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続プロシタン通信

プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

 

エディ・グラハムは1930年に米テネシー州チャタヌーガで生まれました。デビューは47年とも49年とも言われています。

 

「フロリダってのはねぇ、まずはレスリングをカッツリと見せるテリトリーだったよ」

 

78年、武者修行時代にサーキットした天龍源一郎は述べました。そんなフロリダの特徴を作ったのは仕切っていたのがグラハムだったからです。地域のアマレスにも運営費を拠出していたといいます。プロモーターとしてのグラハムは、ドン・カーティス、ダニー・ホッジ、ヒロ・マツダ、ジャック・ブリスコら、レスリングの猛者を重用しました。

 

レスリングをカッツリと見せる点ではバーン・ガニアのAWAや日本との共通点も多いですね。グラハムとガニアは50年にオクラホマ州タルサで行われたNWA世界ジュニアヘビー級王座決定トーナメントに共にエントリーした仲でした。ただ、ガニアと異なるのは、ガニアが大学出のエリートであったのに対し、グラハムは17歳でデビューせざるを得ないほど生活に困窮していたということです。レスラーとしてはサム・スティンボートとのコンビで南部諸州を席巻したことでしょう。スティンボートとのコンビはプロレス史的に重要なタッグティームだと思います。しかし、我が国での評価は低いと思います。

 

サム・スティムボート(1934~2006)は、ハワイのマウイ島出身です。56年にハワイでデビューし、57年にはアメリカ本土に進出しました。64年、フロリダ入りとともにグラハムとティームを結成しました。

 

さて、スティンボートといえばリッキー・スティンボートを思い出される方が多いと思います。リッキーはAWAからフロリダ地区入りした76年にリングネームもディック・ブラッドから改名しました。リッキーは当初サムの甥を名乗っていました。しかし、本当のところ血縁関係はありません。ここで重要なのは、リッキーがスティンボートをリングネームにするほど、サムがフロリダで伝説的な存在だったということです。

 

スティンボートとのコンビ解散後の70年9月から、養父クラレンス・ルットレルのあとを引き継いで、フロリダ地区の統括プロモーターとなりました。記録上、最後の試合は、記録では80年1月7日、フロリダ州セントパームビーチでダスティ・ローデスと組んで、バグジー・マグロー&レロイ・ブラウンを破った試合です。そして85年に亡くなりました。