1972年に休館日だったモーツアルトのフィガロハウス詣では長い年月の後に終了した。シュテファン・プラッツに戻って、夕暮れが迫るまでの間に何が出来るか考えた。ここの広場はこの街の中心であり、出発点であるから、昔の記憶もここを基点につながっている。<右はシュテファン教会の一部>
さて、72年に泊まった民宿は何処か、つまらない事に拘るのである。72年の8月末に3ヶ月間住んだパリを発ち、ジュネーブに立ち寄ってウイーンにやって来たのだ。泊まるところは着いた街の空港の案内所で紹介してもらっていた。ウイーンの空港では、予算を言って頼んだのだ。
「いや、もっと安い料金で良いところを紹介してあげよう。場所もシュテファン教会に近いし、民宿だけど、構わないかね」
ホテル案内所の痩せた年配の男が笑顔で紹介してくれた民宿があった。当時、日本でも民宿は流行っていた。この頃は、貧乏旅行だったから、ペンションかホテルでも、いわゆる星のないクラスしか泊まれなかった。
そのウイーンの民宿の場所をどうしても思い出せない。シュテファンから歩いて5分とかからなかったと思う。繁華街のケルントナー通りとは反対の地区だと思うのだが、北なのか東西なのか判らない。とにかく西に歩くことにした。角が三角形で、その角が映画館で、その左側の並びに民宿があった。白い石造りの建物が続き、その中の一軒の所有者が民宿にしていたらしい。だが、住所が判らずに歩き回っても結局見つけ出すことは出来なかった。
今は所有者が変わっていて民宿もやっていないと思うのだが、「ここだったね」と確認はしておきたかった。シュテファンの直ぐ近くだったと思うのだが、結局、何処だか判らなかった。
Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学へ留学した記録のホームページにもどうぞ
