【平和憲法を守れ】平和憲法「戦争放棄」は幣原の発案だった | ☆Dancing the Dream ☆

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伊藤博文が安重根に暗殺され、その後、植民地拡大を目指す軍部と国際協調派が対立していく。
国際協調派の中心にいたのが戦後、総理大臣となった幣原喜重郎。
幣原喜重郎は1920年代に国際協調外交を展開した。

1929年8月、浜口内閣の外相だった幣原が乞い、外交官・佐分利貞男は駐支那公使に就任した。
佐分利は、田中義一内閣による積極外交や張作霖爆殺事件後に悪化した対支外交の打開を期待されていたが、一時帰国中の同年11月29日、箱根宮ノ下の富士屋ホテルにおいて死体で発見された。
死因はピストルで頭部を打ち抜いたことで、即死状態だった。死体には布団がかぶせられていた。警察当局は、佐分利が右手にピストルを握っており、外部からの侵入者の形跡もないため、自殺と断定した。死体は右手にピストルを握っていたが、佐分利は左利きであった。遺書もなかった。佐分利の自殺説には幣原のように疑いを挟んだ者もいる。

幣原は、著書『外交五十年』のなかで、開戦の”危機感の欠如”について次のように書いている。

『日華事変から太平洋戦争にかけて、私はただ悶々の日を送る他はなかった。
1941年の夏、近衛首相から面会を求められた。
明治神宮の近くの侯の親戚がいるので、近衛侯はそこに出かけ、私は裏の方からその家に行き、そこで会合をするようにしたいと申し越された。
近衛侯は私に向かって「いよいよ仏印の南部に兵を送ることにしました」と告げた。私は船はもう出港したんですか」と聞くと、「ええ、一昨日出港しました」という。「それではまだ向こうに着いていませんね。この際、船を途中、台湾かどこかに引き戻して、そこで待機させることはできませんか」「すでに御前会議で議論を尽くして決定したのですから、いまさらその決定を覆すことは私の力ではできません」との答えであった。
「そうですか。それならば、私はあなたに断言します。これは大きな戦争になります」と私がいうと、近衛侯は、「そんなことになりますか」と目を白黒させた。私は、「きっと戦争になります。それだから、できるならば途中から引き返して、台湾かどこかの港に止め置き、ワシントンの日米交渉を計画して真剣に平和問題解決に全力をあげられたいものです。しかしもう、日本軍がサイゴンかどこかに上陸したならば、アメリカと交渉しても無益ですから、それはおやめになったらいいでしょう」というと、侯は非常に驚いて、「それはどういうことですか。いろいろ軍部とも意見を闘わし、”しばらく駐屯するだけ”というだけで、戦争ではない。こちらから働きかけることをしないということで、ようやく軍部は納得せしめ、話をまとめることができたんですから」と言うから、「それは、絶対にいけません。見ていてごらんなさい。ひとたび兵隊が仏印に行けば、次はインドシナに侵入することになります。英領マレーにも侵入することになります。そうすれば、問題は異常に広くなって、もうすぐ退けなくなります」
じっと聞いていた近衛侯は、顔面、やや蒼白になりながら、「なにか他に方案がないでしょうか」という。「それ以外に方法はありません。この際、思い切ってもう一度、詔勅を得て、船を引き返す他に方法はありません。それは、あなたの面子に関わるか、軍隊の面子に関わるか知らないが、もうメンツだけの問題じゃありません」と私は断言した。
話はこれで打ち切りになり、近衛侯との対談は不愉快な煮え切らないものとなってしまった。
こうして私が預言したとおり、仏印侵攻がきっかけとなって、とうとう大戦に突入してしまった。』


日本の平和憲法の「戦争放棄」は、幣原の提案であったことが知られている。
1950年12月15日付のマッカーサーから憲法調査会の会長・高柳賢三への手紙の内容によって、また、併せて、マッカサーが、幣原から戦争放棄の提案を受けて了承し激励をしたことを米議会で証言していることからも、「戦争放棄」は、幣原のイニシアチブによるものであることが証明されている。
                      〜孫崎享氏講演 2022.1.29 メモ〜


平和憲法「戦争放棄」は幣原の発案だった

総理の祖父・岸内閣“改憲の原点”
【独自】『憲法調査会』肉声を発見

2016/2/25(木)放送 報道ステーション