「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!! -3ページ目

「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

★【邪馬臺(台)国】は移動(残った吉野ケ里遺跡)は移動しました~!!

肥前(佐賀県)の【邪馬臺(台)国】は、九州から東(近畿・ヤマト政権)へ移動しました。その移動後に残った遺跡が佐賀県の「吉野ケ里遺跡」(当時、日本の表玄関に当たる伊万里湾を本拠地としていた豊玉姫の父だった海神ハデツミ氏族の統括地/子孫の住吉氏族は近畿に移動しヤマト政権を担う)です~

【邪馬臺国】とは、『後漢書第八五・東夷伝第七十五巻』(後漢時代は王莽政権が終わったAD25年~AD220年迄)に記載された国称です。又、その女王「卑弥呼」とは、後漢の「桓帝~霊帝の治世」(AD147年~AD189年/魏志倭人伝の末廬国=九州北西部の松浦国に関連する)に初めて設定された世襲制としての呼称です。

その後漢時代が終わって約50年を経た「魏国の景初2年」(日本は景初3年=西暦239年と記す)に魏国に遣いを出した時も「世襲呼称・卑弥呼」は存続していたので魏国は国称は使用せず【女王の国】と記す。つまり、後漢書に記された「邪馬臺国」の国称は後漢時代が終わって以降、一度も使用されていません。因みに「邪馬壹(壱・数価1)国」とは、「ヤマ・ヒ(倭語数価1)国」(ゲマトリア数価714は伊勢神宮建立年予定年数価/ダニエル書の秘儀数価1191-714=AD47年に予定通り伊勢神宮は建立された)の意であり、「ヤマトの語元文言」であった。

従って、後漢が滅んで約50年を経た魏国の景初2年(日本は景初3年=西暦239年と記す)に遣いを出した時も、更にその後の正始8年(AD247年頃の我が国は祭祀期間294年とする宮中での祭祀期間中だった)に使いを出した時も【女王国】と記し、「邪馬臺国」の国称は使用されていません~

魏国時代に於ける当時の我が国の「女王・卑弥呼」(宮中ヤマト祭祀12巫女を統括する女王/鬼道=宮中祭祀はAD57年後漢の金印授与年~AD351年迄の294年間行う神事/ヤマトの語元神事)が死去した後に立った「13歳の宗女・壹与」(壹与=壱与/正始八年=AD247年)とは、我が国の「第6代考安天皇の后オシ姫」(13歳で立つ/籠名神社祝部氏系図のヨソタリ姫の宗女)の事である。

「邪馬臺国」(後漢時代のAD189年)初代「卑弥呼」が立った年から約58年を経た魏国の正始8年(AD247年は宮中ヤマト祭祀時代)頃には、先ず、世界最初の日の出地域(ホツマ国=東北南部)から近畿に向けた道の整備が一通り終っていて、次の段階として河内を居住地としていた「大祭司ΙΑΩ(八尾)のアラヒト」の指導に因る地元のMesopotamia(メソポタミアの語意が河内の語元)の開発に国力を注いでいました~!! 

 

「宗女・壹与」(イヨ/13歳)が立った年から104年後(AD351年/崇神天皇12年)の時として発せられた詔~「ミコトノリ ⇒ 肇(ハツ)国知らすミマキ(崇神天皇)の代」ホツマツタヱ・34章)を以て、それ迄は小国連合体制から国家体制とする国称「ヤマト」に因る政権を確立させると共に、その「ヤマト国家・創建史」に到る物語が創作されました。つまりそれは、創世記49・9~10に記す「IBAΣΛH」(カバラ数価358・イエバシロー/メシアが来る)預言文言の成就として、尚、具体的な物語としては~「反逆者の長髄彦を討伐する物語」(6年戦争はハルマゲドンの模倣/死海文書のメルキゼデクの恩頼に起因する)である。従って、崇神天皇12年(AD351年)から過去へ358年遡り(紀元前7年)、長髄彦討伐(6年戦争=ハルマゲドン年)の暁として「神武天皇(幼名タケヒト)の即位」元年(メルキゼデクの恩頼(=ミタマノフユ/カミから受ける恩徳、御加護、恵み深い賜物)と定義する物語である。

★【追記】(2023/07/19・水曜)しました~

【邪馬台国】とは、現在の佐賀県「吉野ケ里遺跡」の事である!!

日本人の聖書として書かれた【秀真伝】(ホツマツタヱは『日本書紀』底本)に因ると~「無くした兄の釣り針を探す為に海幸彦は乗っていた鴨網(中型の鴨船)を捨てて行き到る、祖をハテカミ(海人/豊玉姫の父)の瑞牆(九州32国の統治者=海神ワダツミの宮殿)や、ウテナ(台・臺)輝く」(ホツマ・25章)~と記している。つまり、その「ウテナ=台&臺」の意が『三国志』魏志倭人伝に記す【邪馬台国】の事である。

因みに『三国志』の【魏志倭人】冒頭は~「倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑。舊百餘國、漢時(後漢AD57年奴国&AD107年面土国)有朝見者(此処迄は後漢時代/AD220年迄の出来事)。今(三国時代のAD239年頃)使譯所通三十國(九州全体の国)~と記すされている。

 

『後漢書第八五・東夷伝第七十五巻』(倭人伝

( https://zh.wikisource.org/.../%E5%BE%8C%E6.../%E5%8D%B785... )

因みに、【ιαω ΙΑΩ】(八尾の語元)と言う文字は、【死海文書】(1947年・クムラン洞穴から発見)の断片文字として発見(Q第4洞窟レビ記3・12&4・27の断片

文字)されています。

 

 

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「神社建築の発生」太田博太郎.著/増補第二版・株式会社 彰国社.発行)に付いて~

★「神社建築に関する論文は非常に少ない」(明治34年【日本神社建築の発展】以後は福山、谷ものが殆ど全部を占めている)~と、その著者は記す!!

【神社建築様式】(我が国の固有様式)に付いて~『日本建築史序説』(太田博太郎.著/増補第二版・株式会社 彰国社.発行)の「神社建築の発生」(50頁)に因ると~つまり結論(伊勢神宮の祖型)から言うと、「伊勢神宮様式は倉ではない」と記す。

然し、本当は【倉造り】(高床様式室屋)が元形でした。その高床式のルーツは、現在の雲南省(昆明)であった~

日本人の聖書として書かれた【ホツマツタヱ】(散逸書・ミカサフミは姉妹書)に因ると~「カミのヤ(家)は、【ム】(ホツマ文字のムの形状=鰹木の元形)の民目より、ムロヤ(室屋)建つ。民に教えて屋根を造り直すとある。又【ヤ】(家)の民目を以て~「ヤシロ(社/置き千木を設置した一般的な神社様式)成る」(ホツマツタヱ・17章)~と、記す。

我が国固有の【伊勢神宮・様式】(神明造)は、ソロモンが紀元前967年にエルサレム神殿を創建するが、その ソロモンとサバの女王の子孫(エチオピア系)がルーツと考えられる【南方のターイ族】(紀元前586年・ユダ王国滅亡後に昆明を経由/現在の雲南省)の高床式建築様式が元形(『雲南からの道』日本人のルーツを探る・鳥越 健三郎.編講談社発行である。その元初的な屋根の形状(原初の角刺的形状は千木とは言えない)に対し、ホツマ文字の【チ】(イプシロン=Yの形状)と【キ】(ケイ構え=冂形状との合字)との合字形状を用い、三輪氏系「ヲコヌシ」(南方語音=【倭】の呉音は【ワ】が、室屋の屋根を造り変えたと記している。

つまり、「イワユル(所謂)ジンダイ(神代)文字の論」の著者である山田 孝雄(ヤマダ.ヨシオ)氏が言う処のジンダイ文字の【】と【】の形状を用い、ヲコヌシ(大国主)が元来は高床式の倉庫として用いていた室屋の屋根を造り変えた。従って、此れを以て初めて【チキ】(千木)と定義付けられ、日本の社殿建築様式が確立したのである~!!。

その【千木】(置千木)の語元は、大阪府八尾市竹淵に建立する郷社⛩【タコチ・神社】(神武東征物語に起因)の呼称【タ・コ・チ】(タY400+コΧ600=チ・千)が語元である~

日本の国語学者「山田孝雄」(ヤマダ ヨシオ/イワユル神代文字論の著者)氏が言う【国語・ヤマト言葉】。その「1文字で母音と子音を言い表す方式」のルーツは、原アラビア文字(紀元前1300年頃の原カナン文字から分布)系の【サバ語】(最初は29文字/古典エチオピア文字はサバの女王に関連しサマリアヘブル語に因る聖書も作成された)である。そして、インド諸語のルーツとしては後期アラム語系、つまりセム系アルファベットと成っている~

【倭】(=サバの女王系タイ族)から【日本】(ヤマト=アロン・サドク系大祭司に率いられたダビデ氏族)に切り替わった事を記すのが「大国主の国譲り物語」である。

その切り替え方式は、エルサレム第二神殿の陥落(AD70年)をヤマト(日本)氏族が知った事(卑弥呼時代)に起因する。そしてそれは、伊万里(ヰマリ)の語元数価【358】(創世記49・9~10・メシアと同義語イエバシロー数価358)を用い、ミマキイリヒコ(崇神天皇)の12年の時とするミコトノリ(詔)~「民(タミ)に負(オ)オスル暇空(イトマアケ)、弓弭(ユハズ)手末(タズエ)の、貢止(ミツギトメ)~肇国知らす、ミマキ(崇神)の代(秀眞伝34章ミマキの代・任那の章)等と記す~。 

 

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                                    (2023年=令和5年5月24日・水曜…小島 宏/75歳)

【追記】(023年=令和5年6月2日・金曜)~

…日本書紀の底本『ホツマツタヱ』(姉妹書・ミカサフミ)が作成されたのはAD4世紀中頃以降であり、「縄文時代」とは全く無関係です。

 

つまり、崇神天皇(ミマキイリヒコ)12年(AD351年)以降、それ迄のヤマト国家の歴年史が書き換えられた事に起因します。それは、AD70年にエルサレム第二神殿が陥落(ユダヤ国の滅亡)した事を知ったIAΩ(ヤオ/八尾市の語元)の大祭司アラヒトは、エルサレム第二神殿陥落の翌年(AD71年)をヤマトの歴年史に接続する為に新たに【ホツマ伝】と【ミカサ文】文書を三輪氏と春日氏に作成させました(崇神12年=AD351年以降)。その第二神殿陥落をヤマトの大祭司(サドク系祭祀)が知った経緯は、垂仁天皇の時として登場する田道間守(タジマモリ)が常世に行った物語に関連(橘のルーツは沖縄迄は解明済)する。又、その当時以後に書かれた聖書【第4エズラ記】(第2エスドラス書)に記す【アルザレト】(もう一つの国の意/その旅は一年半もかかった。その土地の名はアルザレト)文面にも関連する。つまり、垂仁天皇の崩御の翌年在位通歴731年=景行天皇即位元年をユダヤのエルサレム第二神殿陥落の翌年AD71年に合致させる為、それ迄の皇暦在位年(731年)を「660年」(サコクシロの語元数価)過去に遡り、観念的に接続し景行天皇(ヲシロワケ)元年として当てました。従って、神武天皇即位年(幻の西暦1年目.辛酉も自ずと「660年」過去に下げられる事となる。因みに、景行天皇即位年が【幻の西暦71年目】に当たる事は、当時の伊勢神宮の内宮(皇大神宮)荒木田神官は知っていました。その証拠は、伊勢神宮の荒木田神官が代々書き綴っていた文書『太神宮諸雑事記第一』の景行天皇条に書かれています。つまり「景行天皇28年」は、世界暦に照らし合わせれば後漢(中国史)の「章和12年」和帝の永元11…満10年=AD99年と記している箇所。要約すれば~「和帝永元12年=AD99−景行天皇28年=AD71年」となる。つまり、景行天皇の即位元年は「幻の西暦71年目」に当たる事を当時の伊勢神宮の神官は既に知っていました。然し、当時は未だ西暦年は存在しません。因みに、西暦年の設定(コンプトゥス・パスカーリス/復活祭計算方式)方式、つまり、「563年」(復活祭1巡年から太陰太陽暦19×28=532+キリスト受難年齢31=563年)を過去に遡って設定されたからである。

 

…因みに『太神宮諸雑事記第一』(ダイジングウショゾウジキ)とは、伊勢神宮の創建(雄略天皇21年=AD477年)から平安末期迄の主要事項を、編年体で皇大神宮(内宮)禰宜の荒木田一族が書き継いだ文書である!!

~以上(追記終り)!!

 

 

…我が国は、何故【ヤマト】と言い、国語【ヤマト言葉】はどのように設定されたかは未(イマ)だ謎とされている。然し、神社の【千木】の形状と語元(黎明の意を有す語源の意ではない)の解明を以て、その解読の糸口を見出しました。因みに、私が【日本語の始まり】が知りたいと思ったのは3歳初夏(昭和25年)の或る朝、何時も遊んでいた浜辺の木に咲いた花の美しさに感動し、名前を知りたいと思った事(黄色い花と言うだけで誰も花の名を知らなかった)。そして小学1年の春の或る日、我が家(佐賀県伊万里市山代町立岩字浦ノ崎の塩浜海岸際に位置していた叔父の瓦製造所)の発動機船(瓦原料の土運搬船)の上で仰向けに寝て空を見ていると、一瞬、太陽光線が額を貫き~【自分にしか出来ない事がある】~と言う「カミの啓示」が私の頭に刻み込まれた事( http://erusaremu4654.jugem.jp/?eid=2 …【ハマボウの花の下で】より)に起因する。それで、26歳(昭和48年)の時に大阪で脱サラし、自由な時間を確保しての【自分探しの旅】の途中、神社の【千木】の形状と語元の解明(39歳)に成功しました。従って、生活を立て直す為に再度サラリーマンとして働き、その休日等を利用し世界的先史資料や文字の起元に関する資料等(主な資料は最後に掲載)を収集し、定年退職後(62歳/2008年のリーマンショックで退職を余儀なくされる)に纏めに取り掛かり、その研究内容をブログ(  http://ameblo.jp/erusaremu464/ )で投稿しつつ、現在(75歳)に到っています。

…神社の社の【千木】は、ギリシア文字【χ】が元形で、その文字数価【千】(アッティカ頭音法χίλιοιの頭文字)が語元(黎明的語意を有す語源ではありません)であった。又、国称【ヤマト】(東方に於ける理想郷国/預言=エキエル書43・1~2…ISRAELのGodの栄光は東の道から来た)とは、その創建達成時点を【山の頂上】に例えて第一歩を踏む意を【ト】(踏む元の意/麓の語元)言うを以て、【ヤマト】(三角数カバラ数価294はQumran(クムラン)祭司勤務24組周期年と同数)と言う。又、別称【日ノ本】とは、紀元前133年にエーゲ海の東(フェニキア語Asu=東/西はereb)に位置す Pergamon(ペルガモン)王国が共和政ローマに遺贈された事で、Asuの地名接尾辞ラテン語iaを付し、行政上のAsia(アジア)が誕生した事(日ノ本はヤマトと同義語)に起因する。従って、神武(タケヒト)天皇即位元年を「紀元前660年.辛酉」とするのは間違いである。  

…我が国最古の歴史書とされる『日本書紀』(古事記は歴史書でないので此処では言及しない)とは、【日本紀(ギ)】(逸書/養老四年=AD720年に元正女性天皇に奏上)の写本(清書前の下書をも含む)が、早速、翌年に行われた【日本紀】講筵でテクスト的に使用され、その後の例会でもテクスト的に使用された文書や複製等を明治30年~明治34年に経済雑誌社が刊行(国史大系)した本である。従って、現存『日本書紀』は「上代(カミヨ)の年代」(三百萬年で終焉する暫定鈴木暦年数で記載)が欠損しているのである。然し、その欠損部分は、【名文抄】(少量で散逸しやすい文書を中心に古代から近世迄のあらゆる貴重な文献を網羅した続群書類従書に記載)に記録されている。つまり、【逸書・日本紀】は【ホツマツタヱ】(1966年=昭和41年に再発見・姉妹書【ミカサフミ】の元典である~

 

因みに、その双書【ホツマツタヱ】と【ミカサフミ】の発見者は聖徳太子であった!!

 

 

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2011311(金)東日本に…極大地震津波発生

 

★【原文】( http://erusaremu4654.jugem.jp/?eid=2『黄槿の花の下で』より )~から抜粋す!!

 

東日本は、其の昔「袍図莽句爾/秀真国」と呼ばれ、日本(Japan)は、「袍図莽句爾/秀真国」の創設に因って始まりました。「袍図莽句爾」(良く整った国の意)の名称は、『日本書紀』(神武31年条)に記載が有り、又、其の国の始まりは、日本神話に記述されています。そして、我が国(Japan)の原初神(國常立尊)、其の原初神の尊称語「尊/命/美挙等/ミコト」の語根は、古代IsraelBible(アッカド語)[Berashith/創世記]を表す文字(自説)が、其の語源の語根であります。

「昔、伊弉諾目曰、此国曰、日本浦安国、細戈足国、磯輪秀真国(袍図莽句爾)」~『日本書紀』(神武31年条より)。

当自説…【元始ヤマト文字言葉・基点研究】は、日本の、国家創建問題を解決致します。従って、従来説、つまり、縄文文化延長上に繋ぐ文化が嵩じ、大和国家が誕生した等の通説的研究ではありません。又、『日本書紀神代上』記述の原初神(含牙)を、アニミズム、フェティシズム説に付すのは、『日本書紀』の神意性を無視する偶説であります。

 私の、当研究に至った起因、及び、本説に行き着いた経緯を、次に簡略的に記します…

… 

それは【夜逃げ】昭和24年=1949年・冬/筆者2歳の時)に始まりました。 私の家族は夜逃げして、叔父の家での生活に入り、その最初の初夏。家の海岸際に生えていた3本の木の葉っぱの合間に、黄色い物体(昨日は無かった)を最初に見た瞬間、その色の美しさに驚き母の元に走り寄り、その色の形状物体に付いて尋ねるが、その問い掛けに対し家族の誰もが答を知りませんでした。唯、「キ(木)の花」と言う。此の時、言葉の不思議に気が付き更に語元に付いて質問しました。つまり「誰が何故【キ=木】と名付けたのか?」と…すると「大昔の人(名付けた人)に訊いてこい」等の返事であった。その6年後(昭和29年・7歳/小学1年)の或時、私は祖父の船の上に仰向けで天を見ている一瞬の間であったが光(太陽光線ではありません)が私の額を貫きました。ふと我にかえると「自分にしか出来ないことがある」こ言う言葉が我が脳裏に天からの言葉がインプット(Input)されていました。此の日の午后、何故、船の上に寝そべっていたのかと言えば、朝飯(麦3~4割混ぜた飯)に、更に、ソーメンが混ぜて炊かれていて見ただけで食欲が無くなり何も食べずに学校(昼迄)へ行きました。昼下校後のご飯も同じ冷飯(麦と素麺混じり飯)だったので食べず、空腹を我慢して瓦造り原料(粘土)運搬用の舟に仰向になりボンヤリ空を見ていた時の事でした…「一瞬・光が私の額を突き抜けた」。その瞬間、我が無意識下(空白)に彼の言葉(自分にしか出来ない事がある)が刻み込まれていました。然し、その脳裏に刻み込まれた言葉は「我が心の胸(心)の中にしまい込み」(Command/内意的支配言語)秘密の言葉としていた事から何時の間にか記憶から消えていました。

我が幼少時に於ける初夏から初秋にかけて真黄色の花を咲かせていた彼の3本の木は、私が小学3年(5月)の時、佐賀県伊万里市の県道(国道204号線)拡張工事に伴い、浦之崎(高尾の鼻付近)の断崖下に位置した叔父の家(我が家族も同居)は、半強制的に立ち退きを余儀なくされ、私が小学校(3年生の初夏頃)から帰ってみると、見るも無惨に切り倒されていました。その変り果てた3本の木を目の当りにした時の悲しさと哀れさは今でも忘れる事が出来ません。然し、その悲しみと悔しさを癒してくれていたのが小学3年春頃の音楽授業で1回だけ習ったメロディ-(音楽の教科書は買ってもらってないから曲名は覚えていません)でした。だが、その歌詞も下校後は忘れるが、何故か、最後の部分に当る…「♪ 空も高くーすーむ」と歌う処だけが記憶に残っていました。然し、メロディーはシッカリと覚えていていました。それで、その「黄色い花の木の下で」何時も1人で遊んでいた頃を思い出す度、そのメロディ-(題名は覚えていません)も一緒に何時も我が脳裏に蘇ってきていました…

…何時しか消え去っていた2歳頃の彼の出来事(日本語/言葉の始まりを知りたいと思った)が我が脳裏に鮮やかに蘇ったのは、神社り屋根に設置されている【千木】の語元を発見した瞬間であった。その昔、「自分は死ぬ迄に何かしなければならない」と言うCommand(命令/内意的・支配言語)が我が無意識下に埋め込まれていた結果、何時しか私は或運命の道に引き摺られ「ダツサラの走り」的行動を起こしました。つまり「インナートリップの旅」(自分探しの旅)を決意し離職届けを出すに至りました。其の結果…某(有名)哲学者説の記事(昭和61/08/22/金曜/毎日新聞夕刊)に遭遇(12年が経過していた)する事と成り、此れが我が運命の道に足を踏み入れた第一歩となりました。その夕刊記事の冒頭文を読んだ直後…「我がインナートリップの旅は此処で終った」と認識(命令/cognitionの役目の終了)すると共に、直ちに【鳥居/千木】の語元究明に着手する決意を固めました。そして翌年(8月始)、遂に【千木】の語元(語源の意ではありません)解明に成功した瞬間、「我が2歳時の或出来事」当時の情景が、まるで昨日の如く我が脳裏に鮮やかに蘇ったのでした。それは「キ=木」の語元や意味等を父母達に訊き、問い詰めていた「黄色の花の木の下で」(何時もの遊び場)の場景でした。つまり、我が無意識下的脳裏に潜むCommand(命令/日本語の始まりを究明せよ…)が私に追い込み仕掛けていた事に初めて気が付いた瞬間でもありました。従って、此の「千木の語元解明」を根拠とし、此処を以て「日本語の起元」(起源の意ではありません)研究のスタートと位置付けました。

 

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「日本全国の度肝を抜くなら【いまり】(佐賀県伊万里市)で決まり」~!!

( https://www.imari-accelerator.com/ )!!

紀元前31年(ヘロデ王第7年にQumranを襲った大地震年)に、【死海文書】(Dead Sea Scrolls/獣皮紙 巻物)を隠し残し、海路に因る紅海(Ἐρυθρά海)から船出したQumran宗団トップグループ達は、徐福の海路(秦時代は会稽郡⇨前110年から前漢の会稽郡東治(トウヤ)県と呼ぶ。その後は呉国/現在は浙江省寧波市慈渓市)を経て、有明海北西部に上陸し、その地域に対しカシマ(数価189)と命名する。それは、カミの大道(天使エノク数価365+カミとの接近数価236+カシマ数価189=国土開闢文言オノコロ数価790=ノア昇天数価006)を完成させる為だった。そして、徐福伝説「蓬莱」の【蓬】(フツ=ヨモギの語元は四方位の東方の意)に関連付けるを以て、「フツ(蓬)の御魂」を込めた【フツの劔】(フツ主の劔は神武東征の助けと成る)が造られました~

因みに、ヨモギ(蓬)に対し、【フツ】(フツ餅)と呼ぶのは九州地域に限られている。それは、徐福の本隊が九州に上陸した事に関連する。その海路を司る「ワダツミ」(海人/ワダツミは九州32県を統括=AD57年に後漢から金印授与に関連する/居住地は有明海北部)は、與止姫(佐賀県の語元)と共に、当時の表玄関だった日本海に出る必要から北の港に進出し、其の港を【ゐまり】(佐賀県伊万里市の語元数価は~τ190+ε15+ρ153=358であり天使降臨数価と同数=創世記49・9~10~シロ=メシアが来る数価)と命名し、海の民(松の君/頭に三瘤の松の君は背一丈五尺で八十力主)の兵を配置する。それが【松浦党】の前身である。その「松の君」に関連する話が、『伊万里市山代町史』に記されている歴史伝説(牧島地区)、つまり、「神功皇后さんと木(松)起こし神社伝承」です。

常陸国(ヒタチ=ホツマ)地域の平定(崇神天皇時代)に当たっては、佐賀の杵島曲(ブリ)が取り込まれました。因みに、『常陸風土記』の「行方郡・建借間命」(熊本の豪族)条に因ると~「杵島ブリ」(佐賀県杵島郡と健緒組に関連する)を七日七夜歌ひ踊って、遊び楽しんだ。この楽しき歌舞を聞いて、賊どもは、家族も男女も揃って出て来て、浜辺に群れて楽しみ笑った。建借間命は、騎兵に城を封鎖させ、背後から賊を襲って捕らへ、火を放って滅ぼした。痛く討つと言った所が、今の伊多久(板来)の郷であり、フツ蓬/ヨモギの語元)に斬ると言った所が、布都奈(フツナ )の村であり、安く斬ると言った所が安伐(ヤスキリ)の里であり、吉(ヨ)く斬ると言った所が、吉前(エサキ)の邑である~等と記されています~ 

★【ゐまり】(佐賀県伊万里市)の語元数価【358】(τ190ゐ+ε15ま+ρ153り=358/メシア来臨数価)と、Godの御魂数価【300】(ルアク/R.200+V.6+Ch.8+R.200+V.6+Ch.8+A.1+L.30+H.5+I.10+M.40=300)との合計【658】(358+300=658)を伊勢神宮の建立年数価として設定しました。そしてそれは、ユダヤ暦3761年(西暦元年)に対し、【死海文書】1947年にクムラン洞穴から発見された)を隠し残し有明海北西部に辿り着いたQumran宗団が、独自に設定した【創世記3941年】(西暦元年)との差「180年」を差し引いた【西暦478年】(雄略天皇22年/此の事は『太神宮諸雑事記第一』に記載在り)の時として、豊受カミ(ダビデ系/佐賀県の語元と成った與止姫に関連する)の御魂が伊勢の外宮に勧請されました~!!

★【ヤマト言葉】の母音語は、ギリシア語「アエイオウ」を「aア・iイ・yウ・eエ・ωオ」に並べ変えたものである。その幾何学的形状に因る秀真文字(ホツマ文字)の母音文字記号(〇ウツホ=空/冂カゼ=風/△ホ=火/弓ミヅ=水/▢ハニ=地)は、プラトン多面体(/土=地/水/風と空気は円形に近い正十二・二十面体に当てる/水の記号は別)的に対応し、作図されました。又、子音文字記号は、聖書に記す【正四文字】(テトラグラマトン=IHVHYHVH)の頭文字「」を取り込み、駆使して用い、設定しました。そして「」と「」の幾何学的文字を伊勢神宮の神殿様式に組み込むを以て【千木】(角刺形状の千木)と命名しました~

 

★伊勢神宮の側面から見た【角刺千木】の形状は、ギリシア文字【】と【】的記号の組み合わさったような形である。つまりその形状は、幾何学的ホツマ文字【】(数価千の語元)の形状です。そして、【】的形状がホツマ文字の【】の形状です。つまり、その二つの文字を組み合わせた形状だから【チキ】(千木)と命名されました。又、一般的な神社の屋根に設置されている【置・千木】の形状は、ギリシア文字【Χ】(Χi/はホツマ文字チは数価千の語元文字)の形状だから【千木】と言う~

 

 

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#節分の準備・【オニ・鬼】の語元!!

 

👹【オニヤラヰ】(鬼遣/追儺)は、元来「年分け神事」として設定されました。そして国家創建から正月を立春として設定していた事に因り、【👹ヤラヰ】は明治の改暦後も節分行事としてユリウス暦に因る西洋式正月とは切り離されました。従って現在は、節分行事として勘違いされています。

その【👹・オニ】(終え者⇒終え 物 ⇒ 目に見えない物 ⇒ 恐ろしい物 ⇒ 👹)の発祥地は「ゐまリ」(現在の佐賀県伊万里市/良質の黒曜石の産出地~大型甕棺墓文化圏の吉野ケ里遺跡に関連する)であった!!

【死海文書】(1947年発見)のレビ記断片文字の【画像・IAω ⇒ ΙΑΩ】(ヤオ ⇒ 八尾)。その文字を冠してなる~大祭司「IAΩ(ヤオ)のアラヒト」に因るゲマトリア数価を秘めたホツマ文字で、メシア来臨を意味する創世記49・9~10の【IBAΣΛH】(イエバシロー・数価358)数価を用い「ゐまり=伊万里」を造語しました。そしてその当時の国際的表玄関に当たる日本海への出口として、有明海北西部(ワダツミ=海人の支配地)から山を超え、海の民(剛健者達)の【松の君」を配置しました。つまり、その地名が魏志倭人伝に記された「末廬国」(後に言う松浦郡の伊万里湾)です。その後、大祭司 Ι Α Ω(八尾)のアラヒトは河内(大阪府)へ居住地を移し、国家として成立(崇神天皇12年=AD351年)させました。そしてその政権をミマキイリヒコ(後に言う崇神天皇)に譲りました。

その政権譲渡に当たっては、メシア来臨数価(ゐまり=数価358)を駆使し過去へ358年遡り、紀元前7年(AD351年−358=BC7年)の時として反逆者と成った「長髄彦を討伐する物語」を設定し、【死海文書】に記した「最終六年戦争」ハルマゲドン戦いの模倣)を経て、皇暦年の設定に於ける神武(タケヒト)天皇の即位元年(幻の西暦1年目・辛酉)として定義付けられました~

 

 

   

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「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

◆以下↓ ↓ ↓【追記】(2023/01/31=令和4年・火曜)しました~

「松浦・伊万里」の語元に始まる【日本(ヤマト)国家・創建史】!!

 

…因みに【松浦】の初出は『日本書紀』に因ると~「神功皇后九年・夏四月壬寅朔甲辰、北到火前國松浦縣而進食於玉嶋里小河之側。於是、皇后勾針爲鉤、取粒爲餌、抽取裳縷爲緡、登河中石上而投鉤祈之曰「朕、西欲求財國。若有成事者、河魚飲鉤。」因以舉竿、乃獲細鱗魚。時皇后曰「希見物也。希見、此云梅豆邏志。」故時人號其處曰梅豆羅(メヅラ)國、今謂松浦訛焉つまり、当時の人は~「其処を梅豆羅国(メズラ国)」と言い、それが今は訛って松浦と言う」~と記す。

然し、それは間違いです。その神功皇后時代当時の九州北西部地域は、既に魏志倭人伝(280年~297年)に「末廬国」(松浦国)と書かれていて、その【松浦】とは、その地を居住地としていた「海の民=松の君」が語元(黎明的語意を含む語源の意ではありません)であった。

因みに、日本人の聖書】として書かれた『ホツマツタヱ』文書に因ると~「頭のミコブ(3瘤)、松の君、背一丈五尺、八十チカラ(剛腕者)、勇み激しく」(ホツマ34章~と記されています。従って、その【松の君】(チカラ瘤の持ち主・海の民)が松浦党(鬼退治の渡辺綱953~1025年に始まる)の前身と言う事になります。つまり、ユダヤの大祭司系オニアス4世(紀元前145年頃エジプトに亡命)を祖とする世襲制「大祭司ΙΑΩ(ヤオ)アラヒト」が支配する海の民の呼称【松の君】は、伊万里湾を居住地としていました。従って、伊万里市の小島古墳(6世紀後半頃の前方後円墳)は、以前【👹・鬼の岩屋】と呼ばれていました!!。

◆以下【追記】(2023=令和5年1月29日・日曜)~カミ代の物語~景行天皇迄!!

「伊万里」(ゐまり)とは、カミ「ΙΑΩ=ヤオ」(死海文書断片文字)に関連するメシアの別称【イェバシロー】(IBASILHのカバラ数価【358】/創世記49・9~10)の降臨地名だった!!

ユダヤの大祭司オニアス4世(BC145年頃エジプトに亡命)の流れをくむ祭祀職「ΙΑΩのアラヒト」は、その地を【ゐまり】(伊万里氏の語元)命名した後、河内(大阪府)を居住地として小国を纏め、国家としての【ヤマト=日ノ本】を創建(崇神天皇12年=AD351年)するを以て国家の運営は崇神天皇に引き継がれました。因みに【オニ/鬼】の語元は大祭司(オニアス系)の隠居に関連する「終えもの」(目に見えない物)が語元だった。従って、「非時香果」(トキジクノカグノコノミ)を求めて常世国へ渡る田道間守(タジマリ)は伊万里を経由したのである。  

その後年~「源融」(ミナモト・トオル/平安時代の左大臣)の玄孫、源頼光の四天王の一人渡辺綱(大江山の👹鬼退治の主役)。つまり、その綱が大祭司オニアス系(👹の語元)と、尚、その系統の伊万里氏を滅ぼした後に渡辺綱(鬼退治)の子「源太判官久」が、伊万里氏を名乗り松浦党の祖と成った。

画像(ΙΑΩの文字)↓ ↓ ↓は【死海文書】(1947年クムラン洞穴から発見)の断片文字です~

   

…【追記】以上!!

 

 

【松浦党】(源太判官久)以前は、大祭司「IAΩ」(ヤオ/死海文書断片文字=👹鬼系・アラヒト)の配下にあったワダツミ(海神=豊玉姫の父)系の【松の君】(崇神天皇崇58年/ホツマツタヱ34章~勇み激しい八十力軍団)が、伊万里湾を本拠地としていました。その証拠は、【👹鬼の岩屋】(伊万里市山代町史)の存在です。因みに現在は「小島古墳」と呼ばれています~

佐賀県伊万里市の【淀姫神社】(ヨト姫は日本書紀・古事記に登場無し/所在地は伊万里市木須町と大川町大川野)は、『肥前風土記』逸文に因ると~【與止日女】(ユタヒメ=豊姫)とあり、【淀姫】とも記す。

【ツクシ・筑紫】とは、九州一帯言い表す呼称だった。つまり、山幸彦(後のホホデミ尊)の妻で豊玉姫の父であるワダツミ(海神は住吉氏族の祖先)が九州を統一(身を尽くし生む=筑紫)したとする語意が語元(明的な意味を含む語源の意ではありません)でした。その【ワダツミ=海神】が居住地としていたのは有明海北西部(佐賀県)だった。そのワダツミに仕えていたサカシメ(賢女)が【與止姫】(別名ユタ姫・淀姫は~山幸彦が無くした釣り針を探し出した女性)であり、佐賀県の語元と成る!!

因みに、『肥前風土記』の逸文に因ると~欽明25年11月、肥前国の佐嘉郡に與止姫カミ(豊姫=ユタ姫/淀姫とも記す)が鎮座されたと記す。その佐嘉川(サカカワ)は現在の「嘉瀬川」(荒ぶるカミとはカセガワの氾濫を意味する)です。然し、【與止姫】(ヨト姫)の事は、日本最古の歴史書とされる『日本書紀』には記載されてなく、【淀姫伝承】は肥前風土記に起因します~

★立春正月時代に於ける年分けの夜の【鬼遣】(オニヤラヰ=追儺)神事は、八尾市の郷社【タコチ神社】(竹淵神社)に起因します~!! 

…★↓ ↓ ↓『肥前風土記』時代頃(黄緑地域の海岸線?↓ ↓ ↓

地図の画像のようです

 つまり、【ヤマト国家】(崇神天皇12年=幻の西暦51年目)は、その八尾市の郷社【竹淵渕神社】地域を居住地としていた【IAΩ=ヤオのアラヒト・大祭司】の詔(ミコトノリ)を以て成立(日本書紀・崇神天皇12年条に記載在り)しました。従って、それ迄の連合国体制(筑紫・九州国/中国・山陰山陽国/河内・畿内国/ホツマ・ミチノク=陸奥国)との連合体制時代の歴年方式は一掃され、【358年】(創世記49・9~10文言のメシア来臨数価)数価を用い過去年に遡り、「反逆者・長髄彦」を九州の宮崎から東征する神武皇軍が討伐する物語(八尾市史・竹淵神社縁起書を参照)を設定しました。因みに、その戦の作戦本部は竹淵地域(現在の八尾市に位置す)に設置されました。従って、その地域名は八尾(ΙΑΩが八尾の語元となる)と言う。つまり、八尾市の語元は、【死海文書】(1947年=昭和22年発見)のレビ記断片文字でした。

 …

『肥前風土記』(和銅6年=713年に諸国に命じ提出させた文書)の逸文に、「日本国家創建史」(AD1世紀~4世紀頃)に関連する記述があります。それは肥前(佐賀県)の【杵島唱曲】(きしまぶり/おこ歌=笑い歌・歌垣)です。そしてそれが、遠く離れた東北の『常陸風土記』に取り込まれていた。つまり、東北の古老曰く~「崇神天皇(AD340~408年)の御代、タケカシマ(健借間命)は七日七夜【杵島唱曲】で国栖(クズ=国)達を誘き出して平らげたと記す。従って、その地名は【茨で痛い】(茨は刺がある低木の総称)意として「伊移之郷」(イタクノサト)名付けられたと記す。

その意味する処は、それ迄の連合国体制(筑紫九州/山陰山陽中ツ国/畿内中央/関東&ホツマ国&東北陸奥との持続的連合体)を、崇神天皇の12年(
AD351年・『日本書紀』12年条)の詔(ミコトノリ)。即ち~「肇(ハツ)国知らす崇神(ミマキ)の代」と発せられた。つまり、その詔を以て【統一・ヤマト国家】(AD351年)の成立となる。その意味する処は、最後まで抵抗していた東北の国賊(国栖)を崇神天皇の11年(AD350年)夏4月に討ち平らげ、その四道将軍は夷賊を平らげた状況を奏上するを以て、その翌年に統一国家成立とする詔が発せられたと言う事です。

何故、それが崇神天皇12年(幻の西暦351年=AD351年)なのかと言えば、それは創世記49・9~10に記すメシア来臨文言「IBASLH」(イエバシローのカバラ数価【358】を用い過去年へ遡り(
崇神12年=AD351年ー358=紀元前7年)、反逆者と成った長髄彦を、ユダヤの聖書(Bible)に関連付けて討伐(ハルマゲドン=最終6年戦争)する物語を設定する為であった。

つまり、長髄彦討伐開始年から八年目(
幻の西暦1年目・辛酉)を神武天皇の即位元年と定義し、そしてそれは、【統一・ヤマト国家】としての歴年史として再制定するに当たっては【メビウスの帯=輪】(片方ほ180度ひねり他方の端張り合わせた形状的状態の歴年数価方式を用いて再設定されました~

 

 

何故、竹淵(タコチ)神社が👹【鬼遣】(オニヤラヰ)に関連するのかと言えば、当時(AD70年迄)の正式的なユダヤ教の大祭司は【オニアス四世】(エジプトに亡命していた)系だったからでした。然し、エルサレム第二神殿陥落(AD70年)以降、オニアス系大祭司は「終え者」と成りました。つまり、過去の【オニアス=鬼】は目に見えない存在者と定義するを以て、新な年からシャットアウトする意味を以て【鬼遣・神事】(閉め縄/〆縄は鬼カミを縛る器物~ホツマ12章)が設定され、それが【オニヤラヰ】(追儺)の起元でした。

 …

 現在に言う竹淵神社の呼称【タ・コ・チ】のゲマトリア数価【タ400+コ600=チ1000/千】が、神社の屋根に設置されている【置き千木】の語元(黎明的語意の語源ではありません)です。そして、日本で最初の【千木・設置神社】は、反逆者と成った長髄彦との戦場(クサカ/日下の南側)付近に建立され、それはアメノコヤネ(春日氏族の始祖)を祀る【枚岡神社】(大阪府河内/東大阪市)です。 

… 

【ΙΑΩ】(八尾)の大祭司アラヒトが創案した神社の屋根の【置き千木】に関連付け、春日氏族の祖「アメノコヤネ」(天児屋根)の「コヤネ」の語元は~《【Χ】(コ児&数価千)屋根》であった。従って、春日氏族の祖とする人物の御名も【アメのコ(Χ)屋根】(天児屋根命)と言う。尚、八尾(IAΩ)の初出は、日本最古の歴史書とされている『日本書紀』の底本である【ホツマツタヱ】(戦後1966年=昭和41年発見)の第29章(ドラッグ&クリック検索⇒  https://gejirin.com/hotuma29.html )です~

【枚岡神社】(大阪府東大阪市出雲井町)から聖徳太子が探し出した神代文字文書【ミカサフミ】(三笠文の姉妹のホツマツタヱは四国の阿波宮にあった)の漢訳本『先代旧事本紀大成経』(72巻本)をルーツとして、【日本紀】(逸書・ニホンギ)が編纂されました。

 その神社の主祭神「アメの児屋根」の語元(黎明的語意を含む語源の意ではありません)は、天使「アマカツ」(空這う児・カバラ数価85+文字数4=89+聖書地名オン276=【365】)に起因します。此の事は、【光明真言・文字】(24文字)を作成した空海(隠れ神道)は知っていました。従って空海は、元典だった漢訳(約600巻)「大般若心経」を「オン数価・276文字」(276+倭天使アマカツ89=365は天照大神を示唆する数価)を取り入れ簡略するを以て【般若波羅蜜多心経】と題し再設定しました。そして尚、胎蔵界(子宮)と定義し【大日如来】(大日如来=ウヒルキは天照大神の幼名)を配置しました。 

… 

数価【365】(1年循環365日)を用い我が国は【ヒノモト】(日本=ホツマと同義語/世界で最初に日が出る国の意)と命名されました。その数価は原始キリスト教時代のグノーシス派はアブラクサス」と言う。因みにそのゲマトリア数価は「ABRAX(ξ.60)AS」(1+2+100+1+60+1+200=365)とする。

 … 

社の屋根に【置き千木】(数価千が語元)を最初に設置したのは枚岡神社です。その語元(黎明的語意を含む語源の意ではありません)は八尾(IAΩ/死海文書の断片文字が八尾市の語元)の竹淵(タコチ=数価【千】・千木の語元文言)地域を居住地としていた大祭司「アラヒト」(オニアス4世大祭司系の人物/👹の語元と成る)が創案しました。つまり、統一国家としての祭祀職を「アメの児屋根」(倭天使アマカツ空這う児の数価85と同数+ユダヤの天使数価280=【365】)に譲った事に起因します。因みに大祭司「ΙΑΩ(八尾)のアラヒト」は「👹鬼=終え者の意」として大江山(京都府福知山市)に隠居しました~

★《追記》~何故、【日本(ヤマト)国家・創建史】(カミ代の物語~景行天皇迄)文書(ホツマツタヱ&ミカサフミ)は景行天皇迄で終焉させたかと言えば、その後仁徳天皇50年)の文書は武内宿禰に委ねていたからだった。つまり、【ホツマツタヱ】に因ると(景行天皇25年条)~「身を知るワザの幾さわに、歳永らえてヨロ人の、道のシルベ(標)と在る文お、代々に伝ふる武内は、遂に永らふ道となるかな」(ホツマ38章)と記されていているからでした。従って、その続きの最後に当たる仁徳天皇50年条(AD362年)の【逸書・日本紀】(ニホンギの複製文書は明治時代に編輯され『日本書紀』と題し刊行されたに因ると~「汝こそは国(世)の長人、秋津嶋(倭)国に雁(カリ)子産むと汝は聞かずや」等と、仁徳天皇は武内宿禰(誕生から287年後に問うた事が記されています。 対し★武内宿禰と稚足彦(ワカタリヒコ/成務天皇) は、同じ景行5年11月 に誕生)に問うた事が記されています。

要約すれば、景行天皇の即位年(在位通歴731)は過去へ660年(観念的接近法秘儀数価660/サコクシロ・X600+ξ60=660はGod【γ・ヨロヅ萬数価単位】)遡り、エルサレム第2神殿陥落年(AD71年)に観念的に結び付けて設定していました。その証拠と成るのが『太神宮諸雑事記第一』文書の景行天皇条です。つまり景行天皇28年は~「後漢の明帝劉荘の永平14年=章和12年はAD99年-景行28=AD71年」の時(詳細な計算は筆者=小島に因る)としているからであります。従って、【日本(ヤマト)国家・創建史】(景行天皇迄で終焉)迄は、【メビウスの帯】 (輪/螺旋・先述の画像参照の事的構想で設定され、その後の歴年史(第13代・成務天皇天皇以降)は武内宿禰系(成務天皇と誕生年は同じ)に託されたのでした~

 

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長い黒髪の少女(昭和52=1977年/19歳・愛称カンチャン)への思い出によせて

テーマ【日本建国・創建史】(AD1世紀~4世紀頃)~私が日本の言葉の始まりが知りたい」(テーマ【ハマボウの花の下でより】に記載と思ったのは、我が家族一家で夜逃げした年の最初の夏(3歳/『ハマボウの花の下で』より)の事で、その或る日の出来事に起因する。従って、その後年に至り我が日本の国語【ヤマト言葉】(助詞テ・ニ・オ・ハ/8+10+500+3=521~+ヰ・息300=821)のルーツ(黙示/ダニエル書5・24~25)と起元(黎明的語意を含む起源の意ではありません)を解明する事に成功(定年後)しました。

紆余曲折を経て解明に到った経緯に付いては、後日(追記)と致します~

 

【追記】(令和5年=2023年1月12日~13日・金曜)~彼女との最初の出会いは、我がインナートリップ(自分探しの旅)4年目(昭和52年=1977年)の夏の事。それは挫折的事案に直面した時でした。因みに、彼女の長い黒髪は生まれた時から一度も切ってないと言う。然しその翌年、自慢であったその長い黒髪はスッパリ切り落とし、ショートカットのヘアスタイルにイメージチェンジ(成人式)されました。そして4年後に彼女は結婚。2回目の出会いはその年の12月末頃だった。此れを契機に仕事の委託先を変えた事が功を奏し、今迄謎とされてきた【日本語・ヤマト言葉】の始り、強いては【日本国家】の始まりを解明する事だと私は考えました。

何故かと言えば、家族一家で夜逃げ(2歳/昭和25年1月15日夜~その逃夜逃げの史実を知ったのは35年後38歳の8月12日/1985年=昭和60年8月12日は日航機墜落事故の日)。その最初の夏に叔父の家の直ぐ側の海岸際の木に咲いた美しい【黄色の花】(誰も花の正式呼称を知らなかった)に感動し、その花の呼称を知りたいと思った事に起因し【言葉の始りが知りたい】と強く思った事に在りました。その事に付いては~

我が国の呼称【日本=日ノ本】(ホツマ)の語元ルーツは、エーゲ海の東(フェニキア語Asuは東の意)に位置す Pergamon(ペルガモン/高級獣皮紙の生産国)国王アッタロスが、共和政ローマに紀元前133年に遺贈(属州)した事により、ローマ側から見て東(東=Asuに地名接尾辞ラテン語iaを付しアジアと呼ぶ)を意味する行政上のアジアの地名が登場した事に起因する。

因みに、ペルガモン国の遺贈に反対した国王の異母弟アリストニコスは、【太陽の国・思想】(奴隷解放主義)を掲げてローマに反抗するが鎮圧された。その反乱者の一部の人(海人=住吉氏族の祖ワダツミ)は、脱ユダヤ教に因る【クムラン秘儀教義宗団】(エゼキエルの預言による極東崇拝主義)が極東に於ける理想郷の地を求め探索隊に協力した事に因り、【日本国】と称する国が創建されました~

因みに私の「自分探しの旅」(インナートリップ)とは、7歳時(小学1年の秋頃)に受けた【カミの啓示】(自分にしか出来ない事がある)に起因する。つまり、自分は何をしなければならないのかを探す旅だった。そしてその答えを見付けたのは、旅立ちから13年後(39歳)の毎日新聞夕刊(昭和61年=1986年8月22日・金曜/発行)コラム欄の梅原猛氏(哲学者)の記事「柱と鳥に付いて」を読み終えた時だった。従って私は、即、インナートリップに終止符を打ち、直ちに神社の【鳥居】、強いては神社の屋根に設置された【千木】語元を究明する事を決意する。つまり、その語元が解れば自ずと「日本語の始り」に基づき「日本建国思想ルーツ」も解明出来るからである。その甲斐あって、私はその全ての解明に成功しました。

鳥居の形状はホツマ文字【ゐ】(円…的形状)の形状を用いて作成されていた。従って、変形的【山王鳥居】(祭神は大山咋・オオヤマクヰ命を祀る)の形状(左画像…円・三角形△・Ⅰ~の組み合わせ形状)は、その祭神「オオヤマクヰ」の呼称文字【クヰ】の形状を用い、作成されています。

 

 

我が国固有の神道(唯心・随神=カンナガラ)は、宗教ではありません。それは【カミ(God)の大道】(年中行事に関連するを意味する呼称であった。

 

 

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★【ゐまり】(伊万里)の語元はヤマト式カバラ数価【358】(T190+E15+P153=358)が語元だった!!

【ゐまり】(佐賀県伊万里市)の【語元】(黎明的語意を有す語源の意ではありません)に始まる~【日本建国・創建史】(ヤマト=日ノ本建国創建史・発信会)~

【ゐまり】の語元は、ヘブル語聖書(Torah・トーラー/モーセ五書)、つまり、創世記49・9~10「イエバ・シロー」(遂にはシロ=メシアが来て、国々の民は彼に従う~と記す、そのメシアのユダヤ式カバラ【358】(MSICh=メシア・カバラ数価358)が語元であった。そしてその【日本建国・創建史】の始まりは、吉野ヶ里遺跡から出土している大型甕棺墓(伊万里からも発見されている)文化圏、即ち「九州北部地域」に始まった。

紀元前31年にユダヤ地域を襲った大地震に対し「God=カミの顕現」(エピファニー/エゼキエルの預言)と定義し、【死海文書】(Dead Sea Scrolls/獣皮紙巻物)をクムラン洞穴に隠し残し、極島列島に移動して来た【クムラン・秘儀宗団】トップグループの人達は、エリュトゥラー海(ギリシア語で紅海の意)からイリオモテ島(沖縄)を経由し、有明海北西部(徐福の上陸地=現在の佐賀県杵島付近)に上陸する。その航海に於ける海の民(ペルガマ/獣皮紙貿易の関連者)も近隣の海を居住区域として住み着いた。その海の民、即ち「島津大人」(着き住み=住吉祖先・シマヅウシ)が後に言う「住吉」(住よろし)の祖先であった。その系図は~

海の民と皇室との繋がり】は~「①島津大人(海の民)・➁オキツ彦・③住吉の孫ホタカミ・④孫のシガ彦・⑤安曇・⑥沖津鳥の鵜・⑦カナサキ&住吉の翁・⑧皇室の和歌姫(天照大神の姉ヒルコ姫)・⑨ハデ祇・⑩賀茂タケツミ&八咫鴉・⑪皇室の山幸ホホデミノミコトの后で豊玉姫・⑫鸕鷀草葺不合尊の后で叔母玉依姫&ムツ船魂⑬タケヒト・神武天皇后で五十鈴姫)」と続いている。 

因みに、佐賀県の語元とされる「サカシメ・賢女」とは、有明海北西部一帯を居住地として、「筑紫=九州」(身を尽くし32県を生むを語元とする当時の九州の呼称)を統一していたハデツミ(海人=ワタツミ)に仕えていたヨト姫(佐賀の語元と成る賢女の御名/山幸彦の釣針を探した女性)の事である。では何故、ヨト姫が「賢女」と呼ばれたのかと言えば、山幸彦(ホホデミ尊)が失った釣り針を鯛の口から探し出した「アカメ」(アカ女)は【3ツ山・鱗】(ダビデの六芒星記号)の語意を知っていた事(賢女)を褒められ「ヨト姫」(ダビデ数価14=トヨの反対語ヨト)と名を賜ったからである。そのハデ祇(海人=ワタツミ)とは、神武天皇の父方の祖母(母方の伯母)に当たる【豊玉姫】の父であった。

九州統一(身を尽くし生む=筑紫国の統一)に当たっては、【黒曜石】(伊万里の腰岳から産出する良質の黒曜石は矢の根石/武器の原料となる)が重宝された。従って、その良質黒曜石の産出地だった処は【ゐまり】(メシア降臨地/数価358を用い日本建国史が設定された)と称されたのである~

…因みに、有明海北西部を居住地としていた鹿島氏族達(肥前風土記/藤津地域当たりを居住地としていた氏族)は、世界最初の日の出の地域(紀元前133年・共和政ローマ側から見て極東列島)に当たる東北南部に移動し、【ホツマ=秀真国】(昔、伊弉諾尊目曰、此国曰、日本者浦安国、細戈千足国、磯輪上秀真国」(神武31年条)を創建しました。

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★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元数価)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL/ハ・イエカル数価65~家の語元文言)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

 

【故・藤田友治先生】(古田史学)との繋がりに付いて~

その始まり(2000年=平成12年のシドニーオリンピックの年)は、その年に古代史同好会(古代史に親しむサークル【桃風童子】)へ入会し、知り合った笹村氏(匿名)を通じ、【古田史学】の藤田友治先生(AD1993年/『天皇陵を発掘せよ』の著者)が開催されていた古代史研究会に誘われた事(AD2005=平成17年7月)に始まります。それは私がホツマの研究者として藤田先生の研究会で発表する予定だったが、藤田先生はその前に持病の手術をされました。然し、手術の失敗(同年8月27日)で帰らぬ人となられました。その後に藤田友治先生は『天皇陵を発掘せよ』の著者だった事(私は本の著者に神天皇陵の発掘調査をしてほしかった)を12年の歳月を経て初めて私は知りました。又、その先生は【カミヨ・文字】文書に付いても哲学的に研究されていた事を知ったのは先生の死後1年後(2006年12月17日)に「藤田知二・追悼集」が刊行され頃の事でした~。

その後年、東日本大震災(2011年=平成23年3月11日・金曜)を契機(ホツマ=東日本/その復興的エール)としてインターネット接続を申し込み、我が日本の国の創建は、先ず東北南部(ホツマ地域)が、当時(紀元前1世紀終わり頃)としては世界最初の日の出の地域、つまり【床立の国】(日立の意/常陸の当て字は間違いである)だったとして、復興のエールとしてのブログを発信しようと考えました。

その手始めとして、日本書紀に記載が無くホツマツタヱに記載されている天照大神の幼名「ウヒルキ」の【ヱナ】(胞衣=恵那/ゲマトリア55+10=アドナイ数価65)が納められた事に起因する【恵那神社】と、【大御食(おおみけ)神社】(所在地・長野県駒ヶ根市赤穂11475)の由緒書(縁起書)を貰いに知人の笹村氏と車で行きました。その事に付いてはURL(2013年03月12日・火曜/ http//…のブログ )⇒   https://ameblo.jp/erusaremu464/entry-11489058880.html のブログに書いています。

 

【大御食神社】(長野県駒ヶ根市赤穂11475)に行く途中、昼神温泉(長野県下伊那郡阿智村智里昼神)で一泊する折、昼神の語元は阿智彦(思兼命)の妻で天照大神の姉「ヒルコ姫」。つまり、後に言う和歌姫(和歌の発案者)である。と言う事を確めようとホテルの支配人に訊くと阿智村役場の協働活動推進課長「林 茂伸」氏がホテルに来られ資料用いて色々と説明してくれました。然し残念な事に、その課長の話はは全て『日本書紀』(古事記は歴史書ではないので此処では言及しません)に書かれた事に関連する話だった。つまり、本当は此の阿智村付近で【カミヨ文字・文書】に付いて活動されている人たちの話が聞きたかったので残念な思いをしました。

私が【日本語の始り】を究明しようと思ったのは、私(2歳6ヶ月)の家族(4人兄弟)が正月明け早々、伊万里湾岸壁側の炭鉱社宅から夜逃げして叔父の家(佐賀県伊万里市立岩字浦ノ崎・塩浜海岸)に住み始めた、その最初の夏に、叔父の家の直ぐ側の海岸際に咲いた花(家族の誰もが【黄色い花】の呼称を知らなかった)を初めて見て、その美しさに感動した事に始まりました~

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