NWA世界タッグ | 続プロシタン通信

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プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

 

NWAはAWAやWWFとは異なり、正式な世界タッグ王座を認定しませんでした。「NWA世界タッグ王座」は、サンフランシスコ版とかデトロイト版とか、テリトリーが勝手に認定していました。したがって、世界に一つのはずの「世界タッグ王座」がアメリカには幾つもありました。

 

なぜそうなったのでしょうか?

 

要は、NWAが出来た段階で、タッグマッチの歴史が浅く、王座を認めるという発想がなかったからだと思います。そして気がついたら各テリトリーに世界タッグがウジャウジャあって、変に統一してしまうと、会員プロモーターの商売の邪魔になるということでしょう。

 

さらに実際に運営するとなると、正式に認定していたヘビー級王座、ジュニア・ヘビー級王座、ライト・ヘビー級王座のように、タイトル委員会を設置し、諸規則で王者を縛る必要も生じます。

 

加えて、NWAはプロモーターのトラストであるゆえ、王者はテリトリーを越えて防衛戦の旅を続けることになります。

 

これだけの事を、二人のレスラーに同時に行わなければいけません。スケジュールも同時に押さえなければならず、非常に煩雑な作業が生じます。

 

ではそういった障害を乗り越えて、正式な「世界タッグ王座」を作ったらどうなるでしょうか?

 

1968年の段階でジャイアント馬場&アントニオ猪木のBI砲がNWA世界タッグ王座に就いたと仮定してみます。まず、王座就任の前提が、各テリトリーで防衛戦を行い、観客動員につなげるだけの能力になります。能力に関しては、BI砲は合格としましょう。

 

そしてふた月に一度は総本山セントルイスのリングに上がり、月に三週間は、タイトル委員会の指示でアメリカの各テリトリーを回ります。日本プロレスのシリーズはどうなるのでしょう?NWAというシステムの中でトップを二人、NWAに持っていかれるということは、団体が成り立たないことに気づきます。

 

無理を承知でNWA世界タッグ王座に就けたティームは存在したか、を考えてみます。?歴史上、ほぼ正式なNWA世界タッグ王者のようなサーキットをしたティームはひとつだけ存在しました。それは1964年から67年のエディ・グラハム&サム・スティンボートです。そしてこのティームのホームリングはフロリダ地区でした。