一応は言葉を生業とする職業についている身として、

自分の言葉には人一倍気をつけないといけないということを

常日頃から考えております。

 

が、こういう場所、つまり個人的に掃き溜めとしてしか見ていない、

ブログとは名ばかりの無縁塚においては、自分は言葉を垂れ流しにしております。

富楼那の弁を得るための練習として見ているわけですね。

とかやっていて気がついたわけですが、この練習は走り込みのようなものなのでしょうね。

つまりは基礎体力をつけるためというか、先々の練習に耐えうるだけのスタミナだとか身体能力だとか、

根本的な体づくりを目的としている練習に近い。

というと? そう、テクニックがつかないわけですよ。

なぜそれに気がつかなかったのか、某は。なぜ。Why。おバカなのかしら。

 

体づくりと技術習得、この両輪がないことには文章力なんて身につかないわけですよ。

じゃあなにをすればよいのか?ということになるわけですが…

とりあえず読みやすい文章を作るために、ちゃんと推敲をします。

推敲の練習です。目的は、文章を整理すること。目標は、文章を読みやすくすることでしょうか。

 

ちゃんと考えて文章を作るとそれだけで消費カロリー増えますね。

つまり練習になっているということですね??

 

起承転結を考えながら文章を作るということはまだ難しいですが、

とりあえずこうしてちゃんと作文できるようにがんばりましょう。

悪き感情をとめどなく流す練習

言葉にして流す。

 

言葉を流すためには訓練が必要

常に使い続けないと言葉は流れていかない。

こうして、何も考えずに。

ただひたすらに、出てくる言葉を打ち込む。

考えずに。

それが今の自分の言葉。

 

その奥に何があるのか、言葉を流し切らないと分からない

泥濘の奥底、言葉の濁流が過ぎ去ったあとに

だから常に、言葉を流す練習を

 

流るる水の如く

水の如し

上善如水

 

なんか変なとこいったな

 

ほらーこんなんやってるから上善如水がタグに入りそうじゃん

どうすんのよ日本酒好きなナイスミドルがこんなん見ちゃったら

毒にも薬にもならないけどただただつまらないだけの散文見たところでどないせいっていうやつじゃん

なんやねん

ほんまに

 

エッセイとか書ける人ってすごいわ。

最近、ちゃんと考えて文章書くことないからな。

これとかは文章とは言わないタン壺みたいなもんやし

 

今度、ちゃんとテーマを決めて、何か書いてみるのもいいね。

それも練習だ。

 

あ、ちょっとスッキリ。

大事。

 

さよならぬかるみ。

ー前提

言語化の訓練の一つに、感想を言葉にするというものがあった。

なのでこれは、その訓練の一環です。

 

ー本題

今さら、何年振りだろう? 水の都の護神を見た。

これ、こんなに面白かったんだな…

元々前評判というか、そもそも昔見たことはあるし、その当時から

旅情豊かな異郷の地で繰り広げられるドキドキワクワクな冒険譚!って感じで、

すごい面白いなぁと幼心に感じておりましたが、

久々に見たらもうその記憶以上に!面白かった!ですね!

 

ちゃんと通して見た上での印象は「一夏のボーイ・ミーツ・ガール」で、

バリバリ主人公しているサトシがずっとかっこいいしラティアスはヒロインだし、

最後の別れのシーンまでずっと一貫してブレないのが素晴らしいね。

ヴェネチアを強く意識した異国情緒にあふれる街並みがそもそも非日常感をこれでもかとかき立ててくれて、

スケールとしては一つの街に収まっているけど終始「ここではないどこか」に思いを馳せることができて、

だからこそクライマックスでその街を三次元的に飛び出した瞬間のカタルシスに打ち震えるわけで。

不覚にもちょっとうるっときたよ、オニイチャン…

細かいシーンで、禍々しいタイムショックがわざわざ打ちのめされている悪役をこちらに見せつけたり、

水道沿いにたたずんでいるカブトプスが本当にいきなりの登場と殺意むき出しで迫ってきたり、

ちょっとオエってなる場面がちょくちょく出てくるのも緩急ついて気持ちいい。

基本がサトシ&ピカチュウと映画のみのメンバーって感じで、

これまで通りではない?!みたいな雰囲気が見事にハマって、結果一夏の思い出が美しく輝くんだ、

あの朝焼けを映す水面のように。

 

最後がどちらとも取れるというか、あの中で答え出すの無理では?というか、

でもあそこまで行くと逆にカノン本人な気もしてしまうからよく分からんよね。

 

最近こういうふうに多少考えて文章書くことがなかったから新鮮かも。

ちゃんと感想書くのって大事だな、またやろう。

空模様はいつだって急に変わる。

お天道様のご機嫌なんて、矮小な人間に窺い知る術などない。

どうしようもないものをに頭を悩ませることは愚かなことだ。

どこかの遠い世界で起きる不幸せに心を痛める。

とてもいいことが。だけど、それにどんな意味があるのか。

何らかの行動へつなげる。結構。考え方が変わり、いずれ何かをする時の答えが変わる。それもまた良い。

ただただ心を痛めるだけでは、それに何の意味もないと思う。

だけどそんな人は、とても優しい、いい人だ。

 

自分が何を幸せに思うのか、何を不幸せに感じるのか。

そんなものに思いを馳せる必要はない。なぜなら、幸せなんていつだって移ろい姿を変えるからだ。

だけどもなぜか、幸せについて考えてしまう。意外になくはないのかもしれない。

 

幸せになることはどういうことなのか。

人生の岐路に立つ度に考える。

 

道を歩いていたら、目の前に二又に別れた道。

どちらの道が、前へ続くのか。

右だろうか、左だろうか。

えいやっと一歩を踏み出す。目指すは右の道だ。

もしかしたら違うかもしれない。

やっぱり左の道を選ぼう。恐る恐る歩き始める。

いやいやこちらも違うかもしれない。

結局、分かれ道の前で立ち止まってしまう。

 

実は、今まで歩いてきた道が前に続いているのかもしれない。

 

なんだか雲行きが怪しい。

さて、どうしたものか。自分は今どこにいるのだろうか。

長い長いこの道のりで、今いる場所なんてわからない。

暗闇の中では、自分の手さえも見えない。

 

やっぱり、どっちの道が前に続いているのかなんて分からない。

だから、光の射す方へ。

その方向へ、光を手繰って。

前だと信じて、歩き続けるしかない。

捲土重来、乾坤一擲、決勝進出、絢爛豪華

言葉を定期的に吐き出す癖をつけないと、本当に出てこない。

本来この場は、言葉を吐き捨てていく場で、タンツボならぬ言壺と言えるものである。

 

生活の変化は、今までの生活を捨てること。そうして捨てられてきた中で、

やっぱり後から…と拾いに戻るものもある。

それは、きっと、大事なものだ。

 

これまでに捨ててきた無数の有象無象が山となって、自分の後ろに聳えている。

見上げるだに見果てぬ高さにまで盛り上がったその霊峰に立ち込める瘴気の中から、

今まさに、自分が本当に必要としている宝の発する光が射す。

 

自分の言壺は、その山の隣にある。

言葉を吐きに戻る時、いやでも山が目に入る。

 

その山は、何を自分に語りかけてくれるのか。

なんてことはない、風邪をもらってくたばっていただけだ。
 

なんだかこの最近立て続けにいろいろなことがあった。

それらに一夏のエトセトラが合わさった結果の風邪であろうことは想像に難くない。

 

長い付き合いの友人と仲違いをした。

金がらみのトラブルだ。

 

人付き合いの仕方に正解はない、自分が納得した道こそが正道足りうるのだろう

その人が何をしたら怒るか。

 

熱っぽい頭ではろくに文章も出てこない。長いセンテンスが驚くほど作れなくなっている。

この散文形式も悪くないのかもしれない。

 

正解なんてない。

まず断っておこう。まだ読み切っていない。

町田康「ホサナ」。なにしろとにかく、強敵だ。

 

難解極まる語彙、支離滅裂な展開。不条理を混沌で煮込んで瓶詰めにしたような小説である。

「混沌」と言うと黒色を思い浮かべるであろう。私も打ち込みながらそう思った。しかし、この本に黒色という印象は抱かない。極彩色のネオンのような狂った色調である。

赤、緑、青、シアン、マゼンタ、イエロー、金、銀、紫、水色、オレンジ、ピンク色。あらゆる色相が瞬き嘶き、白黒二色の活字からは信じられない量の光彩が目をつん裂く。

その異様な筆致からしか摂取できない成分がある。まるで健康とは程遠い成分であるが、時に体が求めて仕方がない。だから彼の小説はやめられないのだ。

 

彼の小説を読んでいた頃、並行して読んでいた本があった。「車谷長吉の人生相談 人生の救い」という本である。

まぁ当時、いろいろ悩んでいた時期であったが、別にそれと関係なく興味本位で読んだのだが…

Q.「人生が辛いです」

A.「人生が辛いのは当たり前だし僕はもっと辛い」

不条理、というか理不尽というか、悩みなんてもっとでかい負の力をぶつけりゃ消えるんだよ!!という超ネガティブな脳筋思考に基づいた、まるで答えになっていない答えがひたすら続く。奇怪な、でも力に満ちた本だった。

車谷長吉氏は、常にズボンのチャックを開けているらしい。曰く「愚か者のダンディズム」であるという。まるで意味がわからないが、側から見たら意味不明なことでも当人が意味を見出しているのならそれは意味ある行為なのだということなのであろうか。

 

少なくとも、今日も酒は美味い。

それだけで、今日までを生きた俺の人生には意味があるのだろう。

ドラゴンクエスト7に「ジェネラルダンテ」というモンスターがいた。

完全に記憶のみで話すが、確か過去の聖風の谷付近で湧いた…ような記憶がある。

まぁとにかく影の薄い…ドッ地味なモンスターである。

 

上位種、もしかしたら下位種かもしれないが、色違いのモンスターに「デビルマスタッシュ」というのがいた。どこに出現するのかなんて、もうまるで覚えちゃいない。
神木のねっこだったような気もするし、その後のコスタール付近だったような気もするし、まぁとにかく印象の弱いモンスターだ。

 

マスタッシュ、という言葉。『金太の大冒険』に出てきそうな馴染みのない単語だが、どうやら「口髭」を指すらしい。確かに立派な口髭をたくわえた、精悍な老兵のモンスターであった。が、それよりもこのモンスターには「顎髭」の印象が残っていた当時の私。マスタッシュは髭を意味すると知り、それがどうもねじくれて「マスタッシュ=顎髭」という意味で覚えてしまい、同級生の池田くんに誤った意味を吹き込んでしまったことは、いまだに慚愧に堪えない。

 

顎髭は「ビアード」だ。当たり前である。

 

ビアードパパのシュークリームを買うと、手提げのついていない紙袋に入れてもらえる。私はそれが好きだ。

だってなんか、あのビアードパパの袋を手で抱えて歩いているとすごいおしゃれに感じるっていうかー…

よく「概念として共通のビジョンが存在するが実際にそれを見たことがないもの」でよく出る「購入した品物を入れる、よくフランスパンとかが上から出てる感じの手提げがない茶色い紙袋」を使っている、外国の少しふくよかで赤いルージュを引いたファーのついたカーキ色のコートを着ている貴婦人のような気分になれるっていうかー…

ビアードパパにおけるわくわくの極北は購入前に列から山積みのシュークリームを眺めている時であることは疑いようもないが、それに次ぐ二番目は帰りの道中、ビアードパパのあのおひげのおじさんが他人から見えるように配慮しつつ腕で抱え込むように袋を持って歩く時である。

食べる時ももちろん大事だが、食事においてはこういったロケーションを整えることを楽しみ、そしてそのロケーションを味わうことでより一層味わいが出る、のである。

 

「焼きチーズケーキシュー」、大変に美味でした。

好きな映画の一つに「有頂天ホテル」が挙げられる。

いわゆるグランド・ホテル形式をとる作品である。群像劇と言った方が通じは良いのだろうが、こちらの言い方のほうが好みなのだ。

同時にバラバラに勃発するそれぞれの話が順々につながり、ラストへ向けて一本の筋道を描き出す。この様式で描かれる作品の中、名作と呼ばれるべき一作と勝手に思っている。

他に好きな映画といえば「天使にラブ・ソングを…」「八つ墓村(1977年版)」「ダークナイト」「天国と地獄」「ウォッチメン」「スルース」あたりだろうか。

 

そんな中読んだ伊坂幸太郎「ラッシュライフ」。名著であると、深い充足感に噛み締めながら本を閉じた一作だ。

 

たしか、多分どっかのまとめサイトで見かけた「群像劇の名作」に対するレスポンスにあった「ラッシュライフは唸った」という複数の投稿に惹かれて読んだ。これが満点大当たり、バックスクリーン直撃の大ホームランであった。

 

読み終わるや否やすぐさまページを捲り、冒頭から再度読み始める経験もなかなかない。そして、「オッフwwwwww」などと電車で言っているのだ。なんとまぁお気楽なことか。

しかし、こういった作品は二度目に読む時が一番面白いのだ。すべてを知った上で答え合わせを進めるこの瞬間。手に持ったままだったピースのハメどころが見つかった瞬間、気づいていなかったボタンの掛け違えを直せた瞬間、その一瞬一瞬に魂が乗るからこそ楽しいところがある。

特にこの「ラッシュライフ」、最後まで読み進めても分からなかった、もとい描かれなかった、と思っていたことが、再度読み直したら「こんなところに。。。。」

この快感はそうそう塗り替えられる気がしない。

 

ピースがはまって完成したジグゾーパズルは、最後に全体を眺めて悦に入ることで完成を自覚する。

話のすべてを見通したときの絶頂感を、ぜひとも味わってもらいたいものである。

 

どうでもいいけどポニテの若く綺麗な白人女性って想像を掻き立てて心の中の変な動物が騒いじゃうね。

世代が世代だけに、馴染みが深いものである。

少年の頃、何も意味がわかっていないながらもその語感や独特の雰囲気に大笑いしたものだった。

友人らと集まってはPCの前に齧り付き、繰り返し繰り返しみていたことは今でもいい思い出だ。

 

しかし、所詮は小学生、児戯の一つでしかない。次第に印象は薄れさり、記憶の片隅にかろうじて残る程度の「楽しかったこと」でしかなくなっていた。

 

それが、大人になった今、よもや動画サイトで本家本元に行き当たるとは。その時は大層驚いたものだ。まさか、これは…!?と。

子どもの頃に失くしたまままま忘れていた宝物が、ある日突然見つかったような、驚き、高揚、いろいろなものがないまぜになった感覚だ。

 

僕は、「同音異義の交錯」というネタが好きだ。

 

ただ、それだけが言いたかった。