【タイトル】 ものぐさ精神分析

【著者】 岸田秀


【読むきっかけ】
かなり有名な本で前から読みたいと思っていたが、少し前だがようやく手に取った。

【概要】 岸田氏はフロイドに精通しているが、本書は精神分析と名を打っているが、神経症の構造を様々な角度から解いているものの、フロイドの精神分析について解説した本ではない。解説者が、「原因のあるところに結果を、結果のあるところに原因を置き換え、逆立ちした世界としてその姿を現す。」とあるように、世の中の常識をひっくり返した形で解き明かす。


【対象】 人の精神構造について深く理解したい人。前提知識は不要。常識をひっくり返したい人。
【評価:★5段階で】
 難易度:★★★★
 分かりやすさ:★★★★
 ユニークさ:★★★★★
 お勧め度:★★★★★

【要約・まとめ】


フロイドの説明
 超自我、自我、エスという人格
 個人心理を集団心理に擬して説明した結果
 彼の時代の立憲君主制の政体を反映
 去勢恐怖にしろ、近親相姦のタブーにしろ、個人の心理現象は歴史的あるいは社会的起源を持っている。

日本という集団の深い病的症状
内的自己が現実との接触を失い、自己中心的、自閉的になっている。
欧米人の評判を過度に気にする=自己同一性の不安定さ

エスとその快感原則は、人類に特有な本能のずれと歪みを表しており、動物の本能と同一視できない。
本能ではなく、幻想の原則、過去の状態の復元を求める衝動
長期の胎児の保護と世話:本能としての母性愛に基づく行動によって可能な範囲を超えている。
かつては本能に支えられていた人間のつながりは、今や共同幻想に支えられることになった。
共同幻想は、本来の現実と私的幻想の両方をいくらかずつ裏切った妥協の産物
精神病者私的幻想のほとんどを共同化し得なかった者
 人々が何の意味も根拠もない妄想として無視するのは、その意味について考えるのが恐ろしいからである。
集団と個人は共同幻想を介してつながっている。集団が公認するもの=共同幻想は、集団の超自我及び自我=顕在的文化、公認しないもの=エス=潜在的文化

虐待
第三者には明らかな残酷さが愛情と映る。心底自信を持てないがゆえに、残酷な男に出会うと、彼の愛情を確認したいという無意識的な強迫的欲望に駆り立てられる。それを止めるには、父親に愛されていなかったという認め難い苦痛な事実を認めなければならない。

常識
我々が現実と信じているところのもの、我々の日常性は、作り物でしかなく、それを支える確実な根拠は何もない。自分は一風変わった「常識」外れの人間だと思っているものは実に多く、もし本当に彼らが「常識」外れの人間なら、世の中では「常識」人の方が少数派ということになろう。「常識」なるものはどこにも存在しない。「常識」とは、人々が、自分以外の大多数の者が信じていると思っているところのものである。

社会はスキャンダルを必要としている
「抑圧されたもの」は何らかの形で現さざるを得ない。自分達の日常性を脅かさない別世界の物語としてなら、限りなくこの種の悪事を愛する。それだけでは満足せず、地位と名誉を持つ者が隠し持っている穢れたものを暴き出すことに異常な興奮を覚える
日常性の崩れが興奮させる。スキャンダルがしょっちゅう必要ないのは、あまりに崩れっぱなしになっても困るからである。
祭りや戦争ーー大々的に日常性を崩す。我々が日常性をどれほど憎んでいるか、その息苦しさをどれほど耐え難く感じているか
不合理な破壊的現象は、抑圧された穢れたものの発現。聖なる者が穢れたものを作り出すのだから、聖なるものを必要としなくなれば、問題はたちどころに解決する。

性のタブーの起源
フロイドによれば人間は生まれた時から性欲があるが、本来の手段で満足させられない。人間の性生活がまず不能者として始まるという事実。己の不能に直面し、無力感と劣等感に打ちひしがれた。そこから回復するため、人間は自ら性のタブーを設定した。
性のタブーは不自然で不合理で有害無益なものだから、子供に植え付けるべきではないと考える親や教育者を見かけるが、それでは幼児が自分で築き上げようとしている人格防衛の堤防に、周りの者が穴を開けることになる。
正常な性交が自然な姿で、性倒錯は異常で不自然というのが一般の常識であるが、動物の場合ならいざ知らず、人間の場合は、正常な性交は決して自然な姿ではなく、多分に無理をして獲得された形式なのである。
人間の性欲を正常な性行為に向かわせるため、人類はさまざまな文化的観念や規律を編み出した。

恋愛
向こう見ずの衝動を持っているという幻想、見捨てる気持ちなんか全然ないという幻想を共に信じ、共にその幻想に従って行動することが恋愛である。
愛するとは、愛しているかのごとくふるまうことであり、真実の恋愛と偽られた恋愛との間には何の差異もない。結婚詐欺師とは、愛しているかのごとくふるまうのを無断で一方的に途中で止める者のことである。

共同幻想の質とレベルが関係の質とレベルを決定
金を餌にすれば強欲な女を得る。その強欲さを彼女の固定的性質と思ってはなならない。彼女だって他の男に対しては無欲なやさしい女かもしれない。

人間においては、育児本能も壊れている
赤ちゃんはほぼ完全に無能な状態で生まれてき、自活できるようになるまでには極めて長い時間を要する。
育児は本質的に無理な負担だが、やらないと種族は滅びるため、あれやこれやの理由を設けて親に納得させるための思想が育児思想である。

売春:
男に対して性行為と一家を養う義務とを固く結びつける家父長制の育児思想に従えば、義務抜きの性行為を求める男には何らかの代償を払わせる必要があった。

母性愛の神話
母は子のために全てを犠牲にする。この観念は文化に規定されたものであって、母性本能とは何の関係もない。
現代は、育児思想は崩壊しかかっており、子育ての根拠と意味を提供してくれる安定した既成の思想がない。

進化論
突然変異や自然選択などの説は、生物を自動機械と見なす擬物論的前提に立っており、環境の意味構造を読み取り、判断して、それに反応し、また、相互にコミュニケートする生物の主体的側面を無視している。
進化とは、いかに生きるべきかの問題に関して、ある生物種のある集団が一致して見解を変えたときに起こるのであって、偶然的な幾つかの突然変異の中で生存に最適な形態が残るのではない。
環境の変化と生物の形態の変化とを直接的に対応させるラマルキズムが進化の事実を説明し得ないのは、それが決断の問題であることを忘れているからである。

時間と空間の起源
時間は悔恨に発し、空間は屈辱に発する。

無意識においては時間が存在しないことをフロイドは発見した。無意識は、快感原則以外の一切の限定を受けない。否定を知らず、全ては肯定される。意識において初めて時間が現れる。
あらゆる欲望がたちどころに満足されるならば、どうして過去と現在を区別できるだろうか。もし過去が、満足されずに残っている現在の数々の欲望の起点でないならば、どうして過去なんかにこだわる必要があろうか。過ぎ去ったことなら、本来なら、何の用もないはずではないか。
過去をもう一度やり直すチャンスが得られるかもしれない時点として、過去から現在へと流れる線の延長線上に未来という時点を設定したのである。未来とは、逆方向に投影された過去、仮装された過去に過ぎない

我々が幼児期の記憶を欠いているのは、記憶機能がまだ十分発達していなかったためではなく、それが抑圧を知らない時期だったからである。最初の幼児期記憶が始まる時期と、たとえば裸でいることを恥ずかし始める時期とは大体一致する。すなわち抑圧を知ったとき、過去が記憶され始めたのであり、また、エデンの園を追われて人類の歴史が始まったのである。

ある時点における行為は、一つの絶対的事実であって、別の時点におけるいかなる行為との間にも等式は成り立たない。復讐や恩返しは、この等式が成り立つという錯誤に基づいているが、これも我々が時間を発明したために陥った罠の一つである。

空間
子宮内の生活においては、時間と同様、空間も存在していない。かつては全てが自己であった世界の中に、自己ならざるもの、汚いものが増えてゆく。それは、自己の領域が徐々ながら着実に狭められてゆく過程であり、耐え難い屈辱である。自己ならざるものに転化していった諸々の対象を閉じ込めるための容器として、空間を発明する。
人類が空間の征服にかけるあの途方もない情熱は、その背後に耐え難い屈辱を克服しようとするあがき。

言語
言語は、便利な道具として発明されたものではなく、人類の病であり、根源的な神経症的症状である。動物が言語を持たないのは、能力が欠けているからではなく、その必要が人類にはあって動物には欠けているからである。人類が必要とするのは、その本能を抑圧した結果として、本来の現実との直接的接触を失ったからである。
欲望とは常に過去の欲望である。欲望とはまずイメージに向かうものであって、イメージを介してしか対象に向かわない。そしてイメージは対象そのものではなく、常に対象から多かれ少なかれずれており、イメージを介する欲望は常に空振りの危険に晒されている。
エス:本能やリビドーの貯蔵庫ではなく、むしろイメージの貯蔵庫我々が現実と思っているところのものは実は疑似現実でしかない。この不安を避けるため、原始的思考では、イメージの具象化であるシンボルと現実の対象との区別を否定する。

動物の場合には、本能の表現形式、刺激と反応のパターンは一定している。人類の場合、刺激と反応とのこの自然な結びつきは失われ、同じ対象に関して各個人が抱くイメージは各々独特の歪みを背負っており、無限に多種多様である。
この窮状を打開するために、苦し紛れに言語が発明された。言語は、ある一定の錯誤にある一定の意味を付与することによって、その錯誤を共同化したものであり、いわば共同錯誤である。
言語は、現実の対象を記述するためではなく、各人それぞれ勝手な方向に歪んだバラバラのイメージ、私的幻想からなんとか共通の要素を抽象して共同の一般的イメージを作り、各人の間のコミュニケーションを可能にするため、そして、それらの共同の一般的イメージをまとめて共同幻想とし、一旦見失った現実を取り戻すために発明された。

無限に語彙を必要とするのは、どのような言葉もそれに対応する実在にピッタリとは合致せず、そこにいくらかの不十分さ、不適切さの滓のようなものが残り、その滓を取り除こうとして、次々と新しい語句を作ってゆかざるを得ないからである。

文化を作り、社会を築いたということは、自然的世界から言語化しにくい部分を排除し、言語化しやすい人工的世界を作ったということである。

ラカンは、無意識は言語のように構造化されていると言ったが、むしろこの関係は逆であって、神経症的症状としての言語が無意識(エス)のように構造化されているのであり、エスのイメージから発した言語がそうであるのは当然のことである。

アイデンティティ
私が私であることを支えているのは、私が属する集団の共同幻想であり、私が私であることを、私の性質、考え、身分、地位、能力などがかくかくであることを他の人々が認めてくれているからに他ならない。

幼児は多形妄想的であると言ったが、いわゆる正常な大人としての人格は、その多形妄想、その私的幻想の一部分の共同化によってかろうじて支えられているに過ぎない。集団の共同幻想による支えを失えばたちまち精神分裂病者となるであろう。

精神病
正常者が自分は異常でないということができる同じ権利をもって、精神病者も自分は異常でないということができる。精神病というのは他人から貼り付けられるレッテルである。他人から貼り付けられるしかないレッテルを、そのまま自分だと本心から信じるものがいたとしたら、それこそおかしい
一方の当事者である精神病者の観点を忘れていた実体論的精神医学の挫折は今や明らかである。自分の観点のみが絶対に正しいと決めかかって、自分に対する乙の行動を乙の悪い性質のみのせいにしていれば、乙をますます依怙地にし、争いをますます拗れさすだけであろう。同じようなことを従来の精神科医は精神病者にやっていたのである。
精神科医は、精神病者と同じように自己中心的であったため、他者である精神病者の観点に立てなかったのである。いわゆる客観的理論は精神科医の主観的理論であった。

心理学者の解説はなぜつまらないか
別に心理学者でなくても、誰でも言えるようなことしか言っていないのがほとんどである。

自分が理解できないことをするものを異常性格者というわけだから、理解力が浅薄であれば浅薄な心理学者ほど、彼にとっては世の中には異常性格者が多いことになる

イデオロギー
イデオロギーの歴史は、幻想我の集団的投影の歴史である。幻想我をあるイデオロギーと同一視した者は、そのイデオロギーのために身命を投げ打つのを惜しまなくなる。

自己嫌悪
自己嫌悪は、その社会的承認と自尊心が「架空の自分」にもとづいている者にのみ起こる現象である。無能な人間が有能だと思いたがる時、あるいは、卑劣漢が自分を道徳的だと思いたがる時、その落差をごまかす支えとなるのが、自己嫌悪である。
自己嫌悪の効用:いやらしい欲望を持ったとき、二者択一に直面して、いずれをも断念したくない、欲張りが使う詐術の一つ。その嫌悪が強ければ強いほど、「真の」自分はますます高潔となる。その時の自分は「どうかしていた」のであり、「ついやってしまった」のである。つまり、「真の」自分から発した行為ではないというわけである。
自己嫌悪は一種の免罪符である。自己嫌悪は、嫌悪された行為の再発を阻止するどころか、促進するのである。欲望の満足を得た現実の自分に関する責任と罪を逃れさせてくれるこのような便利な手段を、どうして手放すことができようか!

自分のある面を嫌悪するのは、他にもっと嫌悪すべき別の面を隠すためである。自己嫌悪の強い者は、そのゆえを持って、自分は自分の悪いところをも客観的に見て、責めるべきところは責める「良心的な」人間だと考えがちであるが、実際には、自己嫌悪の存在そのものが、彼がその逆の人間であることを証明している。自分を客観的に見ることができると信じることができるのは、己を知らない者のみである。

セルフイメージ
当人のセルフイメージから判明するのは、彼がどんな人間かということではなく、彼が他の人々にどんなことを期待ないし要求しているかということ。

生きるのが下手
生きるのが下手な者は欲のない者であるが、自分は生きるのが下手だと思っている者とは、欲の深い者である。まず彼らがどうして、下手だと判断するに至ったかを問わねばならない。そういう判断は、「他人と調子を合わせて」「人に上手に物を頼み」「おべんちゃらを言い」「人を騙す側に回り」「うまく立ち回って」いればもっとうまい汁を吸うことができたはずなのに、自分はそういうことができないので、いつも損ばかりしているということが暗黙の前提となっている。自分はあることができないということに気づくのは、そのことをやりたいという欲望があるからに他ならない。その欲望がないなら、そもそも自分にはそれができないということが視野に入ってこない。

人に騙されやすい
自分のことを「特によく人に騙されやすい者」と思っている者とは、人に不当に過大な期待を持ち、かつ、自分の期待は正当であると頭から決めてかかる傾向の強い者であるといって間違いない。

気前が良い
性格の判断に関して一般規準は存在しない。自分は気前が良過ぎてというのも、彼が、自分よりさらに極端なけちさを想定し、それを一般基準だと考えることもできる。

自分は「気前すぎていつも損ばかりしている」と思っている者について確実に言えることは、彼が、人に利益を与えることを自分の損得という尺度で考える人間だということと、自分のことを「気前が好い」と思いたがっているということである。

子のために
自分はこの子のために身を犠牲にして尽くし、大変な苦労をしてこの子を育て上げたと思っており、それを自分の子に言って聞かせたがる親が時々いる。
問題は、そういう自己判断に根拠があるかないかということではなく、その親がどうしてそう思いたがるのかということである。子供に対するその親のどういう期待ないし欲求を正当化するのに必要か、と問わねばならない。
子供を犠牲にし、利己的に利用したい欲望の強い親ほど、自分は子供のために身を犠牲にしたと思いたがるのである。

尽くしたのに裏切られる
「自分は人のために献身的に尽くしては裏切られ、それでも人を信じたい気持ちを捨てることができず、懲りずにまた人のために尽くしては裏切られる」と言ってぼやく人がいる。当人は、恩知らずの人の世の薄情さとエゴイズムを嘆いているが、エゴイストなのは当人であって、彼は、人に対して一段優位に立てる恩人という立場で臨み、人を利用し、支配したい欲望が強すぎるのである。人が彼を「裏切る」のは、彼の支配欲に耐えられなくなって、逃げ出すのである。
人に大恩を施せば大いに感謝されるのであって、人に大恩を施したと思うことが人の恨みを買うのである。相手は、そう思うことによって彼が何を正当化しようとしているかを見抜くのである。

人間は自分を正当化せずにはいられない存在である。人間は自己正当化によって辛うじて自己の存在を支えられており、自己正当化が崩されれば、自己の存在そのものが崩されるのである。

誤解される
「私はよく人に誤解される」と言う人がいるが、こうした発言は、自分は自分を正解しているということが暗黙の前提となっているが、このような前提には何の根拠もない。

攻撃欲の強い人
常識によれば、悪人が悪事を働くのであるが、歴史が証明するとおおり、この世の悪事のほとんどは、「正義感」に駆られて「悪人」に「正義の鉄槌」を下す「正義の味方」がやらかしたものである。
現実に不正は存在し、それに対して勇敢に戦っている者はいる。しかし、彼は自分が現実に直面している問題と取り組んでいるだけであり、「正義感」に駆られてもいなければ、自分のことを「正義の味方」とも思っていないだろう。

セルフ・イメージ
邪悪な攻撃的サディズムを正当化するためには、自分は正義の味方であるとか、おとなしすぎるというセルフ・イメージが必要であり、一番都合がよいのである。つまり、セルフ・イメージと、客観的な姿とは、逆比例の関係にある。早い話が、傲慢な者ほど自分を謙虚だと思っており、謙虚な者は自分を傲慢だと思っている。

セルフ・イメージは、その場で取ってつけた泥縄式の言い訳とは違って、当人のヴァイタルな欲望のみならず、内面的思考過程に根深い根拠を持っており、他人にはいかに馬鹿げて見えようとも、ちょっとやそっとの説得には屈しないのは、そのためである。そのセルフ・イメージの不当性を非難されれば、当人は心の底から心外に思うだろう。当人としては、それを裏付ける事実を無数に持っている。事実そのものに嘘はない。誤りがあるのは、その事実の解釈の仕方である

自分はこうこういう人間だと思える時、他人の目にはちょうどその正反対の姿が映っていると考えて間違いはない。ついで、自己判断にありがちな誤りを消去してゆけばよい。主観的解釈の要素を拭い取るのである。

忙しい人とひまな人
自分が何の役にも立たず、世の中から求められない恐怖が強すぎるので、無理やり仕事を作って忙しがっているのではないか。

ひまだと言っている私が付き合わないと、相手は意外な顔をする。これは、人がひまなら、そのひまは自分のために割いてもらえると決め込む者が間違っているのであろうか。それとも一言「忙しい」と言えばいいのに、わざわざ誤解されそうなことを言う私が悪いのだろうか。



解説: by 伊丹十三
人間にとって現実とは、誰かにそう思い込まされたところのもの、すなわち幻想であるということである。自我は無理をして作られているゆえに不安定であり、それゆえ人は必死になって維持しようと努め、その努力は自己欺瞞を伴い、自己欺瞞を脅かすものの抑圧を必要とし、神経症として表現される。人間は本質的に神経症的である。

人間の場合本能は壊れているから、自分で適当に、いわば出鱈目にプログラムを作ってそれに従って行動する他ない。このプログラムがすなわち文化である。あらゆる人間は狂っている。もし狂っていないと思っている人間がいれば、彼は自分は狂っていないと思うというやり方で狂っているのだ。正常な自我なぞというものはない。人間は全て神経症である。現実との生き生きとした密接な関係を持ち得ないということを、全てを意味に置き換えるということで誤魔化しているとするなら、要するに欲望といい言語といい、真実を隠蔽するための偽の満足という症状であり、これはまさに神経症に他ならない。

岸田理論は世の常識と逆立ちした形を取ることが多い。
原因のあるところに結果を、結果のあるところに原因を置き換え、逆立ちした世界としてその姿を現す。
岸田理論において自己の発見とは自己同一性の確立を意味せず、むしろ自己を共同幻想、及び共同幻想の余り物としての私的幻想に配当することによって自己を解体すること


【感想】

全てが逆説で、なかなか痛快である。ちょっとひねくれているようにも見えるが、人間の恥ずかしい本質を突いている。

世の中一般に説明されてきた常識や真実とされたものが、社会的な産物であって、全部嘘だということを教えてくれる。岸田の言う共同幻想は、ハラリの言う神話と同じである。
人間は動物と違い、本能が壊れている。だから、思想教育で神話や幻想を信じさせないと、社会の維持はおろか、育児すらできないというわけだ。ただ、動物を一括りにはできず、一部の動物は執着が強く、過去の恨みを晴らそうとする。脅威に感じるものを除去するのであれば、人間も同じことである。

 

この本を読めば、いかに我々が社会・文化・宗教に洗脳されているのかがよく分かる。そして、自我を確立しようとする動き、自分を正当化しようとする動き、いかに自分が正常であるかを示そうとする働き、これらがすべて自己欺瞞であることを暴き出してくれる。

岸田の手にかかると、人間の浅はかな計らいがこれでもか、というぐらい露呈されてしまう。

「原因のあるところに結果を、結果のあるところに原因を置き換え」とは、アドラーの目的論に通じる。人は何らかの原因があって怒っているのではなく、とある目的のために怒りを作り出しているというもの。

 

非常に深いし、社会常識に圧倒されそうなとき、本書の内容を再度思い出すといいかもしれない。

 

前回のまとめの続き)


Section 7 最後に

23. 負債から解放された人生はあるのか

この本は、感情的負債があなたの人生の一部であることを前提としている。感情的負債が不健全であるかを判断する手助けをし、自分自身の中にある感情的負債を解消したり、人間関係における感情的負債に対処するためのツールを提供する。

感情的負債はあまりに重い負担となるため、その反対が理想のように思えるかもしれない。多くの人にとって、自由の本質は義務から解放されることである。しかし、彼らの目標は感情的負債を完全に超越することではない。

感情的負債は常に周囲にあり、絶え間なくそれを思い知らされるため、完全に解消することはほぼ不可能だ
多くの人は、感情的負債がない状態こそが、自分が好きなことを、好きなときにできる自由だと単純に考えている。本質的には、これは極端な権利意識の一形態だ。真の目標は、完全な権利を持つことだと考えてしまう。
しかし、それを恒常的な状態として期待するのはナンセンスだ。私たちは皆、人生の制約に対処しなければならない一部の人々が完全な権利を持つような世界を望む人はほとんどいない。そのような権力を乱用するリスクが大きすぎるからである。

このように説明されると、ほとんどの人は、真の目標は完全な権利を持つことではないと気づく。真の目標は、義務に支配されず、より多くの権利を主張できるようになることである。

私たちは感情的負債に対する反応を変えることができる。自分の中でバランス感覚を生み出すことができる。重要なときは、人間関係における感情的負債に誠実に向き合うことができる。

あなたは「負う」ことを避けることに非常に熱心であるため、天秤のバランスは常に「負わない」側に傾いている。あなた自身がそれを妨げたり回避したりするため、相手はあなたとバランスを取ることができない

受け取ることが最高の贈り物になる。なぜなら、好意や贈り物を受け入れることで、相手もバランスを感じるようになるからだ。「誰にも何も負っていない」という認識は、歪曲になってしまう。それは社会病質者の特徴の一つかもしれない。

一方で「誰も私に何も借りはない」と宣言する人も多くいる。お互いに期待を持たないような関係は、しばしば理想化される。確かに、お互いへの期待は多くの不幸の源泉である。しかし、それはまた、驚くべき成果を生み出す原動力にもなる。問題は、期待が満たされなかったときの失望感に対処できないことだ。

感情的負債を乗り越えようとする目標は、幻想かもしれない。この目標は、単に感情的負債と戦わせるように仕向けるだけかもしれない。あなたは感情的負債の問題を回避したり無視したりすることで、乗り越えようとするかもしれない。しかし、それは恐らく何らかの形であなたの生活に入り込み、水面下で影響を及ぼすだろう。

負債を受け入れる
感情的負債を超えようとするよりも、むしろ感情的負債を受け入れる方が、より現実的な目標かもしれない。この受容は、感情的負債を自分の人生の一部、そして人間関係における要素として受け入れることを意味する。感情的負債はもはや負担ではなく、機会になる。

感情的負債を追い払いたいという願望は、本当は過去の負債から解放されたいという願望である。この目標を達成することは可能だが、簡単ではないかもしれない。精神的な降伏が必要になるかもしれない。

負債からの解放は、現在を生きることである。その結果、あなたはありのままの人生に反応し、状況に応じて他者と関わることができる。あなたは今、負うべきものを負うだけであり、それ以上ではない。今、 owed (権利がある) であるものがあるだけであり、それ以上ではない。現在の負債は、過去の重みが増えるわけではないので、管理可能だ。
それは、あなたが空想する究極の自由ではないかもしれないが、ある意味で、感情的負債と和解することを学ぶとき、あなたは自由である。

あなたは進んで義務を受け入れ、責任を持って権利を主張することができる。感情的負債の気まぐれに振り回されるのではなく、人生においてそれを管理する力を主張することができる。自分の人生を自分のものとして主張してみてはどうか?( Isn’t it time you claimed your life as your own?)

【感想】

●無意識にある負債(貸し借り)の概念と感情の関係
人は、世界の認識方法として、因果関係や公正という概念が無意識に組み込まれている。他者とのやり取りをする中で、無意識のうちに、負債(貸し借り)の認識をしている。当人の中では、全く意識されていないのが厄介で、口では、貸し借りの感情はないときっぱり言ったとしても、無意識ではしっかりと認識している。

もし、自分が他者や世界に対して「貸し」があると考えているなら、絶えず他に要求し、それが不平不満の原因になる。一方で、「借り」があると考えているなら、常に他者から要求され、世界は脅威に満ち、不安定な状態になったり、義務を背負って自由のない隷属した状態になったりする。

人間の感情の背景の多くに、この感情的負債がある。しかし、その背景を認識せず、単に不平不満や不安の感情を口にする。そして、他者や世界を責めたり、恐怖を感じたりする。根本的な原因である、自分自身の無意識にある感情的負債を認識し、それを解消していくことが、厄介な感情を解消する鍵になる。

人間の行動において、感情的負債は非常に大きな部分を締めているにも関わらず、心理学では表面的に触れるしかない。一方、宗教においては、罪、業(カルマ)というものをいかに清算するかというのがテーマになっている。これが勧善懲悪に結びつく。良いことをすれば、良い結果が、悪いことをすれば、悪い結果が返ってくる。また良いことをして、見返りがないとしても、それは天に徳を積んだことで、すぐに返ってこなかったとしても気にしないように説く。そこに十分な論理的、心理学的な分析がなされているかというと、ほとんど皆無で独自の宗教理論に従って、こうしなさいという行動が示唆されるのみで、その深い意味は語られない。

● 公平性へのビリーフと4x2のキーコンセプト
感情的負債の背景には、「世の中は公平であるべき」というビリーフがある。努力に対してその見返りがないとき、怒りや落胆などの感情がある。外側に向かえば、公平な世界でないことへの不満、内側に向けば、取った方法や自分の属性に対して疑いが起こる。ほとんどの感情の背景にビリーフがあるが、そのビリーフの根底にあるビリーフが「公平さ」というものだ。

この公平性は、行為と結果という単純なものだけではない。ニックは、そこに善悪・約束・所有(属性)=権利/義務を加えて、さらに能動態と受動態、つまり自分から相手へ、相手から自分へに分けて、8種類に分類している。この分類は素晴らしく、シンプルかつ、ほとんどのケースを網羅してくれる。

 

  好意 / 犠牲 過失 / 不正 約束 役割
借り 誰かがあなたに好意をしてくれた あなたが誰かを怒らせてしまった 約束をした 役割に伴う義務がある
貸し あなたが誰かに好意をした 誰かがあなたを怒らせてしまった 誰かがあなたに約束をした 役割に伴う権利がある


私は以前、責任という概念が、個人の行動および苦楽に関係していると思っていたが、Oweという一つの概念で説明ができる。これは画期的な発見で、これまで世の中の哲学者、心理学者は、こういう観点で、人間を分析したことがない。もっと大きく取り上げられていい内容だ。
公平性の概念からは、善悪、その見返り(報酬と報復)、責任、こういった領域まで話は広がっていく。公正さについて、各自の行為だけではなく、属性も大きく影響していることを学んだのは、この本を読んだことの大きな収穫の一つである。

● Oweという言葉
英語だとoweという一つの言葉で表現でき便利である。その反対はowedで、受動態にすればいい。oweは日本語の「負う」に等しい。発音も偶然同じだ。しかし、owedとなると、「負われる」では日本語として苦しい。「借り」「貸し」と置き換えるのも、主語がどちらにあるかによって正反対の意味になるので単純には行かない。
そもそもoweという言葉は不思議だ。能動態は、どちらかというと自分から相手にという方向性があるが、owe(日本語の「負う」もそうだが)は、それ自体が受動的な表現で、相手から自分に向かってくる感覚がある。また、この状態の結果として、未来において、oweなら、自分が相手に支払いをして相手が利益を受ける必要(もしくは私が罰を受ける)があり、owedなら、相手が自分に支払いをし自分が利益を受け取る(もしくは相手が罰を受ける)となる。
英語圏の人なら、owe/owedですんなり理解できるのだろうか。oweは、借りている(borrow)と訳すこともできるので、「負われる」よりも「借りがある」と訳した方がわかりやすいかもしれない。

とはいえ、これは結果としての行為がどうなるかが、善なのか悪なのか、方向性がどうなのかなど様々なバリエーションに分かれるが、心理的には、oweかowedなのかの二つというところが面白い。むしろ、権利(Entitled)義務(Obligated)の方が直観的かもしれない。


●権利と義務
先の8パターンは、究極的には、権利(/義務)で説明できる。権利(=Right)は何かを得られるチケットのようなもの、あるいは所持金のようなもの義務は、何かすべきこと、あるいは借金のようなものである(多くの場合苦痛を伴う)。これらは正反対になる。

とはいえ、単純に苦楽得失で、権利/義務を分離できるとは言えない。
「苦労は買ってでもせよ」と言われるように、苦難を伴う権利もある。これはその先にある経験、スキル、栄光など良いものを得る権利とも言える。
義務であっても楽しい義務もある。仕事が楽しい場合はそうなる。とすると、苦楽と必ずしも結びつかない。ただし、ここがブラック企業が付け込むところで、搾取しながら、搾取されている側に逆に恩恵があると言って感謝を要求するのだ。

一般には、自主性欲求選択の自由があるものが権利、ないものが義務と言える。ただこれも必ずしもそうとも言えない。一見権利だがやらざるを得ないもの、義務だが果たさない自由などもある。例えば、とある無料食事券のチケットを貰ったとするなら、それは権利だが、しかし有効期限があったり、あまりそれを食べたいと思わないのに、「行かなければならない」という気持ちになると、意識上では権利が義務感に変わる。「欲求」の時点では選択の自由があるが、それがやがて「義務」に変わってしまうことはよくある。
得るか、与えるか、という定義についても、義務でも副産物を得たり、権利でも与えることはある。
同じものも見る視点で変わる。とはいえ、一般にはだいたい権利か義務か、見かけ上で判断できる。

● 人権
権利・義務は、しばしば法律や人権の中でも語られ、人権が与えられる一方義務を果たさなければならないとセットで語られる。しかし、それは一面の理解で、実際にはOweという概念で整理される。ある人Aが、別の人Bに対して権利を有するとき、BはAに義務を負っている。

●約束と契約、特権階級と差別
善をなせば見返りを得る権利が得られる。悪をなせば、報復を受ける義務がある。約束すれば、それを果たす義務が生じる。努力して何らかの資格を手に入れれば、持たない人に比べて権利を多く持つことができる。ここまでは、公平さ、平等性の原理が働いている。

権利は通常は、行為を通じて獲得され、義務は、報酬の対価として設定されることが多い。一方、約束は、片方が約束しただけで、権利と義務が設定される。約束をしなければならない経緯もあるだろうが、一旦、約束が設定されると、強い拘束力を持つ。
法律上は契約の自由があって、そこに不平等があろうとなかろうと、強い拘束力を持つ。通常の契約は、一方がもう一方に支払うだけのような不公平なものはなく、ギブ・アンド・テイクで公平だ。しかし、しばしば契約の拘束力を悪用して、不平等な、無理な約束を取り付けるケースが後を絶たない。

また公平さという点で微妙なものは、生まれつきの属性というものもある。近代までであれば、貴族として生まれれば多くの権利を有する。庶民として生まれれば、労役の義務がある。考えてみると、生まれだけでこのような差別があるのは不公平だが、金持ちや貴族の子供として生まれれば、親が持っていた権利を引き継ぐことになる。弱肉強食の世界では、強いものが権利を有する。生まれた国の違い、生まれた民族、生まれた地域、生まれた家、これによって権利の差が出る。かつての世界(今も一部ある?)では、白人が、黒人や黄色人種より優れているとされ、「身分」が違っていた。この生まれの違いは、しばしば不公平だとの議論もあるが、現代においても、認められたものとなっている。

もし自分が高い身分にいて、低い身分の人から馬鹿にされたとしたら、同じあるいは高い身分の人から馬鹿にされるよりも、遥かに怒りは大きいだろう。また罪を犯したとしても、それに対する罰則は階級が上であるほど甘くなる傾向がある。人の美醜を階級とみなすなら、美人が罪を犯した場合、処罰が甘くなる。人種、国によって、世界は依然として差別が蔓延している。同じ国・人種でも身分階級のようなものはある。
現代では、表向き「身分」という言葉は使われないが、どの集団、あるいは集団間においても、ランク付け階級ヒエラルキーは存在する。この「身分」に関する「ルール」は社会によって異なるし、人それぞれ異なる考え方を持ち、それがしばしば軋轢を生む。人は皆平等と信じている人は、特権階級を許さない。権威は認めるものの、そこに制限をかけ、乱用しないように目を光らせる。

行為と属性を経済に置き換えると、働いたことによる収入と、資産がもたらす収入との違いとも言える。後者は働かずとも収入がある。つまり、所有・属性自体が違いを生む。
自分の属性として、高い地位・身分、美貌、何らかの権利の「所有」がある場合、それを持つようになったことへの公平性はともかくとして、属性があることは権利、力を持つ。

努力をして資格を得た場合、それ自体は公平に見えるが、これとて本当に平等なのか疑問がある。大企業に入るのは狭き門だが、入ってしまえば、エスカレーターのように中小企業に入った人に比べた好待遇が保証される。つまり、一時の努力に対する見返りが大きく違う。少し前、上級国民、親ガチャという言葉が流行したが、不平等に対する不満を表している。公務員は、よほどの悪事を起こさない限り、雇用・給与が終身保証されている。権利を持っている者は、それが正当なもので、公平性に反しないと考える(なぜなら自分にはそういう属性や過去の努力があるため)。それに対して、持たない者は持つものに対して、公平性に反すると考える傾向にある。むろん、そういうものだと受け入れている人も多いが。

そういった属性を抜きにして、行動に対する賞罰の度合いは、社会あるいは個人によって異なる。先に述べたように、多くは属性によって左右されるが。

●エゴイスト
エゴイスティックな人は、権利意識が強い。自分はいいけど、他人は駄目という考えである。この背景にあるのは権利意識である。正当な根拠があろうがなかろうが、自分は特権がある人だと思い込む。権利だけを主張し、義務を果たそうとはしない。エゴというものを、本書の観点から分析するとよくわかる。
かつての王は、自分の特権の根拠として、神から与えられたとする。自身は神によって祝福された者だというわけだ。これは一般化された特権である。
通常は、貸し借りによって権利と負債が発生するが、一般化された権利を持っていると考える人に与えても、貸しということにはならない。

●公平性の難しさ
貸し借りの問題が、そこに関わる人の間で、見解・基準が異なる場合があり、それが負債の解消を難しくする。損害賠償であれば、ある程度計算はできるが、罰金や慰謝料などは、明確な基準はない

最近は様々な人が言及しているので誤解が解けてきているが、ハムラビ法典の「目には目を歯には歯を」は報復を認めたものではなく、報復したとしてもそこまでが限度だということだ。
報復は同じ量では収まらない。数人で一人の人を殺害したのであれば、一人が死刑になるのが「公平」だが、しばしば全員死刑となるケースも多い。
多くのアメリカ人や中国人は、真珠湾攻撃や侵略に対する報復として、東京をはじめとした大空襲や広島・長崎への原爆投下は、「公平」、つまり釣り合うと考えている。ハマスに対するイスラエルの報復は、それまでイスラエルを支持していた国々からも、やりすぎだとの批判が上がっている。
最初に手を出さなければ、その後一切のことは起こらなかったから、最初に手を出したやつが絶対的に悪いという理論がある。しかし、本当の「最初」はどっちなのだろうか。太平洋戦争にあるように、アメリカ側が、日本が最初に攻撃するように仕掛けたという説もある。

何が公平かは人によって基準が異なる。男が女に優しくするが、女は男に優しくする必要はない、というのが一部の人たちが持っている「公平」な基準である。強い者が多くを持つ、というのも公平・平等だと考える人も多い。実際歴史や動物の社会では弱肉強食が「ルール」であった。

●一般化してしまう問題
70年前に5-10年間だけ起きたことなのに、未だに、世界秩序は、第二次世界大戦の戦勝国ー敗戦国という論理を続けている。国連を戦勝国が牛耳っている。明らかに不公平であり、権利と義務を一般化してしまったものだ。
一般化されたとき、それは永遠の負債となる。かつて、韓国の元大統領は日本に対して、植民地時代の恨みは、千年続くと語った。

●前世のカルマ、現在
インド思想では、生まれながらの不公平さを解消するために、カルマという概念を導入する。つまり、生まれつきの差というのは前世のカルマだというわけだ。カルマは行為によって作られる。つまり生まれながらに権利を多く持っている人は、前世で善いことをした人であり、権利が少なく、義務ばかり負っている人は、前世で悪いことをした他人である。そういう意味で平等であるとする。権利・義務含め、すべて行為に還元することができる。

カルマの観点から言えば、行為の蓄積が生まれながらの権利を生む。徳が尽きれば権利は失われる。生存中に脱落する王とそうでない王の違いはそこにある。

カルマ・業の概念は、神が創り出したという思想もある。試練を与えるために、初期条件として、良い、あるいは悪い設定をしたというわけだ。
最近だと、「親ガチャ」という言葉があるように、偶然、運と見なす。宝くじに当たるか当たらないかは、その人の行為・努力とは無関係である(偶然と考えたくない人が、風水やら運の引き寄せやら努力に結びつけようとするが)。偶然に権利あるいは義務を背負わされることはやはりあると考えるのだ。

●原罪の考え=義務の人
ユダヤ・キリスト教では、原罪という考えがある。アダムとイブが犯した罪が原罪として、現人類にも脈々と受け継がれているというものだ。これは、一般化された負債で固定化されてしまい、義務感を生み出すことになる。

●悪用する人ー搾取される人/する人
Oweの概念は、他人を支配下に置きたい人達によって、容易に悪用することができてしまう。
原罪や業の概念も、為政者に利用されやすい。民衆が貧しく不自由なのは、そういう業を負っているからで政治の問題ではないとするのだ。ブラック企業は、過大な義務を負わせたうえで、それが「権利」のように言いくるめて、責任を転嫁する
責任やを感じさせることもよく行われる。「イエス様があなたの罪を背負ってくれたのです。教祖様が教えを伝えるためにどれだけ尽力されているか。」などと言う。「真のお母様がこれほど苦しんでいるのに...」などと、罪悪感を感じさせる。原罪は、生まれながらの罪ということで、日本人として生まれた=中韓に謝罪し続けよ、という理屈になってしまう。そして、約束・誓いをさせ、縛り付けるのだ。
好意を与える、罪を感じさせる、約束をさせる、これらはすべて相手にOweの状態を作り出し、相手を支配することに繋がる。
このような「悪意(善意という見せかけの)」によって、押し付けられたOweはすべて捨て去ってしまっていいだろう。

● 無意識的な悪用
悪用は必ずしも意識的に行われるわけではない。人に何かを無償で与える場合、本人の意識の中では、見返りを求めていないつもりでも、無意識ではしっかりと求めている。
尽くしたのに裏切られると言う人は、実際は、相手に負債を感じさせて、自分を優位な立場に立たせて、相手を操作しようとする偽善者である。恩人という立場で支配欲を発揮しようとするのである。賄賂などと同じく、返報性の原理を利用して、貸しを作るのだ。

●社会システム
負債を解消する方法として、相手方と話し合いをする方法と、自分の内面で解決する方法が呈示されている。話し合いの結果、どうしたら負債を返せるかを決め、バランスを取る行為を行う。
しかし、とても払いきれない負債に対してどうするか。しばしば民事裁判が起こるが、多くは、話し合っても合意には達しない。第三者である裁判官が間に入って、調停をしたり、判決を下す。莫大な借金を抱えて、自己破産をする制度がある。これは、負債を解消する一つの方法である。しかし誰かが泣き寝入りすることになる。金を貸した側にとってはたまったものではないが、どうやっても解消できない負債に区切りをつける目的で、社会システムの中に感情的負債を解消する仕組みがそなわっている。

法律的な解消方法は、妥協に過ぎず、心理的には尾を引きずる。刑事事件の場合、懲罰として、懲役刑などが与えられるが、出所したとしても、負債の清算は終わらず、世間からは冷たい目で見られ、バランスを取ったはずなのに、許されない現状がある。最初に手を出した罪、無実の人を傷つけた罪は消えるのだろうか。
この心理的な問題を解消するのが本書の狙いの一つでもあるが、話し合いによる解決方法も提示されている。

●解消の行
負債を解消するのは、相手との話し合いとそれに基づくバランスを取る行動もあるが、コンタクトを取れない場合や、あまりにも過大すぎる場合、自分の内面のみで解決する必要がある。

自分が権利を持っている側にいる場合は、(悪行を行なっていた相手への)「許し」と(相手に求める権利の)「手放し」が有効になる。
一方、自分が義務を負っている場合には、「懺悔、悔恨」と、懲罰を受けること、償いとして、社会全般への奉仕が有効である。宗教者はしばしば、教会にこもって懺悔したり、苦行をしたりする。

・瞑想
瞑想の中では、自分の罪を、イメージの中で、洗い流したり、光で闇を追い払うなど表象を操作するものもある。それによって、自分の中の罪の意識を払拭する。チューの瞑想では、無始の過去から自分に対して負債を持つ者たちをイメージして、自分の身体を贈り物に変化させて捧げることで、負債を解消したという認識を持つ。

・内観
内観は、主に自分の中の権利意識を解消するのに役立つ。誰かから悪いことをされたことに意識を向けるのではなく、自分が受けている恩恵を徹底的に認識する。自分が迷惑をかけていることも認識する。これは本書で述べられている対処法と一致する。

・感謝の注意点
決定的に大きな助けをした人にもちろん感謝していいが、その人だけとするのは間違っている。その人があなたを助けた行動自体が、無数の要因に支えられている。
一部の人が好き勝手に生きることができるのは、そういう日本社会の仕組みに支えられているからである。彼らは、「自分の力」で成し遂げていると誇示するが、直接的に手を貸してくれた人だけでなく(その人達だけにしか感謝を向けないが)、日本の社会、世界、地球、太陽等々に負っている。なので、一般的に、あらゆることに感謝するのがいい。(ただし、神を持ち出すのは慎重になった方がいい。途端に、特定の宗教に支配されかねないためだ)。

まとめると、感謝、懺悔(受容)、許し、見返りを求めない(手放す)、という精神の道で説かれる項目と一致する。

 

 
借り(負債) 他からの善:感謝

他への悪:懺悔、見返りに対して:受容

貸し(権利) 他への善:利他・見返りを求めない 他からの悪:許し


●罪が消えることを悪用
感情的負債が内面のものであるなら、心理的な操作によって解消することが可能になる。しかし、自分の中で負債を解消したと思っても、相手は決して許さない場合はあり得る。宗教者は、内面を変えれば、それが外面にも反映されると信じて疑わない。結果、しばしば独りよがりになる。
一部のキリスト教信者にあるように、悪いことをしたとしても、教会で懺悔すれば綺麗さっぱり浄化されると言って、悪いことを繰り返すケースもある。
あなたに莫大な被害を与えた人が一切弁済せず、金剛薩埵のマントラ100万回唱えたからその人の罪は消えているので、もう弁済の必要はないと言ってきたらどうだろうか。

●罪悪感を感じない人
罪悪感が、カルマの原因だとする人もいる。だとすると、一切罪悪感を持たないサイコパスのような人は、悪いことを行っても見返りがないのだろうか。
真面目な人ほど馬鹿を見るのだろうか。あまりにも馬鹿正直な場合、些細な罪や人から受けた些細な恩恵を、大きくとらえてしまう。その結果、負債や義務感が一般化・固定化されてしまう。それは容易に、エゴの肥大化した人たちの餌食になる状態をもたらす。

●一生涯返しきれない恩恵を受けた?
大きな恩恵を受けたとき、客観的に見て、本当にすごい恩恵なのか。過大評価していないか注意する必要がある。その人がいなかったとしても、幸せな人生を送っていたのではないのか。あるいは別の経験、別の人生でも良かったのではないか。
感謝の気持は美しいし、ドラマチックだから、大抵の場合は弊害はない。多くの場合、受けた恩を直接返せないので、その人に報いるために、より多くの人を手助けすることで、恩返しをしたいと考える。

●カルマからの解放
一部の仏教徒の最終的な目標は、カルマのないことである。悪業が消滅し、善業だけになった状態を目指す。それは本書で言うところの、世界や他者に対して、負うものがなく、貸しだけがある状態である。カルマ=制約から解放され、何をするにしても自由な状態である。

巨万の富を得た人は、物質的には、負債がなく、お金の力で自由を手に入れていると言えるが、精神面ではその人達が必ずしも負債がないとは言えない。

ニックは、権利だけ、負債が一切ない状態、というのは、理想論であると指摘する。これは、悪行をせず、見返りのない善行を行い、他人から受けた悪行に対して報復をしないことの結果である。菩薩道では、世界に対して無限の借りを背負い、ひたすら、他者の利益のために尽くし続ける理想が語られる。どちらも、極端な理想化とも言える。
逆に言えば、他人に対して、莫大な貸しを作っているということになる。

●世の中は本当に公平か?
人は、公正さ・フェアであることへのビリーフあるいはニーズが非常に強く、それが様々な不平不満の原因になっている。しかし、真実は、いかに世の中が、カオスで不公平であるか。
私が一番好きな言葉として、アメリカの歴史学者のヘンリー・アダムズが言った、


Chaos was the law of nature. Order was the dream of man
 

という言葉がある。これは真実を突いている。
とどのつまり、秩序や公平さというのは人間の妄想、希望に過ぎない。だが、秩序や公平さがなければ、人間社会は成り立たない。ニックは、公平さへのビリーフを解消する方法は取らず、妥協的に、公平さを持ちながら、感情的負債を解消する方法を取っている。

● 負債自体への捉え方
むしろ、負債自体を問題にするのではなく、それをどう認識するかに視点を移す。規則が重荷になる場合もあれば、価値に従った行動になる場合もある。ポイントは自発性によるものか、シャドーによるものかである。負債は成長の機会となりうる

最終的には、You claim your life as your own.が結論になる。
権利や義務に左右されているとき、真に自分の人生を生きているとは言えない。他人や社会に振り回されていて、本当に自分にとって重要なことに自分の人生を使えていないことを意味する。究極的には、陰と陽の側面ーー自由(陽)=自身の力の宣言と束縛からの解放(陰)=無我につながる。 


【対処法の要約】

● 背景、健全/不健全の理解
社会や道徳:公平さをベースにする。返報性・等価交換の原理、人間の協力体制・生存に有利、予測可能性、善悪の概念
不健全:アンバランス、過度、完璧主義、過大、保証、操作目的。概念を悪用する。

● 感情
不平不満、怒り:公平さへの疑問、執着=自分に権利がある
やらされ感、無力感:義務を背負う。どれだけやっても認められない。

● 対処
認識:感情的負債は認識によってつくられる。客観的なものではない。道徳的規準は絶対ではない。
傍観者の立場で、負債の原因と結果を厳密に吟味し、負債の度合いを評価する。負債を個人の属性にしないこと。犠牲を払っているならその本当の意図を確認すること。外部ではなく、自分の内部の判断基準を使う。公正な基準から、適切に解消のための行動を明確にし、終了地点を定める。

1 冷静に全要素を洗い出す 
2 バランスを取る行為
3 謝罪・許しと感謝

注意点:「許し」は、免罪するわけではないし、行動を正当化するわけではない。

対話:負債の対象と直接話す。事前準備が必要。お互いにやったこと(良い・悪いを含め)全て棚卸して評価して計算する。

自分に権利がある場合:すでに相手が行っていること。直接の原因以外の、相手からの恩恵を思い出す。相手を傷つけたことを思い出す。相手の罪の原因を自分が作っていないか。自分にも責任の一端があると認識するとバランスが取れる。

対話ができない場合:自己の内面で解決する。
・自分に権利がある場合
許し、秩序は保証されないことの認識、他に多く与えられていることの認識
・自分に義務がある場合
償い・贖罪の行為、恩返しの行為
象徴的な行動や儀式:あまりにも過大すぎて、バランスは不可能なもの。過去を清算する以外に方法はない。

一般化された権利
保証されないことを認識する。自分には権利・自由があると宣言。
許し、見返りを求めない
一般化された義務
道徳的規制に異議。意識的に選択すること。ミッションとして実行。

感謝と責任:他からの善と自分がなしている悪を認識すること。その反対は、他からの悪、自分の善にフォーカスすること。

約束:無理強いされた約束なら見直していい。自分の意思としての約束なら、自分の意思で撤回できる。

 

(終了)

 

前回のまとめからの続き)

 

Section 5 権利を持った人

15. 縛りつける

見返りを期待する罠
ほとんどの人は、自分が進んで他人に与えているという考えにしがみついている。私たちは、他人や自分自身からの見返りに対する期待を隠すことがよくある。負債が返済されるまで、その人を自分の支配下に置いているように感じるかもしれない。人間関係が良好な間は、自分が「貸しを持っている」という認識を抑圧したり否定したりする人が多くいる。不満は、関係が緊張したり、バランスが一方に傾きすぎたりしたときに表面化する。

負債が返済されたかどうか、いつ返済されたかを判断する力はあなたにある。
あなたは、負債について考えたり、それを取り立てようとしたりすることで、膨大な精神的エネルギーと感情的エネルギーを使うことになる。

16. 自分に貸しがあるという状態と和解する

「貸し」の源泉を特定する
 ステップ1. 自分の貸しと感じている出来事のリストを作成する
 ステップ2. バランスをとるための潜在的な行為をリストアップする
  パートナーが行った、バランスをとる行為と考えられるかもしれない行動を特定する
  パートナーがあなたのためにどのように犠牲を払ったかを考える
  パートナーの存在によって、直接的にも間接的にも恩恵を受けてきたことを考える
  パートナーを困らせたり、傷つけたりしたことをリストアップする

負債を裏付ける認識を明らかにする
 

判断
 ステップ1. 傍観者の視点に切り替える
 ステップ2. 境界線を作る

 常に自分の犠牲を払って他人のために尽くすのであれば、内面の葛藤の表れかもしれない。与えることに制限を設ける必要があるかもしれない。

 ステップ3 因果関係を見直す
 人の行動に対してその人自身に責任を負わせることは適切である。
 この負債解決のプロセスは、自分が理不尽な仕打ちを受けたと感じたとしても、パートナーを免責にすることではない。状況をあまり激しく感じないようにすることができたとしても、それを無視すべきだという意味ではない


あなたが考える条件道徳的常識の間でもがくかもしれない。

対処:
 ステップ1. 期待を明確にする
  天秤のバランスを取るため
 ステップ2. 道徳的常識に異議を唱える

重みづけ
負債を脱個人化する

 ステップ1. 行動の裏付けとなる証拠を見つける
 ステップ2. 結果に影響を与えた状況要因を見つける
 ステップ3. 行動と意図を切り離す

負債の適切な終了を決める
許すということは、悪い行いを容認することだという誤解を抱いている人もいるかもしれない。ある人は「許して忘れてしまえば、また同じことをされる」と言っていた。
許しは、自分には「貸しがある」という感覚を解消するための最も重要な要素である。

将来の行動の変化を計画する
「負う」のときと同様に、このプロセスの究極的な目標は、自分自身の倫理観を吟味し、自分の価値観と一致した生き方を学ぶことである。

17 負債を取り立てる

1. 感謝やお詫びを求める時
パートナーは、あなたが期待しているような方法とは異なる方法で感謝を示すかもしれない。相手がどのように感謝の気持ちを示すのか、そして自分が何をされて感謝を感じるのか、お互いのルールを確認し合うことが大切である。
あなたが「貸しがある」と信じるから説明を求めるのと、理解できないから説明を求めるのとでは、全く意味が異なる。

2. バランスをとるための行為を明らかにしたり、要求したり、交渉したりしたいとき 
ほとんどの行動は習慣化しているので、相手が要求されただけでその行動をやめることは難しいだろう。

3. パートナーが、あなたの方が負債を負っていると主張しているとき

負債の取り立てるための指針
 ステップ1. 行動レベルで負債を特定する
 ステップ2. 適切な返済を定義する
 負債の原因の大きさを超えるような償いや見返りを要求することを決してしないこと。

 ステップ3. 返済を求めるあなたの意図を調べる
 返済を求めるあなたの意図は非常に重要であり、成功と失敗の分かれ目になる可能性がある。
 多くの人は、自分の権利意識を利用して、要求や主張の正当化やてこにする。「貸しがある」ということは、主に自分の立場を強化するために使われる

 ステップ4. 「取り立て可能性」を評価する
 パートナーが返済を望んでいない、またはできない場合。相手があなたの期待に応える可能性を評価する。
 負債が特に大きいときは、本当に欲しいものを相手から得られないかもしれない。負債が大きい場合は、象徴的な行為や儀式が適切かもしれない。

ステップ5. 返済の終了ポイントがあることを確認する
ステップ6. 返済の効果を評価する

パートナーがバランスをとるための行為を終えた後でも、あなたはまだ「貸しがある」と感じるかもしれない。 負債を再考し、自分で内的なバランスを取るようにする。 パートナーにさらに多くを求めるのは、不公平で賢明ではない。

パートナーはもっとしたがってくるかもしれない。 パートナーの意図を調べることだ。 パートナーがその目標を達成できるように、受け入れることもできる。 しかし、この行動は負債をあなたに移す可能性がある

取り立てを超えて


正義がある世界という私たちの信念は、しばしば現実と衝突する多くの過ちが正されることはなく、多くの損失は回復されることがない。

許しを与えることは、最も高貴で人間らしい行為の一つだ。許しとは、過去とそれに縛られることから解放されることである
誠実な許しは、パートナーに対するあらゆる悪意を洗い流す。

パートナーに「貸しがある」と言うことは、解決する問題よりも多くの問題を生むかもしれない。 望ましい結果を把握し、可能な限り、「貸しがある」ということに言及せずに、自分が望むものを求めるようにしよう。 過ちを、自分の基準や価値観を思い出すためのきっかけにすることだ。

18. 権利を持った人


「世界があなたの生活を負ってくれていると期待して歩き回らないでほしい。世界はあなたに何も借りもない。あなたより先に世界はあったのだ。」(マーク・トウェイン)

権利意識の強い人は、自分が特別だと信じているため、他者から特別な扱いを受けることを期待する

一般化された不健全な権利意識は、他人や世界に対する怒りや恨みの感情を頻繁に抱く闘争の源かもしれない。

自分の権利を主張することが個人的な権威の宣言であると認識するとき、権利意識を持つことは人生における健全な選択である。あなたは権利を主張する際の自分への負担他者への影響を受け入れる。究極的な保証は存在せず、自分には「権利がある」と主張することが拒否される可能性があることを理解する。一般化された権利意識は、他者の権利を尊重しながら、毅然と自己主張できる場合に健全だ

この約束が破られたとき、公正な世界への信念を維持するための選択肢は2つある。
1つは、人生は自分に「負っており」、他者に自分が正当に受け取るべきものを支払わせるべきだと考えることである。
もう1つは、自分が受け取ったものは何らかの理由で自分にふさわしいものであると考えることだ。このような説明は不十分かもしれないが、物事が何の理由もなく起こるという考えが示唆する混沌に直面するよりはましだ。

遺伝した身体的特徴、民族、国籍などの条件は、自然な状態か、外部の権威によって与えられた状態である。
容姿端麗な人は、他者には与えられないような待遇を受けることを期待するようになるかもしれない。
名声や富などの条件は、自分の努力によって獲得される場合もある。

エゴイスティックにならずとも、権利意識の強い人になることができる。エゴイスティックでない権利意識には、2つの区別できる要素がある。
1つは、権利を主張する際に他者へ与える影響を認識することだ。エゴイスティックな人は、他者を考慮せずにただ権利を主張する
2つ目は、権利に伴う責任を負うことだ。自己中心的な人は、権利を主張するが責任を回避する。自分がしないことを他者には求める。彼は、代償なしに特権を求める

権利を主張することは、自分の個人的な権威を主張することである。権利を主張することは、被害者意識を打ち破り、あなた自身とあなたの人生を取り戻すことにつながる。主張を認識し、それを自分のものとして主張することは、集団意識から離れるための強力な一歩だ。それは、自分の人生に対する責任を取るための第一歩である。責任は、主張を自分のものとし、その結果に対して説明責任を負うことを要求する。

自分が受け取ることを期待しているものを与えなさい。尊重を持って扱われる権利を主張するのなら、他人との接し方においても敬意を示さなければならない。誰かがあなたに対して敬意を払わないときは、敬意を示すことの大切さを思い出させてくれるはずだ。最大の課題は、自分の価値観が他者によって侵害されたときに、それでも、その価値観に従って生きることである。あなたの周りの人々がそうしなくても、あなたは自分の価値観に従って生きることができる。あなたの権利意識は、自分が期待するものと自分が与えるものとの間により多くのバランスを生み出す道徳的な選択をするための機会になり得るのだ。

Section 6 人間関係の和解

19. 互いに

義務感葛藤は、多くの場合で同義語である。
あなたは、ある時は「負う」側になり、ある時は「負われる」側になるなど、極端な状態を行き来することがあるかもしれない。虐待のサイクルには、感情的負債に関連する一連の不整合性がしばしば含まれる。虐待者は、要求が拒否されたり理不尽な仕打ちを受けたと感じると暴力に訴えたり、所有権を示そうとしたりする。後で同じ人物が謝罪しながら萎縮する。被害者もまた、このような扱いに対する怒りと、まるで自分が仕方がないかのように暴力を受け入れる自己批判を行き来することがある。

感情的負債の本質は、自分自身を喜ばせることと他人を喜ばせることの間の内面の葛藤を引き起こす要因となる。

あなたは自分自身を喜ばせる力と、他人を喜ばせる力、どちらも必要としている。これらの欲求は、一緒に働き、お互いをサポートし、高め合うことができる

自分自身を喜ばせる:

 やりたいこと、自由
他人を喜ばせる:

 しなければならないこと、責任

20. 自分自身を取り戻す

部分の統合
自己・他者間の葛藤の兆候

葛藤を抱えた部分の統合

1.葛藤の部分を分離する
 左右の手を使うか、物理的な場所を使う
 自分自身の特定の部分や葛藤に対して、強い否定的な判断をしないようにする
2.現在のパート間の関係を評価する
3.各パートの肯定的な意図を特定する
4.共通の目標を見つける
 お互いが本当に同じ目標に向かって取り組んでいることを理解すると、協力して一緒に働く意欲が高まる。
5.強みと特性を共有する
6.パート同士をまとめる

分離されたパートの統合を表す、床の上に3番目の場所を作ることもできる。パートの身体的統合を表す、動きジェスチャーのダンスを作り出すこともできる。目的は、パートの統合を象徴化することである。

何が自分にとって重要なのかわかっていないと、他人の言いなりになってしまうかもしれない。包括的な目的を持つことは、決断を下したり人生の選択に対処したりするのに役立つ。自分の使命を定義することは簡単なことではない。

21. 人間関係の清算

感情的負債の処理方法を学べば、問題になる前にそのような問題に対処することができる。主体的なアプローチを取ることで、自分自身と人間関係におけるバランスを自分でコントロールできる。

22. バランスをとるための行為

パートナーと感情的負債の口座を共有する
プロセスをスムーズに進めるために、自分には「貸しがある」と思うことについて話し合う前に、自分が「負う」べきことについて話し始めるのがよいだろう。

「貸しがある」という話題は、話し合いを難しくする。
自分の認識を持ち、自分が負債を作ることにどのように貢献したかを共有するようにしよう。

聞き手としてのあなたの目標は、パートナーを理解し、自分自身を守るためやパートナーを正すためではなく、パートナーの話に耳を傾けることである。あなた方の間の負債を解消する前に、パートナーの話を最後まで聞くようにしよう。

このプロセスは、感情的負債を人間関係における資産に変換する機会をもたらす。

続く

 

前回のまとめの続き)

 

Section 3 感情的負債から抜け出す

8 安易な方法

感情的負債を解決する際の4つの一般的な障壁

1 負債の原因を曖昧にする
→原因を特定し、重要な出来事を特定する。

2 負債を個人に帰する
負債を行動ではなく人に結びつけてしまうときに起こる混乱。
行動とアイデンティティの混同。
強調すべきはその人がどのように行動するかであり、その人がどう考え感じるかではない。

3 負債を終わらせる責任を放棄する
もし負債を終わらせる力を放棄してしまった場合、適切な返済を申し出ても負債は解決しないかもしれない。

外部の参照から内部の参照に切り替える
負債の返済として何が有効かを自分で決める。自分が負っている相手が負債が返済されたかどうかを決定すると思い込むのは自然なことだ。この前提は外部の参照を利用している。相手や権威を持つと認識されている人があなたを解放するまで、あなたは負債を負い続けることになる。
自分が負っていると感じるとき、その負債を終わらせる責任を放棄し、負わされている状態に固執する。これによって関係の不均衡が永続化する。最終的には、許しを与え、許されることが負債を解決する唯一の行動となってしまう。

4 感情的負債をオープンに議論することができない
問題を内部で解決することは可能だが、関係を正常に保つためには、時には負債の原因と議論することが必要または有用である。


9 感情的負債から抜け出す

負債を特定する

偏見:私たちは他人のためにどれだけのことをしたかに目を向けがちで、他人が私たちのために何をしてくれたかを見逃しがちだ。また、私たちが他人にどれだけの損害を与えたかよりも、私たちがどれだけの損害を被ったかに気づきやすい。

所有に関連する出来事のリストを作成する:「彼女はとても寛大だ」という代わりに、寛大な行動の具体例を特定する。「いつも」-> 代表的な例をいくつか見つける。

負債を支える認識を明らかにする
誰もあなたに負債感を抱かせることはできない。あなたの課題は、出来事の認識を通じてどのように負債感を作り出したかを見ることだ。

負債を個人化しない
自分自身や他人の行動の背後にある肯定的意図を見つける。
誰かがあなたのために何度も犠牲を払ってきたなら、その人にとって犠牲がどのような報酬を持っているのかを尋ねることができる。

負債の適切な解決方法を決定する
あなたのパートナーは、あなたが適切なバランスを取ったと感じているにもかかわらず、負債を抱え続けるかもしれない。感情的な負債は不均衡の認識であるため、バランスが回復したと認識したときに解決される。

将来の行動変化を決定する
あなたは不健康な負債にどのように関与しているかに気づくようになる。負債を個人化したときにより迅速に気づくようになる。受け入れられる行動と受け入れられない行動についての境界が明確になる。


10 話し合いが必要

感情的負債はデリケートな話題だ。準備不足で臨むのは愚かであり、特に不安定な関係では危険である。負債を解決するのではなく、議論するだけで終わるかもしれない。負債について他の人と話す前に、自分自身で処理することが、いくつかの厄介な落とし穴を避けるのに役立つ。


話し合うべき良い理由
 認識期待を明確にするため
 関係における感情的負債を解決するため
 真摯な解決の意欲を持つため
 限界境界を設定するため
 

自分が間違えられたと感じた場合、その状況に寄与した可能性のある行動を特定する。パートナーに対して、何が許容できる行動と考えるかについて限界を設定する。


自分の認識に責任を持つ


Iメッセージを使う。

「あなたが私を傷つけた」ではなく、「私は傷ついた」と言う。
 

Section 4 義務を負う者
 

11 私には借りがある、私には借りがある(I owe, I owe)

義務感の3つの要素

1. 判断 (Judgement)

2. 罠 (Trap)

3. 重み付け (Ante)

1. 判断

 

ソース:出来事、相手から言われること、相手の心を読むこと

方向性:相手に起きたこと/行ったことに向く or 自分に起きた/行ったことことに向く
原因:相手もしくは自分の行動を原因に結びつける

 

受け取った利益を強調すれば感謝の気持ちを感じやすくなる。
自分のために相手から払われた犠牲を強調すれば責任を感じやすくなる。
自分の行動がパートナーに害を及ぼしたことを強調すれば罪悪感を感じやすくなる。

 

2. 罠


道徳的義務(すべき、しなければならない)
誰かがあなたに好意をしてくれたら、見返りに何かをすべきだと感じる。過ちを償うために何かをすべきだと感じる。
何かをする必要があるという感覚と外部参照が組み合わさると、負債の罠が生じる。

 

3. 重み付け

負債の重要性は、負債への認識の大きさと個人化する度合いによる
出来事の蓄積や「いつも」「決して」「いつも」などの言葉は負債を巨大化する。このとき、あなたが返そうとして行った、どんな単一の行動も、負っているすべてをバランスさせることはできない。


12 負うこととの折り合いをつける
 

ステップ
 負うに関連する出来事のリストを作成する。
 各項目に対する自分の反応をリストアップする。
 

負債を支える認識を明らかにする
 

判断
 観察者の立場に切り替える。
 自分と他人との間に境界を作る。
 因果関係に挑戦する。
  例:彼の推薦は確かに助けになったが、それはプロセスの一部に過ぎなかった。
 


 道徳的義務に挑戦する。
  それはガイドラインであり、絶対的な必要性ではない。
  彼を喜ばせなかったらどうなるか?
 内部参照に切り替える。
 負債の創出において自分の役割に責任を持つ必要がある。
 誰かに過ちを犯した場合、自分の基準で違反した価値を判断する必要がある。自分の間違いを認めることで、将来の違反を避けるために行動をどのように変えるかを決定できる。


重みづけ
 適切な返済を決定する際に、その重要度を評価する必要がある。
 儀式や象徴的な行動を通じて、重要な負債を認め、尊重することができる。パートナーと関わることができないと感じるとき、儀式は特に内面的なバランスを回復するのに強力である。亡くなった人やもうあなたの人生の一部ではない人に対する負債を返済するための儀式を設計することもできる。
 

負債を個人化しない
負債を個人の特質に結びつけてしまうと解消できなくなる。

1. 特徴の行動証拠を見つける。
2. 結果に寄与した状況要因を特定する。
3. 行動と意図を分ける。

相手を傷つけてしまった場合でも、その背景にある肯定的な意図を見つける。
 

負債の適切な解決方法を決定する
状況を客観的に把握し、負債の行動的原因を特定し、負債を終わらせる権限を取り戻す。適切なお返しやバランスの取れた行動を決定する。
 

将来の行動変化を計画する
このように感情的な負債を利用することで、個人の成長と発展のための強力で積極的な推進力となる。


13 感情的な負債の返済

借りを返すための3つの指針


1 感謝や謝罪をしたい場合
  2つの謝罪
 1) 後悔または謝罪の要求
   2) 正当化または弁護

謝罪をする際は、自分の意図を明確にすることが大切だ。相手をなだめたり、自分の責任を逃れるための謝罪は偽りの謝罪である。このような策略は短期的にうまくいくかもしれないが、長い目で見ると裏目に出ることが多い。誠実な謝罪をしよう。

また、相手があなたを許すかどうかを決めることができるようになるため、相手に主導権が移る。

2 パートナーからの意見を求める場合
あなたの目的は、決定を下すための情報収集である。

3 パートナーが借りを主張している場合
パートナーが借りの根源だと考えていることを知るための情報収集の機会として、パートナーの主張を活用しよう。

借りが無いと感じているのであれば、認識の相違について話し合うことが大切だ。この会話には、交渉や対立解決のスキルが必要になるかもしれない。

返済の指針
 

1 親切や過失を具体的に行動レベルで特定する


2 適切な返済を定義する
適切な返済を決めるための普遍的なルールはない。ここで重要なのは「適切」という言葉だ。
もう一つの一般的な対応は、同じ過失を繰り返さないことを約束することである。しかし約束は、あなたとあなたのパートナーの両方にとってになる可能性がある。約束を破ると、元の借りが再び開き、さらに別の層が加わる。約束をするのではなく、どのように改善に取り組むかをパートナーに伝えるようにしよう。

3 前払いをする際の意図を調べる
相手をコントロールしたり、変えさせようとしている場合、自分自身と相手を欺くことになる。

4 返済を行う意思を評価する
やりたくない、楽しめないと思っていても、進んで行うことができる。不承不承に弁償を行っても、返済の意味が失われる。それは真のバランスを取る行動ではなく、単なるなだめの行為だ。

重要なのは、タスクの不快感ではなく、バランスを生み出すという結果に焦点を合わせることだ。

5 返済の終了ポイントがあることを確認する
際限なく借りが残ることは、不健康な感情的負債の最も破壊的な側面の一つである。区切りをつけることで、問題が完結したという感覚が得られる。終了ポイントを定義しないと、問題が生じるおそれがある。

6 バランスを取る行動の効果を評価する

バランスを取る行動だけでは不十分
なぜもっとすべきだと考えるのか、もっとやろうとする意図を調査すること。
相手があなたの負債を利用して、問題解決にほとんど関心がないままあなたを引き延ばしているかどうかを調査しなければならない。

バランスを取る行動のやりすぎ
途中でやめるのは危険だ。本当にバランスを取り戻すために必要な努力を回避していないことを確認する。

パートナーは、あなたがバランスを取る行動を完了する前に「もう十分だ」と言うかもしれない。その場合でも、パートナー抜きに、自分自身のためにバランスを取る行動を行うことができる。
相手があなたを借りから解放した後も、要求し続けると、相手を怒らせたり、関係に負担をかけることになるかもしれない。

返報を超えて
恩恵があまりに特別だったり、過失があまりに重大だったりして、返済や修復ができないと考えるかもしれない。
2回目、3回目とこのプロセスを繰り返すことで、新たな視点が得られるかもしれない。

非常に重要だと考えられる負債には、バランスを取るためにより多くの努力と創造性が求められる。負債の認識を生じさせた出来事の重要性を尊重するために、象徴的な行動や儀式が適切な場合がある。
ほとんどの精神的伝統は、他人が私たちのためにしてくれたことに感謝し、過ちを告白し、適切な場合には悔恨の念を抱くことで、精神的な浄化啓発が得られると示唆している。負債を返済するための真摯な努力は、自分自身を癒し、関係を癒す精神的な行為である。


14. 義務を負う人

義務感は、人生において健全な選択になることがある。受け取っていることに感謝して、進んで他人に与えるかもしれない。それは、自己利益を超えて行動し、真の利他的に行動するよう促すものかもしれない。

一般化された義務感は、道徳的羅針盤として機能し、人間関係や人生において倫理的に正しい選択をするための指針となる。

矛盾したメッセージ
私たちは、義務感に関する相反するメッセージで溢れかえっている。義務感ではなく、真の欲求から行動すべきだと言われる。中には「べき」という言葉すら使わないように努力する人もいる。しかし、自分のしたいことをするのは利己的だろうか? 何かを欲することさえも許されないのだろうか?

同じ負債を何度も返済しているように思われるなら、それは一般化された負債を抱えているサインである。

さらに悪いのは、自分が何を望んでいるのか全く分からない場合だ。ただ自動的に、義務感だけで状況に反応してしまうのである。一般化された「負う」状態は、操作の標的になりやすい状態である。

一般化された負債の根源
一般化された義務感は、すべての感情的負債と同じ根源から生まれる。一般化された「負う」状態の共通点は、人生は公平であるべきであり、人は自分がふさわしいものを得るべきだという信念である。

公平であるためには、たとえ別の関係でそうする必要があったとしても、代償を払ったり苦しんだりしなければならない。正義が執行されなければならない。自分の義務を果たしていないなら、報酬を受けるに値しないと考えるかもしれない。

愚か者にならずに、負債を負う人になることができる。あなたは義務感に基づいて行動することを意識的に選択する。義務を果たしながら、自分自身に忠実であり続けるのである。愚か者は考えずにただ行動するだけだ。それが自分の判断に反していたり、不必要に自分を危険にさらすようなことでも行動する。

承認され、好意的に見られるために義務を果たすこともできる。しかし、進んで受け入れ、自分の性格の一部としての義務を果たすこともできる。

「負う」を受け入れる方法
「負う」を受け入れる一つの方法は、感謝の気持ちを持つことである。私たちは、返せる以上のものを他者や人生から受け取っている。

もう一つの方法は、自分が他人に迷惑をかけていることを認めることだ。他人に迷惑をかけることを厭わず、その結果の責任を負うことを厭わないときに、あなたは「負う」を受け入れている。

 

続く


 

【タイトル】 I owe you you owe me ー Breaking Free of Emotional Debt and Creating Abundant Relationships
【著者】 Nick LeForce

【ページ数】 163

 

 


【読むきっかけ】
この本を読んだのは1年前以上で、NLPのラーニングセンターで著者のニック・レフォースがセミナーを開いたことがきっかけだった。そのセミナーには参加できなかったものの、参加した人から概要を聞き、興味を持った。ネットで調べるとニックの著書があることが分かり、早速取り寄せた。

「感情的負債」という感情と負債を結びつけたこの言葉は、人間の感情の背景に負債というものがあることを示唆し、新しい視点を与えてくれた。自分がこれまで探求テーマとしていたことに、多くの示唆を与えてくれた。読んでいる最中、本当にワクワクしたものだ。とはいえ、非常に深い内容で、莫大な情報量であるし、また最終的な解決方法にある種の「魔法」を期待しすぎていたせいか、読み終わった後は、満足感というよりは、消化不良の感じがあった。後半の負債の解決方法で、月並みのNLPの手法が列挙されたとき、残念に思い、読了したあと、何というか、方向感を失ってしまったような気がした。
そのため、しばらく寝かせることにしていたが、眠ったままになってしまっていたので、今回、以前作成したサマリを読み返して、このテーマに取り組むことにした。

【対象】 人間の感情について本質的な理解をしたい人。NLPの知識は不要
【評価:★5段階で】
 難易度:★★★★★
 分かりやすさ:★★★
 ユニークさ:★★★★★
 お勧め度:★★★★★

【まとめ】


Section 1 イントロダクション
1. あなたの人生を所有すること

感情的負債
私たちは皆、目に見えない「感情的負債」を抱えていることがある。これは、人との間で交わされる「恩」や「借り」のようなもので、はっきりと言葉にされない絆であり、際限なく蓄積され続ける負担だ。

I owe you (私は、あなたに恩がある/借りがある・あなたは私に貸しがある)

you owe me (あなたは、私に恩がある/借りがある・私はあなたに借りがある)
のどちらか。

このような感情的負債によって、私たちは自分の「本当に欲しいもの」や「本当に大切なこと」ではなく、他人に対する「義務」を果たすことに人生の焦点を合わせてしまいがちである。どれだけ尽くしても「借りを返す」ために費やされ、自分らしい人生を送ることができなくなってしまう。

この本は、そのような「感情的負債」から人生を取り戻す(Reclaim your life)ためのガイドである。

・感情的負債とは何か、その見分け方
・健全な感情的負債と不健全な感情的負債の違い
・不健全な感情的負債から解放される方法
・健全な感情的負債を果たすことの大切さ
・感情的負債を果たすことで人間関係を改善し、自尊心を高める

お金の借金は、金額や返済期限が明確だが、感情的負債は際限なく膨らんでしまう

「借りる」「返す」「 返済」「稼ぐ」「投資」「正当な報酬を受け取る」など、お金に関する言葉は、感情的負債を理解し、話すためのメタファーとして使われる。

人間関係で使われる感情的負債:「命の恩人」という言葉は、感情的負債の典型だ。映画やドラマの登場人物の行動動機にもよく使われる。
ビジネスで使われる感情的負債:「ふさわしいサービスを提供します」「信頼して頂けるよう努力します」などの言葉は、顧客に「感情的負債」を感じさせ、自社を選んでもらうための戦略である。
広告で使われる感情的負債:広告は、感情的負債を利用して消費者の注意を引く。

不公平さ:一方的な「与える」だけで、見返りがない関係は不健全である。

スティーブン・R・コヴィー氏は著書の中で、人間関係を「感情的銀行口座」に例えている。営業の世界では、たとえ無料のプレゼントであっても、受け手には微妙な「借り」の意識が芽生えることを利用する

死や悲しみの過程では、私たちは人間関係における未解決の「感情的負債」と向き合うことが必要である。

私(ニック)は、感情的負債に縛られなくなったことで、以前よりも自由を感じるようになった。そして何より、かつて自分を支配していた「感情的負債」を解消する方法を身につけたことで、自分の人生をコントロールしているという感覚が強くなった。

Section 2 負債を抱える

2 負債を抱える

交換:ギブ・アンド・テイク
お金は、モノやサービスを交換するための共通の単位である。多くの交換は公平に行われるが、中には不公平に感じたり、片方だけが損をしているように感じたりするものもある。
「感情的負債」は、交換の後に、どこか「借り」や「貸し」が残るような感覚が残る

公平な世界という信念(Belief in a Just World)
「感情的負債」の核にあるのは、シンプルで強力な信念である。
・人は自分がしたことに応じた報いを受けるべきだ。
・世の中は公正であるべきだ。
・私の権利は保証されるべきだ。
・義務を果たした見返りに、報酬が与えられる、あるいは少なくとも外から守られるべきだ。
・善行はいつか報われる。

私たちは、このような考えによって、人生をある程度コントロールできる感覚を得ている。世の中は予測可能だと感じられるのである。人々は、行為や自身の属性に応じて、ふさわしいもの(What they deserve)を得ると信じている。

しかし、正当な理由もなく理不尽なことが起きた場合、私たちはしばしば個人的な欠陥があるのではないかと考えてしまう。

3 我々はどうしてこうなったのか?

感情的負債を生み出す4つの主な要因

1 犠牲好意 (Sacrifices or favors)
2 過失不正 (Wrongs or injustices)
3 約束誓約 (Commitments or promises)
4 役割や立場に伴う権利義務 (Roles and conditions)

 

  好意 / 犠牲 過失 / 不正 約束 役割
借り 誰かがあなたに好意をしてくれた あなたが誰かを怒らせてしまった 約束をした 役割に伴う義務がある
貸し あなたが誰かに好意をした 誰かがあなたを怒らせてしまった 誰かがあなたに約束をした 役割に伴う権利がある


エチケットのルール
約束をして守ることは、人間関係における信頼を築き、人々を結びつける。 約束をすることで、お互いを頼りにすることができるのだ。

合意(Agreement)には交換(Exchange)が伴う。約束は、将来あることを行うか、何かを与えるという確約である。約束と合意の違いは、約束には交換が必ずしも必要ない点にある。約束自体が、そうしなければならないことを義務づけているのだ。

権利は、あなたに何が owed(得ることができる)であるかを定義し、義務はあなたが何を owe(負っているもの)であるかを定義する。

既得条件(Preexistent)は、あなたの努力を必要としない。
取得条件(Aquired)は、あなたの努力、行動、行い、または悪行によって獲得される。
・取得した権利や義務は、あなたが受けるにふさわしいものを得るという考えに基づいている。

拡大された、一般化された負債
感情的負債の中には、人間関係を越えて、国、人生、神との関係にまで及ぶものもある。
例えば、宗教的な所属は、貧しい人への奉仕という義務を要求するかもしれない。そうすると、その負債は特定の個人ではなく、階級全体に対して適用されることになる。反対に、私たちは自分の権利が侵害されたと感じることで、人生が自分に対して負債があると思い込む。

権利や特権、義務や結果に対する反応の仕方を理解することは、苦しみを減らし、他者への思いやりを増やすのに役立つかもしれない。

一部の女性は、特定の男性にひどい仕打ちを受けたことで、すべての男性が自分に負債があると信じ込む

義務を負っている者として
あなたは自分の夢や願いを否定し、義務や責任に直面してそれらを捨て去る。

権利があると考える者として
あなたは自分のものだと信じるものを要求したり、単に奪ったりするが、自分の行動が他人にどんな影響を与えるかを考えない。

4 魔法をかけられる

感情的負債
強力:圧倒的、普遍的、無意識、融通性がある。
圧倒的:あまりにも多くの「しなければならない」が存在する。

規範
・好意に対してどのように感じ、どのように対応するか
・いつ、どのように助けを求めるべきか
・他人を軽んじたり怒らせてしまったときの気持ちと対応
・他人に軽んじられたり怒らされたときの気持ちと対応
・約束を大切にする方法
・社会的に認められた権利と義務

与え返さずただ受け取るだけの人は、せびる人(Moocher)や恩知らずと呼ばれる。このようなレッテルは、感情的負債を返すようにする社会的圧力を作る

無意識:感情的負債の真の力は、その捉えどころのなさにある。
融通性:互酬性(Reciprocity)は、人があなたに対して行ったように、あなたもその人に接することを示唆している。
このルールは、完全な一致を要求しない。ある程度の釣り合いが期待される。返済のための時間枠は曖昧なまま残されることもあり、借金が返済されたかどうかが不明確になることがある。この不確実さは、実際には人間関係を安定させる

交換的関係
 点数をつける
 見知らぬ者同士の規範
共同体的な関係
 ある程度の公平性が時間をかけておおよそ生じるだろうという信頼を持つ
 友情

過ちに対する互酬性
復讐
 目には目を、歯には歯を
補償メカニズム:償いを果たすために何かをすること。ある程度の公平性が適用される
 悔恨と後悔の表明は、ある程度のバランスをもたらすかもしれない

5 健全であるために

健全な感情的負債
多くの人は進んで感情的負債を返す。責任を果たすことは喜びにもなる。他人に与えるだけで得られる心地よさは、しばしば十分な報酬となる。他者から受け取ることによっても、幸福感と所属感を得ることができる。過ちを償うことで罪悪感が和らぎ、自尊心が向上する。許すこと許されることも、深い精神的な祝福である。

不健康な感情的負債

状況 感情
いくらやっても足りない 不十分
無力
圧倒される
期待に応えられない 罪悪感
後悔
落ち込む
与えるほうが受け取るより多い 疲れ果てる
利用される
軽視される
不公平の被害者 恨み
悔しさ
侵害される
当然のものが得られない 失望
苛立ち
怒り
大切な人やものを失う 悲嘆に暮れる
悲しみ
空虚感


ネガティブな感情は敵のように見えるが、実際はあなたの友達である。感情的負債を解消する第一歩は、自分がそれを抱えていることを認めることだ。怒り、恨み、無力感などのネガティブな感情は、感情的負債を抱えているサインととらえることができる。

過ち
私たち全員が不完全であり、誰もが間違いを犯し、時には自分の限界を露呈する行動を取るということを認識するのは健全なことである。あなたを傷つけた人に対して限界や境界線を設定するのは適切なことだ。心から許しを与えることができるのは祝福といえる。
しかし、些細なミスに対して過剰な罪悪感を持ったり、怒りや恨みをいつまでも抱え続け、先に進めないのは健全とは言えない。

約束
私たちが約束に縛られて苦しんだり、約束を避けたり、約束を守れなかったことに対して他人を非難したり言い訳をしたりするのは不健全である。他人を操作する目的で約束を利用するのは不健全だ。状況に関わらず他人をその約束に縛り付けるのは残酷である。

権利と義務
自分の権利が保証されているわけではなく、義務も絶対的なものではないことを認識するのは健全である。権利や義務に固執しすぎて、他人を責めるのは不健全である。

6 すべてが平等


愛が無条件に与えられるときだけ愛だと信じる人々は、逆説的に愛に狭い条件を課してしまう。映画や本は、拒絶や災難にもかかわらず一途な献身を貫く片思いの恋人を理想化する。しかし、現実の愛はそのように美徳や寛容さに満ちていることはほとんどない。持続する愛には交換が伴い、その交換が人々の間の愛を変え、形作っていく

バランス
感情的負債は、バランスが崩れていると感じたときに生じる。バランスを取り戻したいという欲求や必要性が生まれる。

公平性についての間違い
算定: 人間関係を経済的取引に変えてしまい、安っぽくする。
補償的: 外見が彼の知性のなさの埋め合わせになっている、など。

利他的行為
施しをすることで喜びや感謝などの好意的な感情が得られる。
宗教的・市民的義務として行うと、いつか良いカルマが返ってくる。
施しをする際、見返りを期待していなくても、喜びや感謝などの感情的見返りを期待している。

バランスを取る行為
いくつかは内面的なものであり、他人や関係源以外のものを関与させない。例えば、償いの一環としての慈善活動など。

大きさのバランス
大きさの不均衡は、借金が返済されたかどうかについての争いにつながることがある。一方が些細な事だと考えているのに対し、他方が非常に重要だと考えている場合がある。

7 傍観者の目
 

物事を解釈し、判断するために使う思考プロセスは、感情的負債の土台となる。

要素
1 自分
2 他人、集団、または物
3 関係

注目の方向
- 自己中心的
- 他者中心的

あなたが心の中で強調する現実の一部分が、あなたの経験を決める。考え方を強調する部分を変更すると、状況に対する感情も変わる。
感情的負債は、認識によって生み出され、解釈や判断によって助長される

判断
意味
原因
影響
 影響の持続性 <-> 一時的なもの
 影響の広範囲性 <-> 特定の状況に限る
 影響の個人化 <-> 一般的なもの
  性格的特徴ではなく状況の影響

 

続く

 

前回からのまとめの続き)

 

 

 

 

【まとめ・続き】


天命の辞退
抵抗、自己不信の場所に行き当たる。抵抗や自己不信は、自分が境界に近づいていること、それまで足を踏み入れたことのない地点に足を踏み出そうとしていることを教えてくれる。
自己不信は、論理的でなかったり、言葉に表せなかったりする。緊張、萎縮、恐怖など身体的な形で現れることもある。体に感じるフェルトセンスを生じさせる。心だけでなく、体に生じる抵抗とも取り組む。その抵抗がどんな言葉をかけてくるか。抵抗に自分がなりきって、内側からその肯定的意図を探る。デーモンは守護者に、リソースに変わる。
内面において、デーモンすなわち抵抗がその人の全一性にとっていかに重要なものであるかということ、必要なのはセンタリングとスポンサーシップと統合だけであること。

元型パターン
 ドラゴンと対峙:
  無邪気な人、孤児、殉教者、放浪者、戦士、魔法使い
 

生成的な場
あらゆる創造は意識的な心の向こうからやってくる
天才と呼ばれる人たち「創造をおこなっているのは私ではないーー私の中を通っていく何かだ」

リーダーシップ
あるシステムの場に肯定的なエネルギーを持ち込むプロセス

第二の皮膚
自分の体を取り巻くように感じられるある重要な場への気付き。相手に姿は見せるけれど、圧倒されたり侵略されたと感じたりしないで済む場。
鎧でも、力場でもない。周囲の環境とつながりながらも選択的な状態にいる。

合気道の原則:決して攻撃(もしくは攻撃者)に注目しない。
 問題だけに心を奪われ、それ以外のものが見えなくなると、リソースとのつながりが切れる

生成的な場:課題を超えた部分にまで気づきを開いて対応する

問題の解決:中心とつながり、彼方の生成的な場に自らを開けるような場所に身を置く。

場に同調:外へ広がっていく注意エネルギーと受容エネルギーとのバランスを見つける。

創造的な無意識はある人の内部にあるのではない。その人を超えたところに開く場である。

互いに身体的にミラーリングすればラポールが形成されたと考える人がいるが、互いにエネルギーが同調していなければ、つながりのあるレベルがそっくり欠けてしまう。
センタリングした状態でエネルギー的に互いにミラーリングしていると、それは非常に楽しい経験になる。それによって思考から脱し、関係性の場のマインドに入るから。

立ち会う自己(ウィットネッシング・セルフ
 生成的なレベルに移行するときに、別の意識レベルが追加される。
 実行する自己とは距離を置く。仏教徒がマインドフルネス及びメッタ(スポンサーシップで応じる慈愛)と呼ぶもの。距離を置くが、乖離ではなく差異化。超越しながら含む。
 
課題がどれだけ大きくても、自己の持つ空間は常にそれ以上に大きい

生成的原則
 身体マインド:センタリング
 認知マインド:スポンサーシップ
 場マインド:コンテンツや局所的な気づきの彼方にまで自らを開くこと

ダブルバインド
行き詰まった、もう先へ進めない、英雄の旅で試練に会い、どう乗り越えたらいいかわからない状況
これから生成的な変化が起きるかどうかの境界に立っているという合図

場の言語
シンボル、メタファー、イメージ。比喩的思考。認知マインドからきたものではない。

生成的な場
言葉や認識はあまり働かず、経験に深く没入した状態で処理が進む。
生成的な場として自らを開くと、どのようにして場の各パートに場所を与えたらいいかに好奇心が湧いてくる。体外の空間を使って行うこともできる。体内のいくつかの中心を使って異なるエネルギーやパートを収容し、のちに、それらを統合するというやり方もできる。そして、これらの異なる中心の間を流れるつながりの感覚をどうやったら感じ取ることができるか。これは対立するものを統一できる自己のこと。ヒンドゥー教のチャクラの観点:異なるパートは異なる身体的中心を持っている。一つの身体的中有心にある自分のパートを感じ、別の身体的中心に別のパートを感じている。
そのいずれもが実際には自分ではない。あなたは、自分の知識のあらゆるパートをつなぎながら、その中を流れていくスピリットである。

第3世代のNLP
単にいくつかのサブモダリティを配置換えするようなものではない。深層のアイデンティティの変容を可能にする。三次タイプの変化。人間の再編、魂の目覚め。

ワーク
・問題の状態に入る
・望ましい状態に入る
・双方を収容する場に入る
・それを越える「場の場」に自らを開く
4つの位置の間を移動できるようにし、生成的な場マインドに呼びかける。
体に生じた感覚を描写する。場の知性は道標とするフェルト・センスを必要とする。
答えを考えるのではなく、心に浮かんでくるものを捉え、経験的にそれを感じ取るようにする。
ユング:超越機能:より深い統一体にする生成的なプロセス。自己実現の中心的なプロセス。

責任と欲望の葛藤
 責任は他者に関すること、欲望は自己に関すること、元型的な苦闘
 どちらの方が重要か? 答えは「よし(Yes)」
 この世の中、どちらを向いても対立がある。それらを戦わせたり、一つを「良い」、もう一つを「悪い」と考えたりするよう、わたしたちは訓練されているが、それらは似たもの同士。対立を敵同士だと考えたり、互いに排斥しあったりすることがどれだけ馬鹿馬鹿しいか。たとえ一般的には、症状や問題という形で対立を体験するとしても、関係性は相反から融合へと変わることができる。統合は自然には発生しない。それをするには人間という存在が必要。

コーチ
 英雄の体験のコンテンツがどのようなものであれ、その英雄が上質の状態に居つづけられるように手助けすること。
 クライアントが頭で感じ始めた場合は、穏やかに、しかし、きっぱりと指導しなくてはならない。呼吸する、中心の中に落ち着いていく、リラックスする、解き放つ。

祈りの必要性
宗教的な意味ではなく、自らの偏狭な自己を超えた知性とつながるという人間的な意味。
どういう方法で一体化を現実のものとするかは問題ではない。とにかくそうすること。

英雄の旅での試練クライアントは素晴らしい変化を起こすと、「これはすごい、最高の気分だ!」といいます。私はそっと打ち明ける。「楽しめるうちに楽しんでおいてください。長くは続きませんから
次から次へと課題は与えられる。変わる可能性があるのは、自分とそうした課題との関係。関係が変化すれば、課題をやたらに個人攻撃だととらないようになる

帰還
学びを自分の日常生活に持ち込む。
現実の世界がこのプログラムで作り出した世界ほど素晴らしくも受容的でもないことに気づくと、少々ショックを受ける。この世界には、皆さんが目覚めるのを心底望んでいない人がいっぱいいる。そういう人たちは皆さんが自分の天命にどれだけ打ち込んでいるかを試験しようとする。皆さんの前に鏡を掲げて、皆さんのシャドウを映し出そうとする。

英雄の旅というこの深い変容の道のりは、一発勝負で済まされるようなものではない。反復的活動が必要

自分自身とのつながりも必要
ロバートの父親は自分の喫煙について、「自分が自分自身のためにしている唯一のこと」と言った。これは偽りのセンタリングの実践。センタリングした状態で一身に自分自身とつながろうとしなければ、センタリングしない状態で自分自身とつながるだけに終わってしまう。
嗜癖とは、本質的に、センタリングしない状態で自分のためにする常習行為のこと。嗜癖は、自分と、自分の内面にある自我の支配の届かない深い何かとを繋いでいる。このつながりを求める気持ちは誰もが持つ基本的な欲求であり、それを自分の存在で養わないと、自分の存在を欠いたまま嗜癖という形で満たされる。「あなたの人生で最も大きな喜びを与えてくれるものがこれだなんて、悲しくありませんか?もっともっと探してみるべきだったんじゃなりませんか?」

ガブリエル・ロスのファイブリズム
 体の中にしっかりした立脚点を持ち、心を開き、精神を静め、自分を含む大きな場とのつながりを感じ取る方法。人間は、エネルギー、波、パターン、リズムである。英雄の旅を続けるには、このように異なる五つのリズムすべてのエネルギーと才が必要。
 フローイング:自分自身を発見
 スタッカート:自分自身を定義
 カオス:自分自身の溶解
 リリカル:自分自身の表現
 スティルネス:自らを超えたつながり

守護者を見つける
今生きている人でなくても、歴史上の人物でも、スピリチュアルな存在でも、自然現象であってもいい。
ユング:重要なタスクの一つは、聖人のコミュニティを発展させること。
自分がどんな系統の中を歩んでいるか、その系統の中の生成的な存在に波長を合わせることによって、自分の道案内をしてくれる聖人のコミュニティのメンバーを見つけることができる。
課題の解決に必要なリソースの守護者は誰か。そのリソースを活かすのに役立つ守護者は誰か。
人間の守護者も見つけること。人間のコミュニティにも属していることを思い出す。

自分は単に苦しむためだけにここにいるのではない。もっと深い目的のためにここにいるのだ。その深い目的を胸に抱きながら人生を生きていこう、と気づく。何度それに気づいても、必ずまた忘れる。重要なのは、帰ろう、と思い出すこと

エクササイズ
 自分の中心とつながる(センタリング)
 自分の中心から語り、聴く
  パートナーと繋がる。
  開いた目を主に周辺視野に向ける
 三つのマインドを提携させ、天命を現実化する
  中心とつながり、ゆっくり話す。オペラ歌手が歌うように。
 能動的なセンタリング
  センタリングが維持されたら、否定的な催眠を追加し、受け流せるか確認。
 英雄の旅に関する質問
 英雄の旅を始める
 自分の中の「良い自己/悪い自己」を明らかにする
  「あなたが、良い自己、悪い自己、その両方であること、それより遥かに大きな人間であることがわかる」。
 人生の推移を象徴する元型(ドラゴン)をたどる
  一巡目:それぞれの元型パターンに入り感じる
  二巡目:センタリングを追加し、各元型が持つ才能、価値を確実に感じ取る。
 場とつながる練習
  気の玉を創る
 第二の皮膚を発達させる
 エネルギー・ボールと元型的なエネルギーーー変容する未来を創り出す
  エネルギーボールに達成目標、優しさ・猛々しさ・遊び心を入れ、自分の中心に統合
 場を見る
 場に向かって自らを開く
 自己トランス法
 ファイブリズムを探求する
 自分の守護者を集める


【感想】

英雄の旅を三つのマインドから、アプローチする。


身体マインド:センタリング
認知マインド:スポンサーシップ
場マインド:自らを開いていく。統合。

否定されるもの:原理主義、抵抗、否定、強制的な変更
変容されるもの:シャドー、ネガティブさ。上記の否定されるものも変容される。
否定的な圧力に対して:フローイング、第二の皮膚を用いる。

ファイブリズムのスタッカート、カオス、リリカルは守破離に似ている。あるいは、生成、維持、破壊、静止のプロセスに似ている。

は、全てに広がるフィールドを意味するが、NLPで言うところの、コンテキストを拡張したものである。コンテンツは、コンテキストに支えられているが、そのコンテキストも、別のコンテキストに支えられている。そうすると、全体がそれを支えている、つまりコンテキスト=場ということになる

コンテキストを重視するNLPが、に注目するようにシフトしたのは不思議ではない。ディルツにしろ、コニレイ・アンドレアスにしろ、全体性に注目する。客観的な立ち位置である第3ポジションも、あるコンテキストに縛られた限界があるものであるため、全体性を通じて見る第4ポジションが導入されるのも納得がいく。
またNLPの中心的な手法と言ってもいいサブモダリティ(表象の操作)から脱却していることがわかる。サブモダリティよりも、場、身体感覚、フェルトセンスを重視している。これと比較すると、サブモダリティは表象レベルの非常に浅いもので、単にサブモダリティを変えるだけでは、本質的な変容は起きないことにディルツたちは気づいたのだろう。

本文中で、ディルツが差異化・超越について言及しているが、ケン・ウィルバーと考え方は共通している。生成的なレベルは、意識・無意識を統合し、差異を包含し、超越する。

第二の皮膚という考え方も示唆に富んでいる。皮膚は外部との境界線を表しながらも、切り離されているのではなく、接点を持つ。周囲との一体性を保ちながらも、きちんと境界線を引く。そのよいメタファとなる。

 

またコンテキストとコンテンツの区別は重要で、以下の言葉に集約される。

「コンテンツ・レベルでは悲しみを感じても、コンテクスト・レベルでは、禁じられたその感情の存在をついに許すことができて、幸せだと感じる。」

いわば、このように二重の意識を持つことができる。

これが理解できると、以下のような逆説的な言及もすんなり受け入れられる。

「何かを変えるためには、まず、それを変えようとするのをやめる。」

 

ディルツやギリガンが否定したのは、原理主義や、カトリックが教えているような罪の思想「それを思うことは、行うことと同じ」である。心の中での思いを否定すれば、それは抑圧され、逆に残り続ける。恨みや復讐心は捨てるべきと言われるが、ディルツは、「極めて健康的な最初のステップは、あいつを殺したいと思う気持ちを認めること。」と述べる。「実行には移されないながら、それを思ったり感じたりするスペースを作ることはできる」。



ギリガンはかなり仏教に精通しているが、なぜ仏教徒ではないのだろうか。私も仏教徒ではないが。
おそらく、仏教に潜む権威主義、原理主義、排他的なもの、(一神教のそれとは違うものの)を感じていることと、心理学によって、色々と補完できると考えているためではないかと推測する。では、仏教徒が言う覚醒と、ディルツやギリガンの言う、覚醒は同じだろうか。共通項はあるが、覚醒はそれ自体が目的ではなく、ミッションを見出していくためのステップとして位置づけられているように見える。またNLPで言うミッションを、仏教に対応させると、それは菩薩道に当たる。かなり似ているが、違いは、NLPは価値を規定しないところにある。仏教から、価値を差し引き、心理学の研究成果を加えたもの、と言えるかもしれない。
この辺りは、原理主義への姿勢がそれを示している。
「英雄の体験のコンテンツがどのようなものであれ、その英雄が上質の状態にいつづけられるように手助けすること。」

とあるように、NLPではコンテンツを規定しない。

 

【タイトル】 NLPヒーローズジャーニー
【著者】 ロバート・ディルツ、スティーブン・ギリガン

 

 

【ページ数】 446

【読むきっかけ】本屋で立ち読みしている際に目に止まったことから。

【概要】ヒーローズ・ジャーニー(英雄の旅)はもともと世界中の多くの民話や神話に共通する物語の構造をジョーゼフ・キャンベルが形にしたものである。NLPとは直接関係がないものの、目標達成のストーリーとして親和性が高いため、それを拡張した形で、NLPでは取り組まれている。そして、ヒーローズ・ジャーニーは一つのNLPのワークとして作られるようになった。簡易的なやり方もあるが、本書は、詳細・完全版と言っていい。ワークの詳細が書かれているので、やり方を学ぶことができる。目標達成のノウハウではなく、もっと根源的に自身のあり方を探っているので、スピリチュアルな深い部分にかなり触れている。

【対象】 NLP自体の知識は必須ではないがかなり内容が濃いので人を選ぶ。目標達成において、そこへ踏み出す、あるいは障害に出会ったときに、メンタル面でどのように対処していくのがいいのかを学びたい人。


【評価:★5段階で】
 難易度:★★★★
 分かりやすさ:★★★★
 ユニークさ:★★★★
 お勧め度:★★★★

【まとめ】

私たちの心の言語、魂の言語は比喩的であり、事実をありのままに述べるものではない。
英雄の旅について語る場合は、何らかの知的概念の観点からではなく、一つの特質として、深い呼吸と共にそれを体内に取り込んだ時に体内にあるこの経験的知恵を全て喚起し始める特異性を持つものとして、それを探っていく。

英雄の旅の前提
・スピリットは目覚めようとしている。
・スピリットは人間の神経系を通じて目醒めていく。
・人間の神経系は、意識の有する最も進歩した楽器である。
いずれの人生も英雄の旅である

プロセス
1 天命を聞く
2 天命を辞退する
3 境界を越える
4 守護者を見つける
5 自分の中の悪魔(デーモン)と影(シャドウ)に立ち向かう
6 内なる自己を育てる
7 変化を遂げる
8 帰還する


英雄の抱く天命は、自我から出る個人的な目標とは大きく異なっている。魂は、目醒めたい、癒したい、繋がりたい、創造したいと思う。
成功する保証はない。成功の保証があるなら、英雄である必要はない。天命は勇気を必要とする。
キャンベル「自分の感じる至福に従え」

通常の意識的な心には英雄の旅をリードすることができない。自分や意識を、生成的自己(ジェネラティブ・セルフ)と呼ぶものへと再編する。

英雄は、人生からの呼びかけに応えて非凡な状況に挑む普通の人
闘士は、自分が正しい道、正しい世界地図だと考えた理想を目指して闘っている人。この理想は正義であり、これに反対する人は全て自分自身の地図を他に押し付ける

デーモンとは単なるエネルギーであって善も悪もない。何かを、誰かをデーモンに変えるのは、それに対する自分の反応。デーモンは私たちの内面のシャドウを明らかにする。

どのような活動であれ、それで成功するには、そのアウター・ゲームにある程度精通していなくてはならない。ただ非常に高いレベルでのパフォーマンスにまで到達するのは、インナー・ゲームにも精通している人。英雄は、インナーゲームのやり方を身に付けなければならない。

帰還
一旦高次の意識状態において苦闘を乗り越え、結果を得た場合、それを日常生活の通常の意識に統合することは、それまでの苦闘以上の課題となる。
コーチの立場にあるときは守護者であること。彼らの旅における英雄になることではなく、良き守護者、良きリソースとなること。


生成的な自己
3つのマインド
 身体マインド
 認知マインド
 マインド(大きな心、第四ポジション)
3つの意識レベル
 原初レベル(無意識な一体化、自覚のない場)
 基本レベル(意識的な区別、場のない気づき)
 生成レベル(区別を意識した一体化、部分であると同時に全体であること

3つのマインドを、高次の意識レベルにシフトすること=生成的状態へのシフト

原初レベルに戻ること
悪いことではない。根源的な意識に入り込む。自分という存在を再生し、元気を回復させるには、定期的に正気を外れることが必要。

生成レベルへの移行
 身体マインド: 提携して集中(センタリング)する。
 認知マインド:受け入れて変える
 場マインド:問題の向こうにまで自らを開いたのち、さらにその彼方にまで自らを開く(これまでの型を破り、さまざまな可能性を秘めた全く新しい世界に入る)

スポンサーシップ
いずれの体験にも、いずれの人にも、才と善の種がある。
無変化による変化:何かを変えようとするのをやめて、巧みな好奇心でそれを受け取り、新たなパターンに展開していくような形でそれを持ち続ける。

原理主義
不変のものに注意を集めることによって意識を安定させたいという欲求
自分の中心から離れて、変化のない表象内に閉じこもること。つまらない文言を頑なに信奉する姿勢。
生成的な意識の大いなる敵
 

センタリング:中心には中身がないので、その周囲で意識を安定させることができる。
変わり続けるその瞬間のパターンとエネルギーに対して、完全にオープンな状態でいることができる。
相手に耳を傾ける:センタリングしたあの場所から耳を傾けるだけで、その結果の驚異的なこと。

困難な状況に陥ったとき
まずは体の力を抜いて深奥に降り、センタリングを行い、中心からこの世界へ自らを開く。

天命は、必ずしも言葉を使う必要はない。仕草・動作で表現してもいい。イメージの場合もある。

天命を現実化する場合、他の人々の心をそれで動かすことができなくてはならない。中心と深くつながったのを感じてから口を開く。自分の中心の振動に対して、自分の話す声の振動をどう感じるか。中心と深くつながった状態で考え、語り行動することは、生成的な意識の重要な役割の一つ。
認知的な自我-知性の自己が身体的にセンタリング状態にある具現化された自己と緊密に提携し、振動と共鳴によって同調するとき、素晴らしいことが起きる。
同じ話を別の人が言うと、心を鷲掴みにされ、目が覚める思いがし、意識が高揚することがある。この違いは何か。

能動的なセンタリング
 グラウンディング:中心を一点に根付かせる
 フローイング:力に任せて動く

センタリングをなくしたら、また取り戻せばいい。何回でも取り戻し続ける方法を探す。
体を緊張させたまま、センタリングを維持することはできない。
外からの力に対して無抵抗に服従しても、頑固に抵抗しても中心を失う可能性がある。
足を通してそれを下に降ろす:圧力によって生じるエネルギーをあなたの中心の糧とし、あなた自身がさらにしっかり地に足をつけていられるようにする。

脅しや攻撃に気づいたとき、通常は生き残り戦略(闘う、逃げる、動けなくなる)で対応する。第四の戦略はフロー。体の向きを変えることによって、エネルギーに融合し、合流する

状況を変えようと意識的に考える努力をしなくても、問題が変化する。問題は、それに対処するときの状態を変えることによって変化する。

罪+センタリング=恩寵
症状+センタリング=リソース/解決策

いかなる症状も、回復しよう、変化しようという試みの表れであり、生成的な状態にすることによって、それを持ち続け、肯定的な形に導くことができる。
私の意識が私に何かをもたらそうとしているが、それは何だろう?」と問い続ける。

NLPの訓練を受けた人が、肯定的意図をまず探してから、その後に効果的な探究を行うために生成的な状態を引き出そうとするが、センタリングを含め、まず生成的な状態を作り出さなければ、あの問いに有用な形で答えることができない

センタリングの2つのレベル
1.中身のない(コンテンツ・フリー)広々とした空間でその中を人生が流れていく。仏教用語で言えば。遮るもののないチャンネル。神経心理学用語で言えば振動子で、そこを経由して、ある領域から別の領域に情報/エネルギーパターンがもたらされる。コンテキスト
2.その時々にチャンネル内を通っていく内容(コンテンツ)。認知意識。

この二つのレベルを識別すること。瞑想やセンタリングをすれば、人生という川が自分を通って流れていく中で、過ぎゆく一瞬一瞬の出来事にただ立ち会うのみ、何ものにも反応しないでそこにいるというあり方を訓練する。何事か、あるいは、何者かと「共にいて」、その何事にも何者にもならない方法を学ぶ。それが身についたとき、愛に満ちた創造的かつ肯定的な形で、自由に行動できる。
仏教とは雲と空の関係を話題にする。空は、「雲を一掃して、ずっと晴れた日が続くようにしなくては」などと言おうとはしない。空はどんな雲にも気づくことができ、それらが行き過ぎるのをただ眺めていることができる。

センタリングできていない状態では、問題が自己を吸収してしまう。センタリグできていれば、自己は肯定的に問題を吸収することができる。

コンテンツとコンテキスト・レベルの識別
ヴァージニア・サティア:まず「それについてどう感じますか?」と訊ね、続いて、「そのように感じることについて、どう感じますか?」と訊ねた。
重要なのは二つ目の質問に対する答えで、今体験していることにどう関わっているのか?それをよしとしているのか?それに対して厳しく当たるなり暴力的に取り扱うなりしなくてはならないと感じているのか?のちに続く全てを決めるのが、この二つ目のレベル。重要なのは、コンテンツではなく、そのコンテンツに人間としてどう関わっているか。
コンテンツ・レベルでは悲しみを感じても、コンテクスト・レベルでは、禁じられたその感情の存在をついに許すことができて、幸せだと感じる。

人生には困難なこともあるが、それは問題ではないということが、英雄にはわかっている。

メタ・マインド
生成的な認知マインドでは、「マインドのマインド」を開く。
つながり合うパターンのレベル。
通常の自我のレベル:アイデンティティはある位置、もしくは場のある部分にある。
 原理主義:我が見解こそ唯一の真実。奴の見解は異端者、亡きものにしなくては。
生成的なレベル:敵対するのではなく、互いに補完するものになる。

親密な関係の段階
1.二人が一つになり、一体感のトランス状態。
2.差異化:違いの方が目立つ
3.数多くの立場を含む場と一体。「あなた」と「私」を含み、かつ、それらを超越する「私たち」。互いの違いは消えず鮮明になるが、違いを吸収しておく空間が新たに出現する。

個人間関係の生成力の土台であるだけでなく、個人内の生成力(各パートのためにスペースを確保)の土台でもある。

スポンサーシップ
そこにあるもの全てを、新たな肯定的体験と肯定的現実が出現するような形で、安全かつ巧みに収容できる、生成的な空間に入ること。

 瞑想に適したマントラ:
 「何かがここで癒されようとしています。彼女のスピリットの中の何かがこの世界に入ってこようとしています。どうかその目覚めを、私が感じ取り、受け取って、促すことができますように」
 「そこにあるものが何であろうと、それは確かに理にかなっている」

 仮に自分が拷問を受け、家族が繰り返しレイプされてきたのに、何らかの理由で長年何の手も打てずにいたのが、あるとき何かが変化して癒しが始まるとしたら、最初のステップは何だと思いますか? 許し? 極めて健康的な最初のステップは、あいつを殺したいと思う気持ちを認めること。理にかなっている。

癒しを始めようとしている存在に語りかける。ようこそ。

 スポンサーシップの重要な概念の一つは、カトリックの修道女たちが私に教えてくれたこととは違っていて、「それを思うことは、それをすることではない」。つまり、実行には移されないながら、それを思ったり感じたりするスペースを作ることはできるということ。「それにならずに、それと共にいること」は、生成的な認知マインドの重要な側面である。

NLPでは、「行動とアイデンティティとは区別するように」という言い方をする。力の限りを尽くして、有害な行動に異議を唱え、あるいは、それを制止し、同時に、力の限りを尽くして、アイデンティティと、行動を発生させている肯定的な意図とを支援する。

基本原則:何かを変えるためには、まず、それを変えようとするのをやめる
何かを変えようとする場合、大抵は「今のままではよくない。今のままでは魅力がない」というメッセージを送っている。こうして人間のスピリットの面目を失わせると、故意であろうとなかろうと、その人は変化しにくくなる。

私と相手との間に感じる距離=私自身と私自身との間に感じる距離
まずは、自分自身とつながる

スポンサーシップのスキル
・自分自身とつながる
・パートナーと繋がる
・好奇心
・受容力

聞き手になった場合:「相手の英雄の旅が引き起こす美しい恍惚で体中を満たしたい。あらゆるレベルにおいて観察者でありつつ参加者でありたい」「私のクライアントは驚くべき旅の途上にある」

(2に続く)


 

前章まで述べたワークが、問題・マイナス面を解消する、つまりブレーキを外すワークであるのに対して、ここでは、目標達成を推進するための、アクセルを踏むワークについて述べる。

心理療法の主な目的は、精神的な症状を解消するためにあり、NLPの出発点は、3人の心理療法家のモデリングであったから、マイナス面を解消する点が強調される。しかし、NLPはそこにとどまらず、仕事や教育、スポーツなどの分野でも応用され、プラス面をさらに効果的に伸ばしていくことに活用できる。

さらに、個人の内面を探究し、自分自身の根源的な欲求を探っていくワークもある。
価値の章で述べた通り、人間にとって、深い満足をもたらすのは、人から押し付けられた目標ではなく、自分自身の本質的な価値に合致した生き方である。NLPが、目標達成にとどまらず、アウトカム、つまりその先にある目的が何なのかを明確にすることを重視したり、エコロジーチェックを行うのは、より全体的、かつ本質的な価値を重視しているためとも言える。

人生は有限であり、使える時間は限られているので、どのように時間を使うかが問題である。自身にとって本質的に価値があるものに費やしたい。そのためには、自分自身が何を求めているのかを探り、優先順位をつけ、それに従って目標を設定し、集中したい。


●アイデンティティ発掘のワーク

・現状を把握する
今自分の現状がどうなっているのか、バランスホイールを使って、人生における主要な8つの分野で評点をつけてみると、どの部分に満足しており、どの部分に不満足なのか分かる。そして、今年、あるいは今後どの部分を充実させたいかを検討する。また、様々な分野で多角的に見ることで、エコロジー、つまり全体的な視点で評価することができる。


・ビジョン・ミッションの探究

幼少期の興味
大人になると、周りの期待や、社会の要請に従って行動するため、本当に自分がやりたいことがわからなくなる。その点、幼少期の頃は、社会性が確立される前で、まだ自分の純粋な興味に忠実であるため、本心から望んでいることが現れていたりする。幼少期に戻って、そのとき、好きだった遊び、物語、やりたかったことを探求する。また幼少期の夢は何だったのか。両親や学校から規制されてできなかったことなども思い出す。一体なぜ好きだったのか、何を学んだのかを探求する。

継続するテーマ:
自分の過去の歴史を棚卸しする。家族、人間関係、勉強、仕事、その他の分野それそれで、インパクト、影響力の大きかった出来事、印象に残っている出来事を挙げる。その中で、繰り返し起きていることがあれば、そこに注目する。


・バリュー(価値観)の序列
自身が価値を感じているものを列挙する。仕事・家族・健康などの内容を選び、価値を導き出し、重要さの順位をつけ、すべての価値を含んだ文章を作る。
価値は、キーワード的なもので、シンプルで肯定的なものにする。また誰かにとって大切なものではなく、自分にとって大切なものは何かを追求すること。序列を決める際は、頭よりも体で決める。必ずしもチャンクレベルをそろえる必要はない。出てきた言葉をそのまま使う(同じ言葉でも何を意味しているかは違う)。
本当に大切なものは無意識の中にある。できる限り、多くキーワードを出すようにする。
順位の高いバリューを日々の生活の中で優先して生きると、人生の充実度は上がる。

・やりたいことを100個出す
実現手段や可能性は問わず、やりたいこと、達成したいことを100個以上出す。このとき、しなければならないという義務ではなく、こうありたいという欲求に基づいて列挙する。

・HAVE・DO・BE
短期、中期、長期で達成したいものをそれぞれ列挙する。このとき、HAVE(何を手に入れたいか)、DO(何をするか)、BE(どのような存在でありたいか)に分けて書くと良い。
ついで、それが何のためか上位目的を探求する。
そこから本当の目的を探り出す。

・ニューロ・ロジカルレベルの統一
各ロジカル・レベルで起こっていることを統一させる。それによって、自分の中が目標に向けて、アライメント(整う)されるようになる。

望ましい状態を設定し、いつ実現するかを明らかにし、その時の周りの環境について見ること・聞こえること・感じることを言語化する。一歩ずつ進みそれぞれ、自分のしている行動、能力、信念・価値観、アイデンティについて答える。さらに一歩進め、自己を超えたビジョン・スピリチュアルに入り、どこにいて、何が見えるか質問する。家族職業地域社会世界とそれぞれにつき、〇〇を達成するとどうなるか? そういう人が増えるとどうなるかと質問して広げていく。そこでの体験をアンカリングする。ついで、元に順に戻る。アイデンティ、信念・価値観、能力、行動、環境で同じ質問をして戻ってくる。

・アイデンティの探求
以上のワークから得た自分自身の方向性、ゴールから、自分自身の役割ミッションを明確にし、自分のアイデンティティ象徴する絵を作り上げる。新しいセルフ・イメージを自分自身にインストールしていく。
カリスマとは、一部の人々が持つ、他の人々を引きつけ感銘を与える強力な個人の性質と定義されるが、誰でもビジョン、ミッションを探求していくことで習得可能とされる。自分自身の中心に全身全霊で存在し、周囲の人々や環境と調和し、影響力を持つようになる。リーダーとは、人々が属したいと思うような世界を作れる人のこと。


●問題・ゴール設定のワーク
これはNLPではコーチングのワークとして実践される。適格なゴールを設定し、そこへ至る道が明らかにされる。

ゴールの適格性としては、以下の8つのポイントがある

1.肯定的で表現され、実現性があり、自分で実現できること(他人や環境が変わってほしいというのはゴールとしては不適格)
2.ゴールを達成したという証拠を明確にできること
3.具体的状況(5W1H)を上げられること
4.エコロジカルチェック(達成した結果の悪影響等があれば考慮に入れる)
5.リソース
6.制約、制限、責任
7.達成の意味メタ・アウトカム
8.最初の一歩

コーチングとしては、最初に欲しい結果を尋ね、ついで達成した場合の証拠をVAK(見えるもの・聞こえるもの・感じられるもの)を表現し、いつ・どこで・だれと達成するのかを明確にする。ついで達成する場合の影響をチェックする。そして、達成するために必要なリソースを上げ、不足しているリソースをどのようにするのか、また自分自身を制限しているものがあれば確認する。達成することの意味(メタ・アウトカム)を確認し、最後に行動計画を作成し、最初の一歩として何を行うのかで終わる。

多くの成功法則で、期日を明確にすることと、達成することの状況を具体的に、ビビッドにすることが求められるが、NLPでは、達成することの意味を明確にし、それが本当に自分自身の価値と合致しているかどうかを重視する。またゴールを達成するのに、自分自身が相応しいのかも確認する。ゴールが一般的に達成可能でも、自分は無理と考えていたり、自分はそれに値しないと感じていると、達成のための障害となる。また現状維持することで、何らかの利得があると、それもゴールへの足かせとなる。そして、ゴールを達成したとしても、別の部分で影響が出る、例えば健康や家族を犠牲にするなど、のであれば、エコロジーチェックの段階で明確にしておく。

最後に、最初に一歩、直近24時間以内に何をするのかを明確にするのも重要である。というのも、ゴールを設定したとしても、歩き始めなければ到達することがないからである。どんなに大きな目標であったとしても、最初は小さな一歩である。


●リソース発見

ゴールを達成するためには、行動するだけではく、諸々の知識、スキル、経験、他者の協力、戦略、熱意、時間、費用などが必要になってくる。NLPでは、それらをひっくるめて「リソース」という言葉で表現し、リソースを明確にし、充実させることを重視している。
NLPの前提に、「人は、成功や自分が望むアウトカムを達成するために、必要なリソースを全て持っている」というものがある。目標を達成するために、外部のリソースを活用することは必要になるが、その外部リソースを活用することができることも、自分の中にあるリソースでもある。

ここでは、自分の中にあるリソースを発見するために行われるワークを紹介する。

・過去の自分からリソースを掘り起こす

ビジョンタイムライン
タイムラインを場に設定し、自分が現在今の時点にいることを認識する。そして、自分の目標・課題を意識し、未来に進んで目標を達成した時点に到達し、見るもの・聞こえるもの・感じるものを言語化する。そして、現在に戻り、目標達成に必要なリソースを教えてもらえるように無意識に頼み、過去に遡っていく。過去の記憶・経験の中から、必要なリソースが見つかったとき、足を止め、それを言語化する。さらに時を遡り、3つリソースが見つかるまで続け、それらのリソースを体の一部にアンカリングし、それらのリソースを保った状態で、現在に戻り、そして目標達成に向かう。

アプリシエイティブ・インクワイアリー Appreciative Inquiry
強みに着目し、正しいものや機能しているものに一直線に照準を合わせる。
最高だった過去の体験を未来へと持ってくる
・強みを特定し、それを活用し、さらに強化していく

グレゴリーベイトソンの問題解決ストラテジー
問題に比喩的なフレームをかけ、クリエイティブな解決策を見つけ出すために、過去の人生体験を活用する。空間のアンカリングを用いる。問題の場所、観察者、リソースの場所という3つの場所を用意する。リソースのある状況でその問題が起こったらどうなるか考える。比喩的な解決法を置き換えて適用する。


・他者に見出されるリソースを自分に取り入れる

モデリング
自分が欲しいと思っている資質を持つ人を思い浮かべ、その人と同化することで、自分の中にあるリソースを目覚めさせる。現在生きている人でなくてもよく、歴史上の人物や映画やドラマのキャラクターでもよい。その人が、自分が望むリソースを持っているところを想像し、イメージの中で行動をさせてみる。そして、その人の中に入っていくか、もしくはその人を自分の中に取り込む形で同化する。
完全にその人になりきった状態で、ニューロ・ロジカルレベルのそれぞれについて、その人がどのような、環境・行動・能力・信念/価値観・アイデンティにあるかを認識する。そしてその人のリソースが自分の中に取り込まれたと強く思う。

メンター
他者の視点を取り入れるワークである。自分が抱えている課題について、3人のメンターを目の前に想像し、モデリング同様にそれぞれの人の中に入って、アドバイスをする(もらう)。完全にそのメンターになりきったとき、自分にはない別の視点で課題を捉えることができる。

・未来の自分からリソースをもらう
タイムラインを場に設定し、目標を達成している未来の時点まで足を運び、その状態を言語化する。そこから後ろに向いて、現在の自分(未来の自分から見たら過去の自分)に向かってアドバイスを送る。また、その目標を一緒に達成したパートナーと、二人を見守る第三者になりきって、同じようにアドバイスを送る。現在の自分に戻って、それらのアドバイスを受け取って、体の中にアンカリングする。


●目標に取り掛かること、ゴールへの道筋

ゴールとその意義を明確にし、リソースも確保したら、あとはゴールに向かって突き進むのみである。とはいえ、高い目標であれば、通常は時間もかかり、障害も多い。ゴールに対して、達成するためのやる気熱意確信を持ち続け、エネルギーをそこに集中し、様々な障害に耐え、克服していく必要がある。

多くの成功法則では、ゴールをあたかも既に達成したかのように振る舞え、と説いている。ゴールを達成した状況を明確にビジュアライゼーションを行うと、脳は想像と現実を区別できないと言われる。その結果、ゴールが実現可能になるという。NLPのワークでは、そういう要素が組み入れられている。

・ストーリーボード
未来においてゴールを実現したものとして、そこから逆計画を設定する。これは現在の活動と長期的な目標を結びつけ、達成可能と感じられるようになる。

・チェーンプロセス
成功(アウトカム)に至るプロセスをイメージして中間地(3つ)、ゴールの場所を目の前に設定して歩き、それぞれの位置で、VAKを使って言語化する。アウトカムの体験をポーズと言葉を使ってアンカリングする。さらに一歩進みメタアウトカムの体験を言語化。これを数回無言で体験し現状からメタアウトカムまでチェーンをつなげるように、繰り返す。
すでに目標を達成したという視点が持て、達成のプロセスを具体的にイメージでき、やるべきことが明確になる。

・ヒーローズジャーニー(英雄の旅)
世界中の神話を研究したジョゼフ・キャンベル氏が、ストーリーに共通する要素を抽出したもので、平凡な日常旅への誘い境界線を超えるメンターとの出会い悪魔との遭遇変容課題完了帰郷のステップからなる。NLPでは、これをワークとして取り入れ、特に悪魔との遭遇及び変容を重点的に扱う。
これは、目標達成の旅を進めていく中で遭遇する障害とその克服を意味しており、ここでは往々にして、自分の内面にある、ためらい、恐れ、弱さなどである。それらは悪魔のようで目標達成の妨害をしているように見えるが、実際には自分のシャドーで、それらを統合することで、かえってリソースとして変容する。多くの場合、自分自身を守りたい、安全圏にとどまることで利得を維持したいなどの肯定的意図が背景にある。それらの肯定的意図を自覚することで、それらは目的に反するものではなく、ともに手を取り合って目標達成に貢献できる仲間であることが自覚され、統合される。
そうすれば、目標達成はすでに手にしたも同然となる

 

 

ここでは、実際にNLPを適用して、感情や思考の堂々巡りなどを解放していく例について述べていく。この章は、これまで述べていたテクニックをすべて使う要約でもある。



先日、仕事で大変情緒を乱すことがあった。怒りと失望と自己嫌悪等で、不快感でいっぱいになった。職場では、辛うじて平静を保ったものの、帰り道に思い出して、大声で叫びたくなったほどだ。
あまりにも感情が乱れているときは、NLPを適用しようなどという発想はない。苦しみ、感情の中に没入し、他人や自分を批判する思考が駆け巡る。これが寝るときに起きた場合は悲惨で、間違いなく寝付けなくなり、翌日はかなりの睡眠不足の状態になる。

感情の乱れに対処するときは、そのレベルに応じて、

1 体の動き(フィジオロジー)を使う。
2 表象(イメージ)を使う。
3 アンカーを使う。
4 言語(思考)を使う。
5 意識(注意)を使う。

となる。
この分類は便宜的なもので、実際アンカーは、身体感覚トリガーになったり、表象がトリガーになったりするので1,2に含まれているとも言える。4の言語Ad、つまり聴覚の一種と捉えるなら2の表象にまとめることもできる。

単純に言えば、人が自分でコントロールできるものは、身体動作イメージ思考注意といったもので、それを特定の方向に向けて強めることもできれば、緩めて弱めることもできる。あとは、物や他者に頼る方法もある。
あまりにも乱れている場合は、2-4はほとんど役に立たないどころか、かえって悪化させる場合もある。身体にアドレナリンが充満しているなら、一瞬で症状が収まることは期待しない方がいいだろう。あまりにもエネルギーが過剰な場合、言語を使って抑え込もうとすると余計不快感が増す。感情と戦えば戦うほど、多くの問題が引き起こされる。

NLPなどのワークが効果がない場合は、使うレベル順番を間違っているためだ。問題が複雑な場合、全部のレベルに取り組む必要がある。それから、完璧に症状が消えることを期待しすぎないことだ。その態度自体がかえって問題を作り出す。

一番最初に、感情のレベルを10段階で査定する。これはどのぐらい変化があったかを確認するために重要である。0が全く解消されている状態、10が耐えられないレベルで、あくまでも主観的な判断でよい。完全に解消できなくても、レベルを半減させることができたのなら、そのワークはうまく行ったと言える。

(注:以下はNLP以外のワークも含めている)

どのワークについても、人前で抑止する必要がある場合を除いて、思考や感情を抑圧することは勧められない。むしろ、どんな思考、感情、衝動もすべて歓迎するという態度が重要である。この態度が徹底できるなら、つまり完全に受容できるなら、以下に述べるテクニックはすべて不要だと言っていい。またある程度は、この態度がなければ、ワークの効果は中途半端になる。「歓迎する」というのは、思考、感情、衝動が出てきたときに、例えば温かくユーモラスに「ありがとう」と言うことである。

感情・衝動が強い場合、まず身体レベルで発散させた方がいい。注意するのは、周りに人がいないことだろう。人に当たったり、他人の物や公共物に当たったりすれば、あとで様々な問題を引き起こす。大声で叫ぶのも効果はあるが、山奥か防音室でもなければ、通報されるかもしれない。皿を割って、ストレスを解消するという人もいるが、これは皿を悪感情と見立て、それがバラバラに分解されるメタファーとしては強力だが、コストがかかる。
なので、サンドバッグや、枕など、壊れにくい物で、かつ自分の体も怪我しないものにあたるのがいい。空気を殴る、叩くのもありだろう。
キチガイのように、体が動きたいように動く、暴れる、踊るというのもありだ。

そこまでではない場合は、背伸びストレッチマッサージをしたり、散歩するなどもいい。深呼吸を繰り返すのもいい。体の筋肉に思いっきり力を入れて、一気に弛緩する。これを繰り返すのもいい。感情は、筋肉レベルで、緊張やコリとして現れる。

エネルギーワークは、緊張を解し、体の中の微細なエネルギーの通りを改善する。

・エネルギーに働きかけるワーク
ある程度、身体レベルのイライラがなくなったが、まだ不快感が強い場合は、EMDR眼球運動)やTFT/EFTタッピング)が役に立つ。
不快な症状の感覚に意識を向けながら、指でガイドしながら眼球を動かす、あるいは、一連のシーケンスに従って、体の特定の部位をタッピングする。

この方法はかなり強力で、正しく行う限り、症状のレベルをかなり下げる。心理的なレベルが深く絡んでいる場合、これだけでは解決しないことはしばしばだが、とはいえ、これだけで0になることもある。身体的なレベルで発生している問題を、心理的なレベルで解決しなければならないと思っていると、問題がないところに、かえって問題を作り出すことになる。

長期的に、イライラなど感情的な状態が発生しやすい場合は、医学的アプローチや、栄養学的アプローチも考慮に入れるのが良い。

・表象を扱う
次は、表象を用いる。
厄介な問題というのは、自分のそばにあり、しかも大きさが大きい。人々が、「小さな問題だ」と言うとき、それはメタファーでもあるが、実際に表象の中で、問題を小さく描いているのである。

問題に没入しているときは、目の前に大きくあるのではなく、文字通り問題の中に自分が没入してしまっている、あるいは問題に取り囲まれている、あるいは問題と自分が一体化してしまっている。このときにNLPのテクニックを使いたいと思わないのは、当然である。なぜなら、問題と一体化してしまっているからである。

そこでまず、試すのは分離ディソシエイトである。症状から離れる、あるいは症状を切り離すのである。これはイメージのレベルで行ってもいいし、体を動かしてもいい。症状を体の外に出してしまったり、症状をその場所に置いておいて、少し離れる。そうすると、症状が少し切り離される。このときも、完全に切り離されただろうか、と思う必要はない。ちょっとでも問題と自分との間にスペースが生まれたと感じたら成功である。

あるいは、自分の名前を使って語りかける方法もある。「◯◯(自分の名前)は、XXXした」と他人の視点に切り替える。友人にアドバイスするように、自分に語り掛ける。

また、ズームアウトするのもよい方法である。問題に対してあまりにもフォーカスしすぎていて、それ以外のこと、全体像が見えなくなってしまう。そんなときに、そこからズームアウトするイメージで、問題から遠ざかり、問題が小さく見えるようにする。

ディソシエイトを強めるために、問題や状況のイメージと自分との間に、分厚い防弾ガラスをイメージして、自分が全く影響を受けない状態を作り上げてもいい。

次いで、切り離されたら、その問題の表象を変える。位置を目の前から脇にどける。大きさを小さくする。色をモノクロにしぼやけさせる。そして、遠い距離に追いやる。そして戻ってこないようにピン止めする。これはサブモダリティコード化を用いたテクニックである。どのようにコード化されるかは個人差があるので、最も強く働くドライバーを見つけて行うのがいいが、大抵の人は、位置大きさ距離で変わることが多い。

今のは問題を静止画として扱った方法だが、時間的変化が重要な場合、問題の発生、様々な登場人物、様々な出来事を動画にして、それを上映する。それを外側から眺め、早送りしたり、逆再生にしたり、モノクロにしたり、陽気で滑稽なサーカス音楽をBGMとして鳴らすのをイメージしながら再生したりする。

他にも、問題をイメージして、それをハンマーで粉砕して粉々にしたり、引き裂いたり、焼いて灰にしてしまったり、くしゃくしゃにしてゴミ箱に入れたり、笹舟の上に問題を置いて川に流してしまったり、という方法もある。

よく、問題を紙に書きなぐって、その後でくしゃくしゃに丸めてゴミで捨ててしまうことで解決する人がいるが、これはサブモダリティの変化を、現実の場を使って行う効果的な方法だ。つまり、問題を書き出すことで、ディソシエイトし、それをくしゃくしゃにすることで解消し、ゴミに捨てることで、自分から完全に捨て去ってしまうということだ。これは、皿を割るよりもコストは低い。

また、掃除をすると、気分が良くなるとよく言われるが、これはNLP的に言えば、外側を片付けることで、内部表象でも片付けられ、整理され、汚れを落とすことで、内部表象でもクリアになる。イメージだけするよりも、実際の場を使った方がリアリティが増すため、強力になる。

・視点を広げる
ズームアウトのところで述べたが、一歩引いて、世界レベルで、問題を眺めると、問題は小さく見えるようになる。世の中は、もっと悲惨な事例であふれている。さらに酷い状況と比較すると、相対的に酷いものではなくなる。自分と同じ経験をしている人や、自分より辛い経験をしている人を探すことで、自分だけでないことを認識できる。結果的に、問題のサブモダリティも非常に小さいものに変わる。
「明日がある♪」も、現在の状況だけにフォーカスしていた視点を未来へと変えてくれるリフレーミングでもある。「後に笑うものが勝ち」というのも時間的に後に視点を持っていく。

・未来から振り返る
1年前、あるいは数年前の嫌な出来事で、数日苦しんだが、今となってはどうとも思っていない出来事を思い起こす。そして、それがどのように表象されているかを認識する。人によって詳細は異なるが、おそらく、少し遠く、左か後ろの方に、色あせて、廃墟のようなイメージになっているのではないだろうか。
今から1年過ぎたと想像して、今起きた不快な出来事を、それと同じ表象に変えて、過去の出来事としてしまう。もうすでに、過ぎ去ったことなのだ。過去は置いていけば、付いてこないのだ。
仏教で無常観が語られるが、これは時間軸に沿って、あるいはそこから引いて見るサブモダリティを形成することになり、同じように分離が起きる。

・ストーリー、ゲーム
今起こっている一連のことを、物語ストーリーと見ること。あるいは自分はゲームをしているのだと考える。それによって現象から分離が起きる。

・DSR(ダイナミック・スピン・リリース)
症状が、体感覚的に回転しているように感じられるなら、多少でもそう思えるなら、その回転方向を感じ、逆回転させてみる。取り出してからの方がやりやすい場合は、症状をイメージ上取り出して、場合によっては遠くに投げてから回転させる。
思考が空回りしていると言うときがあるが、実際にサブモダリティとしては、ぐるぐる回っているのである。なので、逆方向に回転させてみる。そうすると、思考は止まるか、弱められる。

・マインドフルネス
これは表象のカテゴリというよりは、意識(注意)のカテゴリになる。ただ、ディソシエイトという点からすると、マインドフルネスは、非常に良い方法である。
思考が現れたら、「私は○○と思考している」「私は○○と思考していることに気づいている」と、思考の中身には入らずに、思考から距離を起き、気づき自体に意識を向ける。あるいは、「私は・・・のイメージがある」「私には・・・という記憶がある」「私の心が・・・・というシーンを見せる」など。
一連の思考について、○○の物語とラベリングする。
衝動についても、「私はいま・・・したいという衝動を持っている」。感情と戦うことをやめれば、感情が変わろうと変わるまいと、受ける影響はずっと小さくなる。

・私ではない、私のものではない
思考、感情を自分のものだと思うと、問題自体にとらわれることになる。「これは私のものではない」ときっぱり捨て去ってしまうのも有力な方法である。自分のものではないとわかれば、そこにあってもなくても問題ではない。

・スイッシュ
スイッシュを使う方法もある。これは表象のワークの一種だが、問題の状況と、望ましい自分の状態をリンクさせる。問題の表象を中央に明るく大きく思い描き、望ましい自分の状態を遠い隅っこに小さく描く。そしてシュッとともに、一瞬で切り替わる。それを何度も繰り返し、問題のことを思い浮かべたら、自動的に望ましい自分の表象に切り替わるようにする。望ましい自分は、どんな状況でも動じず平然と受け入れ、その状況でも優しさ・勇気・楽しさを兼ね備えた、物語の主人公を見立ててもいい。

・アンカーを用いる
自分が陽気で、笑って、楽しく、希望に満ちているときのことを思い起こす。それを体の一部にアンカリングする。その場所に触れたら自動的に、その状態が起こるまで何度も繰り返す。これがリソースアンカー
次いで、問題の症状を思い浮かべ、同時に体の別の場所に触れて、その場所と症状をアンカリングする。
そして、問題のアンカーとリソースアンカーを同時に発火する。うまく行けば症状が軽減される。
ただ、この方法は、症状がある程度切り離されてから出ないと難しい。というのは、症状が強すぎれば、リソースアンカーを圧倒してしまうし、そもそも症状に没入しているときは、リソースアンカーは作れないし、作る気にならないだろう。

ここまでは、問題の中身には入らず、身体症状や表象のレベルで解決を図る。いきなり言葉を使って問題を分析しようとする人は多いが、それでは感情は収まらない。逆に、フィジオロジーや表象で解決する問題なら、そもそも、中身などなく、分析したところで堂々巡りになるのがオチである。

・感情を強める
以上は、感情を切り離して解消しようとしていた。
「押しても駄目なら引いてみな」という言葉があるが、同じように逆の方法を使う。もっともこの言葉に忠実になるなら、「引いても駄目なら押してみな」が適切かもしれない。

問題を問題として扱うことで、かえって問題を作り出していることは、非常に非常に非常に多い!
早く解決しよう、何で問題が解決しないんだ、と思うこと自体が、問題を長引かせる。つまり、問題自体を掴んでしまっているのである。言い換えれば、問題に対する抵抗と言える。
本来、自然にやりたいままに放置しておけば、ピークが来て去っていく。体の怪我も忘れてしまえば、気づいたときには消え去ってしまっているが、ずっと気にしているとなかなか治らない。無意識がやることに、意識が介入すると、大抵問題を悪化させる。
武田鉄矢が歌ったように「悲しみこらえて 微笑むよりも、 涙枯れるまで 泣く方がいい」である。

問題に対する抵抗を消すために、問題を切り離すのではなく、逆に問題にアソシエイト没入し、症状を極限まで強めるのである。波乗りをするかのように感情の波に乗っていく。そうすると、感情はピークを打って引いていく。

アドラーの目的論にあるように、感情は意図を持って起こされている、つまり実際のところ、感情自体に執着しているのである。感情を失うことを恐れれば、逆に感情はすっと引いていく

あるいはこうも言える。

症状は実際に自分で無意識的に作り出している。強めることは、無意識で行っていたことを意識化する自分で作り出していたことがわかれば、瞬時に問題を消すことができる。自分で右の拳を握りながら、それを忘れて、左手で一生懸命拳を解きほぐそうとしてもできない。むしろ、右の拳の握りを強めれば、自分でやっていることがわかり、すぐに自ら解くことができる

・サブモダリティを使う
単に症状を強めようと思うだけでもいいが、症状を強める最も強い、サブモダリティドライバー(最も影響力のある要素)を見つけ、それを増大させる。耐えられない極限を超えたとき、破裂し、感情は静まる。

・トンレンの瞑想
他者の苦しみを自分に取り入れるトンレンの瞑想があるが、これは結果として、問題から逃げない姿勢、さらに他者の問題まで取り込もうとするので、問題に対する抵抗は弱まる。結果として、自身が解放される。徹底した無防備が、最高の防備となる。自我の鎧を外せば問題は消える。

・問題の完全な受容
問題に抵抗するのをやめるには、この一言で十分である。
苦しみなさい。(マル)
問題を避け、抵抗することをやめる。そして積極的に問題に飛び込んでいく。

※実際に、これは言葉のあやで、主体的に問題に没入して強められるということは、実際には問題からディソシエイトしている。正確には脱同一化し、包含(超越)しているといえる。意識的に没入しているなら自由だが、無意識的に没入しているなら問題に支配されている。


・肯定的意図、ニーズ、価値を探る
感情の背景には、何らかの肯定的な意図ニーズがある。
感情を引き起こしているパート、相手に何かを要求しているパートを見つけ、それが何を求めているかを尋ねる。それが分かったら、さらにそれを通じて何を得たいのかを尋ねていく。
複数の意図があるなら、それぞれ尋ねていく。それが分かったら、そのニーズを満たす別の方法はないか考えてみる。

もしくは、さらにその目的を尋ね、最終的に求めているステートコア・ステートに到達し、求めているコア・ステートは、何かの結果手に入れるものではなく、最初から自分の本質に備わっていることを悟る。そうなると、感情は一気に変容する(コア・トランスフォーメーション)。

実際に、心理レベルで完全に問題を解決するためには、このプロセスは欠かせない。なので、多少でもワークをできる冷静さを取り戻したのなら、表象のプロセスはせずに、ダイレクトにこのワークを始めてもいい。

もし、相手が、自分を傷つけたのであれば、自分のアイデンティティのどの部分を傷つけたのか、自分が大切にしている価値観のどれを侵害したのか、それを明確にする。多くの場合、ニーズが意識化された段階で、感情は変わる。NVCでは、純粋な嘆きになると言われている。嘆きは、不快な感情とは全く別で、甘い痛みになる。

・問題を分析する
ここに来てやっと、問題を分析することになる。感情アイデンティティへの強い執着がある限り、物事を冷静に見ることはできず、歪んだものの見方になる。多くの場合、問題について考えると言っても、出てくる思考は、相手を批判する、自己正当化責任転嫁といったものが背景にある。そして、同じことが繰り返し出てきて、全く分析が深まらない。
こうして悩んでしまう背景にも、自分を守りたい、安全でいたい、公正でありたい、秩序を保ちたい、真実を明らかにしたい、といった肯定的意図がある。思考が堂々巡りしてしまう背景には、いろんな意図をもったパートが複数いるのかもしれない。

良い方法は、問題について、思っていることをすべて書き出すことである。書き出すことで、問題を吐き出し、ディソシエイトすることにもなる。また、目の前にすでに明記されているので、同じ内容を思考する必要はなくなる。それによって堂々巡りを防げる。

そして、NLP的には、メタ・モデルの質問が役に立つ。削除されている部分があれば具体化し、一般化している部分があるなら、そうではないケースがあることや、成立する条件を明確にし、歪曲しているなら、その根拠を明確にしていく。

何か判断しているなら、その判断者が誰なのかをはっきりさせる。自分の思考は必ずしもオリジナルとは限らない。というよりも、他人の思考パターンをそのまま取り入れてしまっていたり、誰かの立場を守るために、代弁しているケースもある。

そして、できるだけ客観的に、第三者の立場で問題を描写することである。事実と解釈を分けることは非常に重要になる。物理的証拠があるかどうかは、ここでは重要ではない。誰かが何かを言ったり、やったりしたとしても、その意図まではわからない。それはあくまでも推定にすぎない。

・根本にあるビリーフを探す
症状を引き起こしている、自分の中にある地図を探り当てていくと、「こうであるべき」「これはありえない」「これはできない」などのビリーフが見つかる。
ここでビリーフ・チェンジのワークが有効になってくる。ビリーフが見つかったら、それは本当なのか、 客観的な真実なのかを問う。また、もしそうでなかったらどうなるのか問う。「できない」であれば、「もしできたとしたら」と問う。

このとき、デカルト的な4つの質問が有効である。
 そうであるとき、何が起きるのか。
 そうであるとき、何が起きないのか。
 そうでないとき、何が起きるのか。
 そうでないとき、何が起きないのか。
これらを明確にすることで、視野が広がり、別の選択肢も見えてくる。

また、「◯◯であるべき」に対して、「◯◯ではないことに、全く気にならない、平気であればどうか」と問う。それによって、一番の問題は外側にあるのではなく、内側にあることがわかる。

根強いビリーフは、自分の価値観とも結びついて、ポジティブな行動の動機となっているが、同時に制約になっている場合も多い。価値はそのままにしつつも、ビリーフを解除すると、精神的に自由になるのと同時に、選択肢が増え、価値を満たす別の行動を選べるようになる。なので、厄介な問題であるほど、自分のビリーフを探求するいいチャンスとも言える。

・問題のリフレーミング
問題を別の視点から見る。多くの場合、表象の項目で述べたのと同様のディソシエイトを引き起こす。
リフレーミング言葉で行われることが多いが、同時に内部表象も切り替わる。「世界的視野から見てみる」というリフレーミングは、すでに、問題からディソシエイトし、距離を置いている。「長い人生の中の一点」という視点で見るとき、すでにタイムラインを意識し、過去というサブモダリティで見ている。

この経験から何を学んだだろうか、どんなふうに将来役立つだろうか」と見るとき、同じように問題から切り離される。これは、失敗フレームから、フィードバック・フレームに切り替えて、問題を見ることになる。

また感情というものは、エネルギーを持っている。その力は、行動のための原動力になる。それを停滞させ、堂々巡りするために使うのではなく、ポジティブな方向に活用する。世の中を変革した人は、不平不満を活力にしている。そういう視点から見ると、問題は制限ではなく、チャンスとして活用できる。


・ユーモア、笑い飛ばす
ある程度問題から切り離されたなら、この問題にかかわる登場人物ユーモアを持って眺めてみれば、大人のフリをした、可愛い、幼稚な、滑稽な子どもたちであることがわかる。
自分の愚かさや、この人生という名の滑稽なストーリーを喜劇として笑い飛ばすのもいい。
悲劇に対して、人は「もう笑うしかない」と言うことがあるが、実は、問題からディソシエイトして、リフレームするいい方法である。

・自分が作り出している
自分にも原因の一端があることがわかると、状況や相手に対して責任を追及する姿勢を改めることができる。自分に原因があるということは、将来的に自分の行動で結果を選ぶことができるということである。自分の中に対処できる力があることを認識すると解放される。
ただし不当な責任を背負い込む必要はない。不当に責任を背負わされることも世の中にはままあることだが、自己の内面においては、あくまでも、自分がコントロールできる範囲においてのみ、責任を感じるのがよい。

過去の出来事をずっと引きずってしまうのは、将来同じことが起きたときに、対処する可能性があるのに、自信を持って対処するすべを持っていない、というケースが多い。過去の嫌な出来事であっても、もはや起こることがないこと、完璧に対処する術を持っているとき、あるいは事故のように完全に自分のコントロール外にあるものに関しては、引きずることはほとんどない。

・ポジション・チェンジ
相手の視点から、問題を描写してみる(問題が特定の他者と関わる場合)。

ただ、これは問題がある程度切り離されていない限り、お勧めしない。というか、憎い相手の立場になることなどできないし、しようともしないだろう。それでも、敢えてやってみることで発見するものもあるかもしれないが、発狂するかもしれない。やるなら少しずつである。
また、自分のポジションが整理され、きちんと確立されていない段階で、相手の立場に立つと、相手に完全に呑まれてしまう危険性がある。理不尽な要求に屈服し、単に権力に従うだけだと、理性を失い、思考が歪むことになるのでおすすめはしない。

他人の視点を理解するのは非常に重要だが、多分に自己正当化、責任転嫁、歪曲、詭弁が含まれていることは十分に注意する必要がある。

ワークする上で、他人のポジションに立つ際に重要になるのは、歪曲を含んだ相手の言葉や論理といった話の中身ではなく、また彼らの自己中心性と思われる態度や自分を軽蔑してくる態度ではなく、相手の感情ニーズに焦点を当てるということである。相手の言葉は、ニーズを守るために、全くの屁理屈・詭弁、取って付けた言い訳にすぎないことが多いことは認識しておいた方がいい。

そこで見えてくるのは、どんなに威勢を張っていたとしても、中身は自分を守りたくて精一杯な、か弱い人間であるということだ。そうすると、哀れみすら覚えてくるだろう。

また、相手の背景にある上位目的意図を探求していくと、自分の上位目的、肯定的意図との一致を見出すかもしれない。目的は同じであるにも関わらず、その方法、ルールを巡って争っていたのかもしれない。相手は相手のルールで、世の中をよくしたいと思っていたのかもしれない。

なので、相手が正しいと思い込む必要もないし、自分と相手とどっちが正しいかなどとする必要もない。相手は思考の歪みに気づくかもしれないし、気づかないかもしれない。気づいていても、自己正当化のため、主張を押し通すかもしれない。
所詮、どちらの主張が正しいかは、前提によって変わるので、無意味なことが多い。その場で、多数決を取ったり、どういう感じ方が正しいのかについても、その場に、たまたま居合わせた人や、意見の強い人に同調したりするので意味がない。集団においては、権力を持っている人の意見が結局、正とされてしまうことはよくあることである。

私達が「正しさ」にこだわるのは、それだけ自分の認識の正常性を確かにしたいからである。ここで重要なことは、あなたが感じた「感じ方」自体はいかなる場合があったとしても、それは絶対的に正しい、ということだ。この世の中では、しばしばこの「感じ方」を否定し、「そんなふうに感じるのはおかしい。そう感じるべきではない!」などと批判されたりする。一方、「考え方」については、すべて相対的で、絶対的に正しいものなどない。あなたの「考え方」も相手の「考え方」もどちらも間違っていると言えるし、どちらも部分的には正しいとも言える。

常識は、人によって、家族によって、会社によって、地域によって、国によって、文化によって変わる。絶対的な常識など存在しない。「約束を守る」という、日本人から見れば当たり前のことを、破っても平気で生きている国の人たちもいるのだ。

無論、相手が本当に悪いことをしている場合、無罪放免しなければならないわけではないし、どう対処するかは、プラクティカルな話だ。感情の問題が解決すれば、より建設的に、対応を検討できるだろう。

・それでも地球は回る
問題に没入しているときは、自分が何とかしなければ、という思いでいっぱいになっている。が、何とかしなければならない問題など実はない。自分がいようと、特定の誰かがいようがいまいが、地球は回り、時代は移り変わる過剰な責任意識は単なるお節介余計なお世話に過ぎない。こうして考えれば、問題そのものから分離できる。

・自分の中にあるリソース
自分の中にあるリソースに気づくのもよい方法である。
問題に嵌っているときには、大局的な視野で見ることができず、そのため、自分の中に解決のためのリソースがあること、なんとなれば、全く別の道で生きていくことのできるリソースがあることに気づかない。

リフレーミングの一種と言えるが、自分の中にあるポジティブな要素に気づくためのワークはNLPにいろいろとある。
また、催眠は、リラクセーション効果によって、症状自体を軽減させると同時に、暗示によって、リフレーミングや自分の中のリソースを目覚めさせることができる。

・もっと自分にとって価値ある重要な問題に目を向ける
多くの問題は、些細なことである。そう感じることができれば、内部表象でも、問題は「小さく」なる。そこからズームアウトし、何が本質的に重要なのか、そこに意識を向ける。そうすれば、より問題は小さくなる。

・問題のレベル、複合的要因
症状が複合的な要因で形成されている場合、一つの問題を解決したとしても、新しい症状が現れる。まるで、玉ねぎの皮をはいでいくような感じで、一つクリアしても、次のものが現れる。表面的な感情を解消すると、もっと深い根本的な感情が現れる。深まっていく場合もあれば、並列的な複数の要因が現れることもある。それらが同時に現れて、複数の意見が交互に主張し、ああでもないこうでもないと、いわば葛藤の状態にもなる。
それぞれに対して適切な手法を適用していく。同時に現れているときは、一つずつ片付けていくのがいい。

・アイデンティティ
究極的には、すべての問題は、自我アイデンティティへの執着に起因する。存在しない架空の「自己」を守るために、必死に苦しみ、怒り、闘い、憂鬱になる。「自己」が存在しない幻想だとがわかれば、それを守るという無益なことをやめる。(このテーマはここではあまり深入りはしないが)

・目標達成へ
以上は、問題を解決するための手法であったが、一方、目標達成を後押しするテクニックも多く存在する。
問題を解消するためには、主にディソシエイト分離脱同一化リラックス冷静沈着といったの要素が中心となる。一方、目標に向けては、アソシエイト価値行動ヴィジョンといったの要素が中心となる。

 


 

NLPでは、価値(バリュー)をを重視する。自分にとって最も重要な価値を順に並べたり、その序列を変更したりするワークもある。人生における、ビジョンミッションを探求していく上でも、価値は重要になってくる。
ディルツのニューロ・ロジカルレベルでは、信念と並んで、アイデンティティの次の階層にある。

●価値とは?
そもそも価値とは何であろうか?
価値とは、よいか悪いか、望ましい・望ましくない。素晴らしい・素晴らしくない、当為:すべき・すべきでない、などを表すものである。個々人が持っている価値の体系が「価値観」となる。
辞書的では、「どれくらい大切か、またどれくらい役に立つかという程度。またその大切さ。ねうち。」とある。
英語では、バリュー(Value)となるが、その定義を見ると、日本語の「価値」とほぼ同義である。
経済的な観点では、価値は価格に置き換えられる。金額によってその度合いを量る。これが経済学である。数字で表すのは様々な利点がある。どちらがどのぐらい価値があるのかを比較するときに数字があると計算しやすい。しばしば、あるものは、Priceless、無限の価値、金銭的価値には置き換えられないという表現をするときがある。特に精神面における価値は金銭では量れない。

●価値と信念の関係
信念(X=/→Y)は、価値は述語(Y)が「よい」「悪い」になる信念の一種であるが、ニューロ・ロジカルレベルでは、別物として扱われ、同じレベルで表現されているものの、価値観の方が信念よりも深いレベルにあり、価値観を変えれば、信念体系が変わるとされている。

●回避される価値と目的となる価値
本来、後者の方を価値と呼ぶものだが、「価値がないもの」を表現することがある。NLPではこれを回避される価値とする。例えば目的となる価値が「誠実」であるとするなら、回避される価値は「不誠実」となる。このどちらを用いるかは、それぞれの人の志向性によって異なる。同じように見えるが、マイナス面をなくしていくか、プラス面を伸ばしていくのかの違いである。回避される価値に意識を置いていると、消極的というか後ろ向きに歩んでいるような感じになるため、目的となる価値に意識を置くように推奨される。

●社会的な価値と個人的な価値
価値には、集団・社会が望ましいとするものがあり、しばしば個人の価値と拮抗するときがある。社会的な価値は「義務」や「規範」となって現れる。今自分が持っている価値が、自分の本心にある価値なのか、それとも他人から押し付けられた価値なのかを区別することが必要になる。
自分の本心にある価値に従って生きることが、人生の満足度を決めることになる。個人の価値に従うことは強制された感覚ではなく、統一感をもたらす。「義務」や「規範」に従うことが、安心・安全をもたらすのに対して、個人の価値に従うことは、満足をもたらす。

●価値と意味・意義との違い
しばしば、同義で用いられる。辞書的な「意味」ではなく、これは意味がある、意味がない、というふうに、対象の価値を論じるときにである。多くの場合、誰にとっての意味なのか、という点に注意する必要がある。

何か不幸に出会ったとき、精神的な苦痛を感じた場合でも、その出来事に「意味」を見出すと、苦痛は軽減される。

●価値の対象
価値のある物、価値のある人、という言い方をする。自分にとって大切な人や物は、その人にとって価値が高い。何らかの利益をもたらしてくれるから価値が高い、といえる場合もあれば、その人の存在そのものが価値がある、という場合もある。
一方で、「価値のない人」と表現されるような人もいる。それは、仕事上、社会上で、代わりの利く人、害を与える人、働かない人は価値がないとされる。社会的な価値で量ったもので、集団や社会の存続にとって役に立つかどうかで判断される。昔や今でも一部の国であるような、身分の上下があると、身分が下のランクの人は価値がないとされる。
そして、自分自身が役に立っていない、価値がないものと見なすようになると、無価値感におそわれることになる。

●価値の拮抗
自分の中で複数の価値があって、互いに相反する場合がある。例えば、「みんなと繋がること」という価値観と「一人の時間を持つこと」という価値観は相反する。そうなると、その二つの価値観の間で葛藤が起きる。価値観の序列が明確になっている場合は、片方の価値を満たすことを優先するが、明確になっていない場合は、行動の決定に躊躇したり、片方の価値を満たしたとき、もう一方の価値が満たされずに自分の中で不満がくすぶることになる。

●価値の序列
NLPでは価値の序列を設定するワークがある。自分にとっての価値を列挙し、それらを互いに比較し、どちらが重要かを決定し、一番から順番に並べていく。しばしば順番が決められないときがあるが、それは別の言葉で表現されているものの、同じものを指していたり、包含関係にあったりする。もしくはその二つの間で葛藤がある。その場合は、葛藤を解消するための「パーツ・インテグレーション」などのワークを行うとよい。

●価値の序列の変更
何がより重要かは、人それぞれ表象コード化される方法が異なる。より重要な価値観が上に来る人もいれば、逆に基盤ということで下に来る人もいる。近くと遠く、内側と外側、あるいは大きさでコード化する場合もある。自分がどのようにコード化しているのかを知ったら、表象を操作することで価値の優先順位を変更することができる。例えば、「健康」という価値観が「お金」よりも下にある場合、健康を害してでもお金を稼ぐことを優先してしまうかもしれない。その場合、健康の序列を上に上げることで、つまり表象の中で健康のサブモダリティをより重要な場所に移動することで、健康を優先にすることが、日々の行動の中で難なくできるようになる。

●コンテキストの違い
仕事における価値と、趣味における価値は、別物になる可能性が高い。つまり価値はコンテキストごとに異なる。もちろん、いかなる場合でも同じ価値を持っているということもある。価値のワークを行う場合は、何のコンテキストにおける場合かを明確にしてから行う方がよい。

●価値と欲求の違い
欲求、要求、ニーズ、目標と価値との違いは何だろうか。欲求は得たいもので、価値は欲求を通じて得たいものである。それが何かと問うと上位目的として価値が見えてくる。要求やニーズも、具体的なレベルで表現されているときは、価値ではない。それを通して得たいもの、抽象的なレベルにおけるニーズが価値となる。目標も具体的なレベルであれば価値ではない。それを通じて何を得たいのかである。

●自己実現
マズローの言う自己実現欲求は、この価値に重きを置いていると言える。個人の持っている価値観に従って行動し、最大限に発揮する。そのため、自分が何に価値を置いているのかを自覚することが重要になってくる。

●価値=行動
ACT療法のラス・ハリスは、「価値」とは何かについて詳しく述べている。価値は欲求でも、目標でも、得たい状態でも、義務ルールでもなく、目指す方向であり、終わりのない進化のプロセス、どんな人間になりたいかの深奥の望みであり、自分自身がしたい「行動であるとする。必ずしもNLPで述べている価値やNVCで述べている「ニーズ」と一致するわけではないが、非常に説得力がある。

●根源的な欲求・動因
人を動かす根本動因が何なのか、心理学者や哲学者・宗教者は探究してきた。生存、幸せ、意志、意味、愛、自己実現、自由、解放などあるが、正解は突き止められていない。
人が何かをする目的は、多くの場合、突き詰めれば「幸せ」ということになる。しかし、人はしばしば大義のために、目先の幸せを犠牲にすることもある。そうすると、幸せよりも「価値」の方が、根源的とも言える。

●価値と目的・ステート(状態)との違い
動機・目的・意図を辿っていくと、最終的にはコア・ステートにたどり着く。一言でいえば「幸せ」だが、正確に言えば、安らぎ存在OK一体感といった状態である。このコア・ステートは何ものにも依存せず、最初から私たちの内側に備わっているのであり、それを得るために何かを達成する必要はない。私たちは錯覚により、外側にあるものを通じてコア・ステートを得ようとするが、実際は終始体験できるもので、ただちにそのものに入るだけでよい。

一方、価値は行動であって、ステートではない。コア・ステートにあるとき、欠乏欲求は満たされる。そこから、現れてくる行動が価値であり、存在欲求であり、自己実現や自己超越の根本にある。あるいは、コア・ステートがであり、そこから現れるものが慈悲、つまりということもできる。
欠乏欲求が満たされていない間は、価値はコア・ステートにたどり着くための、単なる手段になる。存在欲求に移行した段階で、価値は、それ自体が目的となる。何かの結果を得るための手段としての行動ではなく、その行動自体が目的となる。その価値から現れる目標は、ビジョンであり、ミッションとなる。これが手段となるのか、それ自体が目的となるのかは、その動機が欠乏欲求によるものかどうかに依存する。