エディ・グラハム&サム・スティンボート対極道コンビ | 続プロシタン通信

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プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

 

以下述べる、王座の変遷についてはかなりゴチャゴチャしています。しかし、ヨガの修行だと思って、頑張って読んで下さい。まず、大前提として、G&Sのホームリングはフロリダ地区であることを頭に入れて下さい。

 

・1964年

 

G&Sの初試合は64年6月23日にフロリダ州タンパでクリス&ジョンのトロス兄弟を破った試合です。この試合でG&SはNWA世界タッグ選手権(フロリダ版)を奪取しました。

 

11月3日、G&Sはタンパでターザン&ティムのタイラー兄弟に敗れ王座を失います。するとG&Sはジョージア地区のアトランタに現れ、メディックスと抗争します。この抗争がジョージア地区のタイトルがらみだったかどうかは不明です。

 

NWA世界タッグ選手権(フロリダ版)は12月10日にフロリダ州ジャクソンビルで奪還しました。そして65年1月28日にジャクソンビルでフレッド・ブラッシー&ターザン・タイラーに敗れるまで保持しました。

 

・1965年

 

5月24日、G&Sはミッドアトランティック地区のノースカロライナ州シャーロットにいきなり南部タッグ王者(ミッドアトランティック版)として現れ、エルド・ボグニ&ブロンコ・ルービッチを破り防衛しました。

 

6月29日にはテキサス地区ダラスにいきなりNWA世界タッグ王者(テキサス版)として現れ、フリッツ・フォン・エリック&キラー・カール・コックスに敗れ、奪取されます。

 

翌日からはアマリロ地区をサーキットし、7月1日にテキサス州アマリロでマイティ・ヤンキーズを破ります。この試合がタイトルがらみだったかどうかは不明です。

 

8月2日からはテネシー地区に断続的に現れるようになり、9月にはいつのまにかNWA世界タッグ王者(テネシー版)を保持していました。その後、フロリダ地区とテネシー地区を往復します。

 

・1966年

 

66年1月27日にはテネシー州チャタヌーガでヒロ・マツダ&猪木完至に王座をNWA世界タッグ王者(テネシー版)を奪取されました。マツダ&猪木は2月14日テネシー州メンフィスでの対G&S反則負け防衛を最後に地区を離脱し、タイトルは返上ということになります。そして28日のメンフィスでの王座決定戦、G&Sはカール&エリックのフォン・ブラウナー兄弟を破って王座に復活しました。しかし、この試合がG&Sにとってのテネシー地区ラストマッチとなり、王座は自動返上です。

 

G&Sは三ヶ月ばかりフロリダ地区でマツダ&デューク・ケオムカやメディックスと抗争した後、揃って初来日します。6月18日には川崎球場でマツダ&吉村道明のアジアタッグ王座に挑戦、7月5日の東京都体育館ではマツダ&ケオムカのNWA世界タッグ王座に挑戦し、敗れました。が、実際にはマツダ&ケオムカはいずれの地区のNWA世界タッグ王座も保持していませんでした。

 

・1967年

 

G&Sが一旦フロリダに戻った後、67年には1月にグラハムが単独で国際プロレスに来日しました。

 

グラハムはジョニー・バレンタインと組んでマツダ&猪木のNWA世界タッグ王座に挑戦、敗れます。この時に使われたベルトは前年、日本プロレスでマツダ&ケオムカが用いたものと同じものでした。

 

グラハムの帰国後、3月2日にG&Sはジャクソンビルでケオムカ&タキ・ヤマグチを破りました。ヤマグチはフロリダ地区で武者修行中だったグレート草津です。

 

7月13日、G&Sはジャクソンビルでスプートニク&ロケットのモンロー兄弟からNWA世界タッグ選手権(フロリダ版)を奪取するとスティンボートはNWA世界タッグ王者のまま国プロに来日します。しかし、パートナーのグラハムがいなかったので、防衛戦は行ないませんでした。

 

スティンボートが帰国した後の9月5日、G&Sはタンパでクルト&スカルのフォン・ストロハイム兄弟に敗れ、王座から陥落しました。以後、G&Sが王座に復活することはありませんでした。

 

丸腰になったG&Sは、久々のテネシーに遠征します。

 

10月23日のメンフィス、翌日のナッシュビルと両日とも相手は、武者修行中の小鹿信也&大熊元司でした。後の「極道コンビ」です。初日は敗れ、二日目は引き分けました。

 

資料によると、極道コンビは10月26日の段階で、NWA世界タッグ王者(テネシー版)です。2012年7月のトークショーで小鹿が語ったところによると、G&Sとの対戦のことは覚えるが、タイトルマッチだったかどうかは記憶にないそうです。

 

・1968年

 

この年、G&Sとしての試合数は少なく、たったの4試合です。

 

これは、グラハムの出場試合数が少なかったこと、さらにスティンボートが単独でテネシーにスポット参戦することが多かったからです。グラハムが出ない試合、スティンボートのパートナーはコーア・チキ(トーア・カマタの弟)が勤めることが多く、ディック・スタインボーン、ホセ・ロザリオ、レッド・バスチェンと組むこともありました。また、日本から武者修行に来ていた坂口征二にも胸を貸しました。

 

7月30日、タンパでルイ・ティレー&エドワード・ペレスに敗れた試合がG&Sのフロリダ地区の最後の試合です。スティンボートはミッドアトランティック地区に転戦します。

 

・1970年

 

約一年半の欠場期間を経てグラハムが復帰したのは、5月20日のマイアミです。長期欠場の原因は足の大怪我で、おおやけにはロッカールームの怪我ということになっています。が、実際にはホームパーティーでの悪乗りが原因だといいます。

 

一年半のと長期に亘った理由は、おそらくその間、保険金を得ることができたためでしょう。欠場前、すでにプロモーター、クラレンス・ルットレルの片腕だったグラハムは欠場が終わる頃、統括プロモーターの座につきました。

 

この頃、日本では大阪で万国博覧会が開かれていました。グラハムは万博見物のために来日し、日本プロレスを表敬訪問、リングサイドで観戦している所がテレビに映された覚えがあります。

 

おそらくその帰途の8月5日、故郷ハワイに帰っていたスティンボートと久々に組んで、ホノルルのリングでG&Sが復活しました。リッパー・コリンズ&キンジ渋谷と対戦するも敗れました。これがG&Sの最後の試合です。

 

 

以上、王者であったかどうかは関係なく、60年代の後期、アメリカ南部および南西部でG&Sがテリトリーを横断した世界タッグ王者のような扱いを受けていたことが伝われば幸いです。