前回のまとめの続き)


Section 7 最後に

23. 負債から解放された人生はあるのか

この本は、感情的負債があなたの人生の一部であることを前提としている。感情的負債が不健全であるかを判断する手助けをし、自分自身の中にある感情的負債を解消したり、人間関係における感情的負債に対処するためのツールを提供する。

感情的負債はあまりに重い負担となるため、その反対が理想のように思えるかもしれない。多くの人にとって、自由の本質は義務から解放されることである。しかし、彼らの目標は感情的負債を完全に超越することではない。

感情的負債は常に周囲にあり、絶え間なくそれを思い知らされるため、完全に解消することはほぼ不可能だ
多くの人は、感情的負債がない状態こそが、自分が好きなことを、好きなときにできる自由だと単純に考えている。本質的には、これは極端な権利意識の一形態だ。真の目標は、完全な権利を持つことだと考えてしまう。
しかし、それを恒常的な状態として期待するのはナンセンスだ。私たちは皆、人生の制約に対処しなければならない一部の人々が完全な権利を持つような世界を望む人はほとんどいない。そのような権力を乱用するリスクが大きすぎるからである。

このように説明されると、ほとんどの人は、真の目標は完全な権利を持つことではないと気づく。真の目標は、義務に支配されず、より多くの権利を主張できるようになることである。

私たちは感情的負債に対する反応を変えることができる。自分の中でバランス感覚を生み出すことができる。重要なときは、人間関係における感情的負債に誠実に向き合うことができる。

あなたは「負う」ことを避けることに非常に熱心であるため、天秤のバランスは常に「負わない」側に傾いている。あなた自身がそれを妨げたり回避したりするため、相手はあなたとバランスを取ることができない

受け取ることが最高の贈り物になる。なぜなら、好意や贈り物を受け入れることで、相手もバランスを感じるようになるからだ。「誰にも何も負っていない」という認識は、歪曲になってしまう。それは社会病質者の特徴の一つかもしれない。

一方で「誰も私に何も借りはない」と宣言する人も多くいる。お互いに期待を持たないような関係は、しばしば理想化される。確かに、お互いへの期待は多くの不幸の源泉である。しかし、それはまた、驚くべき成果を生み出す原動力にもなる。問題は、期待が満たされなかったときの失望感に対処できないことだ。

感情的負債を乗り越えようとする目標は、幻想かもしれない。この目標は、単に感情的負債と戦わせるように仕向けるだけかもしれない。あなたは感情的負債の問題を回避したり無視したりすることで、乗り越えようとするかもしれない。しかし、それは恐らく何らかの形であなたの生活に入り込み、水面下で影響を及ぼすだろう。

負債を受け入れる
感情的負債を超えようとするよりも、むしろ感情的負債を受け入れる方が、より現実的な目標かもしれない。この受容は、感情的負債を自分の人生の一部、そして人間関係における要素として受け入れることを意味する。感情的負債はもはや負担ではなく、機会になる。

感情的負債を追い払いたいという願望は、本当は過去の負債から解放されたいという願望である。この目標を達成することは可能だが、簡単ではないかもしれない。精神的な降伏が必要になるかもしれない。

負債からの解放は、現在を生きることである。その結果、あなたはありのままの人生に反応し、状況に応じて他者と関わることができる。あなたは今、負うべきものを負うだけであり、それ以上ではない。今、 owed (権利がある) であるものがあるだけであり、それ以上ではない。現在の負債は、過去の重みが増えるわけではないので、管理可能だ。
それは、あなたが空想する究極の自由ではないかもしれないが、ある意味で、感情的負債と和解することを学ぶとき、あなたは自由である。

あなたは進んで義務を受け入れ、責任を持って権利を主張することができる。感情的負債の気まぐれに振り回されるのではなく、人生においてそれを管理する力を主張することができる。自分の人生を自分のものとして主張してみてはどうか?( Isn’t it time you claimed your life as your own?)

【感想】

●無意識にある負債(貸し借り)の概念と感情の関係
人は、世界の認識方法として、因果関係や公正という概念が無意識に組み込まれている。他者とのやり取りをする中で、無意識のうちに、負債(貸し借り)の認識をしている。当人の中では、全く意識されていないのが厄介で、口では、貸し借りの感情はないときっぱり言ったとしても、無意識ではしっかりと認識している。

もし、自分が他者や世界に対して「貸し」があると考えているなら、絶えず他に要求し、それが不平不満の原因になる。一方で、「借り」があると考えているなら、常に他者から要求され、世界は脅威に満ち、不安定な状態になったり、義務を背負って自由のない隷属した状態になったりする。

人間の感情の背景の多くに、この感情的負債がある。しかし、その背景を認識せず、単に不平不満や不安の感情を口にする。そして、他者や世界を責めたり、恐怖を感じたりする。根本的な原因である、自分自身の無意識にある感情的負債を認識し、それを解消していくことが、厄介な感情を解消する鍵になる。

人間の行動において、感情的負債は非常に大きな部分を締めているにも関わらず、心理学では表面的に触れるしかない。一方、宗教においては、罪、業(カルマ)というものをいかに清算するかというのがテーマになっている。これが勧善懲悪に結びつく。良いことをすれば、良い結果が、悪いことをすれば、悪い結果が返ってくる。また良いことをして、見返りがないとしても、それは天に徳を積んだことで、すぐに返ってこなかったとしても気にしないように説く。そこに十分な論理的、心理学的な分析がなされているかというと、ほとんど皆無で独自の宗教理論に従って、こうしなさいという行動が示唆されるのみで、その深い意味は語られない。

● 公平性へのビリーフと4x2のキーコンセプト
感情的負債の背景には、「世の中は公平であるべき」というビリーフがある。努力に対してその見返りがないとき、怒りや落胆などの感情がある。外側に向かえば、公平な世界でないことへの不満、内側に向けば、取った方法や自分の属性に対して疑いが起こる。ほとんどの感情の背景にビリーフがあるが、そのビリーフの根底にあるビリーフが「公平さ」というものだ。

この公平性は、行為と結果という単純なものだけではない。ニックは、そこに善悪・約束・所有(属性)=権利/義務を加えて、さらに能動態と受動態、つまり自分から相手へ、相手から自分へに分けて、8種類に分類している。この分類は素晴らしく、シンプルかつ、ほとんどのケースを網羅してくれる。

 

  好意 / 犠牲 過失 / 不正 約束 役割
借り 誰かがあなたに好意をしてくれた あなたが誰かを怒らせてしまった 約束をした 役割に伴う義務がある
貸し あなたが誰かに好意をした 誰かがあなたを怒らせてしまった 誰かがあなたに約束をした 役割に伴う権利がある


私は以前、責任という概念が、個人の行動および苦楽に関係していると思っていたが、Oweという一つの概念で説明ができる。これは画期的な発見で、これまで世の中の哲学者、心理学者は、こういう観点で、人間を分析したことがない。もっと大きく取り上げられていい内容だ。
公平性の概念からは、善悪、その見返り(報酬と報復)、責任、こういった領域まで話は広がっていく。公正さについて、各自の行為だけではなく、属性も大きく影響していることを学んだのは、この本を読んだことの大きな収穫の一つである。

● Oweという言葉
英語だとoweという一つの言葉で表現でき便利である。その反対はowedで、受動態にすればいい。oweは日本語の「負う」に等しい。発音も偶然同じだ。しかし、owedとなると、「負われる」では日本語として苦しい。「借り」「貸し」と置き換えるのも、主語がどちらにあるかによって正反対の意味になるので単純には行かない。
そもそもoweという言葉は不思議だ。能動態は、どちらかというと自分から相手にという方向性があるが、owe(日本語の「負う」もそうだが)は、それ自体が受動的な表現で、相手から自分に向かってくる感覚がある。また、この状態の結果として、未来において、oweなら、自分が相手に支払いをして相手が利益を受ける必要(もしくは私が罰を受ける)があり、owedなら、相手が自分に支払いをし自分が利益を受け取る(もしくは相手が罰を受ける)となる。
英語圏の人なら、owe/owedですんなり理解できるのだろうか。oweは、借りている(borrow)と訳すこともできるので、「負われる」よりも「借りがある」と訳した方がわかりやすいかもしれない。

とはいえ、これは結果としての行為がどうなるかが、善なのか悪なのか、方向性がどうなのかなど様々なバリエーションに分かれるが、心理的には、oweかowedなのかの二つというところが面白い。むしろ、権利(Entitled)義務(Obligated)の方が直観的かもしれない。


●権利と義務
先の8パターンは、究極的には、権利(/義務)で説明できる。権利(=Right)は何かを得られるチケットのようなもの、あるいは所持金のようなもの義務は、何かすべきこと、あるいは借金のようなものである(多くの場合苦痛を伴う)。これらは正反対になる。

とはいえ、単純に苦楽得失で、権利/義務を分離できるとは言えない。
「苦労は買ってでもせよ」と言われるように、苦難を伴う権利もある。これはその先にある経験、スキル、栄光など良いものを得る権利とも言える。
義務であっても楽しい義務もある。仕事が楽しい場合はそうなる。とすると、苦楽と必ずしも結びつかない。ただし、ここがブラック企業が付け込むところで、搾取しながら、搾取されている側に逆に恩恵があると言って感謝を要求するのだ。

一般には、自主性欲求選択の自由があるものが権利、ないものが義務と言える。ただこれも必ずしもそうとも言えない。一見権利だがやらざるを得ないもの、義務だが果たさない自由などもある。例えば、とある無料食事券のチケットを貰ったとするなら、それは権利だが、しかし有効期限があったり、あまりそれを食べたいと思わないのに、「行かなければならない」という気持ちになると、意識上では権利が義務感に変わる。「欲求」の時点では選択の自由があるが、それがやがて「義務」に変わってしまうことはよくある。
得るか、与えるか、という定義についても、義務でも副産物を得たり、権利でも与えることはある。
同じものも見る視点で変わる。とはいえ、一般にはだいたい権利か義務か、見かけ上で判断できる。

● 人権
権利・義務は、しばしば法律や人権の中でも語られ、人権が与えられる一方義務を果たさなければならないとセットで語られる。しかし、それは一面の理解で、実際にはOweという概念で整理される。ある人Aが、別の人Bに対して権利を有するとき、BはAに義務を負っている。

●約束と契約、特権階級と差別
善をなせば見返りを得る権利が得られる。悪をなせば、報復を受ける義務がある。約束すれば、それを果たす義務が生じる。努力して何らかの資格を手に入れれば、持たない人に比べて権利を多く持つことができる。ここまでは、公平さ、平等性の原理が働いている。

権利は通常は、行為を通じて獲得され、義務は、報酬の対価として設定されることが多い。一方、約束は、片方が約束しただけで、権利と義務が設定される。約束をしなければならない経緯もあるだろうが、一旦、約束が設定されると、強い拘束力を持つ。
法律上は契約の自由があって、そこに不平等があろうとなかろうと、強い拘束力を持つ。通常の契約は、一方がもう一方に支払うだけのような不公平なものはなく、ギブ・アンド・テイクで公平だ。しかし、しばしば契約の拘束力を悪用して、不平等な、無理な約束を取り付けるケースが後を絶たない。

また公平さという点で微妙なものは、生まれつきの属性というものもある。近代までであれば、貴族として生まれれば多くの権利を有する。庶民として生まれれば、労役の義務がある。考えてみると、生まれだけでこのような差別があるのは不公平だが、金持ちや貴族の子供として生まれれば、親が持っていた権利を引き継ぐことになる。弱肉強食の世界では、強いものが権利を有する。生まれた国の違い、生まれた民族、生まれた地域、生まれた家、これによって権利の差が出る。かつての世界(今も一部ある?)では、白人が、黒人や黄色人種より優れているとされ、「身分」が違っていた。この生まれの違いは、しばしば不公平だとの議論もあるが、現代においても、認められたものとなっている。

もし自分が高い身分にいて、低い身分の人から馬鹿にされたとしたら、同じあるいは高い身分の人から馬鹿にされるよりも、遥かに怒りは大きいだろう。また罪を犯したとしても、それに対する罰則は階級が上であるほど甘くなる傾向がある。人の美醜を階級とみなすなら、美人が罪を犯した場合、処罰が甘くなる。人種、国によって、世界は依然として差別が蔓延している。同じ国・人種でも身分階級のようなものはある。
現代では、表向き「身分」という言葉は使われないが、どの集団、あるいは集団間においても、ランク付け階級ヒエラルキーは存在する。この「身分」に関する「ルール」は社会によって異なるし、人それぞれ異なる考え方を持ち、それがしばしば軋轢を生む。人は皆平等と信じている人は、特権階級を許さない。権威は認めるものの、そこに制限をかけ、乱用しないように目を光らせる。

行為と属性を経済に置き換えると、働いたことによる収入と、資産がもたらす収入との違いとも言える。後者は働かずとも収入がある。つまり、所有・属性自体が違いを生む。
自分の属性として、高い地位・身分、美貌、何らかの権利の「所有」がある場合、それを持つようになったことへの公平性はともかくとして、属性があることは権利、力を持つ。

努力をして資格を得た場合、それ自体は公平に見えるが、これとて本当に平等なのか疑問がある。大企業に入るのは狭き門だが、入ってしまえば、エスカレーターのように中小企業に入った人に比べた好待遇が保証される。つまり、一時の努力に対する見返りが大きく違う。少し前、上級国民、親ガチャという言葉が流行したが、不平等に対する不満を表している。公務員は、よほどの悪事を起こさない限り、雇用・給与が終身保証されている。権利を持っている者は、それが正当なもので、公平性に反しないと考える(なぜなら自分にはそういう属性や過去の努力があるため)。それに対して、持たない者は持つものに対して、公平性に反すると考える傾向にある。むろん、そういうものだと受け入れている人も多いが。

そういった属性を抜きにして、行動に対する賞罰の度合いは、社会あるいは個人によって異なる。先に述べたように、多くは属性によって左右されるが。

●エゴイスト
エゴイスティックな人は、権利意識が強い。自分はいいけど、他人は駄目という考えである。この背景にあるのは権利意識である。正当な根拠があろうがなかろうが、自分は特権がある人だと思い込む。権利だけを主張し、義務を果たそうとはしない。エゴというものを、本書の観点から分析するとよくわかる。
かつての王は、自分の特権の根拠として、神から与えられたとする。自身は神によって祝福された者だというわけだ。これは一般化された特権である。
通常は、貸し借りによって権利と負債が発生するが、一般化された権利を持っていると考える人に与えても、貸しということにはならない。

●公平性の難しさ
貸し借りの問題が、そこに関わる人の間で、見解・基準が異なる場合があり、それが負債の解消を難しくする。損害賠償であれば、ある程度計算はできるが、罰金や慰謝料などは、明確な基準はない

最近は様々な人が言及しているので誤解が解けてきているが、ハムラビ法典の「目には目を歯には歯を」は報復を認めたものではなく、報復したとしてもそこまでが限度だということだ。
報復は同じ量では収まらない。数人で一人の人を殺害したのであれば、一人が死刑になるのが「公平」だが、しばしば全員死刑となるケースも多い。
多くのアメリカ人や中国人は、真珠湾攻撃や侵略に対する報復として、東京をはじめとした大空襲や広島・長崎への原爆投下は、「公平」、つまり釣り合うと考えている。ハマスに対するイスラエルの報復は、それまでイスラエルを支持していた国々からも、やりすぎだとの批判が上がっている。
最初に手を出さなければ、その後一切のことは起こらなかったから、最初に手を出したやつが絶対的に悪いという理論がある。しかし、本当の「最初」はどっちなのだろうか。太平洋戦争にあるように、アメリカ側が、日本が最初に攻撃するように仕掛けたという説もある。

何が公平かは人によって基準が異なる。男が女に優しくするが、女は男に優しくする必要はない、というのが一部の人たちが持っている「公平」な基準である。強い者が多くを持つ、というのも公平・平等だと考える人も多い。実際歴史や動物の社会では弱肉強食が「ルール」であった。

●一般化してしまう問題
70年前に5-10年間だけ起きたことなのに、未だに、世界秩序は、第二次世界大戦の戦勝国ー敗戦国という論理を続けている。国連を戦勝国が牛耳っている。明らかに不公平であり、権利と義務を一般化してしまったものだ。
一般化されたとき、それは永遠の負債となる。かつて、韓国の元大統領は日本に対して、植民地時代の恨みは、千年続くと語った。

●前世のカルマ、現在
インド思想では、生まれながらの不公平さを解消するために、カルマという概念を導入する。つまり、生まれつきの差というのは前世のカルマだというわけだ。カルマは行為によって作られる。つまり生まれながらに権利を多く持っている人は、前世で善いことをした人であり、権利が少なく、義務ばかり負っている人は、前世で悪いことをした他人である。そういう意味で平等であるとする。権利・義務含め、すべて行為に還元することができる。

カルマの観点から言えば、行為の蓄積が生まれながらの権利を生む。徳が尽きれば権利は失われる。生存中に脱落する王とそうでない王の違いはそこにある。

カルマ・業の概念は、神が創り出したという思想もある。試練を与えるために、初期条件として、良い、あるいは悪い設定をしたというわけだ。
最近だと、「親ガチャ」という言葉があるように、偶然、運と見なす。宝くじに当たるか当たらないかは、その人の行為・努力とは無関係である(偶然と考えたくない人が、風水やら運の引き寄せやら努力に結びつけようとするが)。偶然に権利あるいは義務を背負わされることはやはりあると考えるのだ。

●原罪の考え=義務の人
ユダヤ・キリスト教では、原罪という考えがある。アダムとイブが犯した罪が原罪として、現人類にも脈々と受け継がれているというものだ。これは、一般化された負債で固定化されてしまい、義務感を生み出すことになる。

●悪用する人ー搾取される人/する人
Oweの概念は、他人を支配下に置きたい人達によって、容易に悪用することができてしまう。
原罪や業の概念も、為政者に利用されやすい。民衆が貧しく不自由なのは、そういう業を負っているからで政治の問題ではないとするのだ。ブラック企業は、過大な義務を負わせたうえで、それが「権利」のように言いくるめて、責任を転嫁する
責任やを感じさせることもよく行われる。「イエス様があなたの罪を背負ってくれたのです。教祖様が教えを伝えるためにどれだけ尽力されているか。」などと言う。「真のお母様がこれほど苦しんでいるのに...」などと、罪悪感を感じさせる。原罪は、生まれながらの罪ということで、日本人として生まれた=中韓に謝罪し続けよ、という理屈になってしまう。そして、約束・誓いをさせ、縛り付けるのだ。
好意を与える、罪を感じさせる、約束をさせる、これらはすべて相手にOweの状態を作り出し、相手を支配することに繋がる。
このような「悪意(善意という見せかけの)」によって、押し付けられたOweはすべて捨て去ってしまっていいだろう。

● 無意識的な悪用
悪用は必ずしも意識的に行われるわけではない。人に何かを無償で与える場合、本人の意識の中では、見返りを求めていないつもりでも、無意識ではしっかりと求めている。
尽くしたのに裏切られると言う人は、実際は、相手に負債を感じさせて、自分を優位な立場に立たせて、相手を操作しようとする偽善者である。恩人という立場で支配欲を発揮しようとするのである。賄賂などと同じく、返報性の原理を利用して、貸しを作るのだ。

●社会システム
負債を解消する方法として、相手方と話し合いをする方法と、自分の内面で解決する方法が呈示されている。話し合いの結果、どうしたら負債を返せるかを決め、バランスを取る行為を行う。
しかし、とても払いきれない負債に対してどうするか。しばしば民事裁判が起こるが、多くは、話し合っても合意には達しない。第三者である裁判官が間に入って、調停をしたり、判決を下す。莫大な借金を抱えて、自己破産をする制度がある。これは、負債を解消する一つの方法である。しかし誰かが泣き寝入りすることになる。金を貸した側にとってはたまったものではないが、どうやっても解消できない負債に区切りをつける目的で、社会システムの中に感情的負債を解消する仕組みがそなわっている。

法律的な解消方法は、妥協に過ぎず、心理的には尾を引きずる。刑事事件の場合、懲罰として、懲役刑などが与えられるが、出所したとしても、負債の清算は終わらず、世間からは冷たい目で見られ、バランスを取ったはずなのに、許されない現状がある。最初に手を出した罪、無実の人を傷つけた罪は消えるのだろうか。
この心理的な問題を解消するのが本書の狙いの一つでもあるが、話し合いによる解決方法も提示されている。

●解消の行
負債を解消するのは、相手との話し合いとそれに基づくバランスを取る行動もあるが、コンタクトを取れない場合や、あまりにも過大すぎる場合、自分の内面のみで解決する必要がある。

自分が権利を持っている側にいる場合は、(悪行を行なっていた相手への)「許し」と(相手に求める権利の)「手放し」が有効になる。
一方、自分が義務を負っている場合には、「懺悔、悔恨」と、懲罰を受けること、償いとして、社会全般への奉仕が有効である。宗教者はしばしば、教会にこもって懺悔したり、苦行をしたりする。

・瞑想
瞑想の中では、自分の罪を、イメージの中で、洗い流したり、光で闇を追い払うなど表象を操作するものもある。それによって、自分の中の罪の意識を払拭する。チューの瞑想では、無始の過去から自分に対して負債を持つ者たちをイメージして、自分の身体を贈り物に変化させて捧げることで、負債を解消したという認識を持つ。

・内観
内観は、主に自分の中の権利意識を解消するのに役立つ。誰かから悪いことをされたことに意識を向けるのではなく、自分が受けている恩恵を徹底的に認識する。自分が迷惑をかけていることも認識する。これは本書で述べられている対処法と一致する。

・感謝の注意点
決定的に大きな助けをした人にもちろん感謝していいが、その人だけとするのは間違っている。その人があなたを助けた行動自体が、無数の要因に支えられている。
一部の人が好き勝手に生きることができるのは、そういう日本社会の仕組みに支えられているからである。彼らは、「自分の力」で成し遂げていると誇示するが、直接的に手を貸してくれた人だけでなく(その人達だけにしか感謝を向けないが)、日本の社会、世界、地球、太陽等々に負っている。なので、一般的に、あらゆることに感謝するのがいい。(ただし、神を持ち出すのは慎重になった方がいい。途端に、特定の宗教に支配されかねないためだ)。

まとめると、感謝、懺悔(受容)、許し、見返りを求めない(手放す)、という精神の道で説かれる項目と一致する。

 

 
借り(負債) 他からの善:感謝

他への悪:懺悔、見返りに対して:受容

貸し(権利) 他への善:利他・見返りを求めない 他からの悪:許し


●罪が消えることを悪用
感情的負債が内面のものであるなら、心理的な操作によって解消することが可能になる。しかし、自分の中で負債を解消したと思っても、相手は決して許さない場合はあり得る。宗教者は、内面を変えれば、それが外面にも反映されると信じて疑わない。結果、しばしば独りよがりになる。
一部のキリスト教信者にあるように、悪いことをしたとしても、教会で懺悔すれば綺麗さっぱり浄化されると言って、悪いことを繰り返すケースもある。
あなたに莫大な被害を与えた人が一切弁済せず、金剛薩埵のマントラ100万回唱えたからその人の罪は消えているので、もう弁済の必要はないと言ってきたらどうだろうか。

●罪悪感を感じない人
罪悪感が、カルマの原因だとする人もいる。だとすると、一切罪悪感を持たないサイコパスのような人は、悪いことを行っても見返りがないのだろうか。
真面目な人ほど馬鹿を見るのだろうか。あまりにも馬鹿正直な場合、些細な罪や人から受けた些細な恩恵を、大きくとらえてしまう。その結果、負債や義務感が一般化・固定化されてしまう。それは容易に、エゴの肥大化した人たちの餌食になる状態をもたらす。

●一生涯返しきれない恩恵を受けた?
大きな恩恵を受けたとき、客観的に見て、本当にすごい恩恵なのか。過大評価していないか注意する必要がある。その人がいなかったとしても、幸せな人生を送っていたのではないのか。あるいは別の経験、別の人生でも良かったのではないか。
感謝の気持は美しいし、ドラマチックだから、大抵の場合は弊害はない。多くの場合、受けた恩を直接返せないので、その人に報いるために、より多くの人を手助けすることで、恩返しをしたいと考える。

●カルマからの解放
一部の仏教徒の最終的な目標は、カルマのないことである。悪業が消滅し、善業だけになった状態を目指す。それは本書で言うところの、世界や他者に対して、負うものがなく、貸しだけがある状態である。カルマ=制約から解放され、何をするにしても自由な状態である。

巨万の富を得た人は、物質的には、負債がなく、お金の力で自由を手に入れていると言えるが、精神面ではその人達が必ずしも負債がないとは言えない。

ニックは、権利だけ、負債が一切ない状態、というのは、理想論であると指摘する。これは、悪行をせず、見返りのない善行を行い、他人から受けた悪行に対して報復をしないことの結果である。菩薩道では、世界に対して無限の借りを背負い、ひたすら、他者の利益のために尽くし続ける理想が語られる。どちらも、極端な理想化とも言える。
逆に言えば、他人に対して、莫大な貸しを作っているということになる。

●世の中は本当に公平か?
人は、公正さ・フェアであることへのビリーフあるいはニーズが非常に強く、それが様々な不平不満の原因になっている。しかし、真実は、いかに世の中が、カオスで不公平であるか。
私が一番好きな言葉として、アメリカの歴史学者のヘンリー・アダムズが言った、


Chaos was the law of nature. Order was the dream of man
 

という言葉がある。これは真実を突いている。
とどのつまり、秩序や公平さというのは人間の妄想、希望に過ぎない。だが、秩序や公平さがなければ、人間社会は成り立たない。ニックは、公平さへのビリーフを解消する方法は取らず、妥協的に、公平さを持ちながら、感情的負債を解消する方法を取っている。

● 負債自体への捉え方
むしろ、負債自体を問題にするのではなく、それをどう認識するかに視点を移す。規則が重荷になる場合もあれば、価値に従った行動になる場合もある。ポイントは自発性によるものか、シャドーによるものかである。負債は成長の機会となりうる

最終的には、You claim your life as your own.が結論になる。
権利や義務に左右されているとき、真に自分の人生を生きているとは言えない。他人や社会に振り回されていて、本当に自分にとって重要なことに自分の人生を使えていないことを意味する。究極的には、陰と陽の側面ーー自由(陽)=自身の力の宣言と束縛からの解放(陰)=無我につながる。 


【対処法の要約】

● 背景、健全/不健全の理解
社会や道徳:公平さをベースにする。返報性・等価交換の原理、人間の協力体制・生存に有利、予測可能性、善悪の概念
不健全:アンバランス、過度、完璧主義、過大、保証、操作目的。概念を悪用する。

● 感情
不平不満、怒り:公平さへの疑問、執着=自分に権利がある
やらされ感、無力感:義務を背負う。どれだけやっても認められない。

● 対処
認識:感情的負債は認識によってつくられる。客観的なものではない。道徳的規準は絶対ではない。
傍観者の立場で、負債の原因と結果を厳密に吟味し、負債の度合いを評価する。負債を個人の属性にしないこと。犠牲を払っているならその本当の意図を確認すること。外部ではなく、自分の内部の判断基準を使う。公正な基準から、適切に解消のための行動を明確にし、終了地点を定める。

1 冷静に全要素を洗い出す 
2 バランスを取る行為
3 謝罪・許しと感謝

注意点:「許し」は、免罪するわけではないし、行動を正当化するわけではない。

対話:負債の対象と直接話す。事前準備が必要。お互いにやったこと(良い・悪いを含め)全て棚卸して評価して計算する。

自分に権利がある場合:すでに相手が行っていること。直接の原因以外の、相手からの恩恵を思い出す。相手を傷つけたことを思い出す。相手の罪の原因を自分が作っていないか。自分にも責任の一端があると認識するとバランスが取れる。

対話ができない場合:自己の内面で解決する。
・自分に権利がある場合
許し、秩序は保証されないことの認識、他に多く与えられていることの認識
・自分に義務がある場合
償い・贖罪の行為、恩返しの行為
象徴的な行動や儀式:あまりにも過大すぎて、バランスは不可能なもの。過去を清算する以外に方法はない。

一般化された権利
保証されないことを認識する。自分には権利・自由があると宣言。
許し、見返りを求めない
一般化された義務
道徳的規制に異議。意識的に選択すること。ミッションとして実行。

感謝と責任:他からの善と自分がなしている悪を認識すること。その反対は、他からの悪、自分の善にフォーカスすること。

約束:無理強いされた約束なら見直していい。自分の意思としての約束なら、自分の意思で撤回できる。

 

(終了)