田園交響曲 - 063 | 遠い夏に想いを

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

遠い夏に想いを-ベンチのノッコ  さらさら、ちょろちょろと流れる本当に小さなシュライバー川でベートーベンはひと休み。散歩しては立ち止まり、歩いてはエルムの木陰で腰を下ろし、木々の小枝に目をやり、ほほじろやナイチンゲールやカッコーなどの小鳥の声やリスの葉音に耳を傾け、小川に沿って歩くベートーベンの姿を思い浮かべながら歩いた。現在のハイリゲンシュタットには当時の面影はない。耳を澄ますと田園交響曲が聞こえてくるような想像の世界を歩くしかない。


 小川づたいに歩いた。1863年に立てられたベートーヴェンの胸像のあるところまで来ると、車の音がひきりなしに聞こえてくる。これ以上進んでも、現実の世界に引き戻されるので、ここから引き返すことにする。森は深い緑に覆われ、ちらちらと陽の光が木漏れ日のように揺らめく。観光シーズンが過ぎているのか、こんなところへ来る観光客は誰一人としていない。時たま犬を連れて散歩を楽しんでいる地元のご婦人にすれ違うだけだ。


遠い夏に想いを-胸像
 ヴィヴァルディの弦楽合奏曲「四季」は春・夏・秋・冬の一年を音楽で表現しているが、第6交響曲「田園」はハイリゲンシュタットの情景を、自然の変化に合わせて、音楽で表している。


 ここはベートーヴェンが散歩したということ以外に何一つない。抽象的世界というか、音楽を想像すしかない。


 田園交響曲の第一楽章には「田舎に着いたときのうきうきした印象」と説明があり、明るく牧歌的な曲想が流れ、第一ヴァイオリンがうきうきした気持を表していて、これがオーボエに引き継がれ、そしてオーケストラ全体に響き渡る。


 第二楽章には、「小川の情景」としか標題がついていないが、この小川がまぎれもなくシュライバー川の情景であろう。しかし、曲が示すイメージとは大分異なる。小川の情景(SCENE OF BROOK)というと小川そのものの情景を想像するが、いや小川も含めて、もっと大きなハイリゲンシュタットの森全体の情景を表しているのかもしれない。そう解釈しないと、この雄大な抒情詩に溢れる曲を理解できなくなる。


 第三楽章には「田舎の楽しい集い」と説明があり、人付き合いが悪く、気難しいベートーべがこの地区の村人や楽人と楽しくやっていたのが可笑しい。地元の古い民謡や舞曲などが織り込まれている。3拍子の心の弾む楽章で、踊りたくなってくる。


 第4楽章には「雷雨と嵐」とあり、第五楽章には「嵐が過ぎ去った感謝の気持と牧童の賛歌」とあり、牧歌的な曲で締めくくられている。この牧歌的な平和な曲が有名な交響曲第五番(日本では「運命」)と同じ時期(1807年~1808年)に作曲されたとは信じがたい。


 当時の絵に描かれたハイリゲンシュタットの風景とはすっかり変わってしまった。東京でも武蔵野の森が200年前の面影を失ってしまったのと同じだろう。余りにも天気が良すぎて、爽やかで人がいないと、かえって、ふと一瞬、哀愁のようなものさえ感じる。


 Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学(University of Minnesota)へ留学した記録のホームページにもどうぞ