エホバの証人 新潟県元2世会衆 jw.org→jw.orz -2ページ目

エホバの証人 新潟県元2世会衆 jw.org→jw.orz

jw.orgにいた2世がjw.orzになり、やがてとあるプロテスタント教会のしがない牧師にと流れ着いたある男の徒然草。
新潟県のエホバの証人元2世の戦友が出会えるきっかけの場になればいいかなー

ずっと記事を書かず放置しておりました。

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先日のことでありますが。

Facebookで適当に知っている名前を入れて検索していたら、現役2世時代に会衆にいた長老を発見しました。

プロフィール画像を見てみたら、まさしく彼。

彼のタイムラインを見てみると、仕事で日本全国飛び回った折にうまいものを食べたとか、有名な仏閣を観光したというようなセレブなものばかり。

あんな書き込みばかりでは、今も現役でJWをやっているのかわからなかったので、試しにメッセージを送りつけてみました。

メッセージ送信して数十分後に開封されました。
で、速攻ブロックされました。めでたく忌避。

ま、元気にやって下さい、と心の中で軽く彼を軽蔑しておきました。

以上、忌避報告でした。
ひと月以上日記を書いていませんでした。
年度替わりでばたついていましたので。
「いいね!」を押したりコメントを書いたりとかはしませんでしたが、読者登録させていただいているブログは時折チェックしていました。

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キリスト教のミサ・聖餐式・礼拝の中に、「罪の告白」というのがある。
カトリックや聖公会、ルター派、特に米国のメソジスト派といった典礼的な教会や、長老派のうち典礼をしっかり検討している教会では、典礼の構成要素に含まれている。

罪の告白は、神の救いという恵みがあるという前提がなければ、それをすることができない。
私は罪を犯した、赦されざる者であるにもかかわらず神はキリストにおいて救って下さる、という福音があるからこそ可能なことである。
だからと言って、罪を犯した、即赦しの恵み、とあたかも自動販売機のように考えてはいけない。「にもかかわらず」が重要ポイント。

しかしJWでは、長老に対して罪の告白をしても赦しも救いも恵みもへったくれもないわな。
第2会場で身に覚えのない濡れ衣を着せられもする恐怖政治の組織構造だもん。
1995年に地下鉄サリン事件が起こり、今日で19年経った。
オウム真理教によって起こされた事件であった。

1990年代前半から中盤にかけて、オウム真理教によって起こされた弁護士失踪や公証人役場事務長拉致事件、松本サリン事件、また統一教会の合同結婚式など、新新宗教の事件や問題が大きくクローズアップされた。
その頃から、「破壊的カルト」、「マインドコントロール」という言葉が世間に認知されるようになったと記憶している。

なお、これらの2つの用語についての説明は、他のサイトに詳述されているのでここでは特に取り扱わない。
ポータルサイトで検索して語義を確認していただきたい。

エホバの証人も、これら2つの用語をアプローチにして問題性が説明された。
それに関する単行本も出版された(ウィリアム・ウッド『エホバの証人―カルト集団の実態』三一書房、1997年)。

ウッドの上掲書において、1985年にアメリカで開かれた「カルト問題:学者と識者のための協議会」で採択されたカルトの定義が以下の通り紹介されている。以下、引用する。

引用始め~~
カルトとは、ある人間か、観念か、物に対して、過度の忠誠心・献身を現し、非倫理的な方法で人を操作したり、高圧的な手段により人を説得したり、コントロールしたりしようとする集団、あるいは運動である(その方法とは、友人や家族から隔離させること、衰弱させること、暗示感応性や服従心を高めるための特別な手段の使用、グループによる強い圧力、情報統制、個性の抹消や批判的な考えの停止、グループに対する依存心やグループを離れることに対する恐怖心を助成することである)。これらの手段は、グループの指導者たちの目的を推進するためのものであり、実際に信者自身やその家族、及び社会に損害をもたらす(あるいはその可能性を秘めている)ものである。
~~引用終わり
(上掲書、26頁)

エホバの証人は上記の定義の方法条件に合致する要素を多く持ち、カルト性を帯びた宗教集団であることを、ウッドは上掲書で論じている。
詳しくは購入するか図書館で閲覧するかして上掲書を参照されたい。本は買って読みましょう。

エホバの証人は、オウム真理教のようにテロ行為などは行ってはいないものの、人格や精神、生活、家庭を破壊している。
それは、アメブロ会衆における数多くの証言からも明らかである。

「破壊的カルト」、「マインドコントロール」という用語が、19年前のひと頃のように多く取り上げられることはなくなった。
だが、改めて、その用語によって現在発生している諸問題を整理し、エホバの証人の問題性を再確認する必要はあるのかもしれない。
youtubeにアップされている動画。



戸別訪問に来たJWが家の人(撮影者)に見事に論破されちゃっています。

撮影者の返しは
極めて正論です。
目ぇ覚めて普通に考えればそうだよね、という話です。
特に聖書の記述と大災害などを牽強付会に結びつけることとかは。
私は脳みそがないので動画みたいに話を持っていくことまではできませんでしたが、よくもみんなしゃあしゃあと喋ることができたもんだなあ、と思います。

そういう本日は4年目の3・11です。
大津波にさらわれて現在も行方不明である元JW2世の戦友を想いつつ過ごすことになります。
エホバの証人の布教手段は、大雑把に分類するならば文書伝道となる。
もちろん戸別訪問や街路伝道で誰かと会話するということはあるが、それは文書配布のためのものであるから、訪問伝道のカテゴリーに入れるのには難がある。

エホバの証人・ものみの塔が出現したのは19世紀後半のアメリカである。
当時は紙が唯一の情報媒体であったような時代であった上、現代のように情報過多ではなかったと思われることから、思想を宣伝するために雑誌などの印刷媒体を利用するのは幾らか有効であったことであろう。

しかし、時代が下っておよそ140年経った今、テレビやラジオ、インターネットなどと情報媒体が多様化し、情報の洪水・情報過多である中では、紙媒体による宣伝効果が薄れつつあることは否めない。
だいたい、譬えて言うならば、元旦の分厚い新聞を隅から隅まで読み、一緒に折り込まれている大量の新聞チラシを全部見ようとする気が起こるだろうか。それと同じである。
現代における宗教系のチラシは、元旦の大量の新聞折り込みチラシに紛れ込んでいるパチンコ屋のチラシみたいなものである。

さて、日本でインターネットが普及するようになって20年近く経った。
その前後から、教会や寺院などがホームページを開設するようになった。もちろん、目的は布教である。
インターネットは悪と扱っていた癖して、エホバの証人も遅れに遅れて公式サイトを開設している有様。

紙媒体での文書伝道に固執していたエホバの証人が、さんざんこき下ろしていたインターネットを使うようになった経緯は知らない。布教手段として有用であると判断して利用に舵を切ったことは予想できる。
しかし、エホバの証人のみならずサイトの内容云々は除外して、布教・宣伝媒体としてインターネットは宣伝効果が高いか、と言えばそうではないと私は思う。

その一番の理由は、
インターネットは閲覧者が当該サイトにアクセスしなければその情報に触れることができない、ということ。
その情報に触れるか触れないか、選択権を有しているのは閲覧者にあるのだ。余計な情報に触れるストレスはなくなるからそれは良いのであるけれども。
しかし、情報発信者サイドとしては、チラシのばら撒きやテレビやラジオのCM垂れ流しのように、浅く広く宣伝し、自ら発する情報を広く伝達することができないのである。

全世界に広がるネット網によって情報伝達範囲が全世界に広がることと宣伝媒体としての有用性は別なのである。
当たり前のことをわざわざ言うな、と怒られる話であるが。

大学の頃、マーケティング論の講義で口コミによる宣伝効果が高かった事例を勉強した記憶がある。詳しいことは全く忘れてしまっているが。
エホバの証人にしても、あちこちにあるキリスト教会にしても、口コミ宣伝効果は……ないな。
双方でそれぞれに起こった問題や不祥事の方が、口コミ情報を吹き飛ばすほど情報の威力が強いから。

キリスト教会の世界でもビラとかがあるが、宣伝効果や受領者の反応はエホバの証人の場合と大差ないことを最後に付言する。
エホバの証人よろしく、教会の人間も良かれと思ってビラなどを渡したりするものであるから、エホバの証人並みに質の悪い連中だと受け取った人は思っているに違いない。
唐突であるが、財産は神からの賜り物であるというのが、旧約以来のキリスト教の考え方である。
現代社会では受容されにくい考え方であると思われるが。

そのような考え方であるからこそ、十分の一を献げるというのがあるわけである。

以前別のブログで話題に取り上げて下さった方がいるが、キリスト教会では什一献金の精神に則った月定献金というのがある。
都会の大教会になればなるほど、収入が多い人になるほど、個々人の収入と比べて5%も献金していないんじゃないか、と思う傾向はあるが。地方で小規模になればなるほど、什一に近い割合で月定献金を献金する人が多くなる。

月定献金を含めた収入は、教役者の給与や教会本体の光熱用水費、負担金などで7~8割は消える。人件費だけで半分超えるのであるから、収支構造としては本来はよろしくない。建物や備品の減価償却を行ったとしたら、大幅な赤字になる。故に、減価償却は行えない状態。
賜り物である教会の財産を保全できない財務状況は極めて問題なのであるが、手も足も出ない。
ちなみに、私が受け持っている教会でずっと行っていなかった減価償却を一気に行ったとすれば、年間収入の4倍を超える赤字となる。

教役者が自分の収入のために、信徒が献金した財産を食い物にしているのでは決してない。しょうもない例外人物もごく一部いるようであるが。
日本のブルジョアが多く集まるような都会の大教会を除けば、必然的に人件費比率が高くなり苦しくなっていく教会が今後増えていくのではなかろうか。

JWでは、最近のワケのわからない推奨金額提示の寄付要請もあるようだが、完全に自由献金の扱いとなっている。
金額としては什一ではないものの、奉仕活動という名の労役で実質的に什一以上の献金をしているのではないか、と思う。
そのようにして献げた財産が何に使われているのかよく分からないというのは、献げられた財産を保全する責任を有する者の責任が問われることであることは言うまでもない。
この1年の間、親しくした方々が亡くなられた。

一人は最初に勤務した教会で2年間教会生活を共に送った、当時神学生だった後輩の牧師。人生の先輩ではあるが。

もう一人は神学校の卒業論文を書く際に指導教官を引き受けて下さった大先輩の牧師。私にとっての師匠である。

先週はその師匠の葬儀に参列した。
前任地の教会で行われた納棺式から立ち会ったが、師匠とおよそ4年ぶりに対面した時、涙が流れた。
やっと会えたという思いと、生前会うことができなかった悔しさが入り混じりながら。

そして、感謝と寂しさと悲しさが交錯する中、お見送りを終えたのであった。

師匠が最期に遺した言葉の一つが、また会おうね、であった。
我々は神によって必ず新たに変えられる。そのようにされた姿で、また会おうね、と。

とは言えども、やはり寂しいし悲しい。
しかし、その時を待ち望みつつ生きるよう、今我々に求められている。

今生かされている我々。
彼らが遺した歩みを想起しつつ、歩みの姿勢に倣いつつ生きていきたいと思うところである。
到底真似することはできないが。

また、自分たちの肩にのしかかる責任がさらに増していることも実感するものである。

師匠の死でかなり精神的にショックを受けている。
ある程度落ち着いたら、またぼちぼち記事をアップしたく思う。
チイチイパッパ チイパッパ
すずめの 学校の 先生は
ムチを 振り振り チイパッパ

***

昭和末期(今から30年近く前)、地域大会や巡回大会では大会宿舎システムがあった。
それは、大会開催地のJWが、遠隔地から大会出席のために来るJWを家に泊めるというものである。
私の家も、何回か宿舎提供したことがある。

ある年の地域大会で宿舎提供した時のことである。
その時に泊まったのは、母親と中学生と小学校高学年のきょうだい2人だった。
そのきょうだいが、何か悪さをしたようだった。
キレた母親は、きょうだいを正座させてお説教を始めた。
当時、私たち家族が住んでいた家は、2K風呂なしのアパートの一室であり、洋室と和室の引き戸を外して一続きにさせていたため、お説教風景は丸見えである。

やがて、ついにその時がやってきた。
「尻を出しなさい。」
きょうだいは尻を出し、母親にパシーンと叩かれる。
ベルトもゴムホースも何もなかったので素手であったが。
きょうだいは2人共しくしく泣いていた。
このムチ風景も、すべて丸見えである。

休息の場からスズメの学校に変貌してしまった大会宿舎だったのであった。

多感な十代前半の時に、JWの親によって羞恥プレイを受けたきょうだいは、今どうしているのだろう。

やられた子どもは、そういった出来事をいつまでも覚えているものであるが、ぶった親の方は全然覚えていない上に自己正当化するものであるから、実に能天気でおめでたいものでなのである。
遅れ馳せながら、jw.orgで『せいしょのべんきょう』という冊子を見た。

上記冊子のPDF→PDFファイルへゴー

表紙含め16ページという薄さにびっくり、絵の極端なチープさにずっこけ。
PDFファイルで見ているので、紙の厚さがどのくらいかはわからないが。

扱っている分野はこんな感じ。
1)創造論その1
2)洪水物語
3)隣人愛
4)自然の恵み
5)感謝
6)創造論その2(人間)

上に列挙した分野をざっと見て、重大な分野が欠落していることに気付かれた方がいることであろう。

キリスト論である。

キリストが神なのかそうではないのか、十字架に架けられたのか杭にかけられたのかを、ここでは問題にしない。
イエス・キリストの死によって、神の「過分のご親切」がすべての人に対して与えられた、というものがなければ、聖書の中心部分に大きな穴が空いてしまうのである。
聖書の物語りは、神のイエス・キリストを通した人間に対する救済の物語りである。
イエス・キリストが欠けてしまったら、聖書を十全に語ったとは言えないのである。

しかしまあ、キリストが一切出てこない聖書のレッスン本(『せいしょのべんきょう』の原題は "My Bible Lessons" である)なるものを、生まれて初めて見たことである。

どうでもいいことだが、3番目の項目のイラストで、電話で友達の病気の知らせを受けた親子が笑顔なのはどうしてなのだろう。
阪神大震災発生から19年である。

その日は中学の始業式であった。
テレビで放映されているとんでもない映像に絶句しながら朝飯をかき込み、学校に行ったことを覚えている。

震災発生後、赤十字社が義捐金募集を始めたのは当然の流れであるが、JWも義捐金募集を始めた。
どちらに僅かながらでも募金しようかと逡巡したが、結局JWの義捐金専用寄付箱に入れたのであった。

今となれば、莫迦なことをしたもんだなー、と思う。
基本、使途不明だもの。会計報告なんて出るわけないし。

あのお金って、一体何に使われたんでしょうね。

ちなみに、東日本大震災の時は友人が津波にさらわれたショックと関東でも頻繁に起こった余震による地震酔いでグロッキーになってしまい、何も行動を起こせませんでした。