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遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 さてこの棟を出て、反対側の階段を昇る。さっきの係員が「そっちは関係ないがね」と言っていたが、丁度上り切ると別の扉が開いて、年配のおばさんが鍵を持って出て来た。なんとタイミングが良いことか。中は大きな展示室になっている。


遠い夏に想いを-展示室1
 ベートーベンに直接・間接的に関係のある遺品の類が展示されている。中央に古いピアノがあり、ベートーヴェンが愛用したピアノと同じ頃に製作されたものと記載がある。周りには展示ケースが置かれ、自筆の楽譜やコピーなどが展示されている。


遠い夏に想いを-展示室2
遠い夏に想いを-展示室3
 おばさんは我々を入れると、さっさと買い物籠をさげて行ってしまった。後はご自由にという訳だが、このおばさん我々を信用しきってのことか、盗まれても価値のないものばかりなのか判らない。


 では何故「遺書の家」と呼ばれるだろう。ベートーベンは28歳の頃から難聴に悩まされ始め、悪化の一途をたどる。機嫌が悪く、無愛想で、人付き合いが悪いのも、耳が聞こえないからだとまで述べている。彼は絶望し、遺書を書く。遺書は死後遺品の中から発見された。


 「俺は芸術家」だと言った音楽家はベートーベンが初めてらしい。自殺を引き止めたのも彼の「芸術」にたいする思いと情熱だたのだろう。2枚目の遺書には兄弟親戚に遺産の分配を公平にやるよにとまで書かれている。その後、吹っ切れたように、ベートーベンはウィーンに戻り、次々と傑作を作っていく。


 「聴力を大事に」という医者の忠告に従い、ハイリゲンシュタットの田舎に越してきたが、殆ど何も聞こえない。後年の田園交響曲を書くために小川の散歩道を歩いても、鳥の声なども聞こえていなく、想像の世界で田園の情景を音に表したのだろう。


遠い夏に想いを-遺書  遺書のコピーを載せましたが、独文で読みづらいです。1802年10月6日と10日の2通の遺書がある。本文の訳はは長くなるので、訳文の掲載は割愛します。


 耳が聞こえなくなった音楽家は他にもいる。ベートーベンより後になるが、チェコの作曲家スメタナだ。彼の作曲した「わが祖国」から「モルダウ」は美しい曲で、テレビでもよく使われている。耳が突然聞こえなくなる様子は彼の弦楽四重奏曲第1番「わが生涯から」の第4楽章にも表されている。楽しい楽曲が、突然、キーンと高い耳鳴りの音が現われ、暗い憂鬱な、しかし、何か希望を暗示する楽曲へと変わり、静かに終わる。


 Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学(University of Minnesota)へ留学した記録のホームページにもどうぞ

 ハイリゲンシュタットの遺書の家に行くには、まだ少し坂道を登って行かなければならない。空も澄みわたった9月の気持ちの良い一日だ。

 遺書の家には庭から入った。2階の入り口には、少し太り気味の受付の男がタバコを吹かしている。正面と後ろ側に2つの階段があり、一瞬どちらか迷っていたら、この男が『こっちだ』というように手で合図する。入館料を払って中に入る。
$遠い夏に想いを-遺書の家1

 記念館というのは何処も同じで、殆ど何も残っていないものだ。80回以上も住まいを変えた引越魔の芸術家、特に、音楽家が住んだ家に何も残っていないのが当たり前なのだろう。だが、やはり何か寂しい。ここの遺書の家もご多分に漏れず、何かを見ようと思ったら失望するだけである。むしろ遺書の家が約200年間も残っていて、そこを訪れることができたことに無上の喜びを見出さなければならない。苦悩するベートーヴェンに思いを馳せるだけで素晴らしい。

 ベートーベンがここに1805年4月から半年ばかり住んでいた。この間に交響曲第2番や作品31のピアノソナタ3曲を作曲し、更に、作品30の1から3まで、即ち、ヴァイオリン・ソナタの6番、7番、8番の3曲を書いている。




 6番は優しさの溢れる曲で、特に、第2楽章のアダージョは憂いと優雅さと透明感にみちた楽章で涙がこぼれるほど美しい。モーツアルトのアダージョもみなこよなく美しいが、美しいアダージョが書けなければ、偉大な作曲家とは言えないことを証明しているようだ。(私はヴァイオリンを弾くのでヴァイオリン・ソナタを載せます。ヂュメーとピレスはモーツアルト向きと思うのですが、このベートーベの優美さは何とも言えません)。

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遠い夏に想いを-標識  ベートーヴェンガングとエロイカガッセが交わるところに橋がある。ここまで戻ってエロイカガッセをベートーヴェンハウスに向かって歩く。ここは途中から急な坂道になっており、やはり緑の多い住宅街になっている。ややしばらく歩くとベートーヴェンが2ヶ月間滞在して第九交響曲の第四楽章を書いたメイヤーの家が正面に現れる。

遠い夏に想いを-メイヤー
遠い夏に想いを-プレート  白壁の家で、壁の高いところに小さなプレートがはめ込まれている。見えにくいが「1817年にベートーベンが住んでいた」と読める。正面に廻ると入り口の扉は閉ざされていた。今は居酒屋だそうだが、時間が早いから閉まっているのか、シーズンが過ぎたから閉まっているのか判らない。営業時間も記載がない。引越し魔のベートーベンがハイリゲンシュタットの周辺に間借りしていた数箇所の家が残っている。このメイヤーの家もその内の一つで第九交響曲の最終楽章を書いたという。


遠い夏に想いを-教会  この左手はファール・プラッツという小さな広場になっている。メイヤーの家は広場に面していて、奥に小さな教会が在る。ヤコブズ教会である。13世紀に起源をもつという古い教会だ。扉が開いていたので中に入る。この季節に訪れる人は殆どいないが、半ズボンをはいた30才くらいの女性観光客が腰に巻きスカートを付けて入って行った。こんな小さな教会でも身だしなみには気を使う。静かな午前中に、堂内は静まりかえて彼女の歩く足音だけが響く。


遠い夏に想いを-堂内
 この教会の隣に住んでいたのだから、ベートーヴェンも立ち寄ったのだろうか。第九交響曲の「合唱」が付いた第四楽章を隣のメイヤーの家で作曲したのだし。


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遠い夏に想いを-ベンチのノッコ  さらさら、ちょろちょろと流れる本当に小さなシュライバー川でベートーベンはひと休み。散歩しては立ち止まり、歩いてはエルムの木陰で腰を下ろし、木々の小枝に目をやり、ほほじろやナイチンゲールやカッコーなどの小鳥の声やリスの葉音に耳を傾け、小川に沿って歩くベートーベンの姿を思い浮かべながら歩いた。現在のハイリゲンシュタットには当時の面影はない。耳を澄ますと田園交響曲が聞こえてくるような想像の世界を歩くしかない。


 小川づたいに歩いた。1863年に立てられたベートーヴェンの胸像のあるところまで来ると、車の音がひきりなしに聞こえてくる。これ以上進んでも、現実の世界に引き戻されるので、ここから引き返すことにする。森は深い緑に覆われ、ちらちらと陽の光が木漏れ日のように揺らめく。観光シーズンが過ぎているのか、こんなところへ来る観光客は誰一人としていない。時たま犬を連れて散歩を楽しんでいる地元のご婦人にすれ違うだけだ。


遠い夏に想いを-胸像
 ヴィヴァルディの弦楽合奏曲「四季」は春・夏・秋・冬の一年を音楽で表現しているが、第6交響曲「田園」はハイリゲンシュタットの情景を、自然の変化に合わせて、音楽で表している。


 ここはベートーヴェンが散歩したということ以外に何一つない。抽象的世界というか、音楽を想像すしかない。


 田園交響曲の第一楽章には「田舎に着いたときのうきうきした印象」と説明があり、明るく牧歌的な曲想が流れ、第一ヴァイオリンがうきうきした気持を表していて、これがオーボエに引き継がれ、そしてオーケストラ全体に響き渡る。


 第二楽章には、「小川の情景」としか標題がついていないが、この小川がまぎれもなくシュライバー川の情景であろう。しかし、曲が示すイメージとは大分異なる。小川の情景(SCENE OF BROOK)というと小川そのものの情景を想像するが、いや小川も含めて、もっと大きなハイリゲンシュタットの森全体の情景を表しているのかもしれない。そう解釈しないと、この雄大な抒情詩に溢れる曲を理解できなくなる。


 第三楽章には「田舎の楽しい集い」と説明があり、人付き合いが悪く、気難しいベートーべがこの地区の村人や楽人と楽しくやっていたのが可笑しい。地元の古い民謡や舞曲などが織り込まれている。3拍子の心の弾む楽章で、踊りたくなってくる。


 第4楽章には「雷雨と嵐」とあり、第五楽章には「嵐が過ぎ去った感謝の気持と牧童の賛歌」とあり、牧歌的な曲で締めくくられている。この牧歌的な平和な曲が有名な交響曲第五番(日本では「運命」)と同じ時期(1807年~1808年)に作曲されたとは信じがたい。


 当時の絵に描かれたハイリゲンシュタットの風景とはすっかり変わってしまった。東京でも武蔵野の森が200年前の面影を失ってしまったのと同じだろう。余りにも天気が良すぎて、爽やかで人がいないと、かえって、ふと一瞬、哀愁のようなものさえ感じる。


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 ハイリゲンシュタット駅はまだ工事中だった。改装工事なのだろうか。駅前に出ると、直ぐにバス乗り場がある。並木があって、バスを待っている人達が溢れている。ここには市電があり、電車で行こうと思うのだが、市電の線路が見つからない。バスの運転手に聞くのだが、英語は全然通じない。英語が通じないといえば、フィレンツェの空港のバスの運転手を思い出す。イタリア語しか通じなかった。ここでも仕方がないので、地図と睨めっこで、更に先へ進んだ。すると電車の通りが現れた。


 最初の電車はD停留所までは行かないので一台待った。次の電車に乗って終点のD停留所で降りる。直ぐにベートーヴェンの散歩道、ベートーヴェンガングに出た。


遠い夏に想いを-標識1
 左手に小川が流れ、その土手に張られている金網のフェンスが雰囲気を損なう。この小道は緩やかな上り坂で、急ぎ足で歩くと今日のような陽気では汗ばむ。ベートーヴェンも同じように歩いていたのだろう。小道の右手は住宅地になっていてポツンポツンと洒落た一戸建てが建っている。
「こんな処に住めたらいいのにね」
ノッコが溜め息をもらす。アメリカでもイギリスでも同じ言葉をもらして、溜め息をついていたっけ。


遠い夏に想いを-小川
 多分、ここを歩きながら、ベートーヴェンは田園交響曲のインスピレーションを得ていたのだろうか。ノッコの好きな音楽家はベートーヴェンとバッハだ。それに引き換え、チェロの曲を一つも残していない(多分、書いたのだけれども弾ける状態で残っていないといった方が正確だろう)モーツアルトに対しては私ほどには関心がない。


 大学の仏文の卒論にロマンロランは当時として順当だったのだが、音楽大学ではないのでベートーヴェンとなると、担当の仏文の教授も専門外で困ったらしい。結局、他の学部のピアノが非常に上手で音楽の解る教授に見て貰ったらしい。


遠い夏に想いを-ロラン
 今、ロマン・ロランの「ベートーベン研究」を読むと、若い時のようには夢中になれない。歳を取るとは感性を削り落としながら、現実的になっていくことだと思う。それに、これは小説ではない。彼の言わんとしている本題は本の30%にもならない。何故ならロランが美辞麗句が多い自分の言葉に酔いしれているとしか思えないからだ。若い時には決してそうは考えなかったと思う。歳は取りたくないですね。


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