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遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 もとに戻ろう。プリンツ・オイゲン通りは左側が庭園の生け垣が続き、通りの中央に市電が走っていて、その反対側は所々に商店やレストランが並んでいる。太陽が顔を出たり、薄曇りになったりののどかな午前中だ。


遠い夏に想いを-オイゲン通り

 余りに遠いので、不安になり薬屋に入って、道を聞いてみた。もっと登って行きなさいと白衣を着た年寄りのおじいさんに教えられて、更になだらかな坂を登る。結構、歩くのがきつい。東京の渋谷の道玄坂くらいの坂道だろうか。


 途中、一軒のお土産屋を見つけたので店内に入ってみた。オーストリア風の織物などを扱っている。「土産に荷物にならないものがいい」とノッコが言うので、小さなテーブル・クロスを買った。


遠い夏に想いを-テーブルクロス
 店を出て、更に進むと、ベルヴェデーレ宮殿の正門の前に小さなイタリア風のトラッタリアが店を開ていた。昼には少し早いが、昼食にする。半地下の小さなレスランで、客は2組しかいない。メニューには『ニョッキ』とあるので、どうせ碌なものではないと思いながら注文した。17歳位の若い男の子が料理を造っている。少し時間はかかったが、出て来たニョッキの味は素晴らしかった。ウイーンでもこんなに旨いイタリア料理が゙こんな処で食べられるとは思いもよらなかった。家族間でイタリア語を話していたから、イタリアから来たのだろう。


 時々ヨーロッパにはこうゆう店があるものだ。ロンドンでもパスタ類はフニャフニャでイギリスお得意の茹ですぎ料理だが、イタリア移民の店では本格的なイタリア料理が食べれる。


 Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学(University of Minnesota)へ留学した記録のホームページにもどうぞ

 今日はベルヴェデーレ宮殿に行ってみる。プリンツ・オイゲン通りの緩やかな坂道を庭園に沿って登って行った。地図で見るよりもかなりの距離がある。1972年に来たときは庭園の下のレンヴェーク通りから入って来た。


<プリンツ・オイゲン通りを登ってベルヴェデーレ宮殿正門へ>
遠い夏に想いを-ヴェルヴェデーレ宮

 あの時は、ベルヴェデーレ庭園で偶然日本人のおばあさんに出会った。日本人が珍しい時代に、日本のおばあさんが一人で散歩している。
「日本の方ですか」
丁寧な日本語でおばあさんが聞いて来た。
「そうですよ」
「ご旅行でしょうね」
「ええ、アメリカに2年ほどいました。パリに暫くいて、いまイタリア、ギリシャ経由で帰国する途中です」


 「日本に帰るのですか。いいですね」
「もうこちらは長いのですか」
「1年ほどになります。娘と2人きりなのです。娘がピアノをやっていまして、ウイーンに留学することになって。東京で独り暮しをしようかと思ったのですが、娘が一緒に行こうと、東京の家を売り払って来たのです。こちらでは言葉も解らないし、友達もいなくて、毎日こうして一人で散歩に出るのです」

 私達はゆっくり歩きながら、庭園を一周した。
「私達もアマチュアですが、ヴァイオリンとチェロをやってました。もう何年も弾いていないですがね。でも、お嬢さんは目的があって来られたからいいでしょうが、奥さんは毎日一人で大変ですね。冬のウイーンは寒いようですから、お体に気をつけて下さい」
「有り難うございます」


<おばあさんがシャッター押してくれた当時の写真>

遠い夏に想いを-ベルベデーレ
 寂しそうにしているおばあさんに名前も訊かずに、そう言って別れたが、もう随分昔の話しだから、彼女も生きていれば90才を超えているだろう。もし生きていたら、どうしているだろうか。私達が彼女を思い出すように、彼女は我々を思い出してくれるだろうか。



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遠い夏に想いを-ドイツ館ホール  さて、ドイツ館のホールは20人程度の客で、サロン風の音楽会を催すには最適だが、40人も50人もの聴衆を入れてリサイタルをやる場所ではない。半地下の石室みたいな部屋なのである。


 しかし、小ホールだが音の反響とか合奏の音のまとまり具合は非常にいい。私達は早く来たので一番前の席に座った。8割くらいの入りである。


今日の演奏会は20代後半の若手の奏者による弦楽四重奏である。ベート-ベン・カルテットという4人で、第一と第二ヴァイオリンが女性で、ヴィオラとチェロが男性。この4人の中ではビオラがビロードのような素晴らしい音を響かせている。第一ヴァイオリンの女性は少し硬いが、しかりした音で、きちんとテンポを取って行くタイプ。第二ヴァイオリンの女性は上手いのだが、全く無感心という感じで譜面も見ないで弾いている。チェロはしっかりとした音で、マイペースと言ったところ。


遠い夏に想いを-プログラム  演奏曲目は盛りだくさんで、全部で4曲である。モーツアルトの初期の作品であるK157の四重奏曲で、イタリアのミラノで作曲された素適な曲である。ミラノ四重奏曲の6曲は全部4楽章でなくて3楽章しかなく、イタリアのコンチェロト・グロッソの形式をまねたらしい。ヴァイオリン協奏曲なども3楽章形式なのはコンチェロト・グロッソの名残だと言われている。だから、TVコマーシャルでも聞かれるK136~138のように、この曲はデヴェルティメントと呼んだ方が良いのかも知れない。


 2曲目は、シューベルトの作品125の1(D87)で、いわゆる10番の弦楽四重奏曲である。作風が若い時のものと異なるため後年の作と思われていた曲で、どちらかと言うと弾きやすい、楽しい曲で、家族が集まって弾くために作曲したものらしい。


 次は、ハイドンの作品で、作品17の2である。ハイドンは70曲以上の弦楽四重奏曲を残している弦楽四重奏の父みたいな作曲家だが、この曲は割と初期の作品である。


 最後は、ベートーベンの作品18の4で締めくくる。ベートーベンは16曲の弦楽四重奏曲を残しているが、作品18は初めて書いた四重奏曲で、誰にでも直ぐに親しめる曲ばかりである。それまではピアノトリオとか弦楽三重奏曲などを作曲していた。新米の作曲家として、先輩のハイドンとか他の作曲家と競合しないようにするためだと言われている。作品18は6曲あるが、18の4は短調の曲だが、不思議と暗さがなく、力強く軽快に始まる。


遠い夏に想いを-夜のシュテファン  演奏はまだ完成されていないが、今後が楽しみな楽団であった。演奏が終わって、暗い庭にでた。


 夜空にシュテファン寺院の塔が見えた。「モーツアルトも、当時、この夜空のシュテファンの塔を見ていただろうな」と思うと感慨深いものがあった。



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 シェーンブルン宮殿の庭園を歩いてみようと思ったが、夕暮れが迫っていた。庭を散歩したいが時間がない。歩くには広大過ぎる。


遠い夏に想いを-庭園
 シェーンブルン宮殿の黄色は石自体の自然色ではなく、ペンキを塗ってあるので、所々剥げ落ちている。近くで見ると少々みすぼらしい。


 今夜はドイツ館での弦楽四重奏の演奏会がある。街まで戻って、ホテルの近くのイタリア・レストランで夕食を取る。時間がないので、気軽な大衆的なレストランに入ったのだが、これが間違いの元だった。パスタはふにゃふにゃで、肉は味がないと来ているので、空腹を満たすだけになった。やはり、オーストリヤ風のレストランを捜さなければ美味しい物は食べられない。イタリア料理やフランス料理を食べるなら、イタリア人かフランス人のシェフがいる店でないと駄目だが、旅行者が探すのは難しい。


遠い夏に想いを-ドイツ館モーツアルト
 ドイツ館へは少し早く着いた。館内の白壁にはモーツアルトについてのプレートが掛かっている。『1781年3月16日から5月2日までモーツアルトが住んでいた』という内容だ。例の有名なアルコ伯事件があった時である。これを機に、モーツアルトはウイーンに移り住んで作曲活動に専念しようと決意する。


 当時、宮使えの音楽家が自立して作曲活動を決意するというのは大変なことであったろう。ヘンデルが後年イギリスで商業オペラの活動をしていたけれど、結局晩年は失敗してしまう。当時は、作曲家よりも、歌手に人気があり、特に、カストラートの言いなりの時代だ。モーツアルトの時代にも子供の頃はカストラートがまだいた。だが、オペラを上演するにはさまざまな妬みや妨害を受け、作曲が思うように出来ないこたが多かったらしい。


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 3時頃からは、シェーンブルン宮殿に行ってみる。カールプラッツ駅から地下鉄に乗って15分ほど行くと、シェーンブルン駅だ。


 1972年に来たときは地下鉄という便利な乗り物は開通していなかった。だから、バスに乗るしかなかったし、観光客には半日ツアーのような物しかなく、時間のない我々は諦らめざるを得なかった。


 日曜日のせいだろうか、シェーンブルン宮殿は観光客で賑わっていた。宮殿に入るのに長い列が出来ている。進み具合は順調で、直ぐに中に入れた。観光ルート別に料金が異なっており、我々は並みのコースをとった。


遠い夏に想いを-シェーンブルン
 現在の人気ナンバーワンはエリザベート妃だ。彼女のトレーニング・ルームだとか、トレーニング機器だとか、彼女のドレスだとか、色々と陳列されている。


遠い夏に想いを-鏡の間
遠い夏に想いを-モーツアルト  モーツアルトが第1回目の西方大旅行の折り、1762年にシェーンブルン宮殿の鏡の間で演奏した。モーツアルトがマリア・テレジアの膝に乗ってキスをしたというのは本当だと思う。そしてお土産に最礼服を貰った。マリー・アントワネットに『大きくなたら、ぼくのお嫁さんにしてあげる』と言ったのもこの時だった。


 子供を連れてヨーロッパを旅行してみて、国によって子供に対する接し方が違うのに気付く。子供に関しては、フランスは一番子供に厳しく冷たい。子供と大人を区別しない主義らしいが、大人の都合しか見えてこない。フランスでモーツアルトも高貴な王女の膝に駆け上がろうとして、こっぴどくたしなめられている。パリでオペール(女中)をしていた洋子さんと知り合いになったが、彼女も同じことを言っていた。家の大人は自分の子供達に対して厳格を通り過ぎて冷酷なくらい冷たく扱うので、見ていて可哀相だったと言っていた。今では国による育児保護政策が行き届いて、世界有数の出生率を誇る国になってしまったが。


 街の人たちも子供には無関心だった。オーストリアでもイタリアでもイギリスでもそんなことはない。みな優しいのだ。1972年の時は、ドーバー海峡を船で渡ったが、乗った連絡船では英国のおばさんも、イタリアのおばさんも、こちらのベンチに来なさいと息子のチャオに手招きしてくれたものだ。


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