無骨で暗い堂内 - 037 | 遠い夏に想いを

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 シュテファンの堂内は無骨な作りで暗い。ウィーンに来たせいだろうか、色々と当時の音楽家について考えてしまう。当時は同時代の音楽家しか知らないのではないのか。当時の音楽家が過去の時代の音楽家をどの程度知っていたのだろうか。


遠い夏に想いを-シュテファン堂内01
遠い夏に想いを-シュテファン堂内02

 例えば、モーツアルトは子供の頃ロンドンに行った時にはバッハの息子のクリスチャンに可愛がられ、大きな影響を受けている。イタリアに1770年の13才の時に初めて行っているが、1736年に亡くなっているイタリアの作曲家ペルゴレージや、それ以前のコレルリやパレストリーナとかモンテヴェルディの音楽を聴く機会があったのか、それとも名前くらい知っていたのだろうか。


 オペラが盛んなナポリも訪れているが、オペラを観劇したという記録はない。多分、聴く機会がほとんど無かったのではないか。彼自身タルティーニのことに付いては、「タルティーニ風の弾き方」といって少々軽蔑気味に言及しているから、バロック時代の装飾音符過多の演奏については好きでなかったようだ。1770年と言えばタルティーニが亡くなり、ベートーベンが生まれた年で、バロックから古典主義へ移り変わる象徴的な年である。


 ベートーベンだって同様である。バッハやヘンデルの名前は知っていても、彼らの作品の大半は知らずに終ったのではないか。モーツアルトやベート-ベンに助言を与えていた宮廷図書館長のズヴィーテン男爵の影響でモーツアルトはバッハのフーガに弦楽三重奏(K404)を作曲し、ヘンデルンの曲を編曲(K591~2)しているから、少しは関心があたのかも知れない。ズヴィーテン男爵はバッハやヘンデルを研究していた。


 レコードも放送も無い時代、あるのは演奏会と楽譜である。実際は演奏会を聞かなければ知るよしもない。そうゆう点では現代の方が演奏会だけでなく、レコードという音楽メディアの普及によって当時よりも広範囲に作曲家と作品を知ることが出来る。


 そんなことを考えながら、堂内を見まわした。教会の外観に比べ、堂内は印象に残るほどの作りではなかった。ただやたらと暗い印象だけが残った。


 Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学へ留学した記録のホームページにもどうぞ