです」

 24歳くらいの女性2人旅らしいが、困り果てた様子だ。
 彼女に言われた通りのことを係りの男に話した。それ以外の事情は判らないから、係りの男がその辺の事情と理由を説明するだろう。


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 今朝も変わり映えのしない空模様で、曇ったり、小雨が降ったりの天気だ。昨日は殆ど一日無駄に過ごしたので、今日一日しかミュンヘンに滞在しない。最初の予定では、今日はちょと足を伸ばして、ニンフェンブルグに行く筈だったが、行けたらという程度だから諦らめはつく。


 モーツアルトは7歳の時に、ニンフェンブルグに呼ばれて、選帝侯の前で演奏をしている。所謂、西方への大旅行と呼ばれる旅の途中に、ミュンヘンに立ち寄った時のことである。


 父のレオポルドのザルツブルグに当てた手紙には、長い時間待たされてニンフェンフルグの庭を散歩したとしか記述がないが、レオポルドがいらいらしながら庭を行き来してる様子が目に浮かぶようだ。


 12歳になる姉のナンネルが綴った日記には、この離宮のことが書かれている。「ミュンヘンで、私はニンフェンブルグのお城とお庭と4つの御殿、・・・・・を見学しました。アマーリエンブルグの御殿が一番綺麗で、・・・・」(海老沢敏訳)。


 本来バロック様式の夏の宮殿として17世紀に建てられた城だが、その後ロココ様式の装飾が加わった。かの有名なバイエルン国王ルートヴィヒ2世が生まれた城である。綺麗なお城だろうなと想像してしまう。


遠い夏に想いを-ニフェンブルグ
 市電で20分くらいで行ける距離だが、時間がなくて行けなかったので、イタリアの画家 カナレットが18世紀に描いた城の絵を載せておこう。


 今日の予定は、4時頃の汽車でザルツブルグへ着けばいい。それまで、旧市内を廻るとにする。


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 今晩は外に行くのは止めて、ホテルのレストランへ行くことにした。朝食をとったレストランは2階にあるが、本格的なレストランは1階にある。6時半に予約をとり降りていったら、客は2組くらい、大変空いている。


遠い夏に想いを-レストラン2  クリーム色の壁に、ダークグリーンの縁取り、薄いピンクのテーブルクロスにえんじ色の椅子。ゆったりしたテーブルの配置。コーナーには上に向けて照明が周りを間接的に照らしている。あちらこちらに大きな花瓶が置いてあり、色とりどりの花がいけてある。各々のテーブルにはバラが一輪挿しに挿してある。残念ながらこれは造花だが、そんなことを気にさせない室内の雰囲気は素晴らしい。


 すらりと背の高いボーイがメニューを持ってきた。身のこなしがいい。イタリア・レストランだからメニューにはイタリア料理しかない。ドイツやオーストリアやイギリスのイタリア料理は気を付ける必要がある。ロンドンなどではイタリアからの移民がレストランを開いていて、地方のお国自慢の料理を出すこともあるからまだいい。


 ところが、ドイツやオーストラリアではパスタはふにゃふにゃだから避けた方が無難だ。メニューはドイツ語だけなら困るがイタリア語でも書いてあるから助かる。選んだのはイカの料理。ドイツでイカ料理が食べられるなんて、想像もしていなかった。イタリアでは北部の山岳地帯を除いて、海産物は日本とおなじく何でも食べる。このイカ料理は素晴らしく美味しかった。用心してパスタは食べなかったが、多分美味しいパスタを出すのではないか。


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