さてこの棟を出て、反対側の階段を昇る。さっきの係員が「そっちは関係ないがね」と言っていたが、丁度上り切ると別の扉が開いて、年配のおばさんが鍵を持って出て来た。なんとタイミングが良いことか。中は大きな展示室になっている。
ベートーベンに直接・間接的に関係のある遺品の類が展示されている。中央に古いピアノがあり、ベートーヴェンが愛用したピアノと同じ頃に製作されたものと記載がある。周りには展示ケースが置かれ、自筆の楽譜やコピーなどが展示されている。
おばさんは我々を入れると、さっさと買い物籠をさげて行ってしまった。後はご自由にという訳だが、このおばさん我々を信用しきってのことか、盗まれても価値のないものばかりなのか判らない。
では何故「遺書の家」と呼ばれるだろう。ベートーベンは28歳の頃から難聴に悩まされ始め、悪化の一途をたどる。機嫌が悪く、無愛想で、人付き合いが悪いのも、耳が聞こえないからだとまで述べている。彼は絶望し、遺書を書く。遺書は死後遺品の中から発見された。
「俺は芸術家」だと言った音楽家はベートーベンが初めてらしい。自殺を引き止めたのも彼の「芸術」にたいする思いと情熱だたのだろう。2枚目の遺書には兄弟親戚に遺産の分配を公平にやるよにとまで書かれている。その後、吹っ切れたように、ベートーベンはウィーンに戻り、次々と傑作を作っていく。
「聴力を大事に」という医者の忠告に従い、ハイリゲンシュタットの田舎に越してきたが、殆ど何も聞こえない。後年の田園交響曲を書くために小川の散歩道を歩いても、鳥の声なども聞こえていなく、想像の世界で田園の情景を音に表したのだろう。
遺書のコピーを載せましたが、独文で読みづらいです。1802年10月6日と10日の2通の遺書がある。本文の訳はは長くなるので、訳文の掲載は割愛します。
耳が聞こえなくなった音楽家は他にもいる。ベートーベンより後になるが、チェコの作曲家スメタナだ。彼の作曲した「わが祖国」から「モルダウ」は美しい曲で、テレビでもよく使われている。耳が突然聞こえなくなる様子は彼の弦楽四重奏曲第1番「わが生涯から」の第4楽章にも表されている。楽しい楽曲が、突然、キーンと高い耳鳴りの音が現われ、暗い憂鬱な、しかし、何か希望を暗示する楽曲へと変わり、静かに終わる。
Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学(University of Minnesota)へ留学した記録のホームページにもどうぞ