【日本(ヤマト)国家・創建史】(カミ代の物語~景行天皇迄) | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

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★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

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◆以下↓ ↓ ↓【追記】(2023/01/31=令和4年・火曜)しました~

「松浦・伊万里」の語元に始まる【日本(ヤマト)国家・創建史】!!

 

…因みに【松浦】の初出は『日本書紀』に因ると~「神功皇后九年・夏四月壬寅朔甲辰、北到火前國松浦縣而進食於玉嶋里小河之側。於是、皇后勾針爲鉤、取粒爲餌、抽取裳縷爲緡、登河中石上而投鉤祈之曰「朕、西欲求財國。若有成事者、河魚飲鉤。」因以舉竿、乃獲細鱗魚。時皇后曰「希見物也。希見、此云梅豆邏志。」故時人號其處曰梅豆羅(メヅラ)國、今謂松浦訛焉つまり、当時の人は~「其処を梅豆羅国(メズラ国)」と言い、それが今は訛って松浦と言う」~と記す。

然し、それは間違いです。その神功皇后時代当時の九州北西部地域は、既に魏志倭人伝(280年~297年)に「末廬国」(松浦国)と書かれていて、その【松浦】とは、その地を居住地としていた「海の民=松の君」が語元(黎明的語意を含む語源の意ではありません)であった。

因みに、日本人の聖書】として書かれた『ホツマツタヱ』文書に因ると~「頭のミコブ(3瘤)、松の君、背一丈五尺、八十チカラ(剛腕者)、勇み激しく」(ホツマ34章~と記されています。従って、その【松の君】(チカラ瘤の持ち主・海の民)が松浦党(鬼退治の渡辺綱953~1025年に始まる)の前身と言う事になります。つまり、ユダヤの大祭司系オニアス4世(紀元前145年頃エジプトに亡命)を祖とする世襲制「大祭司ΙΑΩ(ヤオ)アラヒト」が支配する海の民の呼称【松の君】は、伊万里湾を居住地としていました。従って、伊万里市の小島古墳(6世紀後半頃の前方後円墳)は、以前【👹・鬼の岩屋】と呼ばれていました!!。

◆以下【追記】(2023=令和5年1月29日・日曜)~カミ代の物語~景行天皇迄!!

「伊万里」(ゐまり)とは、カミ「ΙΑΩ=ヤオ」(死海文書断片文字)に関連するメシアの別称【イェバシロー】(IBASILHのカバラ数価【358】/創世記49・9~10)の降臨地名だった!!

ユダヤの大祭司オニアス4世(BC145年頃エジプトに亡命)の流れをくむ祭祀職「ΙΑΩのアラヒト」は、その地を【ゐまり】(伊万里氏の語元)命名した後、河内(大阪府)を居住地として小国を纏め、国家としての【ヤマト=日ノ本】を創建(崇神天皇12年=AD351年)するを以て国家の運営は崇神天皇に引き継がれました。因みに【オニ/鬼】の語元は大祭司(オニアス系)の隠居に関連する「終えもの」(目に見えない物)が語元だった。従って、「非時香果」(トキジクノカグノコノミ)を求めて常世国へ渡る田道間守(タジマリ)は伊万里を経由したのである。  

その後年~「源融」(ミナモト・トオル/平安時代の左大臣)の玄孫、源頼光の四天王の一人渡辺綱(大江山の👹鬼退治の主役)。つまり、その綱が大祭司オニアス系(👹の語元)と、尚、その系統の伊万里氏を滅ぼした後に渡辺綱(鬼退治)の子「源太判官久」が、伊万里氏を名乗り松浦党の祖と成った。

画像(ΙΑΩの文字)↓ ↓ ↓は【死海文書】(1947年クムラン洞穴から発見)の断片文字です~

   

…【追記】以上!!

 

 

【松浦党】(源太判官久)以前は、大祭司「IAΩ」(ヤオ/死海文書断片文字=👹鬼系・アラヒト)の配下にあったワダツミ(海神=豊玉姫の父)系の【松の君】(崇神天皇崇58年/ホツマツタヱ34章~勇み激しい八十力軍団)が、伊万里湾を本拠地としていました。その証拠は、【👹鬼の岩屋】(伊万里市山代町史)の存在です。因みに現在は「小島古墳」と呼ばれています~

佐賀県伊万里市の【淀姫神社】(ヨト姫は日本書紀・古事記に登場無し/所在地は伊万里市木須町と大川町大川野)は、『肥前風土記』逸文に因ると~【與止日女】(ユタヒメ=豊姫)とあり、【淀姫】とも記す。

【ツクシ・筑紫】とは、九州一帯言い表す呼称だった。つまり、山幸彦(後のホホデミ尊)の妻で豊玉姫の父であるワダツミ(海神は住吉氏族の祖先)が九州を統一(身を尽くし生む=筑紫)したとする語意が語元(明的な意味を含む語源の意ではありません)でした。その【ワダツミ=海神】が居住地としていたのは有明海北西部(佐賀県)だった。そのワダツミに仕えていたサカシメ(賢女)が【與止姫】(別名ユタ姫・淀姫は~山幸彦が無くした釣り針を探し出した女性)であり、佐賀県の語元と成る!!

因みに、『肥前風土記』の逸文に因ると~欽明25年11月、肥前国の佐嘉郡に與止姫カミ(豊姫=ユタ姫/淀姫とも記す)が鎮座されたと記す。その佐嘉川(サカカワ)は現在の「嘉瀬川」(荒ぶるカミとはカセガワの氾濫を意味する)です。然し、【與止姫】(ヨト姫)の事は、日本最古の歴史書とされる『日本書紀』には記載されてなく、【淀姫伝承】は肥前風土記に起因します~

★立春正月時代に於ける年分けの夜の【鬼遣】(オニヤラヰ=追儺)神事は、八尾市の郷社【タコチ神社】(竹淵神社)に起因します~!! 

…★↓ ↓ ↓『肥前風土記』時代頃(黄緑地域の海岸線?↓ ↓ ↓

地図の画像のようです

 つまり、【ヤマト国家】(崇神天皇12年=幻の西暦51年目)は、その八尾市の郷社【竹淵渕神社】地域を居住地としていた【IAΩ=ヤオのアラヒト・大祭司】の詔(ミコトノリ)を以て成立(日本書紀・崇神天皇12年条に記載在り)しました。従って、それ迄の連合国体制(筑紫・九州国/中国・山陰山陽国/河内・畿内国/ホツマ・ミチノク=陸奥国)との連合体制時代の歴年方式は一掃され、【358年】(創世記49・9~10文言のメシア来臨数価)数価を用い過去年に遡り、「反逆者・長髄彦」を九州の宮崎から東征する神武皇軍が討伐する物語(八尾市史・竹淵神社縁起書を参照)を設定しました。因みに、その戦の作戦本部は竹淵地域(現在の八尾市に位置す)に設置されました。従って、その地域名は八尾(ΙΑΩが八尾の語元となる)と言う。つまり、八尾市の語元は、【死海文書】(1947年=昭和22年発見)のレビ記断片文字でした。

 …

『肥前風土記』(和銅6年=713年に諸国に命じ提出させた文書)の逸文に、「日本国家創建史」(AD1世紀~4世紀頃)に関連する記述があります。それは肥前(佐賀県)の【杵島唱曲】(きしまぶり/おこ歌=笑い歌・歌垣)です。そしてそれが、遠く離れた東北の『常陸風土記』に取り込まれていた。つまり、東北の古老曰く~「崇神天皇(AD340~408年)の御代、タケカシマ(健借間命)は七日七夜【杵島唱曲】で国栖(クズ=国)達を誘き出して平らげたと記す。従って、その地名は【茨で痛い】(茨は刺がある低木の総称)意として「伊移之郷」(イタクノサト)名付けられたと記す。

その意味する処は、それ迄の連合国体制(筑紫九州/山陰山陽中ツ国/畿内中央/関東&ホツマ国&東北陸奥との持続的連合体)を、崇神天皇の12年(
AD351年・『日本書紀』12年条)の詔(ミコトノリ)。即ち~「肇(ハツ)国知らす崇神(ミマキ)の代」と発せられた。つまり、その詔を以て【統一・ヤマト国家】(AD351年)の成立となる。その意味する処は、最後まで抵抗していた東北の国賊(国栖)を崇神天皇の11年(AD350年)夏4月に討ち平らげ、その四道将軍は夷賊を平らげた状況を奏上するを以て、その翌年に統一国家成立とする詔が発せられたと言う事です。

何故、それが崇神天皇12年(幻の西暦351年=AD351年)なのかと言えば、それは創世記49・9~10に記すメシア来臨文言「IBASLH」(イエバシローのカバラ数価【358】を用い過去年へ遡り(
崇神12年=AD351年ー358=紀元前7年)、反逆者と成った長髄彦を、ユダヤの聖書(Bible)に関連付けて討伐(ハルマゲドン=最終6年戦争)する物語を設定する為であった。

つまり、長髄彦討伐開始年から八年目(
幻の西暦1年目・辛酉)を神武天皇の即位元年と定義し、そしてそれは、【統一・ヤマト国家】としての歴年史として再制定するに当たっては【メビウスの帯=輪】(片方ほ180度ひねり他方の端張り合わせた形状的状態の歴年数価方式を用いて再設定されました~

 

 

何故、竹淵(タコチ)神社が👹【鬼遣】(オニヤラヰ)に関連するのかと言えば、当時(AD70年迄)の正式的なユダヤ教の大祭司は【オニアス四世】(エジプトに亡命していた)系だったからでした。然し、エルサレム第二神殿陥落(AD70年)以降、オニアス系大祭司は「終え者」と成りました。つまり、過去の【オニアス=鬼】は目に見えない存在者と定義するを以て、新な年からシャットアウトする意味を以て【鬼遣・神事】(閉め縄/〆縄は鬼カミを縛る器物~ホツマ12章)が設定され、それが【オニヤラヰ】(追儺)の起元でした。

 …

 現在に言う竹淵神社の呼称【タ・コ・チ】のゲマトリア数価【タ400+コ600=チ1000/千】が、神社の屋根に設置されている【置き千木】の語元(黎明的語意の語源ではありません)です。そして、日本で最初の【千木・設置神社】は、反逆者と成った長髄彦との戦場(クサカ/日下の南側)付近に建立され、それはアメノコヤネ(春日氏族の始祖)を祀る【枚岡神社】(大阪府河内/東大阪市)です。 

… 

【ΙΑΩ】(八尾)の大祭司アラヒトが創案した神社の屋根の【置き千木】に関連付け、春日氏族の祖「アメノコヤネ」(天児屋根)の「コヤネ」の語元は~《【Χ】(コ児&数価千)屋根》であった。従って、春日氏族の祖とする人物の御名も【アメのコ(Χ)屋根】(天児屋根命)と言う。尚、八尾(IAΩ)の初出は、日本最古の歴史書とされている『日本書紀』の底本である【ホツマツタヱ】(戦後1966年=昭和41年発見)の第29章(ドラッグ&クリック検索⇒  https://gejirin.com/hotuma29.html )です~

【枚岡神社】(大阪府東大阪市出雲井町)から聖徳太子が探し出した神代文字文書【ミカサフミ】(三笠文の姉妹のホツマツタヱは四国の阿波宮にあった)の漢訳本『先代旧事本紀大成経』(72巻本)をルーツとして、【日本紀】(逸書・ニホンギ)が編纂されました。

 その神社の主祭神「アメの児屋根」の語元(黎明的語意を含む語源の意ではありません)は、天使「アマカツ」(空這う児・カバラ数価85+文字数4=89+聖書地名オン276=【365】)に起因します。此の事は、【光明真言・文字】(24文字)を作成した空海(隠れ神道)は知っていました。従って空海は、元典だった漢訳(約600巻)「大般若心経」を「オン数価・276文字」(276+倭天使アマカツ89=365は天照大神を示唆する数価)を取り入れ簡略するを以て【般若波羅蜜多心経】と題し再設定しました。そして尚、胎蔵界(子宮)と定義し【大日如来】(大日如来=ウヒルキは天照大神の幼名)を配置しました。 

… 

数価【365】(1年循環365日)を用い我が国は【ヒノモト】(日本=ホツマと同義語/世界で最初に日が出る国の意)と命名されました。その数価は原始キリスト教時代のグノーシス派はアブラクサス」と言う。因みにそのゲマトリア数価は「ABRAX(ξ.60)AS」(1+2+100+1+60+1+200=365)とする。

 … 

社の屋根に【置き千木】(数価千が語元)を最初に設置したのは枚岡神社です。その語元(黎明的語意を含む語源の意ではありません)は八尾(IAΩ/死海文書の断片文字が八尾市の語元)の竹淵(タコチ=数価【千】・千木の語元文言)地域を居住地としていた大祭司「アラヒト」(オニアス4世大祭司系の人物/👹の語元と成る)が創案しました。つまり、統一国家としての祭祀職を「アメの児屋根」(倭天使アマカツ空這う児の数価85と同数+ユダヤの天使数価280=【365】)に譲った事に起因します。因みに大祭司「ΙΑΩ(八尾)のアラヒト」は「👹鬼=終え者の意」として大江山(京都府福知山市)に隠居しました~

★《追記》~何故、【日本(ヤマト)国家・創建史】(カミ代の物語~景行天皇迄)文書(ホツマツタヱ&ミカサフミ)は景行天皇迄で終焉させたかと言えば、その後仁徳天皇50年)の文書は武内宿禰に委ねていたからだった。つまり、【ホツマツタヱ】に因ると(景行天皇25年条)~「身を知るワザの幾さわに、歳永らえてヨロ人の、道のシルベ(標)と在る文お、代々に伝ふる武内は、遂に永らふ道となるかな」(ホツマ38章)と記されていているからでした。従って、その続きの最後に当たる仁徳天皇50年条(AD362年)の【逸書・日本紀】(ニホンギの複製文書は明治時代に編輯され『日本書紀』と題し刊行されたに因ると~「汝こそは国(世)の長人、秋津嶋(倭)国に雁(カリ)子産むと汝は聞かずや」等と、仁徳天皇は武内宿禰(誕生から287年後に問うた事が記されています。 対し★武内宿禰と稚足彦(ワカタリヒコ/成務天皇) は、同じ景行5年11月 に誕生)に問うた事が記されています。

要約すれば、景行天皇の即位年(在位通歴731)は過去へ660年(観念的接近法秘儀数価660/サコクシロ・X600+ξ60=660はGod【γ・ヨロヅ萬数価単位】)遡り、エルサレム第2神殿陥落年(AD71年)に観念的に結び付けて設定していました。その証拠と成るのが『太神宮諸雑事記第一』文書の景行天皇条です。つまり景行天皇28年は~「後漢の明帝劉荘の永平14年=章和12年はAD99年-景行28=AD71年」の時(詳細な計算は筆者=小島に因る)としているからであります。従って、【日本(ヤマト)国家・創建史】(景行天皇迄で終焉)迄は、【メビウスの帯】 (輪/螺旋・先述の画像参照の事的構想で設定され、その後の歴年史(第13代・成務天皇天皇以降)は武内宿禰系(成務天皇と誕生年は同じ)に託されたのでした~

 

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