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遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 当時お金がないから、レストランには滅多に入らなかった。その昔、たまたまウイーンで入ったレストランも、やはり発見できなかった。


遠い夏に想いを-メニュー  1972年の時も、レストランの思い出はやはり言葉に関係があった。シュテファン教会の近くに小さなレストランがあった。入り口の外壁にはゴシック文字で手書きのメニューが出ていた。


 貧乏旅行だから、いつもパンはパン屋で、ハムは肉屋で、サラダ類の野菜は八百屋でという風に、手を掛けなくとも食べられるものを買い集めて、ホテルや民宿で食べることにしていた。そのために簡単な食器は持ち歩いていた。


 しかし、余りにひもじい思いをするのもいけないと思い、各国に一度くらいは、安レストランで夕食をとることにしていた。ドイツ語のメニューを見てもかいもく解らない。言葉だけでなく、料理もイメージが湧かない。諦らめようと思って、再度、見ていたら『ウインナー・シュニツェル』という言葉が読み取れた。
「みんな、ウインナー・シュニツェルでいいかい」
「ウインナー・シュニツェルって何?」
息子のチャオが訊く。
「うーん、牛肉のフライみたいなやつだ」
何たって、ウイーンに来て知っている料理はウインナー・シュニツェルだけだし、ウインナー・シュニツェルなんて日本に帰ったら食べられないこと間違いないのだから、有無言わさず3人ともウインナー・シュニツェルに決定した。


 レストランの店内は意外と広くて、奥行きがあった。奥の席に行き座った。時間が早かったせいもあって、客は私達以外に二組、男女が一組と、男の客が4人中央のテーブルに陣取っている。


 暫らくして、ウエイトレスがやって来た。日本人が、と言うよりもアジア人がこんなレストランに来ないのだろうか、いぶかしげに対応する。我々の知っている料理はウインナー・シュニツェルだけだが、一応出されたメニューに目を通す。
「ウインナー・シュニツェル、3つ」
そう言って、3本指を出す。
ウエイトレスは、にこりともしないで、そのまま調理場に戻ってウインナー・シュニツェルのオーダーを入れている。


 Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学(University of Minnesota)へ留学した記録のホームページにもどうぞ

 そもそも、ドイツ語が3人とも解らないので、英語、フランス語、イタリア語が通じない国には行かないつもりだったが、音楽とウイーンとは切っても切り離せないので、止むを得ず来てしまったのだ。


 民宿の主人は英語が達者なおじいさんで苦労はなかったのだが、次の日になって、おじいさんは出かけてしまい、おばーさん一人が民宿で留守番することになった。さあー、大変だ。おばーさんはドイツ語しか話さない。おばーさんは昔話に出てくるおばーさんそっくりだ。丸い金縁のメガネをかけて、背が小さくて、小太りで、ニコニコ微笑んでいる姿は何とも微笑ましい。


 私達はドイツ語が全く出来ないので、単語を20個ばかりドイツ語でどう言うのか聞いてみた。殆ど食料品であったので、私達を台所に連れていって、冷蔵庫を開け一つ一つ指差してドイツ語で教えてくれる。


 そして、いつの間にか立ち話になった。おばーさんはドイツ語しか解らない。私達はドイツ語が解らない。おばーさんは私のスエットシャツ(大学名が入ったのを着ていだ)の「Minnesota」という刺繍に目をやって、ミ…ネ…ソ…タと読んだ。「Minnesotaって何かね?」と訊くから、「アメリカの州の名前で、そこの大学で勉強してました」と答えた。そして、おばーさんはどんどんドイツ語で話し始めた。抽象的な話しだから、コミニュケーションが可能だろうかと疑ったが、手真似足真似で言いたいことを喋る。ところが或る程度通じるから、不思議である。


遠い夏に想いを-Minnesota
<1972年にローランド家族に合いにイギリスのバーミンガムを訪れた時。当時ヒッピーの全盛時代で、髪も長髪だった。ここをクリック してください >


 おばーさんのお嬢さんが結婚してアメリカのミシガン州に住んでいると言う。旦那さんは弁護士だそうだが、ミシガンはミネソタと離れているのかと聞くから、近いと手まねで答えると、そうかと、お嬢さんに逢いたいなという。更に、ウイーンのことについて話している.
じっと聞いていたチャオが下から見上げながら英語で言う。
「パパ、なんで英語喋っているの? 通しないんだから日本語だって同じじゃない」


 まさに、真実だ。7歳の子供にしてやられてしまった。しかし、外国に2年もいると、通じようが通じまいが、外国人と向き合うと自然と英語になる。しかし、同じヨーロッパ語族の言葉で話しているから、単語だけでも30%くらい類推出来るので、日本語だとこうは行かないだろう。


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遠い夏に想いを-シュテファン05  1972年に休館日だったモーツアルトのフィガロハウス詣では長い年月の後に終了した。シュテファン・プラッツに戻って、夕暮れが迫るまでの間に何が出来るか考えた。ここの広場はこの街の中心であり、出発点であるから、昔の記憶もここを基点につながっている。<右はシュテファン教会の一部>


 さて、72年に泊まった民宿は何処か、つまらない事に拘るのである。72年の8月末に3ヶ月間住んだパリを発ち、ジュネーブに立ち寄ってウイーンにやって来たのだ。泊まるところは着いた街の空港の案内所で紹介してもらっていた。ウイーンの空港では、予算を言って頼んだのだ。


「いや、もっと安い料金で良いところを紹介してあげよう。場所もシュテファン教会に近いし、民宿だけど、構わないかね」
ホテル案内所の痩せた年配の男が笑顔で紹介してくれた民宿があった。当時、日本でも民宿は流行っていた。この頃は、貧乏旅行だったから、ペンションかホテルでも、いわゆる星のないクラスしか泊まれなかった。


遠い夏に想いを-ケルントナー
<ケルントナー通り>

 そのウイーンの民宿の場所をどうしても思い出せない。シュテファンから歩いて5分とかからなかったと思う。繁華街のケルントナー通りとは反対の地区だと思うのだが、北なのか東西なのか判らない。とにかく西に歩くことにした。角が三角形で、その角が映画館で、その左側の並びに民宿があった。白い石造りの建物が続き、その中の一軒の所有者が民宿にしていたらしい。だが、住所が判らずに歩き回っても結局見つけ出すことは出来なかった。


 今は所有者が変わっていて民宿もやっていないと思うのだが、「ここだったね」と確認はしておきたかった。シュテファンの直ぐ近くだったと思うのだが、結局、何処だか判らなかった。


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遠い夏に想いを-シュテファン外  暗い堂内から外に出ると、眩しい日差しで目が眩む。秋とは言え、今日は珍しく好天である。この近くにモーツアルトか絶頂期の1784年から4年間住んでいたフィガロハウスがある筈だ。シュテファン教会から3~4分歩いたドムガッセという細い小路にある。










遠い夏に想いを-フィガロハウス02
<上は1972年の訪問時の写真>

遠い夏に想いを-フィガロハウス01  ここには我々も1972年のウイーン訪問の際に訪れているのだが、残念なことに月曜日で休館日であった記憶がある。当時は建物の通りに面した壁はこんなに黄色に塗ってなかった。4半世紀過ぎて、フィガロハウスも何か変わったのだろうか。階段を昇って2階へ入る。モーツアルトが住んでいた頃から250年もたって、当時の面影は殆どないと思う。遺品もザルツブルグのモーツアルトの生家に比べてもかなり少ない。




遠い夏に想いを-フィガロハウス03  ここの2階の全部屋を借りて、コンスタンツェとともに住んで、どのような毎日を過していたのだろうかという想いが脳裏をかすめる。16歳のベートーベンが初めてウイーンに出て来た短い期間にここを一度訪れている。モーツアルトの前でピアノの演奏している。最初は自分の作品を披露し、その後モーツアルトの要望で即興演奏したらしい。モーツアルトはこの事に関しては、間接的な言い伝えだけで、直接言い残していないが、やはりベートーベンの天分は見抜いていたと思う。本当の天才は自分の才能だけでなく、他人の才能を見抜く才能も備わっているものだ。ハイドンも訪れている。ハイドンセットと呼ばれる弦楽四重奏曲をハイドンに贈っているからだ。


 ここで作曲した「フィガロの結婚」はオペラブッファの見本みたいな作品である。モーツアルトはイタリアに行った時からオペラセリアでなくてオペラブッファを作りたいと言っていたらしい。


 イタリアのナポリで1736年に26歳の若さで亡くなったペルゴーレージが作った演劇の幕間に演じる短いお笑いコントが始まりらしい。彼の「奥様女中」は大成功を収めたのだが、男と女の2人の登場人物だけの掛け合いである。レシタティーヴォとアリアの繰り返しで、いまCDで聴くと曲としては面白いが、イタリア語の歌の意味が解らない。


 ペルゴレージはむしろ「スターバト・マーテル(悲しみの聖母)」が有名だ。弦楽器と通奏低音のバックでソプラノとアルトの歌手が歌う聖歌だが、何とも美しい曲だ。


 私のオペラ嫌いはこのオペラブッファの影響がある。今思えば、若い頃は真面目と言えば真面目だったに違いない。オペラに笑いを持ち込むとはけしからん、という想いだったのかも。


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 シュテファンの堂内は無骨な作りで暗い。ウィーンに来たせいだろうか、色々と当時の音楽家について考えてしまう。当時は同時代の音楽家しか知らないのではないのか。当時の音楽家が過去の時代の音楽家をどの程度知っていたのだろうか。


遠い夏に想いを-シュテファン堂内01
遠い夏に想いを-シュテファン堂内02

 例えば、モーツアルトは子供の頃ロンドンに行った時にはバッハの息子のクリスチャンに可愛がられ、大きな影響を受けている。イタリアに1770年の13才の時に初めて行っているが、1736年に亡くなっているイタリアの作曲家ペルゴレージや、それ以前のコレルリやパレストリーナとかモンテヴェルディの音楽を聴く機会があったのか、それとも名前くらい知っていたのだろうか。


 オペラが盛んなナポリも訪れているが、オペラを観劇したという記録はない。多分、聴く機会がほとんど無かったのではないか。彼自身タルティーニのことに付いては、「タルティーニ風の弾き方」といって少々軽蔑気味に言及しているから、バロック時代の装飾音符過多の演奏については好きでなかったようだ。1770年と言えばタルティーニが亡くなり、ベートーベンが生まれた年で、バロックから古典主義へ移り変わる象徴的な年である。


 ベートーベンだって同様である。バッハやヘンデルの名前は知っていても、彼らの作品の大半は知らずに終ったのではないか。モーツアルトやベート-ベンに助言を与えていた宮廷図書館長のズヴィーテン男爵の影響でモーツアルトはバッハのフーガに弦楽三重奏(K404)を作曲し、ヘンデルンの曲を編曲(K591~2)しているから、少しは関心があたのかも知れない。ズヴィーテン男爵はバッハやヘンデルを研究していた。


 レコードも放送も無い時代、あるのは演奏会と楽譜である。実際は演奏会を聞かなければ知るよしもない。そうゆう点では現代の方が演奏会だけでなく、レコードという音楽メディアの普及によって当時よりも広範囲に作曲家と作品を知ることが出来る。


 そんなことを考えながら、堂内を見まわした。教会の外観に比べ、堂内は印象に残るほどの作りではなかった。ただやたらと暗い印象だけが残った。


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