ゴッチ、マレンコ、そしてマツダ | 続プロシタン通信

続プロシタン通信

プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

(マツダとゴッチ)

 

フロリダ地区は1960年頃のエディ・グラハムの定着により、語るに値する存在となった。これが私の持論です。グラハム定着からちょっとして、62年、3人の新参者がフロリダ地区入りします。そしてその3人はフロリダマット史に大きな影響を与えます。

 

まずはカール・ゴッチです。

 

ゴッチのフロリダデビューは62年3月24日、タンパでのTVマッチでドン・ウィットラーに勝ちました。ゴッチはオハイオ地区から入ってきて、2ヶ月後、再びオハイオ地区に戻ります。そして「ロジャース殴打事件」を起こします。

 

ゴッチのフロリダマット史における存在意義は、71年、ここに定住し、「ゴッチ宅」の枕詞を「フロリダの」にしたことでしょう。UWFの歴史を考える上で、「ゴッチ宅」は外せません。また、82年に現地に遠征したジャンボ鶴田がゴッチ宅を訪ねるなんてこともあり、「ゴッチ宅」はすでにプロレス用語ですね。

 

次はグレート・マレンコです。ジョー、ディーンのお父さんです。

 

マレンコは58年にわずかながらフロリダで闘ったことがありました。しかし本格参戦は62年からです。最初の試合は4月2日、オーランドでの対ジョー・スカルパ戦、反則負けでした。スカルパは後のチーフ・ジェイ・ストロンボーです。マレンコはヒール側に振り分けられましたので、ベビーフェイス側のゴッチと何回も闘っています。

 

その後は、「チェーンマッチの鬼」と言われたり、道場も構えましたね。

 

最後はヒロ・マツダです

 

60年にペルーに飛んだマツダは、その後メキシコを経て61年にアメリカ入りします。上陸の地はテキサスでした。その後、オクラホマ地区で闘い、フロリダ入りは62年も押し迫った12月29日、ジャクソンビルでロイ・ヘフナンと組んで、ドン・カーティス&スカルパに敗れました。マツダ&ヘフナン組、珍しいティームです。このティーム結成は、2つの偶然の重なりで生じました。

 

ヘフナンといえばアル・コステロとのザ・ファビュラス・カンガルーズが余りにも有名です。この時もカンガルーズとしてフロリダをサーキットしていたのですが、12月20日、コステロが突然リングから消えます。おそらく怪我でもしたんだと思います。これが一つ目の偶然です。

 

もう一つの偶然はドリー・ファンク・シニアの欠場です。本来はマツダではなくシニアがヘフナンのパートナーでした。しかし、シニアが欠場し、代打としてマツダが出たのです。シニアの欠場がなければ、マツダのフロリダデビューは翌63年になっていたかもしれません。

 

マツダはダニー・ホッジを破ってNWA世界ジュニアヘビー級王者になったことで有名です。64年の7月、場所はタンパでした。ちなみに翌月、そのタンパではゴッチがテーズのNWA世界ヘビー級王座に挑戦しています。

 

マツダも、吉田光雄(長州力)やハルク・ホーガンを始めとして、若手の面倒を見ました。もっとも、余り面倒見が良くなかったようですが。

 

長州だけでなく、日本のレスラーがフロリダに飛ぶ場合、試合だけでなく、コーチを受けることが目的であること、多々ありました。そしてそのほとんどがゴッチ、マレンコ、マツダのいずれかの世話になっています。その3人がフロリダと縁を持ったのが、揃いも揃って62年だったのは偶然とはいえ、面白いものですね。