フロリダ地区でのラテン系レスラー | 続プロシタン通信

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プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

(エドワード・ペレス)

 

ちょっと小難しくはなりますが、考えたことを書きます。

 

メキシコやキューバ、プエルト・リコなどラテン圏に近いアメリカの州、カリフォルニア、テキサス、ルイジアナ、フロリダの各州の文化は、ラテン圏の影響を強く受けています。リング上でもカリフォルニアではミル・マスカラスやチャボ・ゲレロ、テキサスではホセ・ロザリオなどラテン系レスラーがトップを取りました。しかし、ルイジアナ、フロリダのリング上にラテン系の存在感はありませんでした。

 

70年代の初頭まで、プエルト・リコはフロリダ地区のサーキットコースでした。が、プエルト・リコ人、例えば、ペドロ・モラレスにしてもビクター・リベラ、ジプシー・ジョーにしても、フロリダを飛び越してニューヨークに行ってしまいます。 

 

なぜなのか。そんなことを考えてみたいと思います。ルイジアナについては、詳細は別項で語っております。ラテン系住民のコミュニティの規模が小さかったか、もしくはアフリカ系との混血が進んだのかなと思いますが、深入りは避けます。 

 

しかし、フロリダは十分に大きなラテン系住民のコミュニティが存在しているにも関わらず、ラテン系の出る幕がなかったように思えます。 

 

フロリダ地区の熱戦譜を見ると、ラテン系レスラーがいないわけではありません。やはり中西部や北部に比べると多いと思います。 例を挙げれば、69年に1度だけ日本プロレスに来たエドワード・ペレスです。ペレスは1928年に生まれ、51年にデビューし、54年以来72年の引退まで、キャリアの多くをフロリダ地区で過ごしてきました。しかし、この地区でタイトルを一度も取っていません。全くと言っていいほどプッシュされません。かませ犬に徹したという感じです。 

 

フロリダ地区が場末のテリトリーから一流のテリトリーになったのは、プロモーター、クラレンス・ルッテレルがその基礎を作ったからだと思います。そこにエディ・グラハムが北部のエッセンスを持ち込んで、観客動員につながったというところでしょう。最大のヒット作品は、カンザス、デトロイト、オハイオ、AWAといった中西部や北部で名を挙げた南部ノリのレスラー、ダスティ・ローデスのベビーフェイス転向(74年)と思います。 

 

ローデス人気により、フロリダの白人、黒人は会場に足を運びました。しかし、ラテン系住民の存在感が見えてこないのです。経済格差の問題なのかもしれませんが、歴代のプロモーターはラテン系住民向けのマーケティングに積極的でなかったように思います。 

 

ここにフロリダ地区の特質が現れているのではないでしょうか。つまり、北部からの流入レスラーを中心として、北部からの流入白人(人数的には馬鹿にならなかったようです)を対象の中心として興行を組んだということです。ターゲットが黒人にまで広まったのは、ローデス以降のように思えます。 

 

ラテン系住民は数だけはいるので、その中からプロレスラー志望の者も現れます。しかし、ラテン系住民は客層の中心にはなりません。ルッテレルの時代、チケットを買える経済力もなかったのかもしれませんね。ラテン系レスラーの供給はあるが、需要がない。ペレスの扱われ方に象徴される、フロリダ地区マット界の本質の一面のように思えます。