柿食えば、鐘が鳴るなり 法隆寺 ・・・ 正岡子規 と 法隆寺 ~ 算命学と奈良歴史 (再掲載)
柿のたよりが届きますね。
一昨年は、NPOつげ開催の「つるし柿教室 」なぞに参加したものです。
賀名生の里も、柿が、いいころ合いでしょうね。
さて、再掲載ですが、奈良に関する偉人、歴史人物を、算命学の紅星先生
が鑑定し、
その足跡(観光地)を紹介するおなじみのコーナーです。
今回は・・・
「柿食えば、鐘が鳴るなり 法隆寺」
(法隆寺)
そう、この歌といえば正岡子規ですね。
連動企画【算命学で見た、奈良・歴史上の人物とミステリー】
第十三弾は、正岡子規です。
紅星先生のブログでは、どどーんと拡大版。
子規が晩年を過ごした街 根岸を紹介しています![]()
こちらもあわせてご覧になりますと、もう少し、正岡子規のことをしることができますよ。
゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚ ゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚
明治28年10月に正岡子規は、奈良へおとずれています。
その時、既に重病でした。
明治25年に日本新聞社に入社し、日清戦争の記者として従軍しました。
しかし明治28年、その帰路に喀血。
松山に帰郷した後、友人の夏目漱石の下宿で静養していました。
その後、夏目漱石から資金を得て、東京へと帰路についたのでした。
しかし、大阪に到着するなり、腰痛で動けなくなっていました。
(後に、結核菌が脊髄を冒した脊椎カリエスによる腰痛であったことが判明します。)
病床にいて正岡子規は、手紙にこのように残していました。
「大阪で歩けなくなった。
だけれど是非この機会に奈良を見ておきたい。
歩けなければ汽車の中からでも奈良の外観を見ておきたい。」
やがて痛みがやわらぎ、正岡子規は待望の奈良へと訪れたのでした。
最初に、奈良市街を散策し、興福寺を訪れ、大仏殿のある東大寺を訪れました。
その後、春日大社を参拝したそうです。
東大寺を詠んだ歌があります。
「長き夜や初夜の鐘撞く東大寺」
「大仏の足もとに寝る夜寒哉」
女性のエピソードが少ない正岡子規です。
ここで投宿した旅館で出会った月ヶ瀬出身の女中さんのことを、随筆に残していました。
「年は十六、七位で、色は雪の肌の如く白くて、
目鼻立ちまで申し分のない様に出来て、梅の精でもあるまいかと思い、
ほれぼれと見とれていた。」
なんともはしゃぎぶりととれますね。
自身の体にあって、若い少女のはつらつとした姿に憧憬の念をいだかざるえなかったのでしょうか。
翌日には法華寺
、西大寺、垂仁天皇陵、薬師寺、唐招提寺を訪れました。
そして翌日、法隆寺
、竜田川を訪れたのでした。
(法隆寺 仁王像)
(法隆寺 仁王像)
正岡子規が法隆寺を訪れた10月26日。
「柿食えば、鐘が鳴るなり 法隆寺」
彼がこの歌を詠んだことに因んで、この日は「柿の日」に制定されています。
また、正岡子規は奈良で柿にまつわる歌をいくつも残しています。
「晩鐘や寺の熟柿の落つる音」
「柿落ちて犬吠ゆる奈良の横町かな」
「柿赤く稲田みのれり塀の内」
「渋柿やあら壁つづく奈良の町」
奈良での観光は、正岡子規の最後の旅行だったのですね。
その後、病状は悪化し、明治35年9月35歳の短い生涯を終えました。
さて・・・
算命学カウンセラー紅星くれないぼし先生の鑑定結果は如何でしょうか。
↓こちら
↓
↓
↓
↓
連動企画【算命学で見た、奈良・歴史上の人物とミステリー】
第13弾 「正岡子規
」
そして、今回は、紅星先生のブログでは、どどーんと拡大版。
子規が晩年を過ごした街 根岸を紹介しています![]()
こちらもあわせてご覧になりますと、もう少し、正岡子規のことをしることができますよ。
美しい柿色が、軒下を彩ります。
('-^*)/
↓↓↓↓↓
奈良歴史ミステリーハンターの電子書籍です。
東北地方太平洋沖地震 チャリティ作品
奈良妖怪大戦争「少年・聖徳太子物語 」
大和郡山 洞泉寺町 源九郎稲荷神社 社伝
「神仏おそれぬ羽柴秀長、 白狐源九郎に折伏される
森鴎外 と正倉院 ~ 算命学と奈良歴史 奈良国立博物館 【再掲載】
毎度のことながら、人気を博しているようです。
さて、せっかくなので、ちょっと過去の記事で、正倉院展に携わったかの文豪の記事を再掲載です。
連動企画【算命学で見た、奈良・歴史上の人物とミステリー】
テーマは、森鴎外です。
゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚ ゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚
近鉄奈良駅から約800メートル。
東大寺、春日大社へと向かう途中に、奈良国立博物館があります。

(奈良国立博物館 本館)

(奈良国立博物館 東新館)
明治28年に宮内庁の達しにより帝国奈良博物館として開館しました。
明治33年に宮内省管轄で奈良帝室博物館と改称。
昭和22年には、文部省に移管し、現在の「奈良国立博物館」となりました。
大正6年に、陸軍軍医でありながら、文豪で名高い森鴎外こと、森林太郎(もり りんたろう)が帝室博物館(現在の東京国立博物館)の総長を務めます。
森鷗外、晩年の頃でした。
大正7年から10年まで、奈良に訪れて正倉院の開封に立ち会っていました。
奈良交通のバス通りのそば・・・

森鷗外が奈良に滞在した宿舎が、奈良国立博物館の北東隅にありました。
それが、ここです。

板の囲いと、門だけが残された四角い広場となっています。

そして、この門。

「鴎外の門」と呼ばれています。

もとは宿舎でした。
取り壊され、ただこの門だけが、森鴎外を偲んで残されています。
生来から好奇心旺盛な森鴎外は、正倉院が開かれる晴天の日には、倉の文物を読みあさっていました。
雨天の場合には倉を閉ざしていたので、寺社仏閣、旧跡を訪ねるなど奈良観光にいそしんでいたそうです。
奈良を巡り、その感動を「寧楽訪古禄」、「奈良五十首」などの歌でのこしています。
その一首が石碑に刻まれていました。
「猿の来し官舎の裏の大杉は、折れて迹なし常なき世なり」
また白毫寺(奈良県奈良市白毫寺町)を、
「白毫の 寺かがやかし癡人の 買ひていにける 塔の礎」
とよみ、他にも、
「奈良人は秋の寂しさ見せじとや社も寺も丹塗にはせし」
などなど、
奈良観光する自身のことを、このように歌っています。
「晴るる日はみ倉守るわれ傘さして巡りてぞ見る雨の寺寺」
実直すぎる歌は、無邪気とさえ思えますね。
丁度、私がこの門を訪れた時も、雨でした。
鴎外の門には、かつての主人(?)を偲んでか、番犬よろしく・・・

鹿さんがいすわっていました。
さて・・・
算命学カウンセラー紅星くれないぼし先生の鑑定結果は如何でしょうか。
↓
↓
↓
↓
連動企画【算命学で見た、奈良・歴史上の人物とミステリー】
第12弾 「森鴎外」
(・_・ 三・_・)
↓↓↓↓↓
奈良歴史ミステリーハンターの電子書籍です。
東北地方太平洋沖地震 チャリティ作品
奈良妖怪大戦争「少年・聖徳太子物語 」
大和郡山 洞泉寺町 源九郎稲荷神社 社伝
「神仏おそれぬ羽柴秀長、 白狐源九郎に折伏される
続・東京エトランゼ 小便小僧 ~ JR浜松町駅 【東京・横浜探訪】
前回、紹介しましたJR浜松町駅の小便小僧、衣装がかわりましたね。
明治時代の消防隊の姿です。
制服姿がりりしいですね。
(=⌒▽⌒=)
手前には華が活けています。
先月はコスモスでした。
どうやら季節によって華もかえているようです。
さて、私の関東滞在も3週間延長となりました。
なかなか仕事はハードですが、こちらの人たちに助けられています。
関東の人たちは、本当に情があついですね。
またこういう風景に楽しみを見出しております。
後すこしばかり、関東レポートを、お楽しみください。
浜松町駅関連記事どちらを選びます? 讃岐小白稲荷神社
東京エトランゼ 小便小僧
ヾ(@^▽^@)ノ
↓↓↓↓↓
奈良歴史ミステリーハンターの電子書籍です。
東北地方太平洋沖地震 チャリティ作品
奈良妖怪大戦争「少年・聖徳太子物語 」
大和郡山 洞泉寺町 源九郎稲荷神社 社伝
「神仏おそれぬ羽柴秀長、 白狐源九郎に折伏される 」

