エホバの証人 新潟県元2世会衆 jw.org→jw.orz

エホバの証人 新潟県元2世会衆 jw.org→jw.orz

jw.orgにいた2世がjw.orzになり、やがてとあるプロテスタント教会のしがない牧師にと流れ着いたある男の徒然草。
新潟県のエホバの証人元2世の戦友が出会えるきっかけの場になればいいかなー

このサイトは、新潟県出身・新潟県在住の元エホバの証人2世や、「エホバの証人もうやってらんないよ」と思っている現エホバの証人2世が交流する場があればいいかなー、と思い、エホバの証人の教理変更で脱出する方々が出てくるあろう2013年秋にえいやっ!と開設したものです。

掲示板はこちら→http://ameblo.jp/exjw2-niigata/entry-11627410535.html

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約2年ぶりに日記を上げます。とりあえず生きています。

最近、標記の件で変な騒ぎが起こっていますが。

結論から言うと、論拠不十分で話に全くなりません。問題外の議論するに値しないものです。それは件のブログを見ればすぐわかることです。

そもそも、ホットペッパーのクーポンを利用して試算可能な2次会の値段設定に限って言っても、宴会コース料理2時間飲み放題付きで約3000円、飲み放題4時間延長で約3500円、合計6500円であり、アラカルトの料理代とドタキャンのリスクとを合わせれば、妥当な金額であると思われます。

また、営利目的で本の紹介はしていたのかは、ここ10年間1次会に出ていないので知りません。
(最初にアップした際に即売会云々と書いたが削除。仮に出版社から著者割引で購入した本をわざわざ持ってきて売ったとしても著者が得られる差益は定価の1〜2割なので微々たるものである。)

ま、正確な引用がなされず、蓋然性が低く明確な論拠なしで批判することは、無益有害以外の何ものでもありません。加えて、インターネットの情報は二次資料と同等かそれ以下の信用度が低い扱いであることを十分弁える必要があります。
大変お久しゅうございます。
単発での投稿です。

今から37年前の1978年に、南米ガイアナで大量集団心中事件がありました。
ジム・ジョーンズ率いる人民寺院の事件です。

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↑ジム・ジョーンズ


但し登場人物名は変えてある。

この教団の問題性は、教理的な逸脱もさることながら、

ジョーンズの絶対化・神格化
閉鎖的コミュニティの形成(ジョーンズタウン)
情報の遮断
上記に伴う正常な判断能力の喪失(集団心中の際に抵抗した人が少なからずいたものの)

といった、カルトの要素満載だったことでありました。

最近になって、かなり遅れて先に挙げたリンク先の映画を知ったのでありますが、人民寺院の有様は、どこかの集団、どこかの国と相似性があると思いませんか。

国家的マインドコントロールに陥った戦時中の日本に、
JWに(集団心中をしないとはいえ)、
そして、
ここ3年間にかなり右傾化しマスコミがジャーナリストとしての矜持を失っている今の日本に……。
浜田省吾の歌で「DANCE」という曲がある。



この曲に、このような詞がある。

デスクに頬杖ついて 想い出す子供の頃

浜田省吾がこの曲を発表した年齢を数年過ぎた歳になっているのだが、私も時折子供の頃を想い出すことがある。
もちろん、JW絡みの想い出ばかりであるが。

これまで想い出すことがなかったことで、最近ふと想い出したことがある。
タイトルに記したJWオンリーの保育所のことである。

保育所といっても、ちゃんと整った施設があったのではない。
「館長」である同じ会衆のT姉妹が居室として借りていたアパートを開放して営まれていたものなのである。
名前は「そらまめこども館」であった。
この名前はご存知の方はご存じであろう、「仲よしこども館」のパクリである。

そらまめこども館は、週に2、3回「開館」していた。
通っていた子供たちはみんな、JWの子供たちで、10人くらいいた。
同じ会衆の子供がほとんどだったっけ。
もう30年くらい前のことなので忘れていることが多いが、お遊びタイムや読書タイムがあった。
お昼のお食事タイムはもちろんエホバへの食事前のお祈りつき(笑)

そらまめこども館には、私が小学校に入学するまで、1年半か2年くらい通った。
私が「卒園」すると同時に、このこども館は「閉所」した。
「館長」であるT姉妹が道外に転居するためであった。

まだ雪深い2月か3月に、お遊戯会兼閉館式が催された。
通常使っていたアパートの居室では狭いためか、同じ会衆の別の姉妹の家をリビングで行われた。
歌を歌いながら踊ったりしたっけ。

4月に入って、T姉妹は引っ越した。
数年経った後、地域大会か何かの機会があって来道し、久しぶりに会った記憶がおぼろげながらある。
御健在であれば今は60代か70代のはず。お元気なのであろうか。

****

無茶苦茶な教義で束縛が多いJWを否定し脱出したとしても、そこでの想い出を全部否定し消し去ることはできない。
良くても悪くても、現在の自分を形成している過程の一部分であるのだから……
出張で東京近辺に出ていた。
で、またもターミナル駅の前でディスプレイ伝道をしているJWを見たのだった。

暑い中ごくろーさん。

で、ディスプレイ伝道について調べていると次のPDFにたどり着いた。


王国宣教って、こんなに情報量が減ったのか。
20年くらい前の紙面は細かい字がびっしり詰まっていたのに。隔世の感。
地域大会の季節であります。

私が現役2世だったのはあのオウム事件の年まででありますが、出身地である北海道の地域大会は、こんな由緒正しき施設で行われていました。

こんな時計が、

(とあるブログより借用)

あちらこちらに設置されている公園の中にある、

(北海道庁サイトより借用)

1972年に行われた札幌冬季五輪の会場であった、真駒内屋内競技場であります。
札幌五輪のフィギュアスケート競技中に、ジャネット・リンがすっ転んだ伝説の地です。

たまーに、こんな施設で行われる年もありましたが。

(ウィキペディアより借用)

北海道立産業共進会場です。
最寄りの地下鉄駅から20分くらい行軍しなければ会場にたどり着けません。

さて、本題のおもひでぼろっぼろであります。

~その1~

確か、1984年か1985年の地域大会であったと思います。
会場は真駒内屋内競技場。

前日の設営の自発奉仕に私の親が申し込み、私と妹もそれに連れて行かれました。
行ったとしても、ただの足手まといにしかならないんでありますけれども。

会場となるこの建物ができたのが札幌五輪の2年くらい前で、その当時で築14年か15年。
建物や設備が少しくたびれ始める時期でした。
観客席通路のステップの滑り止めも破損していたりしていました。

その時、どこかの会衆のある兄弟が工具を取り出して、壊れた滑り止めを修理してしまったんでありました。

あの当時は「良いことをしている」とガキンチョながら思っていたんでありますが、後々考えたらこれは問題ですよね。
所有者・管理者の許可なく設備をいじくっているのですから。
まあー、よくこんなことをしでかしたもんだと思いますね。
まだまだ大らかな時代だったからお咎めもなく許されることだったんでしょう。

あの頃はJW赤丸急上昇中の時代でありましたが、まだそんなに多く分散して開催されていませんでした。確か札幌A・Bだけだったはず。
1階にもパイプ椅子を並べ、さらにはステージ周辺にシートを敷いて土足禁止の正座席も設けてありました。
今では全くあり得ない席の作り方でしたね。


~その2~

1988年か1989年の地域大会だったでしょうか。
この年の大会は、例年と異なる、それこそ由緒正しき施設で行われました。

(北海道庁サイトより借用)

札幌五輪の開会式の会場であった、真駒内屋外競技場であります。
椅子はロイヤルボックス以外背もたれなしのプラスチック製のベンチ。

その当時の大会は4日間日程でした。
そのうち2日間は雨。
講演者は前面ガラス張りのプレハブの中で喋っているので、雨に打たれずに済んでいましたが、2階の観客席に座っている私たちは雨に容赦なく打たれるわけでして。
写真の通り、屋根などありませんから。

雨合羽着て傘を差しながらプログラム聞いていたら聖書を開いたりメモをとるのがちょっとややこしい。
で、我が家を含め複数の人がやったのが、
大きな透明の漬物袋を2枚用意し、そのうち1枚の袋の底を切り取り、もう1枚の袋とテープで連結し足先まで入る袋を作り、顔の部分に空気穴を開けて頭からすっぽりかぶる
というもの。
ゴミ袋だと薄くてダメです(笑)

まだまだ湿度が低く涼しかった頃の札幌だったからこそできる芸当ですよね。
津軽海峡から南でそれをやったら蒸し風呂地獄になります(藁)

空気穴から雨が少し侵入したりはしたものの、2日間の雨をそれで何とか切り抜けました(苦笑)
今更ながら、よくこんなことを思いついたよなー、と思います。

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他にも、朝のプログラム終了後に全力ダッシュして弁当をゲットしていたのをマークされてしまい、迂闊にも外すのを忘れた名札を会場整理か誰かがチェックしてメモったのか、会衆の長老か誰か経由で親に注意が入り後で叱られたことや、苦行だらけの大会であるにもかかわらず、大会の最後になると日常の戦場に戻るのが嫌でいつも泣いていたことなどの、私の半生から抹消したい思い出や、会衆の区域割の変更で他会衆から転入した2世の女子高生が、地域大会でめでたくバプテスマを受ける時に、元の会衆の親衛隊から「ヒョ~」と歓声が上がったエピソードなどいろいろありますが、長くなったのでこの辺で。
実は今、元JWオフ会から2週間くらいなのにまた関東に来ている。

卒業した神学校の恩師の定年祝いである。

恩師と久々にお会いできる嬉しさ、同窓生と久々に会える嬉しさで楽しいひと時を過ごした。

JWでは開拓者学校なるものがあったりしたが、そういう再会の嬉しさなんぞ全くないんだろうなあ、多分。

すみません、結構酔っ払っております。
それだけ、楽しく嬉しい時を過ごしたことをお汲み取り頂ければ。
今日の記事は全くでもって「どうでもいい」記事であります。

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元2世の方々の家庭では、視聴できるテレビ番組に制限がなかったであろうか。

例えば、こんな主題歌が流れるアニメは見てはダメだとか、



こんな背徳の番組はよろしくないだとか、



※上の動画は原作者同一・番組名と同名の映画版です

ものまね番組を見ていてレイパー佐藤が出てきたらチャンネル回されるとか。

※どうしても彼のものまねを見たいのでしたらググって動画をご覧あれ

逆に、見て良い番組と言えば、

日曜夕方7時半から始まるこんな系統のアニメだとか、



こんな音楽番組だとか、



王道のNHK教育テレビだとか。


(8月13日追記:上の動画が観られなくなったのでこちらをクリックして下さい。同じ動画です。)

我が家に於いて視聴制限があった小学生の頃は、見たい番組を見ることができなかったりしてぶすくれたりしたものですが、30年近く経った今は、Youtubeで動画を見て、かつて見ていた番組を思い出してノスタルジアに浸ることができてしまうものですから実に不思議なものです。
ちなみに、今は現役証人でないのにテレビがありません。理由は極めて単純、飽きたからです。

ちなみに、NHK教育テレビ系ではこんな歌もありましたですね。ご本人歌唱ではありませんが。


キリスト新聞社というキリスト教出版社があります。
そこから年4回発行されている『ミニストリー』という雑誌に、以前「礼拝探訪」という連載記事がありました。
その第1回目の記事で、私が当時勤務していた教会の日曜日の礼拝が紹介されました。今から5年ほど前でしょうか。
今回は、この記事を真似たブログ記事を書いてみたく思います。
ただし、私が現役2世だったのは1995年までですので、その当時の日曜日の集会の様子であることをあらかじめおことわり致します。

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【礼拝探訪】エホバの証人○○会衆の「集会」

 ○○県○○市にあるエホバの証人○○会衆を訪ねたのは○○年○月上旬。市内の住宅街の中にある「エホバの証人王国会館」で、日曜日の午前10時から集会が行われている。

 その「王国会館」は、もともとメンバーが所有する3階建ての雑居ビルを改造したものだった。もともと1階には一般企業がテナントとして入っていたが、退去したのを機に改装して、○○会衆に隣接する別の会衆の「王国会館」として使われている。3階はアパートになっており、○○会衆のメンバーが入居している。

 ○○会衆の「王国会館」はビルの2階にある。1980年代半ばに改装して「王国会館」にしたものである。改装当時、現在1階にある別の会衆と共同で使用していた。

 集会場(エホバの証人は礼拝堂と呼ばない)の構造は極めてシンプルである。外装はビルの外観そのものでシンボルはなく、内部も壇上に演台とマイクスタンドがあるのみである。会衆席は130脚近くのパイプ椅子が整然と並べられている。言わば、会議場のような雰囲気である。集会場の入口はオートロックになっており、カメラ付きのインターホンが設置してあった。開会まではオートロックを解除し、その後は施錠するとのことである。

 日曜日の集会は、「公開講演」と「ものみの塔研究」の2本立てである。集会の順序を記載した週報などは配布されない。順序は以下の通りである。

 歌、祈り、公開講演、歌、ものみの塔研究、歌、祈り。

 集会の前半は、男性メンバーの司会によって進行される。

 歌は、エホバの証人独自の讃美歌集である『エホバに向かって賛美を歌う』を用いて歌われている。この歌集は、225曲から成るものである。曲調は福音唱歌に影響されているように見受けられる。集会場にはオルガンやピアノなどの楽器がなく、カセットテープに録音されたピアノの奏楽がスピーカーから流され、会衆はそれに合わせて歌っていた。

 歌に続いて、司会者が祈った。その祈りは主の祈りをパラフレーズしたものに加え、集会に集められたことの感謝などが付け加えられたものであった。集会の締めくくりに祈られる祈りも同様のものであった。

 公開講演は、キリスト教会の牧師に相当する「長老」と呼ばれる男性メンバーが担当していた。この講演は、キリスト教会のように聖書テキストが朗読されたのに続いて、聖書テキストに基づいて説教が行われるのとは違うものである。現代社会の問題などを切り口にして、様々な多くの聖書箇所を引用して結論へと導くというものである。会衆席に座っている会衆は、聖書箇所が示されるたびに辞書のように聖書を開く。全員、聖書の横にはメモ用のノートを膝の上に乗せており、聖書箇所や講演のポイントなどをひたすらメモしていた。大学の授業さながらである。公開講演を強引に分類するならば、主題説教に分類されるものであると言えよう。講演の時間は50分近くに及ぶものであった。

 ものみの塔研究は、「ものみの塔聖書冊子協会」から発行されている『ものみの塔』という雑誌に掲載されている記事をテキストにして行われるものである。私はこの雑誌を持っていなかったので、隣に座っていたメンバーのものを見せてもらった。記事の本文には段落ごとに番号が付されている。そして、段落ごとの設問が脚注部分に記されている。そのメンバーの雑誌には赤ボールペンで線がたくさん引いてあった。脚注部分の質問の解答にあたる箇所に赤線を引いているようである。設問の答えはすべて、本文中に記されているようだ。しかし、記事の文章は、もともと英語で書かれた文章を直訳的に日本語に訳していると思われるものであり、難解なものが多かった。壇上には、公開講演を担当した「長老」とは別の「長老」が演台に立って担当しており、壇上の左側には朗読担当者の男性メンバーがスタンバイして、段落ごとに朗読していたのだが、彼の朗読を聞くたび、文章の奇妙さに首を傾げることばかりであった。

 ○○会衆の日曜日の集会に集まったのは120名ほどだった。ざっと見て、7~8割が壮年から老年の女性である。残りは男性と子どもたちである。子どもたちは大人のメンバーと交じって会衆席に着いていた。

 エホバの証人では、日曜日以外にも週日に2回集会が行われているが、子どもたちはこれらの集会すべてに大人と交じって参加している。「神の家族」には当然子どもたちも含まれるものであるがゆえに、子どもと大人を分けずに席を共にすることは聖書的に適ったものである。しかし、子どもと比較して高い読解力や理解力が求められる集会のプログラムに、子どもたちをそのまま同席させることが、子どもたちと共に生きることを表し、共に養われ成長させられるものであるのか、私は大いに疑問を抱いた。
先日のオフ会の翌日の話であるが。
仕事の会合を終えたのち、帰途につくためにターミナル駅に向かった。
そうしたら、駅の入口付近でJWがディスプレイ伝道を行っていた。それも1か所だけではなく、数か所で。
そこで、遭遇記念に『生命 どこから?』というブロシュアーを「これ貰ってくわ」と言って入手したのであった。

こわいもの見たさで見てみたい方はここをクリックすべし。

少しざっと読んでみた。
少し読んだだけでも頭がクラクラするし、疲れる(爆
それでも現役2世だった20年前はその手の文書をそれなりに読んでいたんだよなぁ。

少し読んで気になった点が一つある。
11~17頁の「だれが最初にデザインしたのか」という章の論の進め方である。

この章の内容をざっと書くとこんな感じである。誤読があれば指摘願いたい。

飛行機や対向流熱交換システムなどの人工物は、動物の身体的特徴・特性や内部機能を模倣して開発されたか、開発が進行しているものである。
自然界の種々の仕組みはデータベース化されており、これらの仕組みは生物学的特許として知られている。特許権の保有者は、通常、個人や企業である。だが、生物学的特許の実際的特許権保有者は自然であると強調され得るものである。
自然界に存在するあらゆるアイデアの宝庫であるのは、幾億年もの進化の結果であると考える研究者が多いであろう一方で、デザインされたことの明白性を無視すべきではないとする結論に至った研究者も存在する。
従前より高次の開発を実現した技術者は称賛を受けるに値する。自然界のシステムを模倣して技術上の難問を解決したとしても、自然界のシステムを造り出したのは理知ではなく進化であると考えるのは筋が通っているだろうか。模倣してできた物に理知ある設計者がいるならば元となったものについてはどうだろうか。最高の技術者とそのもとで技術を真似ようとする人とではどちらが称賛に値するだろうか。
最後にパウロ書簡の言葉(ロマ書1章19~20節)を引用して終わり。


あーあ、しち面倒くさい。て言うか、何言いたいんだ。余計な情報がゴタゴタ入り過ぎ。

要は、特許権という法的な権利という考え方を論述の中で利用しつつ、進化論でなく神による創造の正当性を論じようとしているのである。

お気付きになられたであろうか。
特許権という、進化論と創造論のどちらかの正当性を立証するのには全然関係のないカテゴリーのものを使って論を進めているということを。
普通に考えれば噴飯物である。


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実は、とある方から、このブロシュアーを入手し読んだ親戚が洗脳されかけているという相談を受けていたのである。
しかし、ブロシュアーの実物を読んだことがなかったので、的確なお答えをすることができなかった。
そのような出来事の後に、件のディスプレイ伝道に遭遇したのであるから、これ幸いと実物を入手して読んでみたのであった。
4分の1興味本位、4分の1仕事、半分ブログネタのために読んでみたとは言え、えらく疲れた。
「進化か創造か」という議論は、私としては些末過ぎてどうでもよくなっている。全く関心がなくなったのである。その中でこの手の文書を読んだのだから、余計疲労感が増したのかもしれない。
日曜日、仕事を終えた後、東京に飛んで元JWのオフ会に出席した。

このオフ会は、「昼寝するぶた」のゆーじさんがご存命の頃から継続的に開催されているもので、毎回40名を超える大規模なものである。
私は10年ほど前からこのオフ会に参加している。牧師と呼ばれる仕事に就いてからは、仕事と重なることが多くなったため参加することが叶わないことが多くなったが。
ここ2年間、東京方面への出張とうまくタイミングが合っていたので、参加することが叶ったことである。

このオフ会や、別の元JW系のオフ会に参加するようになったのは、20代半ばの頃であった。
いわゆる青年期である。
特に10年ほど前、「昼寝する豚」のオフ会の参加者は、多くが20代から30代の青年層で占められていた。
それから10年ほど経ち、私は中年層に片足を突っ込みつつある歳になった。

私を含め、このオフ会の常連となった方々は、青年層の終わりから中年層に入りつつある。
生活していた場所はそれぞれ違えど、共通の過去を共有できる人々と出会い、会話し過去や現在の出来事、思いを分かち合うことによって、私たちの心は徐々に落ち着いていく。
時を経て、JWの過去によってひき起こされた心の不安定が癒されていき、元JWのコミュニティに関わらなくても十分生きていける、と思っていても、人生の新たなステージを踏んでいくごとに、未だ未解決である問題が表出することがしばしばある。
このようなことは、中年になっても、やがて老年になっても、何かあるごとに起こるものであると思う。
だから、青年から中年、老年になったとしても、オフ会の場において与えられた繋がりを大切にし、現在における過去の課題を共有し分かち合う、加えて吐露していくことは必要なのではないか、と思うのである。
直接顔と顔を合わせることによって構築された関係性を、長く大切にしていきたいところである。

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私のブログをご覧になられている方々との出会いが、この度のオフ会においてありました。かなりの大人数の会であったため、私とお話ししたアメブロ会衆の方々のお名前などをすべて把握出来てはおりません。
私とお話ししたアメブロ会衆の皆様、私宛てにメッセージや読者申請をお送り下さいませ。