【タイトル】 ものぐさ精神分析

【著者】 岸田秀


【読むきっかけ】
かなり有名な本で前から読みたいと思っていたが、少し前だがようやく手に取った。

【概要】 岸田氏はフロイドに精通しているが、本書は精神分析と名を打っているが、神経症の構造を様々な角度から解いているものの、フロイドの精神分析について解説した本ではない。解説者が、「原因のあるところに結果を、結果のあるところに原因を置き換え、逆立ちした世界としてその姿を現す。」とあるように、世の中の常識をひっくり返した形で解き明かす。


【対象】 人の精神構造について深く理解したい人。前提知識は不要。常識をひっくり返したい人。
【評価:★5段階で】
 難易度:★★★★
 分かりやすさ:★★★★
 ユニークさ:★★★★★
 お勧め度:★★★★★

【要約・まとめ】


フロイドの説明
 超自我、自我、エスという人格
 個人心理を集団心理に擬して説明した結果
 彼の時代の立憲君主制の政体を反映
 去勢恐怖にしろ、近親相姦のタブーにしろ、個人の心理現象は歴史的あるいは社会的起源を持っている。

日本という集団の深い病的症状
内的自己が現実との接触を失い、自己中心的、自閉的になっている。
欧米人の評判を過度に気にする=自己同一性の不安定さ

エスとその快感原則は、人類に特有な本能のずれと歪みを表しており、動物の本能と同一視できない。
本能ではなく、幻想の原則、過去の状態の復元を求める衝動
長期の胎児の保護と世話:本能としての母性愛に基づく行動によって可能な範囲を超えている。
かつては本能に支えられていた人間のつながりは、今や共同幻想に支えられることになった。
共同幻想は、本来の現実と私的幻想の両方をいくらかずつ裏切った妥協の産物
精神病者私的幻想のほとんどを共同化し得なかった者
 人々が何の意味も根拠もない妄想として無視するのは、その意味について考えるのが恐ろしいからである。
集団と個人は共同幻想を介してつながっている。集団が公認するもの=共同幻想は、集団の超自我及び自我=顕在的文化、公認しないもの=エス=潜在的文化

虐待
第三者には明らかな残酷さが愛情と映る。心底自信を持てないがゆえに、残酷な男に出会うと、彼の愛情を確認したいという無意識的な強迫的欲望に駆り立てられる。それを止めるには、父親に愛されていなかったという認め難い苦痛な事実を認めなければならない。

常識
我々が現実と信じているところのもの、我々の日常性は、作り物でしかなく、それを支える確実な根拠は何もない。自分は一風変わった「常識」外れの人間だと思っているものは実に多く、もし本当に彼らが「常識」外れの人間なら、世の中では「常識」人の方が少数派ということになろう。「常識」なるものはどこにも存在しない。「常識」とは、人々が、自分以外の大多数の者が信じていると思っているところのものである。

社会はスキャンダルを必要としている
「抑圧されたもの」は何らかの形で現さざるを得ない。自分達の日常性を脅かさない別世界の物語としてなら、限りなくこの種の悪事を愛する。それだけでは満足せず、地位と名誉を持つ者が隠し持っている穢れたものを暴き出すことに異常な興奮を覚える
日常性の崩れが興奮させる。スキャンダルがしょっちゅう必要ないのは、あまりに崩れっぱなしになっても困るからである。
祭りや戦争ーー大々的に日常性を崩す。我々が日常性をどれほど憎んでいるか、その息苦しさをどれほど耐え難く感じているか
不合理な破壊的現象は、抑圧された穢れたものの発現。聖なる者が穢れたものを作り出すのだから、聖なるものを必要としなくなれば、問題はたちどころに解決する。

性のタブーの起源
フロイドによれば人間は生まれた時から性欲があるが、本来の手段で満足させられない。人間の性生活がまず不能者として始まるという事実。己の不能に直面し、無力感と劣等感に打ちひしがれた。そこから回復するため、人間は自ら性のタブーを設定した。
性のタブーは不自然で不合理で有害無益なものだから、子供に植え付けるべきではないと考える親や教育者を見かけるが、それでは幼児が自分で築き上げようとしている人格防衛の堤防に、周りの者が穴を開けることになる。
正常な性交が自然な姿で、性倒錯は異常で不自然というのが一般の常識であるが、動物の場合ならいざ知らず、人間の場合は、正常な性交は決して自然な姿ではなく、多分に無理をして獲得された形式なのである。
人間の性欲を正常な性行為に向かわせるため、人類はさまざまな文化的観念や規律を編み出した。

恋愛
向こう見ずの衝動を持っているという幻想、見捨てる気持ちなんか全然ないという幻想を共に信じ、共にその幻想に従って行動することが恋愛である。
愛するとは、愛しているかのごとくふるまうことであり、真実の恋愛と偽られた恋愛との間には何の差異もない。結婚詐欺師とは、愛しているかのごとくふるまうのを無断で一方的に途中で止める者のことである。

共同幻想の質とレベルが関係の質とレベルを決定
金を餌にすれば強欲な女を得る。その強欲さを彼女の固定的性質と思ってはなならない。彼女だって他の男に対しては無欲なやさしい女かもしれない。

人間においては、育児本能も壊れている
赤ちゃんはほぼ完全に無能な状態で生まれてき、自活できるようになるまでには極めて長い時間を要する。
育児は本質的に無理な負担だが、やらないと種族は滅びるため、あれやこれやの理由を設けて親に納得させるための思想が育児思想である。

売春:
男に対して性行為と一家を養う義務とを固く結びつける家父長制の育児思想に従えば、義務抜きの性行為を求める男には何らかの代償を払わせる必要があった。

母性愛の神話
母は子のために全てを犠牲にする。この観念は文化に規定されたものであって、母性本能とは何の関係もない。
現代は、育児思想は崩壊しかかっており、子育ての根拠と意味を提供してくれる安定した既成の思想がない。

進化論
突然変異や自然選択などの説は、生物を自動機械と見なす擬物論的前提に立っており、環境の意味構造を読み取り、判断して、それに反応し、また、相互にコミュニケートする生物の主体的側面を無視している。
進化とは、いかに生きるべきかの問題に関して、ある生物種のある集団が一致して見解を変えたときに起こるのであって、偶然的な幾つかの突然変異の中で生存に最適な形態が残るのではない。
環境の変化と生物の形態の変化とを直接的に対応させるラマルキズムが進化の事実を説明し得ないのは、それが決断の問題であることを忘れているからである。

時間と空間の起源
時間は悔恨に発し、空間は屈辱に発する。

無意識においては時間が存在しないことをフロイドは発見した。無意識は、快感原則以外の一切の限定を受けない。否定を知らず、全ては肯定される。意識において初めて時間が現れる。
あらゆる欲望がたちどころに満足されるならば、どうして過去と現在を区別できるだろうか。もし過去が、満足されずに残っている現在の数々の欲望の起点でないならば、どうして過去なんかにこだわる必要があろうか。過ぎ去ったことなら、本来なら、何の用もないはずではないか。
過去をもう一度やり直すチャンスが得られるかもしれない時点として、過去から現在へと流れる線の延長線上に未来という時点を設定したのである。未来とは、逆方向に投影された過去、仮装された過去に過ぎない

我々が幼児期の記憶を欠いているのは、記憶機能がまだ十分発達していなかったためではなく、それが抑圧を知らない時期だったからである。最初の幼児期記憶が始まる時期と、たとえば裸でいることを恥ずかし始める時期とは大体一致する。すなわち抑圧を知ったとき、過去が記憶され始めたのであり、また、エデンの園を追われて人類の歴史が始まったのである。

ある時点における行為は、一つの絶対的事実であって、別の時点におけるいかなる行為との間にも等式は成り立たない。復讐や恩返しは、この等式が成り立つという錯誤に基づいているが、これも我々が時間を発明したために陥った罠の一つである。

空間
子宮内の生活においては、時間と同様、空間も存在していない。かつては全てが自己であった世界の中に、自己ならざるもの、汚いものが増えてゆく。それは、自己の領域が徐々ながら着実に狭められてゆく過程であり、耐え難い屈辱である。自己ならざるものに転化していった諸々の対象を閉じ込めるための容器として、空間を発明する。
人類が空間の征服にかけるあの途方もない情熱は、その背後に耐え難い屈辱を克服しようとするあがき。

言語
言語は、便利な道具として発明されたものではなく、人類の病であり、根源的な神経症的症状である。動物が言語を持たないのは、能力が欠けているからではなく、その必要が人類にはあって動物には欠けているからである。人類が必要とするのは、その本能を抑圧した結果として、本来の現実との直接的接触を失ったからである。
欲望とは常に過去の欲望である。欲望とはまずイメージに向かうものであって、イメージを介してしか対象に向かわない。そしてイメージは対象そのものではなく、常に対象から多かれ少なかれずれており、イメージを介する欲望は常に空振りの危険に晒されている。
エス:本能やリビドーの貯蔵庫ではなく、むしろイメージの貯蔵庫我々が現実と思っているところのものは実は疑似現実でしかない。この不安を避けるため、原始的思考では、イメージの具象化であるシンボルと現実の対象との区別を否定する。

動物の場合には、本能の表現形式、刺激と反応のパターンは一定している。人類の場合、刺激と反応とのこの自然な結びつきは失われ、同じ対象に関して各個人が抱くイメージは各々独特の歪みを背負っており、無限に多種多様である。
この窮状を打開するために、苦し紛れに言語が発明された。言語は、ある一定の錯誤にある一定の意味を付与することによって、その錯誤を共同化したものであり、いわば共同錯誤である。
言語は、現実の対象を記述するためではなく、各人それぞれ勝手な方向に歪んだバラバラのイメージ、私的幻想からなんとか共通の要素を抽象して共同の一般的イメージを作り、各人の間のコミュニケーションを可能にするため、そして、それらの共同の一般的イメージをまとめて共同幻想とし、一旦見失った現実を取り戻すために発明された。

無限に語彙を必要とするのは、どのような言葉もそれに対応する実在にピッタリとは合致せず、そこにいくらかの不十分さ、不適切さの滓のようなものが残り、その滓を取り除こうとして、次々と新しい語句を作ってゆかざるを得ないからである。

文化を作り、社会を築いたということは、自然的世界から言語化しにくい部分を排除し、言語化しやすい人工的世界を作ったということである。

ラカンは、無意識は言語のように構造化されていると言ったが、むしろこの関係は逆であって、神経症的症状としての言語が無意識(エス)のように構造化されているのであり、エスのイメージから発した言語がそうであるのは当然のことである。

アイデンティティ
私が私であることを支えているのは、私が属する集団の共同幻想であり、私が私であることを、私の性質、考え、身分、地位、能力などがかくかくであることを他の人々が認めてくれているからに他ならない。

幼児は多形妄想的であると言ったが、いわゆる正常な大人としての人格は、その多形妄想、その私的幻想の一部分の共同化によってかろうじて支えられているに過ぎない。集団の共同幻想による支えを失えばたちまち精神分裂病者となるであろう。

精神病
正常者が自分は異常でないということができる同じ権利をもって、精神病者も自分は異常でないということができる。精神病というのは他人から貼り付けられるレッテルである。他人から貼り付けられるしかないレッテルを、そのまま自分だと本心から信じるものがいたとしたら、それこそおかしい
一方の当事者である精神病者の観点を忘れていた実体論的精神医学の挫折は今や明らかである。自分の観点のみが絶対に正しいと決めかかって、自分に対する乙の行動を乙の悪い性質のみのせいにしていれば、乙をますます依怙地にし、争いをますます拗れさすだけであろう。同じようなことを従来の精神科医は精神病者にやっていたのである。
精神科医は、精神病者と同じように自己中心的であったため、他者である精神病者の観点に立てなかったのである。いわゆる客観的理論は精神科医の主観的理論であった。

心理学者の解説はなぜつまらないか
別に心理学者でなくても、誰でも言えるようなことしか言っていないのがほとんどである。

自分が理解できないことをするものを異常性格者というわけだから、理解力が浅薄であれば浅薄な心理学者ほど、彼にとっては世の中には異常性格者が多いことになる

イデオロギー
イデオロギーの歴史は、幻想我の集団的投影の歴史である。幻想我をあるイデオロギーと同一視した者は、そのイデオロギーのために身命を投げ打つのを惜しまなくなる。

自己嫌悪
自己嫌悪は、その社会的承認と自尊心が「架空の自分」にもとづいている者にのみ起こる現象である。無能な人間が有能だと思いたがる時、あるいは、卑劣漢が自分を道徳的だと思いたがる時、その落差をごまかす支えとなるのが、自己嫌悪である。
自己嫌悪の効用:いやらしい欲望を持ったとき、二者択一に直面して、いずれをも断念したくない、欲張りが使う詐術の一つ。その嫌悪が強ければ強いほど、「真の」自分はますます高潔となる。その時の自分は「どうかしていた」のであり、「ついやってしまった」のである。つまり、「真の」自分から発した行為ではないというわけである。
自己嫌悪は一種の免罪符である。自己嫌悪は、嫌悪された行為の再発を阻止するどころか、促進するのである。欲望の満足を得た現実の自分に関する責任と罪を逃れさせてくれるこのような便利な手段を、どうして手放すことができようか!

自分のある面を嫌悪するのは、他にもっと嫌悪すべき別の面を隠すためである。自己嫌悪の強い者は、そのゆえを持って、自分は自分の悪いところをも客観的に見て、責めるべきところは責める「良心的な」人間だと考えがちであるが、実際には、自己嫌悪の存在そのものが、彼がその逆の人間であることを証明している。自分を客観的に見ることができると信じることができるのは、己を知らない者のみである。

セルフイメージ
当人のセルフイメージから判明するのは、彼がどんな人間かということではなく、彼が他の人々にどんなことを期待ないし要求しているかということ。

生きるのが下手
生きるのが下手な者は欲のない者であるが、自分は生きるのが下手だと思っている者とは、欲の深い者である。まず彼らがどうして、下手だと判断するに至ったかを問わねばならない。そういう判断は、「他人と調子を合わせて」「人に上手に物を頼み」「おべんちゃらを言い」「人を騙す側に回り」「うまく立ち回って」いればもっとうまい汁を吸うことができたはずなのに、自分はそういうことができないので、いつも損ばかりしているということが暗黙の前提となっている。自分はあることができないということに気づくのは、そのことをやりたいという欲望があるからに他ならない。その欲望がないなら、そもそも自分にはそれができないということが視野に入ってこない。

人に騙されやすい
自分のことを「特によく人に騙されやすい者」と思っている者とは、人に不当に過大な期待を持ち、かつ、自分の期待は正当であると頭から決めてかかる傾向の強い者であるといって間違いない。

気前が良い
性格の判断に関して一般規準は存在しない。自分は気前が良過ぎてというのも、彼が、自分よりさらに極端なけちさを想定し、それを一般基準だと考えることもできる。

自分は「気前すぎていつも損ばかりしている」と思っている者について確実に言えることは、彼が、人に利益を与えることを自分の損得という尺度で考える人間だということと、自分のことを「気前が好い」と思いたがっているということである。

子のために
自分はこの子のために身を犠牲にして尽くし、大変な苦労をしてこの子を育て上げたと思っており、それを自分の子に言って聞かせたがる親が時々いる。
問題は、そういう自己判断に根拠があるかないかということではなく、その親がどうしてそう思いたがるのかということである。子供に対するその親のどういう期待ないし欲求を正当化するのに必要か、と問わねばならない。
子供を犠牲にし、利己的に利用したい欲望の強い親ほど、自分は子供のために身を犠牲にしたと思いたがるのである。

尽くしたのに裏切られる
「自分は人のために献身的に尽くしては裏切られ、それでも人を信じたい気持ちを捨てることができず、懲りずにまた人のために尽くしては裏切られる」と言ってぼやく人がいる。当人は、恩知らずの人の世の薄情さとエゴイズムを嘆いているが、エゴイストなのは当人であって、彼は、人に対して一段優位に立てる恩人という立場で臨み、人を利用し、支配したい欲望が強すぎるのである。人が彼を「裏切る」のは、彼の支配欲に耐えられなくなって、逃げ出すのである。
人に大恩を施せば大いに感謝されるのであって、人に大恩を施したと思うことが人の恨みを買うのである。相手は、そう思うことによって彼が何を正当化しようとしているかを見抜くのである。

人間は自分を正当化せずにはいられない存在である。人間は自己正当化によって辛うじて自己の存在を支えられており、自己正当化が崩されれば、自己の存在そのものが崩されるのである。

誤解される
「私はよく人に誤解される」と言う人がいるが、こうした発言は、自分は自分を正解しているということが暗黙の前提となっているが、このような前提には何の根拠もない。

攻撃欲の強い人
常識によれば、悪人が悪事を働くのであるが、歴史が証明するとおおり、この世の悪事のほとんどは、「正義感」に駆られて「悪人」に「正義の鉄槌」を下す「正義の味方」がやらかしたものである。
現実に不正は存在し、それに対して勇敢に戦っている者はいる。しかし、彼は自分が現実に直面している問題と取り組んでいるだけであり、「正義感」に駆られてもいなければ、自分のことを「正義の味方」とも思っていないだろう。

セルフ・イメージ
邪悪な攻撃的サディズムを正当化するためには、自分は正義の味方であるとか、おとなしすぎるというセルフ・イメージが必要であり、一番都合がよいのである。つまり、セルフ・イメージと、客観的な姿とは、逆比例の関係にある。早い話が、傲慢な者ほど自分を謙虚だと思っており、謙虚な者は自分を傲慢だと思っている。

セルフ・イメージは、その場で取ってつけた泥縄式の言い訳とは違って、当人のヴァイタルな欲望のみならず、内面的思考過程に根深い根拠を持っており、他人にはいかに馬鹿げて見えようとも、ちょっとやそっとの説得には屈しないのは、そのためである。そのセルフ・イメージの不当性を非難されれば、当人は心の底から心外に思うだろう。当人としては、それを裏付ける事実を無数に持っている。事実そのものに嘘はない。誤りがあるのは、その事実の解釈の仕方である

自分はこうこういう人間だと思える時、他人の目にはちょうどその正反対の姿が映っていると考えて間違いはない。ついで、自己判断にありがちな誤りを消去してゆけばよい。主観的解釈の要素を拭い取るのである。

忙しい人とひまな人
自分が何の役にも立たず、世の中から求められない恐怖が強すぎるので、無理やり仕事を作って忙しがっているのではないか。

ひまだと言っている私が付き合わないと、相手は意外な顔をする。これは、人がひまなら、そのひまは自分のために割いてもらえると決め込む者が間違っているのであろうか。それとも一言「忙しい」と言えばいいのに、わざわざ誤解されそうなことを言う私が悪いのだろうか。



解説: by 伊丹十三
人間にとって現実とは、誰かにそう思い込まされたところのもの、すなわち幻想であるということである。自我は無理をして作られているゆえに不安定であり、それゆえ人は必死になって維持しようと努め、その努力は自己欺瞞を伴い、自己欺瞞を脅かすものの抑圧を必要とし、神経症として表現される。人間は本質的に神経症的である。

人間の場合本能は壊れているから、自分で適当に、いわば出鱈目にプログラムを作ってそれに従って行動する他ない。このプログラムがすなわち文化である。あらゆる人間は狂っている。もし狂っていないと思っている人間がいれば、彼は自分は狂っていないと思うというやり方で狂っているのだ。正常な自我なぞというものはない。人間は全て神経症である。現実との生き生きとした密接な関係を持ち得ないということを、全てを意味に置き換えるということで誤魔化しているとするなら、要するに欲望といい言語といい、真実を隠蔽するための偽の満足という症状であり、これはまさに神経症に他ならない。

岸田理論は世の常識と逆立ちした形を取ることが多い。
原因のあるところに結果を、結果のあるところに原因を置き換え、逆立ちした世界としてその姿を現す。
岸田理論において自己の発見とは自己同一性の確立を意味せず、むしろ自己を共同幻想、及び共同幻想の余り物としての私的幻想に配当することによって自己を解体すること


【感想】

全てが逆説で、なかなか痛快である。ちょっとひねくれているようにも見えるが、人間の恥ずかしい本質を突いている。

世の中一般に説明されてきた常識や真実とされたものが、社会的な産物であって、全部嘘だということを教えてくれる。岸田の言う共同幻想は、ハラリの言う神話と同じである。
人間は動物と違い、本能が壊れている。だから、思想教育で神話や幻想を信じさせないと、社会の維持はおろか、育児すらできないというわけだ。ただ、動物を一括りにはできず、一部の動物は執着が強く、過去の恨みを晴らそうとする。脅威に感じるものを除去するのであれば、人間も同じことである。

 

この本を読めば、いかに我々が社会・文化・宗教に洗脳されているのかがよく分かる。そして、自我を確立しようとする動き、自分を正当化しようとする動き、いかに自分が正常であるかを示そうとする働き、これらがすべて自己欺瞞であることを暴き出してくれる。

岸田の手にかかると、人間の浅はかな計らいがこれでもか、というぐらい露呈されてしまう。

「原因のあるところに結果を、結果のあるところに原因を置き換え」とは、アドラーの目的論に通じる。人は何らかの原因があって怒っているのではなく、とある目的のために怒りを作り出しているというもの。

 

非常に深いし、社会常識に圧倒されそうなとき、本書の内容を再度思い出すといいかもしれない。