遠い夏に想いを -139ページ目

遠い夏に想いを

アメリカ留学、直後の72年の夏に3ヶ月間親子でパリに滞在。その後、思い出を求めて度々訪欧。

 今日は朝から雲はあるが天気だ。今朝も朝食はマンゴーにバナナのスライスにヨーグルトをかけたものと、大きなマグカップになみなみと注がれた濃いコーヒー。


遠い夏に想いを-ハワイ島図  暫らくしてリックとロイスが車でやって来た。今日は南海岸のコナのほうへ行こうという。我々を乗せた車は19号線を西に向かって走る。途中ガソリンスタンドへ寄ってガソリンを補給する。


 19号線はハナオカという町から南に向かう。丘陵地帯を抜けて進む。天候が変わってきた。薄曇りからさんさんと陽が注ぐ夏のような天気である。道路わきには木が沢山茂っている。カメレレの木というらしい。ハワイにやって来た白人がこの木をパルプにして、製紙産業を起こしたらしい。だが今は製紙産業は殆ど衰退してしまった。


遠い夏に想いを-ショッピングC01
遠い夏に想いを-ショッピングC02
 ワイメアという町にやって来た。この町はパーカー牧場が中心にショピッングセンターを開いている。ショッピングセンターといっても広いスペースに洒落た木造のブティックやレストランやギフトショップなどがたち並ぶ。短時間だがショッピングセンター内を見て歩いた。現金がないので、近くにあるハワイ銀行に行き、円からドルに変えてもらう。1ドル/80円くらい。これで買い物ができる。


遠い夏に想いを-パーカー牧場
 パーカー牧場はハワイの代表的な牧畜会社で、ハワイ島で広大な土地(東京23区の1.5倍)を所有し牛を放牧している。そもそも初代ジョン・パーカーはアメリカ本土の東海岸マサチューセッツから、19世紀の初めにハワイにやって来た男で、カメハメハ大王の娘と結婚し大成功をつかむ。現在はパーカーの家系は途絶え、牧場の運営はパーカーの子孫が築いた機関に任されているらしい。


 Viosan の「ミネソタの遠い日々」
1970年に私たち夫婦・子供連れでミネソタ大学(University of Minnesota)へ留学した記録のホームページにもどうぞ

 欧米では正式な食事は正餐といって昼にとる。クリスマスや感謝祭などの食事はお昼だ。午後2時頃になった。


 食事の後は皆で出かける。北の海岸線、所謂ハマクア・コーストを西に車で走る。右手に海が時々顔を出し、左手には綺麗に手入れされた庭をもつ家々が続く。


遠い夏に想いを-ワイピオ表示
 暫らく車を進めると、崖ぷちに出た。小さな表示板にはワイピオと書いてある。ワイピオ渓谷といって伝説によるとカメハメハ大王が幼少の頃、帝王学の訓練を受けた場所らしい。ハワイを統一したカメハメハ大王はマウイ島の生まれだが、ハワイ島で育った。


遠い夏に想いを-ワイピオ渓谷
 ここに立つと素晴らしい景観が目に飛び込んでくる。荒々しい荒涼とした景色は北国のそれで、南国の景色とは思えない。この渓谷には昔から霊力があるといわれ、1946年の津波の時にも犠牲者が一人も出なかった。今でも数は減ったが原住民が住んでおり、タロいもなどを栽培しているという。


遠い夏に想いを-ワイピオ展望台
 展望台は普通一番高いところに作られるものだが、ここは展望台に行くのに崖を下って行く。谷の底までは違う道から行くしかない。


 そのまま、車でリックの家に戻る。家に着くと4時ごろで、まだ明るいが雲が出てきた。牛の群れが下の水のみ場に下りてくる。直ぐ傍の丘の上から霧というか雲というか降りてきた。


遠い夏に想いを-馬
 遠くに見える海も曇ってきた。ハワイ島でもこのハマクア地方は涼しい。ホノルルでは11月でもエアコンが必要だが、ここでは夏でもエアコンはいらない。だからソーラーパネルの電気だけで何とかやっていける。


 そろそろ夕飯お支度にロイスがとりかかった。本土のように水を使えないから、雨水を貯めた水を大切に使って料理をし、食器を洗う。節約、節約である。


 夜は簡単なスープで済ませた。我々も小食なので充分満足だ。余り遅くならないうちに、リックとロイスに車で真っ暗な山道を抜けてボブの宿まで送ってもらった。


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 今日は感謝祭の祝日。ロイスが料理を作っている。感謝祭には七面鳥とクランベリーは欠かせないのだが、今日は無しだ。クランベリーはアメリカ本土の北部やカナダなどで取れるものだ。その代わり、素晴らしい肉料理を作ってくれた。


 料理には出来るだけ水で洗わない食材を購入してくる。水は大切だからだ。肉や野菜などそのまま洗わないでも料理できる。食べるものは若干限定されるが致し方ないだろう。


 空気や水はタダで使い放題であった日本で、日本料理は水、特に軟水がないと成り立たない。お米には無洗米などがあるが、うどんやそばや豆腐など大量に水を使う。


遠い夏に想いを-ワイン  ワインは特別の赤だと言う。ワシントン州のもので、なかなか手に入らないワインを送ってもらったそうで、1本40ドル以上するらいい。今は円高だから、円にすると安いようだが、なかなか素晴らしい代物だ。香りといい、味といい、タンニンも程よくきいており、色もルピー色で綺麗だ。ワシントン州は相当緯度が高くて、赤ワインには適さない土地だと思うが、暖流が流れているので結構暖かいのだろう。



遠い夏に想いを-感謝祭  そもそも感謝祭(Thanks Giving Day)とはアメリカ固有の祭日で(カナダにもアメリカの影響で感謝祭がる)、イギリスのケンブリッジ周辺から来たピューリタン(清教徒)が宗教の自由のを求めてアメリカにやって来た。厳しい冬を切り抜けて、アメリカ東部で最初の収穫を神に感謝したのが始まりと言われている。



遠い夏に想いを-メイフラワー号  1621年の出来事である。メイフラワー号でやって来た人達をピルグリム・ファーザーと呼び、アメリカ人には忘れてはならない人達なのだ。メイフラワー号のレプリカがボストン近郊のプリマス港におかれている。(1972年に撮影した写真)


 他の国なら収穫祭になるだろうか。新嘗祭(にいなめさい)という宮中行事が戦前の日本にあった。この日は祝日だったが、これも収穫を祝って神に感謝する神事色の強いまつりだった。今では勤労感謝の日に変わったが。


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 新築の家の裏手に廻ってみた。ここにも大きな貯水タンクがある。ボブのところと同じで、雨水を貯めて、浄水して使う。電気もソーラーパネルを使っている。ハワイ島でもこの辺りは夏でも涼しい。ホノルルなどと違ってエアコンは不要である。11月でも南側のコナ海岸と違って、北側のこの地域は寒いくらいだ。


遠い夏に想いを-新築裏手
 日本でも見かける太陽熱を応用した温水器が天井に設置されており、ガスは小さなブロパンを使っている。水道、下水道浄化、電力、光熱等は全て自前の自然から得たものだ。窓も大きくて、数も多いので、昼間は照明が不要だ。


遠い夏に想いを-小屋
 母屋の隣には小屋が建っており、立派なシャワールームと建物の材料と書籍が山積みになっている。将来この部屋を図書室にするらしい。


 自然の恩恵だけで生活するのは大変に勇気のいることで、私たちには真似できることではない。本土にいた頃に比べれば、この地域のインフラは極端に小さくなる。それでも自然と共生する意気込みに拍手を送りたくなる。


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 車で凸凹道をくだり、一般道へ出る。やや暫らく進むと、再び細い未舗装の凸凹道に入り、狭い橋を渡り、着いた先は丘の中腹の広大な敷地である。


遠い夏に想いを-新築家
 ここが彼らの新築中の家である。入り口から100メートルくらい登ったところに平屋のログハウス的な家がある。2人で住むには余りにも広い、と日本人なら考えるであろう。


遠い夏に想いを-敷地
 敷地は5エーカーと言うから、6千坪もあり、隣は1キロほど離れている。将来、家の周りの土地を整地して、我々が泊まっているボブのところの庭のように、ハワイの木や植物を植えて、綺麗にすると言うが、2人で何年かかるのだろうか。


遠い夏に想いを-放牧

 北の方角には遠くにハマクア海岸が望める。家の裏手は丘になっており、牛や七面鳥が群れをなしている。


 電気や水道もないハワイへ、アメリカ本土の人達が好んで移り住んで来るらしい。田舎への回帰現象なのだろうか。普通のアメリカ人は二酸化炭素にも節電にも関心がないと言われている。CO2はアメリカと中国が世界で一番排出量が多い。自動車など石油を燃やしてCO2が多く出ることを心配するよりも高い石油を節約できる車の方に関心がいく。ここに住んでいたらCO2も出さず、必然的に節電もしなければ生活が出来ない。


遠い夏に想いを-ロイス達の居間
 アメリカの友人の家を訪れると、最初に家の中を案内をしてくれる。台所が中央にある広いリヴィング、リックとロイスの書斎兼仕事部屋、12畳くらいあるバスルーム(トイレとシャワー)、やはり16畳くらいある寝室。寝室の床はこれからフローリングを予定していて、未完のままだ。


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