遠い夏に想いを -146ページ目

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 国立歌劇場の前には赤い上着を着てかつらを被ったモーツアルト・スタイルの男性達が通りを行く観光客にパンフレットを配っている。モーツアルトも所在不明の墓地で高笑いしているだろう。


遠い夏に想いを-リング
 さて、リングに出て、これを廻る方法を考えた。まず、電車に乗って一周する手もある。これはガイドブックの推薦ルートである。私はリングの内側の道を合同庁舎の前まで歩いて、今度はリングの外側の道を国立歌劇場の前まで歩く、という方法を取った。結局、大した時間がかからないのだから、電車に乗って一周するのが最も効率的だったろう。


 ウイーンは建築様式のまさに展示場の趣があるとモノの本に書いてある。夏の観光シーズンも終り、シュテファン界隈、ケルントナー通り、グラーベン以外は観光客が余りいない。


 リングには午前中とゆうこともあり、まるで人通りがない。東京ではまだ残暑が厳しい時期だが、ウイーンでは秋の日差しが心地よい。日本の街よりも建物が大きく、ブロックの幅も長いために遠近感が異なり、歩いていても思ったより時間がかかる。


 このリングはもともと城壁があった場所で、1858年から取り壊しが進められ、ほぼ14年間で広い通りに生まれ変わった。合同庁舎などの大きな建物はかっての城壁の外側に建っていることになる。これ等全ての建物は1858年以降に建てられたもので、様式が古く見えるが、150年くらいしか経ていない。


 Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学(University of Minnesota)へ留学した記録のホームページにもどうぞ

 今日はリングを一巡りしょうと言うことになった。天気は曇りがちだが時々太陽が雲から顔を出す。


 今のウイーンは、モーツアルト家族が1767年9月、モーツアルト10才の時に2度目にやって来た時期と同じである。


 『...ザルツブルグでも、当地(ウイーン)同様ずっと雨でしょうか。当地ではまったく嫌なほど降っていて、いっこうに止みません。』とレオポルドがザルツブルグに書き送っているが、ウイーンの9月と10月は、降水日の平均日数が年間を通じて最も少ない時期なのに、1767年の9月と今年の9月は特異月に違いない。


 というのは、1773年にモーツアルト親子が3度目にウイーンを訪れた時、帰郷の迫った9月中頃には、『もう当地では幾らか涼しくなり始めています。とりわけ朝晩がそうです』とか、『ずっと天気ですが、天気が続く内に帰郷できれば.....』とあり、晴天で気持ちのよい気候であった。


 朝食をとりに、一階に降りる。玄関ホールの左側はサロンになっていて、更にその奥はレストランになっている。逆L型にノイアーマルクト広場とケルントナー通りに面した明るくて小綺麗でモダーンなレストランである。セルフサービスなので自分で好きなものを自由にとって来てよい。


遠い夏に想いを-朝食堂01

遠い夏に想いを-朝食堂02

 もともと、みな朝食込みの料金なので大変混雑している。日本のホテルでは、朝食付きというと、ホテルのレストランでなく、ヴァイキングとか言って、宴会場を臨時に使うケースが多く、何か暗い殺風景な朝食になりがちだが、ここはレストランで明るく賑やかである。朝食込みでなければ、別料金を払ってルームサービスを利用すればよい。


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 第一ヴァイオリンはイザベル・フロリーという女性ヴァイオリニストで、女性にしては少々粗っぼい演奏だが力はある。4人の演奏はどうみてもフランス的とは言い難い。繊細さに欠ける。

遠い夏に想いを-プログラム
 ハイドンの76の2というのは、通称「五度」という名で呼ばれるポピュラーな曲である。短調で始まり、かなりの緊張感が要求される。ハイドンとしては重厚な曲で、モーツアルトの弦楽四重奏を連想させる。第一ヴァイオリンが時々粗っぽっくなるが、リズム感とアンサンブルはなかなかいい。


 次の曲はモーツアルトの曲だ。ハイドンセットは14番から19番まで6曲あり、この曲は5曲目の18番でK464の弦楽四重奏曲になる。ハイドンセットと呼ばれる6曲の弦楽四重奏曲は勿論ハイドンに献呈されてこの愛称が付いている。モーツアルトは作曲が速い方なのだが、この一連の曲には相当の手間暇を掛けたらしい。何度も推敲して、1785年に完成する。17番「狩り」と19番「不協和音」とともにフィガロハウスで完成した。ハイドンに献呈する際、彼の前で演奏した時に、父のレオポルドも一緒にいて、ハイドンはレオポルドに「....あなたのご子息は、私が知る作曲家の中で最も偉大な作曲家です。 ...」と言ったと、レオポルドがナンネルへの手紙に書き送っている。


 モーツアルトが最も幸せの絶頂期にあった頃である。第一楽章は軽やかに始まる。三楽章の後半部で、チェロが少々コミックなタッチでポンポポポンとリズムを取り続ける部分が出てくる。これがなかなかいい。


 ベートーベンの四重奏曲は、作品74の通称「ハープ」と名の付いた第10番目の曲だ。ベートーベンの中期の作品だが、私はどうゆう訳か昔からこの曲がすきだ。1809年頃に書かれたのだが、この時期は、傑作が次々と生まれている。5番と6番の交響曲なども1808年に書かれている。第一楽章にポンポンポンと第一主題に合せてピチカートが軽やかに上昇してくる。丁度ハープの音のように連続して聞こえてくる。チェロから第二ヴァイオリンまで流れるようにピチカートを続けて行くのは結構難しい。この四重奏団はハイドンやモーツアルトよりベートーベンがいい。私の偏見かもしれないが、フランスの四重奏団としては珍しい。


 今夜は大満足の夕べだった。帰るのにも、ホテルが近いから便利だ。やっとウイーンの第一日が終った。


  アルペジオーネ・カルテットは1989年にエヴィアン・コンクールで受賞して以来、国際的キャリアーをスタートした。パリのソルボンヌを拠点とし、フランス国内やザルツブルグの音楽祭にゲスト出演、ロンドンやロスアンジェルスなどでも演奏し、これがウィーンでの初デビューとなる。


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 すっかり脱線してしまった。私達はシュテファンプラッツに戻って来た。もう時間は5時半を過ぎている。今夜は例のロブコヴィツ邸で音楽会が7時半からある。先に夕食を取っておかないと、食事を食べ損なうので、近くのセルフサービスのレストランに入り、簡単な夕食をとった。時間が早かったが、結構混んでいた。薄暗い店内では、アメリカ人の母親とよく喋る小さな娘、フランス人の若い男と女、ドイツ語で大きな声を張り上げているサラリーマンたち、その他大勢の客で賑わっていた。


 ホテルへ戻り、身支度をして出直す。ホテルの前のノイアーマルクト広場を横切って、通りを一本入ったところだから、大した時間はかからない。入り口の大きな木の扉は既に開けられていた。2階に通じる階段を昇るとホールの扉が見える。ホールの名前はエロイカ・ザール。少々早いので、ホールの前で待つことにする。


遠い夏に想いを-プログラム01  今日は、"Hommage a Beethoven"と題して、”アルペジオーネ・カルテット” というフランスの弦楽四重奏団の演奏である。扉が開いてホールの中に入った。左右に広いホールで、正面に窓があり演奏者用の椅子や譜面台が置かれている。客席は左右に並べられていて、約20席の椅子が5列に配置されている。100人位は入る。最近、東京でも小さなサロン風の会場で演奏会が開催されるようになったが、このエロイカ・ザールのような由緒あるホールで音楽が聴けるのは素晴らしい。


 このホールはその名の通り、ベートーベンの第3番の交響曲「英雄」が初演、と言うより、試演された場所なのだそうだ。試演といっても、弦楽5重奏で、ロブコヴィッツ候と数人の貴族を前にしての演奏だったらしいい。そしてこの交響曲はロブコヴィッツ候に献呈されている。


 今夜のプログラムはハイドンの作品76の2、モーツアルトのK464の18番、そしてベートーベンの作品74「ハープ」の3曲だ。


 この年の夏の音楽シーズンに「ベート-ベンに賛辞を」というシリーズで二日おきに色々な室内楽コンサートがロブコヴィツ邸、ラズモフスキー邸と国立図書館で開催されていた。


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 日本だと、まずコップに水をいれて持ってくるが、ヨーロッパではまずそんな習慣はないから手持ちぶたさである。フランスやイタリアなどでは水が不味いから、ワインを飲むのだろう。「食事時に水を飲むのは蛙かアメリカ人」などと当時は揶揄されたものだ。知らない街に来て、ことばも通じないと不安になり、何となく口をつぐんで黙ってしまう。


遠い夏に想いを-シュニツエル  目の前に出されたウインナー・シュニツェルは大きな皿からはみ出しそうなくらい大きかった。ただアメリカのステーキなどと違って分厚くなく、肉を薄く延ばした感じである。それに温かい牛肉料理などは久しぶりなので、じつに美味しかった。


 ウインナー・シュニツェルはその昔オーストリアが北イタリアを支配していたころに、イタリアからやって来たのではないかと思う。諸説があるが、ミラノ風カツレツを牛肉に変えて料理したとしか思えない。


 久しぶりの外食で、お腹いっぱいになって店を出ようとしたら、「水が欲しい」とチャオが言い出した。ここのレストランでは誰もドイツ語以外は解らないし、我々はドイツ語が解らないのだから、大変である。


 その頃はシュテファンの近くでも、英語が通じない安レストランが結構あった。民宿のおばあさんから冷蔵庫のなかの食料品の単語は習ってメモして置いたのだが、水は訊いていなかった。


 そこで、まず、単純に「ウォター、プリーズ」と英語で頼んでみた。通じない。仕方がないので、wの発音はvと同じだろう、自動車のワーゲンはワーゲンでなくてヴァーゲンだろう。そこで今度は、「ヴァーター、プリーズ」と言ってみたがやはり駄目だ。「ヴォウター」だ。「ヴァーラー」だ。と色々やたが、ヴァッサーというドイツ語が出てこない。まさにこれは「コーヒー」と言うように、単語だけだと文脈で推測できないのと同じだ。だがミネソタでの「コーヒー」の場合より、もっと始末が悪い。なにせドイツ語が判らないのだから。


 結局、諦らめて店を出ようと席を立った。民宿へ戻れば水くらい飲めるのだから、チャオもそれでいいと言う。すると、さっきのウエイトレスがコップに水をいっぱい満たして、中空に持ち上げ、「これか」と言うように我々に声を掛けている。「ヤー、ヤー」と言って、チャオに取りに行かせた。「ダンケシェーン!」これで知っているドイツ語は全部だ。


遠い夏に想いを-4人の男

 この様子を見ていた4人の男達はチャオに、こちらに来いと手招きする、工場労働者のようにかっちりとした両腕で功を抱きかかえ、「さあー、これを食べな、あれを食べな」と皿を突き出すが、チャオも腹一杯ウインナー・シュニツェルを食べた後なので、さすがにもう入らない。まるで小猫をあやすみたいに、もみくちゃにされて、やっと離してくれた。チャオはニコニコして、英語で遣り合っている。英語は通じないのだが、それでも英語が出てくる。我々に喋る時も、英語だった。


 チャオはどこへ行っても、物怖じせず、初めての人からも可愛がられた。全く、得な子である。子供を連れての旅だったので、そこの国の子供に対する優しさが手に取るように解った。この点、フランスは最悪であった。モーツアルトの時代でも同じだった。子供の頃の大旅行の際に、マリー・アントワネットに「ぼくのお嫁さんにしてあげる」と叫んだ時も、マリア・テレジアの膝に飛び込んでキスしてもらった。同じことをフランスの王女さまにやろうとしたら、こっぴどく叱られたという逸話が残っている。


 「アウフビターゼン!」と声をかけて店を出た。パリでも、ロンドンでも、フィレンツエでも、こうゆう安レストランでの思い出が私達には多い。


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