キリスト新聞社というキリスト教出版社があります。
そこから年4回発行されている『ミニストリー』という雑誌に、以前「礼拝探訪」という連載記事がありました。
その第1回目の記事で、私が当時勤務していた教会の日曜日の礼拝が紹介されました。今から5年ほど前でしょうか。
今回は、この記事を真似たブログ記事を書いてみたく思います。
ただし、私が現役2世だったのは1995年までですので、その当時の日曜日の集会の様子であることをあらかじめおことわり致します。
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【礼拝探訪】エホバの証人○○会衆の「集会」
○○県○○市にあるエホバの証人○○会衆を訪ねたのは○○年○月上旬。市内の住宅街の中にある「エホバの証人王国会館」で、日曜日の午前10時から集会が行われている。
その「王国会館」は、もともとメンバーが所有する3階建ての雑居ビルを改造したものだった。もともと1階には一般企業がテナントとして入っていたが、退去したのを機に改装して、○○会衆に隣接する別の会衆の「王国会館」として使われている。3階はアパートになっており、○○会衆のメンバーが入居している。
○○会衆の「王国会館」はビルの2階にある。1980年代半ばに改装して「王国会館」にしたものである。改装当時、現在1階にある別の会衆と共同で使用していた。
集会場(エホバの証人は礼拝堂と呼ばない)の構造は極めてシンプルである。外装はビルの外観そのものでシンボルはなく、内部も壇上に演台とマイクスタンドがあるのみである。会衆席は130脚近くのパイプ椅子が整然と並べられている。言わば、会議場のような雰囲気である。集会場の入口はオートロックになっており、カメラ付きのインターホンが設置してあった。開会まではオートロックを解除し、その後は施錠するとのことである。
日曜日の集会は、「公開講演」と「ものみの塔研究」の2本立てである。集会の順序を記載した週報などは配布されない。順序は以下の通りである。
歌、祈り、公開講演、歌、ものみの塔研究、歌、祈り。
集会の前半は、男性メンバーの司会によって進行される。
歌は、エホバの証人独自の讃美歌集である『エホバに向かって賛美を歌う』を用いて歌われている。この歌集は、225曲から成るものである。曲調は福音唱歌に影響されているように見受けられる。集会場にはオルガンやピアノなどの楽器がなく、カセットテープに録音されたピアノの奏楽がスピーカーから流され、会衆はそれに合わせて歌っていた。
歌に続いて、司会者が祈った。その祈りは主の祈りをパラフレーズしたものに加え、集会に集められたことの感謝などが付け加えられたものであった。集会の締めくくりに祈られる祈りも同様のものであった。
公開講演は、キリスト教会の牧師に相当する「長老」と呼ばれる男性メンバーが担当していた。この講演は、キリスト教会のように聖書テキストが朗読されたのに続いて、聖書テキストに基づいて説教が行われるのとは違うものである。現代社会の問題などを切り口にして、様々な多くの聖書箇所を引用して結論へと導くというものである。会衆席に座っている会衆は、聖書箇所が示されるたびに辞書のように聖書を開く。全員、聖書の横にはメモ用のノートを膝の上に乗せており、聖書箇所や講演のポイントなどをひたすらメモしていた。大学の授業さながらである。公開講演を強引に分類するならば、主題説教に分類されるものであると言えよう。講演の時間は50分近くに及ぶものであった。
ものみの塔研究は、「ものみの塔聖書冊子協会」から発行されている『ものみの塔』という雑誌に掲載されている記事をテキストにして行われるものである。私はこの雑誌を持っていなかったので、隣に座っていたメンバーのものを見せてもらった。記事の本文には段落ごとに番号が付されている。そして、段落ごとの設問が脚注部分に記されている。そのメンバーの雑誌には赤ボールペンで線がたくさん引いてあった。脚注部分の質問の解答にあたる箇所に赤線を引いているようである。設問の答えはすべて、本文中に記されているようだ。しかし、記事の文章は、もともと英語で書かれた文章を直訳的に日本語に訳していると思われるものであり、難解なものが多かった。壇上には、公開講演を担当した「長老」とは別の「長老」が演台に立って担当しており、壇上の左側には朗読担当者の男性メンバーがスタンバイして、段落ごとに朗読していたのだが、彼の朗読を聞くたび、文章の奇妙さに首を傾げることばかりであった。
○○会衆の日曜日の集会に集まったのは120名ほどだった。ざっと見て、7~8割が壮年から老年の女性である。残りは男性と子どもたちである。子どもたちは大人のメンバーと交じって会衆席に着いていた。
エホバの証人では、日曜日以外にも週日に2回集会が行われているが、子どもたちはこれらの集会すべてに大人と交じって参加している。「神の家族」には当然子どもたちも含まれるものであるがゆえに、子どもと大人を分けずに席を共にすることは聖書的に適ったものである。しかし、子どもと比較して高い読解力や理解力が求められる集会のプログラムに、子どもたちをそのまま同席させることが、子どもたちと共に生きることを表し、共に養われ成長させられるものであるのか、私は大いに疑問を抱いた。