「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!! -2ページ目

「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

★日本全国の度肝を抜くなら「いまりで、決まり!」~ 

我が国ヤマト(日ノ本)民族としての歴史発祥始点地は、伊万里の腰岳から産出された良質黒曜石に起因します。それは、先ず筑紫(語元は身を尽くし生む国の意=当時は九州全体を指す呼称だった)の国造りに始りました。その国造りの王とは、有明海北西部(徐福上陸地域)を居住地としていた海人(アマ=ハデツミ王は魏志倭人伝に記す末廬国の祖/松浦の語元であり後の住吉氏族の祖)の娘である豊玉姫を娶った山幸彦(後に言う彦ホホデミノ尊)です。その子孫タケヒトが後に言う神武天皇です~

因みに「ゐまり」(伊万里)の語元は、創世記49・9~10に記す「遂にはシロ(メシア)が来て国々の民は彼に従う」(そのフレーズ文言IBAΣΛH=イエバ.シロー)の秘儀数価「358」が、神武天皇即位元年設定方式(金印【漢委奴国王】授与年に関連す)となっています~

◆地名【ゐまり】伊万里市の語元)の地名発祥(物事の起こり始め)は、ユダヤ捕囚時代初頭頃(紀元前586年)に祭祀者だったエゼキエルは預言者と成り、極東方面に対する崇拝思想文言~「イスラエルのカミの栄光は東の方から来た」(エキエル書43・1~2)に起因する。そして、極東への移動に対しては、エゼキエルが課した罪咎(バビロン捕囚の原因)に対する【悔い改め期間430年】(エゼキエル書4・4~5)を全うした後(紀元前156年頃)、死海西岸に位置すクムラン地域に隠れ住みながら結成した秘儀教義宗団トップグループの人達は、理想郷の地(極東方面)に新たな国を創建する研究を行っていた。

そして,ヘロデ王第7年(紀元前31年)にユダヤ国を襲った巨大地震(1947年発見【死海文書】の研究者に因ると~クムランの秘儀教義宗団の集会所も紀元前31の大地震で破壊されたと言う)に対し、それはエゼキエルが予言していたカミの顕現エピファニー/エゼキエル書38・18~20…★その日には必ずイスラエルの地に大きな地震が起こる)と捉え、それを契機として極東を目指しクムラン地域を脱出し、アクスム王国イエメンのサバの女王系サマリア人【海の民】の船で紅海から東に向かう。又、サドク系の祭祀者等一行はダマスコからチベット経由~前漢国を経由(魏略に記載在り)し、呉の会稽で【海の民】の船に合流するを以て紀元前1年頃に、その昔に徐福が辿り着いた地(有明海北西部)に到着する。

つまり、【ゐまり】(世界史的日本の表玄関港/良質黒曜石の産出地/伊万里市の語元)とは、創世記の預言文言、つまり創世記49・9~10「ユダヤの指導者シロー(セム系の大祭司メシア)が来るであろう」と言うフレーズ文言の秘儀数価【358】(IBA.ShILH/イエバ.シローのカバラ数価~10+2+1+300+10+30+5=358)を用い、我が国の国語【ヤマト言葉】による我が国最初の地名単語として造語されました。

因みに、ヤマト言葉の基本48文字に秘められたゲマトリア数価(予め各々の単語文字に与えられた数価の合計で意味を解す方式)設定方式は、ギリシア語の母音「a.ア・e.エ・i.イ・0.オ・y.ウ」を「ア.イ.ウ.エ.オ」に並べ替えた。そして、その子音文字配置「ア.カ.ハナ.マ」等に並べて24文字ずつに区切り(24字+24字=484文字)、イオニア式ギリシア文字配列に組み込みました(画像在り)。

因みに、その幾何学的文字【チ】と【キ】の合字(モノグラム)形が、神明様式「伊勢神宮」の【角刺・千木】の形状であり、【チキ=千木】の語元です~!!

◆母音と子音記号に分けて組み合わせた文字方式は「古典エチオピア文字」が初出です。後年(紀元前3世紀頃)、その形式を用いて作成されたのが印度のカロッシュティー文字、及び、ブラーフミ文字(22文字/カルデア語・アラム文字をルーツとする)です。然し、その本家本元のサマリア系【海の民】(海人=アマは住吉氏族の祖)の人達は、新たなヤマト(ヤマトの語元はクムラン祭祀方式1巡年数価294を語元とする)の国の文字として【物部文字】(後に対馬文字が朝鮮のハングル文字として取り込まれた)や【ホツマ文字】(画像の文字)を作成しました!!

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★(大同2年=807年初版)『古語拾遺』(齋部廣成・著)には【神代文字】文書にしか記載が無い部分(ホツマ7章)、つまり、天照大御神が磐戸(岩戸)から出現した時の様子を漢字で記述しています。仮名に直せば~「アハレ、アナオモシロ、アナタノシ、アナサヤケ、オケ、サヤケ~」(後文略す)。

★因みに、齋部廣成が言ったとする文言(前文略す)~「上古の世、未だ文字有らざるとき、貴賤老少、口々に相伝へ、前言往行、存して忘れず」(後文略す)と言う意は、ヤマト国家の創建に着手した当時(AD1世初頭)には未だ漢字が無かったと言う事です。

 

★因みに、ヤマトの国の創建者達は極東への移動(紀元前1年/王莽が政権を簒奪した頃)以前、既に作成済の象形文字(母音と子音文字との合字・サバの女王系エチオピア文字をルーツとする物部文字&ホツマ文字)を持っていました。つまり、齋部廣成は神代文字文書にしか記載が無い文面を漢字で~「阿波礼・阿那於茂志呂・阿那多能志・阿那佐夜憩・飫憩」(アハレ ・アナオモシロ ・アナタノシ ・アナサヤケ ・オケ/後文略す)と記していたのです。従って、その後年に於いて、その語意を肯定する文書を忌部政通(インベマサミチは齋部廣成の子孫)は【神代巻口訣】文書を用い~「神代文字は象形也」と言い、推古天皇の御代に至り聖徳太子が古来からの象形文字(ホツマ文字)に漢字を当てた(『先代旧事本紀大成経72巻本の完成/その後、その文書の中の旧事等を抜き出すを以て『日本書紀』の底本と成る)等と記している。

★早い話が、齋部廣成時代(古語拾遺初版・大同2年=807年)以前(765~767年/孝謙&称徳女帝時代)に、弓削の道鏡が神代文字を焚書にしていた。当時、その事に異を唱えた三輪氏の赤坂比古は自害し、子の代々彦は「和仁估」と改称するを以て淡州菅浦(滋賀県)に蟄居し『ホツマツタヱ』文書を隠し置く。それが現在のホツマ文書のルーツです。因みに、齋部廣成はそれから約40後の人でした。

★因みに「天照オン神」のルーツは、聖書地名で古代エジブトの【太陽の町ヘーリオポリスに祀られた【ON=オン】(オンとはGodエロヒムの御魂の別称/ギリシア神話ではヘリオス=太陽光線の意)でした。又、その数価(ONの御魂数価300+倭語カミ数価58=358)は、創世記の最初の預言文言のカルデア語(アラム語)「イエバシロー」(日本語訳~シロが来るであろう/創世記49・9~10)。更に要約すれば「メシアが来るであろう」と言うフレーズ文字(IBASILH/イエバシロー)数価【358】と文言と同義語となる。

★つまり、【ホツマツタヱ】文書の本質は、エルサレム第二神殿陥落(AD70年/以後、ユダヤの人々は亡国の民となる)の翌年を間接的、聖書的に日本の歴年史に接続(ホツマ最後の景行天皇の即位年は意図的にAD71年に成るように設定)させる為に編輯された文書と言う事になります~

★要約すればホツマ文書のミマキイリヒコ(崇神)12年=AD351年(八尾のアラヒトの詔=ハツクニ知らすミマキの代)の年から、メシア来臨数価358年過去へ遡った紀元前7年に行き、その年を反逆者の長髄彦討伐開始年(甲寅・天鈴暦51年)としてハルマゲドン的最終6年戦争(死海文書の【戦いの書】に記す)物語を挿入する。つまり、6年戦争を勝利した神武(タケヒト)の即位元年はクムラン大地震年ヘロデ王の第7年)から数えGodエロヒム数価「31年目」(AL=31)の年(幻の西暦1年目・辛酉年/天鈴暦58年)と定義するするを以て【ホツマツタヱ】(景行天皇迄の日本最古の歴年史)と題し、それ迄の歴年史は書き換えられ(卑弥呼の宗女「壹与・13歳」は第6代考安天皇の后オシ姫に当たる)、再設定されました~

「景行天皇(ヲシロワケ)の即位元年設定方式」は、世界史的に後漢の歴年史に照合して設定されています~因みに、「景行天皇28年・唐の章和帝12年」(太神宮諸雑事記第一の景行天皇条)とは、後漢の和帝時代の事。従って「和帝の章和元年=AD87年+和帝12年=AD98年-景行天皇28年=AD71年」は、Jerusalem第二神殿陥落の翌年に合致する。その著【太神宮諸雑事記第一】とは、「伊勢神宮の創建~平安末期」迄の主要事項を編年体で記し、それは皇大神宮の禰宜の荒木田一族の手で書き継がれた文書ある~

 

◆カミ代文字で書かれた『ホツマツタヱ』(秀真伝)を偽書と言うのは「本末転倒」である!!

因みに、日本最古の歴史書とされる現存『日本書紀』とは、養老四年(AD720年)に元正女性天皇に奏上された【日本ギ】(ギ→紀/現在は逸書となっている)の下書き文書が、早速、その翌年に行われた【日本紀】の講筵(講義)にテクスト的に使用(例会は康保2年=965年頃迄ほぼ30年に1回宮中で行われていた)された、その下書き文書を、明治時代に経済雑誌社が編輯し刊行した本。つまり『日本書紀』(ヤマトフミ)とは、【日本紀】(逸書・日本紀)の下書き写本伝承本だった。

つまり、講筵の例会で使用されていた【日本紀】の下書き文書の写本伝承文書(佐々木旧蔵本・田中本・岩崎本)等、多々ある文書が、明治30年(1897年)~明治34年(1901年)に『日本書紀』(ヤマトフミ/黒板勝美・校訂)と題し、尚、他の本を合せた17冊を国史大系として経済雑誌社が刊行した本である。

その昔、隠されていた土笥(ハニハコ/カミ代文字文書に因るカミ代の時代~景行天皇迄の春日氏文書【ミカサフミ】を保存していた埴土の箱)。その50笥(箱)を小野妹子が平岡宮(枚岡ではない/神津嶽本宮=平岡表記は『先代旧事本紀大成経・72巻』本に記載/現在地は東大阪市出雲井町7番16号)から。又、秦の河勝も四国の泡(アワ)輪(ノ)宮から三輪氏文書【ホツマツタヱ】をそれぞれ「聖徳太子」(厩戸皇子)が探し出し、両名に命じてカミ代の文字で書かれた文書を持ち帰えらせた。此れを以てカミ代と先史(神武天皇~景行天皇迄/AD1世紀~AD4世紀末頃迄)の事が明るみになる。そして尚、隠されていた【6家】(吾道=アチ・物部・忌部・卜部・出雲・三輪)文書、及び中臣御食子の文書。又、推古女性天皇歴年文書等を合せ、漢字編輯に因る『先代旧事本紀大成経』(72巻本)を聖徳太子が完成させました。後年、その「72巻本」の中の「天皇紀」(帝紀)や「宮廷内物語」(旧辞?)等の文章を底本として取り込み書かれたのが明治時代に書かれた『日本書紀』の元本であった【日本紀】(ニホンギ文書は現在逸書だが扶桑略記・名文抄にはカミ代の年代部分が取り込まれ保存済み)である。

… 

★【日本紀】(養老四年=AD720年に元正天皇に奏上)が完成し、元正女性天皇(第44代/元明女性天皇​の譲位に因る)に奏上された翌年(AD721年)、早速、宮中で「講筵」(こうえん/講義)が行われた時、【日本紀】の下書き文書がテクスト的に用いられ、その後もその【講筵】(例会)は康保2年=965年頃迄ほぼ30年に1回行われていた。早い話が、現存『日本書紀』(黒板勝美・校訂)とは、逸書【日本紀】の下書き文書の編輯本である。従って、現存『日本書紀』に在るはずの系図が抜けているのである。然し、その文書の一部分は「名文抄」(続群書類従書/雑部・巻第886)として、少なくともカミ代の系図に関する暦年(鈴木暦/スズキコヨミ)が、鸕鷀草葺不合尊迄で「179萬2476歳」(『神道五部書・倭姫命世記』とほぼ同じ)として保存されています。 

【古事記】(フルゴトフミ/口述の文書化)は、歴史書でないので、此処では言及致しません~

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伊万里のキャチコピー「いまりできまり」(メシア来臨地・伊万里)!

 

【カミの啓示】(佐賀県伊万里市・浦ノ崎の塩浜海岸にて)~「自分にしか出来ない事がある」昭和29年=1974年の春の或る日/小学1年の7歳時)~を経て、日本の国語【ヤマト言葉】の起元解明に行着きました(2023年の秋・76歳)!!

◆地名【ゐまり】(伊万里市の語元)の地名発祥(名詞/物事が起こる事。 物事の起こり始め)は、ユダヤ捕囚時代初頭頃(紀元前586年頃)に祭祀者だったエゼキエルは預言者と成り、極東方面に対する崇拝思想文言~「イスラエルのカミの栄光は東の方から来た」(エキエル書43・1~2)に起因する。そして、極東への移動に対しては、エゼキエルが課した罪咎(バビロン捕囚の原因)に対する【悔い改め期間430年】(エゼキエル書4・4~5)を全うした後(紀元前156年頃)、死海西岸に位置すクムラン地域に隠れ住みながら結成した秘儀教義宗団トップグループの人達は、理想郷の地(極東方面)に新たな国を創建する研究を行っていた。

そして,ヘロデ王第7年(紀元前31年)にユダヤ国を襲った巨大地震(1947年に発見された【死海文書】の研究者に因ると~クムランの秘儀教義宗団の集会所も紀元前31の大地震で破壊されたと言う)に対し、それはエゼキエルが予言していた【カミの顕現】(エピファニー/エゼキエル書38・18~20…★その日には必ずイスラエルの地に大きな地震が起こる)と捉え、それを契機として極東を目指しクムラン地域を脱出し、アクスム王国イエメンのサバの女王系サマリア人【海の民】の船で紅海から東に向かう。又、サドク系の祭祀者等一行はダマスコからチベット経由~前漢国を経由(三国志の注釈書『魏略』に記載在り)し、呉の会稽で【海の民】の船に合流するを以て紀元前1年頃に、その昔に徐福が辿り着いた地(有明海北西部)に到着する。

つまり、【ゐまり】(世界史的日本の表玄関港/良質黒曜石の産出地/伊万里市の語元)とは、創世記の預言文言、つまり創世記49・9~10「ユダヤの指導者シロー(セム系の大祭司メシア)が来るであろう」等と言うフレーズ文言の秘儀数価【358】(IBA.ShILH/イエバ.シローのカバラ数価~10+2+1+300+10+30+5=358)を用い、我が国の国語【ヤマト言葉】による我が国最初の地名単語として造語されました。

因みに、ヤマト言葉(基本48文字)の【ゲマトリア数価】(予め各々の単語文字に与えられた数価の合計で意味を解す方式)設定方式は、ギリシア語の母音「a.ア・e.エ・i.イ・0.オ・y.ウ」を「ア.イ.ウ.エ.オ」に並べ替えた。そして、その子音文字配置「ア.カ.ハナ.マ~」と並べ、24文字ずつに区切り(24字+24字=48文字)イオニア式ギリシア文字配列様式的(画像在り)に設定しました。

    

その幾何学的形状文字【】と【】の合字(モノグラム)形が、神明様式【伊勢神宮・角刺千木↓ ↓ ↓の形状であり、【チキ=千木】の語元となる~!!

 

◆母音と子音記号に分けて組み合わせた文字方式は「サマリア(北イスラエル)文字」が初出です。後年(紀元前3世紀頃)、その形式を用いて作成されたのが印度のカロッシュティー文字、及び、ブラーフミ文字(22文字/カルデア語・アラム文字をルーツとする)です。然し、その本家本元のサマリア系【海の民】(海人=アマ)の人達は、新たなヤマト(ヤマトの語元はクムラン祭祀方式1巡年数価294を語元とする)の国の文字として【物部文字】(後に対馬文字が朝鮮のハングル文字として取り込まれた)や【ホツマ文字】(画像の文字)を作成しました!!

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ΙΑΩ=ヤオ】(大阪府八尾市の名称)の語元に始まる日本建国史…より

◆(2017年11月4日作成ブログの複製/世界史)…

 

★…『古語拾遺』(コゴシュウイ)は「神代文字の存在」を記している

 

…下部画像文面は、『古語拾遺』の著者「齋部廣成」の後裔(コウエイ)である「忌部政通」(インベマサミチ)著『神代巻口訣』(ジンダイカンクケツ)の一部分です。

 

…【神代文字】(ジンダイモジ)存在に対する否定者達(戦後の古代史系文献史学者達)は何の根拠も示す事が出来ないにも拘わらず、『古語拾遺』に記す或一文を用いて否定説の砦としている。然し、その一文の文言は、【ジンダイモジ】(神代文字)の存在を肯定する内容である。では何故、戦後(大東亜戦争後)に設定された日本史の中の古代史分野にあっては、【神代文字】の存在を否定しなければならなかったのかと言えば、それは、戦後(昭和20年=1945年終戦・大東亜戦争後)の我が国は、アメリカ筆頭による連合国政策(GHQ・政策)によって、【日本・国学者】(江戸後期の国学者/平田篤胤に始まる)達は我が国の教育現場から排除されたからである。それで、戦後から現在にあっては、【日本建国・創建史学】的な国学は在りません。つまり、戦後に設定された「日本・歴史学」(古代史を含む)に対しては、【GHQ】(連合国軍最高司令官総司令部)政策の一貫として、【日本国の弱体化政策】ウォ-・ギルト・インフォメ-ション・プログラム)が行われたからである。従って、我が国の古代史(国学)に詳しい人達は排除され、尚、【日本神話】も学校の学問から削除された。そして、間違った「日本・古代史観」が、学校の授業を通じ若い人達に植え付けられる事となり、現在(蔓延)に至っている。

 

…ちなみに、現在に言う【国学】とは、現実的には【国語学】(言語学や文法等の学問)の事。それも奈良時代頃(漢字時代)以降の言語を研究する学問である。従って、「和銅3年=AD710年」頃、以前の言語に付いては全く解らないとするのが現状である。そもそも、現在に於ける我が国の【言語学】の基礎は、『万葉集』(五・七調和の歌を基本とする)を構成する【万葉仮名】(1文字1音の訓読を基本とする)である。尚、その【万葉仮名】とは、元来【1文字1音・方式】の【カミ名・文字】神代文字/ジンダイ文字文化時代の【ワカ=和歌】此の語はワカ姫が考案した事に由来する)と言う女性(ヒルコ姫=ワカ姫)の御名が、その語元(の意ではありません)であり起元でもある。

 

…【ワカ】の語元は、【ワカ・姫】(天照大神の長女=ヒル子)の御名に起因する。此れらの事が解ったのは、【ホツマツタヱ】(秀真伝)と言う全文面が【神代(ジンダイ)文字】で書かれていた文書が再発見(昭和41年・1966年)されたからである。然し、現在に至っても、「知らぬは亭主(戦後・我が国のアカデミ-的文献史学者達)ばかりなり」と言う事に成っている。

 

…『古語拾遺』の著者である「齋部廣成」の後裔「忌部政通」は…《【神代文字】は【象形文字】である》…として、【神代巻口訣】文書を用い、その【象形文字】の1つ、つまり、【ホツマ文字】(神代文字)の(円形=○に横一線の形状)の字を確と明記したのである。

 

…「忌部政通」(インベマサミチ)が言う処の、その象形文字=神代文字下部画像/に横一記号)は、『神代巻口訣』文書を以て説明すれば、「右二行目、上から二番目」に位置する円形状文字 、即ち 「円に横一線の記号文字」の事です。此の「ジンダイ(神代)文字」は、【秀真(ホツマ)文字のと読む。そして、此の文字()の語意が意味する処は、「朝、東の水平線から大陽が南天高く立ち上がる状態」を表し、4方位の【南】(昼の語意に対応)をも意味表す言語文字である。


         (下部の画像は「忌部政通」著【神代巻口訣】文書の一部分


 

 

…次ぎ、下部画像の文言文字は…ホツマ文字の母音記号【O・冂・△・弓・囗と、子音記号、即ち、Υ】(ヨッド)の字を分解した形状(I/T/Χ/V)を合体(組み合わせ)させて考案された文字を用いて書かれている

 

… 【神代巻口訣】に記入されたに横一線入り記号文字」の形は、下部の文字フォントの中に在ります。つまり、画像文字「右2行目。上から5番目」に位置する円記号「○に横一線入り」状の文字の事で、と読む。

 

ホツマフォント無料ダウンロード

 

★…上段の右から左へ読むと…

一段目左から~

…ヒコオヌフアウエヲヤ、

…ミモユノワホエ形記号は水を意味する母音記号)タテ、

…ル(ろ/?・変態文字)イスカ=変態文字)ナヰラセ、

…ロヰチシハキ ク=変態文字)、

…ネノリレケムツソ」45文字/文字順不揃い

 

…此の記号文字の配列的文言には意味はあません。此の画像文字は、或【文字フォント・サイト】にあったから貼り付けたもの。つまり、此の【秀真文字】(ホツマ文字)…の形状を紹介する為に貼り付けたものです…元来の【ホツマ文字】と、其の文字配列方式を見ようと思えば、「Google・検索」(ホツマ文字で検索/下の画像=五・七調 アワのウタ)で見る事が出来ます。

 

  「ホツマ文字「サ」」の画像検索結果  「ホツマ文字「サ」」の画像検索結果  

★…上、右側画像(に横一)文字は、ホツマ文字の【】と読む

 

★…「齋部廣成」著の『古語拾遺』神代文字の存在の肯定/筆者説に関しては、次ぎのURL… http://erusaremu4654.jugem.jp/?eid=9 ← ドラッグ・クリックして検索…に記しています。

 

 

『古語拾遺』文中の文言(【日ノ本・カミ代物語】より抜粋す)…天日鷲神與津咋見神穀木種殖之 以作白和幣 是木綿也 已上二物 一夜蕃茂也 令天羽槌雄神 「倭文遠祖 織文布 令天棚機姫神織神衣 所謂和衣/古語=爾伎多倍」(後文略す)。

 

…上記、漢文の訓読(原文に近い表記)を記す…「あめのひわしのかみと、つくひみのかみとをして、かぢのきをうえて、しらにきて/これはゆふなり/かみのふたつものは、ひとよにおいしげれり/をつくらしむ。あめのはづちのかみ/しとりがえんそなり/をして、しつをおらしむ/。あめたなばたつひめのかみ(上=God)をしてかむみそをおらしむ。いわゆるにぎたえ/古語=ニギタエと言う」(日神の石窟幽居の部分に記るされている)…ちなみに「木綿や麻で織った布】を「アラタヘ」(日神の石窟幽意の条)と記す。

 

…此の文言中の「倭文遠祖」(天羽槌雄神)と「機文布」。つまり、此の文面に言う「倭文文布」が意味する処は、我が国に於ける【日ノ本・カミ代物語】(自説=此の時代はAD1世紀~4世紀中頃迄の物語に当る)時代には、既に【倭・文字】(ホツマ文字と、その文字を書く【織り布】(ニギタエが在ったと言う事を記している。つまり元を正せば、『古語拾遺』とは、【ホツマツタヱ】(秀真伝)と言う文書を元典としていて、尚、その後の出来事を集約した内容なのである。

 

…早い話が、読んで字の如く…「当時(カミ代・時代)、我が国の公式文書」…としては、つまり、漢字を導入する以前(AD5世紀中頃より以前)にあって、我が国(ヤマト国家)には既に独自の【カミ名・文字】(ジンダイ文字=神代文字)が存在していた。そして、その文字は【ニギタエ】(木綿&麻布)を書く材料として用い、文字を書いていた」…と言う事である。

 

…従来(戦後)に言う『古語拾遺』の冒頭に記す此の文言、即ち…「 蓋聞 上古之世 未有文字」(ケダシキク・ジョウコノヨ・モジアラズ )…に言う…未有文字」とは、我が国(ヤマト=日ノ本国)には未だ漢字が導入されてなかった」…と言う意味である。「そして…「書契より以来」(ショケイヨリコノカタ)とは、「カミ代文字で書かれた文書が出来た時から」(BC1世紀終り頃からと言う意味である。

 

…此の『古語拾遺』文言…「貴賤老少、口々に相伝へ、前言往行、存して忘れずと聞けり。書契より以来、古を語る事を好まず」(仮名訳=キセンロウショウ、クチグチニアイツタエ、ゼンゲンオウコウ、ゾンシテワスレズ。ショケイヨリコノカタ、イニシエヲカタルコトヲコノマズ)…と記す部分の【書契】(ショケイ)の語意は、イスラエルのカミ(Yahweh=ヤハウェ)との契約の意に関連し、我が【日ノ本国】(ヤマト)に於ける【契約文書】(日本人の為の聖書)の意を意味表す。次の…【書契より以来(コノカタ)、古(イニシエ)を語る事を好まず】とは、「ホツマツタヱ文書の完成(4世紀中頃)以後、それ以前(イニシエ/ユダヤ教時代)に於ける出来事等の話は避けるように成った。

 

…つまり、我が日本の国に…「漢字導入以前は神代文字が無かった」…と、今でも言い張る、その戦後(大東亜戦争後)に於ける我が国の文献史学者達(アカデミ-的・古代史系史学者達)は、『古語拾遺』の読み方を全く知らない事、然りである。その証拠の1つが、『古語拾遺』に記す……《天羽槌雄神(シトリ=倭文が遠祖)をして、しつ文布)を織らしむ》……の記述部分である。此れは読んで字の如く…文書を書く為の織り布文布日神の石窟幽居の部分に記す)の意である。つまり、倭語(1文字1音/訓読の神代文字言語)で書かれた文言に対し、漢字に書き換える時、その語意を解りやすくする為の当て字を付すにあっては、その意味(語意)を重視した漢字を以て当て字した。それがつまり文布】(倭語/訓読=しつ)である。要約すれば、我が国、即ち【日ノ本・カミ代物語】(1世紀~4世紀中頃)時代にあっては、既に、カミ名・文字】(カナ・文字/仮名の語元が存在していたと言う事を、「齋部廣成」(インベヒロナリ)は、『古語拾遺』文書の作成を以て、確と、明記したと言う事である。

 

…然し、戦後(大東亜戦争後)に於ける【GHQ・連合軍政策】(日本国の力を削ぐ政策)にのっとり、戦後の我が国の古代史系的な史学者達(江戸後期の国学に対しては素人に等しい人達)は、「我が国には神代文字はなかった」と言う説を唱えるしか方法がなかったのである。

 

 

以下【追記】(平成29年11月11日/土曜)…図表(神代巻口訣の一部)の【追記】と解説

 

…『古語拾遺』(齋部廣成・著)の此処の文面は【ホツマツタヱ】(秀真伝)文書を底本として書かれている。その2つ目の証拠となるのが、齋部廣成の『古語拾遺』に記す処の…「(素戔嗚の追放)…阿波礼 阿那於茂志呂 阿那多能志 阿那佐夜憩飫」仮名訳アハレ、アナヲモシロ、アナタノシ、アナサヤケ、ヲケ)と記す部分である。此処の部分は【ホツマツタヱ】(秀真伝)の【第7章…ノコシフミ・サガヲタツアヤ】(№7/遺文・性質ヲ絶の章)の部分に当る。その【ホツマツタヱ】(秀真伝)の此処の部分は、天の岩戸から【ウヒルキ】(天照大神の幼名)が現れ…「アハレ、アナヲモシロ(面白)、アナタノシ、アナサヤケヲケ、サヤケヲケ、アハレヲモシロ、サヤケヲケ、アナタノシ」と言った事に関連し、始めて此処に天照大神】(ヲモシロ=人の顔の表面を照らす意味と言う呼称(名称)が成立した事を記しいる。

 

…然し、何はともあれ…『古語拾遺』(齋部廣成)に記す…「蓋聞 上古之世 未有文字( ケダシキク・ジョウコノヨ・モジアラズ )…と言う文言に対し、我が国の戦後(大東亜戦争後)に於ける文献史学者達が…「我が日本の国には漢字が導入される迄は文字(神代文字)は無かった(証拠無し/何の根拠も示す事出来てない)…等と言う愚説(グウ説/オロカナな説)は、本末転倒である。

 

ちなみに、「文献史学者」と言うのは、文献で在れば、どのような文献であれ選り好みせずに検証するのが仕事である。従って…「文献を選り好みする我が国の戦後(大東亜戦争後)に於ける文献史学者学者」…は、既に、此の時点で「文献史学者」とは言えません。

 

★…上の画像(神代巻口訣)の文面…「書以廣道(忌部政通)、而求深旨、神代文字象形也O・冂・△・弓・囗=秀真文字の母音記号)。 應神天皇御于、異域(古代ユダヤ民族地域)典經(モ-セ5書/ギリシア語訳の聖書)、始來朝以降至、 推古天皇、聖徳太子、以、漢字附、和字(ルビ。後、百有餘歳(100有余年)、而(然し)、字中にが入る/す?)、是書(国記/天皇記)、イズクンゾ/100年後には、どうなっているのか」(後文略す)と書かれている。
 
…上記、文言を要約すれば、つまり…「齋部廣成」(インベヒロナリ)が書いた『古語拾遺』に記す処の…「 蓋聞 上古之世 未有文字」(ケダシキク・ジョウコノヨ・モジアラズ )…と言う文言に対し、廣成の後裔(子孫)である【忌部政通】が言うには…「上古(我が国の黎明期~BC31年迄頃)の世、此の島国(日本列島)には文字が無かった。然し、新に創案し作成された【神代文字】は象形文字であった」…等と言う事を説明している。そして、又(而/然し)、その【神代文字】(和字)で書かれた文面に対し、推古天皇時代(AD593~628年)の聖徳太子は、漢字を用いて和字(神代文字)に当て字ルビ/万葉仮名等での当て字する方式(欽明天皇2年=540年から始まる)を用い、公文書(国記&天皇記等)を選録(AD620年)した。従って、此の年(推古天皇28年=AD620年)から「百有余年」後(100年後頃)には「どうしているのか(焉/いずくんぞ)と言う事を記している。その意味する処は、「養老4年」(元正天皇6年=620+100=720年)の時、全てが漢字を用いて書かれた【日本紀】(逸書/ニホンギ)が作成(上奏)された事を示唆してる。
 
…つまり、最初(上古/我が国に於ける黎明期~BC31年頃迄)は、此の極東の島(日本列島)の住民は文字を持っていなかった。だが、聖書(旧訳聖書に関連する文書)を有した人達(クムラン秘儀教義宗団)が、異域(古代ユダヤ民族地域)から此の島に移動して来て、それ迄の自分達の文字(ヘブル文字&ギリシア文字等)に変わる新たな文字(秀真文字=神代文字)を創案し、「日本人の為の聖書」(秀真伝と三笠文/文書)を完成させた。その後年(欽明天皇2年=540年)に於いて、「和字(神代文字)が読めない人達」の為に、和字を漢字に書き換える事が始められた。その後、物部氏族が蘇我氏と聖徳太子の連合軍に滅ぼされ、国史や天皇記等の文書管理が、聖徳太子側(大臣は蘇我氏)に移った。従って、国史を称德太子が漢字を用いて書き換えた。此の頃、伊勢神宮に保存されていた「神代文字による文書」が、小野妹子と秦河勝によって探し出され、此の「神代文字文書を漢字に書き換え」編輯した。つまり、それが『先代匶事本紀大成經』(72巻本)である。そして、此の年から百年後の養老4年(AD720年)の時(元正天皇/女帝)、大部分が漢文一部分=和歌等は万葉仮名で記述で書かれた【日本紀】(ニホンと読む/逸書)が奏上(完成)されたと言う事を、此の画像の文面(神代巻口訣文書の一部)は説明している。
 
★…此のブログは、次のURL⇒ https://ameblo.jp/erusaremu464/entry-12323464575.html ← (ドラッグ&クリックして検索/№1【日本建国・創建史学】の構築】)の続きと致します。

此の続きは後日(別ブログ)と致します

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下段画像は、今から69年前(昭和29年)の伊万里市立山代西小学校【1年2組】(担任は女性の馬渡先生・最上段の左端?/小学1年のそれぞれ担任の先生達は最後の列に写っています)の写真です。因みに。左から「1年2組の馬渡先生」。「1年1組の木下先生」。「1年3組の長谷川先生?」。「1年4組の田代先生」と思いまする。

上段画像は、佐賀県伊万里市立「山代中学校」時代の近所等での遊び仲間(5人)です。つまり、昭和38年=1963年春の「集団就職列車」で大阪駅に着く。そこから就職先【株式会社・大軌クリーニング】(【大軌】の語元は~大阪電気軌道の略称/近畿日本鉄道=近鉄の直系の前身に当たる社名に由来)社長の自慢の自家用車(当時の日本の最高級車とされたプリンスグロリア)に乗り、直行した布施の職業安定所の駐車場で、その社長が撮ってくれた写真です~

就職先の近くには大きな【枚岡神社】(河内国一宮・旧社格は官幣大社/祭神は天児屋根命)がありました。因みに、その当時(30歳頃迄)の私は、神社等に何の興味も持っていませんでした。然し、大阪の河内(枚岡市=現在の東大阪市と八尾市)に来た事が縁(二つ以上のものが寄りついて関わりを持つ作用)で、或る女性と知り合い、それ以後、神社の起元ルーツの研究(それは昭和25年=1950年・3歳の夏にハマボウの花の木の語元を知りたいと思った事に起因する)に取り組む事となりました。因みに、【ハマボウの花】の木は現在【佐賀県の絶滅危惧種】に指定されています~

◆伊万里市立山代西小学校~【小学・1年2組】の写真撮影場所は、在りし日の「1年生の教室が並ぶ校舎(南側=右から1・2・3・4組迄あった)玄関前(運動場の東に位置す)です~因みに、下段の写真は【小学1年2組】(私は中段の中心から右側に居る)の画像です。

上段の画像は、昭和38年=1963年の春。それは「就職列車」が着いた大阪駅で降り、待っていた社長の車で直ぐ枚岡市(現在の東大阪市)の職業安定所に直行。そこの駐車場で、社長の自慢の自家用車の前に並ばされ、その社長が写してくれた写真です~

 

★現在、伊万里市「川南造船所事務所・跡地」東側の海岸に咲く【ハマボウの花】は、叔父が【焼塩製造】(1897年=明治30年頃/叔父の二十歳頃)を始める時に、伊万里湾の牧島海岸に自生していた苗木を3本を記念樹として等間隔に植えた木の花の種が何時しか流れ着いて繁殖したるのです~

 

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小島 宏さんのプロフィールページ
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伊万里市のキャチコピー・いまりできまり

【伊万里】の語元数価「358」(数価358は創世記49・9~10に記すイェバ・シローのカバラ数価)に始まる【日本建国・創建史】~!

★【日本建国・創建史】の幕開けは、肥(コエ)前国(現在の佐賀県)であった。つまり、【佐賀】の語元(黎明的語意を含む語源の意ではありません)は、ワダツミ王(海の民・住吉の孫に当たる)に仕えていた與止姫(賢姫=佐賀県の語元/伊万里市にも神社が存在する)です。その当時のヤマト国の最初の世界的な表玄関は伊万里湾(初代神武天皇の父方の祖母に当たる豊玉姫の父の管轄地)であり、その伊万里湾は松浦党の祖先の居住地(伊万里湾の小島前方後円墳の埋葬者は松の君と漢かえられる)であった。

★因みに、初期ヤマトの裏玄関は、有明海に面す佐賀県の藤津郡地域(日本武尊も訪れた)に当たります。その有明海北西部と伊万里湾との中間に位置するのが【吉野ケ里遺跡】(古墳時代以前=弥生時代後期の大型甕棺墓文化圏の中心地)です。

伊万里神社の伝承でもある【タチバナ】(非時香果・トキジクノカグノコノミ)を求め常世国へ行った田道間守(タジマモリ)は、当時の世界的表玄関(伊万里湾)に入り、裏玄関(有明海北西部)へ抜け、沖縄(橘の種のルーツに関連する)を経由し、紅海からイスラエルへ辿り着きました(第4エズラ書/第2エスドラス書に記す「もう1つの国」とは日本国の意)。そして、垂仁天皇が崩御した翌年春3月(景行天皇即位元年=AD71年はエルサレム第二神殿陥落の翌年)に、田道間守は10年の歳月を経て常世国から我がヤマト国の【伊万里】( 田道間守 が祀られている)に到着し、橘の木を一本植えました。従って、景行天皇の即位元年は、Jerusalem第二神殿陥落の翌年(AD71年)である言う事を『太神宮諸雑事記第一』(伊勢神宮の内宮の神官だった荒木田氏一族の手で書き継がれた文書)はしるしています。つまり、「景行天皇28年当章和十二年は幻の西暦71年」に当たります!

★その昔、伊万里湾がヤマト(日ノ本の国)の世界史的な表玄関だった証拠は~『伊万里市史』掲載の「牧島の木起こし神社・伝承」(女性天皇=神功皇后の新羅討伐に関連する)です。つまりその「松の木」の【松】松浦の語元/頭の3瘤、松の君、背一丈五尺、八十力の主)とは、当時の松浦水軍兵士の頭(九州ワダツミ王の支配下の松の君/佐賀県…松浦郡の語元)の事であります。因みに、神功皇后の新羅討伐に参戦した武振熊(タケフルクマ)が、我が国の国歌【君が代】後に薩摩琵琶の歌詞として用いられ日本の国歌に採用された)の歌詞の作者です。

★日本の国歌【君が代】の初出は~「武振熊君・奉勅」…「詠歌本紀㊦…君之代者、千代于八千代于微、小砂石之磐巖璵成而、苔之終迄」(聖徳太子が編纂させた【先代匶事本紀大成經】72巻本に記載)!

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動画URL…▶ 3:32URL…(ドラッグ・検索
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https://www.youtube.com/watch?v=wdgk25n__E4


三橋美智也(歌)…「たった一人の人でした」,昭和34年出品,作詞:高橋鞠太郎,作曲:中野忠晴。









たった一人の 人だった
あの人思えば この胸が
しびれるほどに 熱くなる
好きだった 好きだった
ああ 女の夢よ なぜもろい

たった一度の 恋だった
諦めきれない せつなさに
おもかげ追えば 泣けてくる
好きだった 好きだった
ああ 女の願い なぜ消えた

たった一人の 人だった
あの頃思えば この胸が
ちぎれるほどに 痛くなる
好きだった 好きだった
ああ 女の幸よ なぜ薄い

歌詞:http://takurou.co-site.jp/natumero/31-35/tattahitori.html

…私が幼年期(3歳)の時、「コトバ(日本での日常会話)は誰が考え出したのか」等の事が知りたかった。此の研究に着手する切っ掛けとなったのは、【by Chance】(バイチャンス/際会)から3年が過ぎ、彼女が、私には手が届かない処にいってからでした…

…本格的な我が研究に着手(昭和61年=1986年8月22日/金曜)してから、奇しくも【31年】(カミ=ALの数値)を経た、今年(平成29年=2017年6月)、ヤット【日本語のル-ツ】を特定する事に成功しました。

…「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン」(Mene,Mene,Tekel,U,pharsin/ダニエル書5・24~25)…此れが、我が日本語のル-ツでした…此の言語のゲマトリア数値「1191」を取り込み日本人の聖書【日ノ本国・創建史】が作成された。そして此の日本語の普及活動は、【タコチ】(八尾市/竹渕神社)地域からの詔(ミコトノリ)によって始められた…

…此の日本語のル-ツ特定に辿り着けたのは、今から35年前。それは彼女との二度目の【際会=by Chance】(バイチャンス)に遭遇(昭和56年=1982年12月)した事にありました。此の時の【際会】に関しては…《『ハマボウ(黄槿)の花の下で』より》URL… http://erusaremu4654.jugem.jp/?eid=2 (ドラッグ/クリックして検索)のブログに記載しています…

…【Qumran Sect】(クムラン秘儀教義宗団)トップグル-プの人達は、メネ、メネ、テケル、ウ・パルシンのゲマトリア数値(満1190)を、「ヘブル語&ギリシア文字配列方式」の【ゲマトリア】(文字&数値転換・解読方式)の数値として、【1萬年枠・物語】、即ち、「日本人の聖書」としての【日ノ本国・創建史】枠数値として取り込んだ。

…【ゲマトリア・秘儀数値】(満・1190)は、『日本書紀』の「開闢神話~第12代・景行天皇」迄、つまり、【日本人の聖書】(Bible)としての【ホツマツタヱ】(秀真伝)と【ミカサフミ】(三笠文)文書を構成する【アスズ・コヨミ】(天鈴暦)の暦年数値として再設定した。そして、その【日本人の聖書】(正典)作成を指示した(Qumran Sect/クムラン・秘儀教義宗団)トップグル-プの人達は、現在に言う八尾市(大阪府)の「跡部・竹渕(タコチ)付近」(平野区加美地域を含む)に居住地を構えていた。つまり、【八尾市】(大阪府)の語元(語源の意ではありません)は、古代ユダヤ教に言う【主】(Yahweh・ヤハウェ)の別称【ΙΑΩ】(ヤオ/Q・レビ記断片文字)が語元であった。


その主(God/ヲン=ヨロズ/万)の御魂を、此の極東の島に於いて最初に祀った場所は【タコチ】(竹渕/大阪府八尾市竹渕)である。尚、唯一神( Y H V H )の御魂(大陽神)【ヲン】は、後に言う【天照大神】の尊称語と成った。ちなみに、未だ伊勢神宮が建立されていなかった時、最初の仮宮を設置(B,C,3年)し、祀った場所(八尾市)に対し【タコチ】(竹淵)と命名したのは、此の極東の島に於いて、ユダ民族でイスラエル国の初代王と成った【ダビデ】の御魂を祀る為であった。

…【ヲン】(大陽/God)とは、「イザヤ書19・18-19」の預言、即ち…「その日、エジプトの国には、カナン語を話し、万軍の主に誓いをたてる5つの町が起こり、その1つは、イル・ハヘレス(大陽の町)と言われる」(後文略)。つまり、その記述部分を引いて、当時(B,C,2世紀中頃)のユダヤ教の大祭司オニアス4世は、エジプトの【太陽の町】と呼ばれる処に【Jerusalem神殿】(イェルサレム神殿)を模倣した小規模の神殿を建立した。その【ヲン】の古称が倭語として造語した折、倭語【ヲン】(大陽神・ON)と呼ばれたのでである…

【日本語の始まり】…に付いて、その最初の説明会は、今月、即ち、平成29年7月15日(土曜/午后2時~5時迄)の定例会(大阪府八尾市久宝寺/寺内町まちなみセンタ-/http://kyu-machinami.or.jp/)の会議室(洋室)で行いました。

…《ΙΑΩ(八尾)・発信会》…

…【ΙΑΩ(ヤオ)・発信会】とは、「八尾(iao/大阪府八尾市)に始まる日本国家創建史」に付いて、大阪府八尾市から発信する会の略称です…

…下記に【追記】(平成29年7月14日/金)…【缺史(ケッシ)八代説】の否定…

…【缺史八代・説】(旧辞が無い説)は、『秀真伝』文書が再発見(昭和41年・1966年)された事を以て、無用の長物となりました。ちなみに、古代期(1世紀~4世紀頃)に於ける【フジノヤマ】の語元は【藤の花】であった。そして、【富士八湖】(現在は富士五湖)の、その語元の初出も、『秀真伝』文書(第32章/ヤマトフトニ尊・諡ネコヒコ=孝霊天皇)に記述(旧辞の存在に当る)された内容が初出であった…

…【下記】に【追記】(2017/07/17・月曜)…「日本人のIdentity」(アイデンティティ-)…

…【日本語の始まり】を知る事と、【日本人のIdentity】(アイデンティティ-)とは、何の関係があるのかと言えば、それは、【脱・ユダヤ教】を目指し、「カミ(上/God)に選ばれた人達」の子孫が創建したのが、我が【日本の国】であると言う事に尽きます。

…では、何が他国と根本的に違うのかと言えば、それは、「クニはイエ」(国は家)として、尚、その国家としての建国思想としては、つまり、基本的に我が国の建国思想は、古代イスラエル教義に於ける【奴隷解放・思想】である。従って【正典】(Bible)、即ち、【秀真伝】と【三笠文】文書を作成し、時間をかけ、理想郷的国家(日ノ本国)を完成(唯一神明様式/角造立脚神殿=伊勢神宮の建立)させた……

…【追記】(2017/09/16/土曜)…そのカミの国【ヤマト】創建に向けた活動は【ΙΑΩ/ヤオ】(大阪府八尾市の地名)から始まった。それは先ず、【御親カミ】(ユダヤ教のエロヒム → ヤハウェ)を、【ヤオのアラヒト】(ΙΑΩのAL人)達が、先ずタコチ(八尾市竹渕)に祀ってからである。ちなみに、【Qumran Sect】(クムラン秘儀教義宗団)の人達とは別ル-ト(後漢/王氏【莽】に面会)を選び此の島へ渡海した。その「ヤオのアラヒト」達が居住地として選んだ地域だから、ヤオ(ΙΑΩ → 八尾)と言う。

…従って、【ヤマト・クニ】創建に向けた活動に当っては、再度、王莾(王氏)が支配(AD1年辛酉から22年壬午迄)した新の国へ使いを送った。その証拠と成るのが、亀井遺跡(八尾市)、瓜破遺跡(大阪市平野区)から発掘、出土した【貨泉】(1世紀初期/王莽政権時の貨幣)の存在である。

…下記に【追記】(2017/10/12)…「のたれ死に覚悟」の自分探しの旅だった…

…太占(フトマニ)の中心に設置した「3文字一体・カミ(上)」。その数値言語…【アウワ】(367+3=370)が、【3 → アメノミナカヌシ】(天御中主)の正体であった。此の秘儀数値【370】は、『Zohar/ゾハ-ル』(光輝の書)によると、マクロプロソプス(老いたル者)の顎(アゴ)髭から放たれる【370】の光輝と記す。従って、天照大神(ウヒルキ/語根数値87)の語元(語源の意ではありません)も、此の【光輝】(ゾハール)に関連付けての造語である。

…つまり、【天使エノク・280】(サンダルホン)+【ウヒルキ・87】(天照大神)=【アウワ・367】+【3】(三位一体)=【天御中主・370】。と言う構図で、我が国の【日之本・カミヨ物語】(300萬年/天照大神の昇天年)は、設定されていた。


…私が我がインナートリップの旅(自分探しの旅)を決意した時(今から49年前/1974=昭和49年の春)、【風雲児】(村田英夫・歌/1960=昭和35年代)の歌の歌詞の処を思い出していました…



…特に、此の歌詞の中の…「★ 男一匹 、やるだけやれば、何でこの世に、未練があろか…」…そして…「★ 俺が死んだら、裸のままで、ゴビの砂漠へ、うっちゃっておくれ…」…と言う部分の歌詞でした…

…風雲児(蒙古風雲児/蒙古放浪歌)
…星野哲朗 作詞/服部良一 作曲

1 男一匹 やるだけやれば なんのこの世に みれんがあろう
  吹けよ竜巻 アルタイ越えて 俺も生きるぞ いのちのかぎり

2 胸に輝く 男の夢は 女なんかにゃ わかろうものか
  顎でしゃくろか 小指でやろか 蒙古百万 かがり火赤い

3 俺が死んだら 裸のままで ゴビの砂漠に うっちゃっておくれ
  どうせこの身にゃ 狼の血が 親の代から 流れてやまぬ

…因みに、歌手の村田英夫さんは、私と同じ佐賀県の人で、尚、その奥さんは私の故郷(伊万里市)の人でした。



…此の続きは後日と致します…


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昭和25年=1947年夏の或る朝、私(2歳11ヵ月)は【言葉の始まり】が知りたいと思いました。その経緯は(  http://erusaremu4654.jugem.jp/?eid=2 )~

 

それは歩いての夜逃げ(昭和24年=1949年冬の新年1月6日~2歳6ヵ月の時/家財道具は鳴石の楠久炭鉱社宅裏の窓から直ぐの岸壁に横付けした叔父の船に積んでいた状況を私は夜中に目を覚まし観ていた)に始まり、夜明け頃に追﨑峠の崖下に位置す叔父の家の真上に到着。そしてその日から私の6人家族は叔父の家での生活が始まりました。その最初の夏の事、叔父の家(浜辺の一軒家/焼塩と瓦製造所)の海岸際に生えられた3本の木の葉の間に黄色いもの(昨日は無かった)を見た瞬間、私はその美しさに驚き母の元に走り寄り状況を説明した。然し、その起元に付いては家族の誰も知らなかった。唯「木の花」と言う。その時私は言葉の不思議さに気が付き何故、誰が「木と名付けたのか」等と「木の語元」(黎明(レイメイ)的語意を有す語源の意ではない)を母にを訊(キ)きました。すると「大昔に名付けた人に訊いてこい」等の母の返事だった。その6年後(昭和29年7歳/小学1年)の或日の朝御飯(何時も麦3割程混ぜた麦飯)には細かく刻まれたソウメンが混ぜられていた。麺類が嫌いだった私は、それを見ただけで食欲が無くなり何も食べずに学校(昼迄)へ行き昼に下校し、空腹で脱力状態の私は祖父の発動機船(瓦製製造の原料・赤土運搬船)の上に仰向けでボンヤリ空を見ていた、その一瞬の事~「光が私の額を突き抜けた」。フト我に返ると、何時しか「自分にしか出来ないことがある」(無意識下の脳裏に刻み込まれていた)と言う言葉が私の頭に刻み込まれていました。


…私が小学3年5月に佐賀県伊万里市の県道(後の国道204号線)拡張工事に伴い浦之崎の追﨑「高尾の鼻」付け根断崖下に位置す叔父の家(我が家族も同居)は半強制的に立ち退きを余儀なくされていた。その6年後の小学校3年家庭訪問の日だった事でで早く家に帰ってみると、毎年夏の間ずーと黄色い美しい花を咲かせていた3本の木(それから54年後の昭和63年にフト、汐水と真水が混じる処に咲く花と叔父が言っていたのを思い出し原色日本植物図鑑で調べ、佐賀県絶滅危惧種指定【ハマボウの木】だった事を初めて知る)は、見るも無惨に切り倒され切り刻まれていた。その変り果てた木を目の当りにした時の悲しさと哀れさは今でも忘れる事が出来ません。然し、その悲しみと悔しさを何時も癒してくれていたのが小学3年春頃の音楽授業で1回だけ習ったメロディ-(音楽の教科書は買ってくれなかっので曲名は覚えてないので定年退職後の平成29年=2009年に調べた結果シモネッティ作曲Madrigal(マドリガル)のメロディーと言う事を知る)だった。従って、カミの啓示的【自分にしか出来ない事がある】を探す為に脱サラ(26歳)し、自分探しの旅(自由業/インナートリップ)に出る。その旅の途中(29歳)に【by(バイ) Chance(チャンス)】(際会)的に知り合った彼女(11歳年下)との出会いに起因し、私は昭和61年=1986年8月22日金曜日の毎日新聞夕刊コラム欄の哲学者梅原猛氏が題す【柱と鳥について㊤】の記事に出会い、内容に感化された私は、早速【千木】の語元(ギリシア文字Χ(キー)は数価千を表す文字/日本語の起元解明に繋がる)を発見しました。

 

            《ヤマト言葉【語元学】etymology(エティモロジー)のすすめ》
現在、上記表題「エテモロジーのすすめ」に付いて執筆中です!!

【カバラ】数価図表↓ ↓ ↓口伝数秘術/単語文字数の合計で答えを解す方式)!

 


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★【邪馬臺(台)国】は移動(残った吉野ケ里遺跡)は移動しました~!!

肥前(佐賀県)の【邪馬臺(台)国】は、九州から東(近畿・ヤマト政権)へ移動しました。その移動後に残った遺跡が佐賀県の「吉野ケ里遺跡」(当時、日本の表玄関に当たる伊万里湾を本拠地としていた豊玉姫の父だった海神ハデツミ氏族の統括地/子孫の住吉氏族は近畿に移動しヤマト政権を担う)です~

【邪馬臺国】とは、『後漢書第八五・東夷伝第七十五巻』(後漢時代は王莽政権が終わったAD25年~AD220年迄)に記載された国称です。又、その女王「卑弥呼」とは、後漢の「桓帝~霊帝の治世」(AD147年~AD189年/魏志倭人伝の末廬国=九州北西部の松浦国に関連する)に初めて設定された世襲制としての呼称です。

その後漢時代が終わって約50年を経た「魏国の景初2年」(日本は景初3年=西暦239年と記す)に魏国に遣いを出した時も「世襲呼称・卑弥呼」は存続していたので魏国は国称は使用せず【女王の国】と記す。つまり、後漢書に記された「邪馬臺国」の国称は後漢時代が終わって以降、一度も使用されていません。因みに「邪馬壹(壱・数価1)国」とは、「ヤマ・ヒ(倭語数価1)国」(ゲマトリア数価714は伊勢神宮建立年予定年数価/ダニエル書の秘儀数価1191-714=AD47年に予定通り伊勢神宮は建立された)の意であり、「ヤマトの語元文言」であった。

従って、後漢が滅んで約50年を経た魏国の景初2年(日本は景初3年=西暦239年と記す)に遣いを出した時も、更にその後の正始8年(AD247年頃の我が国は祭祀期間294年とする宮中での祭祀期間中だった)に使いを出した時も【女王国】と記し、「邪馬臺国」の国称は使用されていません~

魏国時代に於ける当時の我が国の「女王・卑弥呼」(宮中ヤマト祭祀12巫女を統括する女王/鬼道=宮中祭祀はAD57年後漢の金印授与年~AD351年迄の294年間行う神事/ヤマトの語元神事)が死去した後に立った「13歳の宗女・壹与」(壹与=壱与/正始八年=AD247年)とは、我が国の「第6代考安天皇の后オシ姫」(13歳で立つ/籠名神社祝部氏系図のヨソタリ姫の宗女)の事である。

「邪馬臺国」(後漢時代のAD189年)初代「卑弥呼」が立った年から約58年を経た魏国の正始8年(AD247年は宮中ヤマト祭祀時代)頃には、先ず、世界最初の日の出地域(ホツマ国=東北南部)から近畿に向けた道の整備が一通り終っていて、次の段階として河内を居住地としていた「大祭司ΙΑΩ(八尾)のアラヒト」の指導に因る地元のMesopotamia(メソポタミアの語意が河内の語元)の開発に国力を注いでいました~!! 

 

「宗女・壹与」(イヨ/13歳)が立った年から104年後(AD351年/崇神天皇12年)の時として発せられた詔~「ミコトノリ ⇒ 肇(ハツ)国知らすミマキ(崇神天皇)の代」ホツマツタヱ・34章)を以て、それ迄は小国連合体制から国家体制とする国称「ヤマト」に因る政権を確立させると共に、その「ヤマト国家・創建史」に到る物語が創作されました。つまりそれは、創世記49・9~10に記す「IBAΣΛH」(カバラ数価358・イエバシロー/メシアが来る)預言文言の成就として、尚、具体的な物語としては~「反逆者の長髄彦を討伐する物語」(6年戦争はハルマゲドンの模倣/死海文書のメルキゼデクの恩頼に起因する)である。従って、崇神天皇12年(AD351年)から過去へ358年遡り(紀元前7年)、長髄彦討伐(6年戦争=ハルマゲドン年)の暁として「神武天皇(幼名タケヒト)の即位」元年(メルキゼデクの恩頼(=ミタマノフユ/カミから受ける恩徳、御加護、恵み深い賜物)と定義する物語である。

★【追記】(2023/07/19・水曜)しました~

【邪馬台国】とは、現在の佐賀県「吉野ケ里遺跡」の事である!!

日本人の聖書として書かれた【秀真伝】(ホツマツタヱは『日本書紀』底本)に因ると~「無くした兄の釣り針を探す為に海幸彦は乗っていた鴨網(中型の鴨船)を捨てて行き到る、祖をハテカミ(海人/豊玉姫の父)の瑞牆(九州32国の統治者=海神ワダツミの宮殿)や、ウテナ(台・臺)輝く」(ホツマ・25章)~と記している。つまり、その「ウテナ=台&臺」の意が『三国志』魏志倭人伝に記す【邪馬台国】の事である。

因みに『三国志』の【魏志倭人】冒頭は~「倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑。舊百餘國、漢時(後漢AD57年奴国&AD107年面土国)有朝見者(此処迄は後漢時代/AD220年迄の出来事)。今(三国時代のAD239年頃)使譯所通三十國(九州全体の国)~と記すされている。

 

『後漢書第八五・東夷伝第七十五巻』(倭人伝

( https://zh.wikisource.org/.../%E5%BE%8C%E6.../%E5%8D%B785... )

因みに、【ιαω ΙΑΩ】(八尾の語元)と言う文字は、【死海文書】(1947年・クムラン洞穴から発見)の断片文字として発見(Q第4洞窟レビ記3・12&4・27の断片

文字)されています。

 

 

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「神社建築の発生」太田博太郎.著/増補第二版・株式会社 彰国社.発行)に付いて~

★「神社建築に関する論文は非常に少ない」(明治34年【日本神社建築の発展】以後は福山、谷ものが殆ど全部を占めている)~と、その著者は記す!!

【神社建築様式】(我が国の固有様式)に付いて~『日本建築史序説』(太田博太郎.著/増補第二版・株式会社 彰国社.発行)の「神社建築の発生」(50頁)に因ると~つまり結論(伊勢神宮の祖型)から言うと、「伊勢神宮様式は倉ではない」と記す。

然し、本当は【倉造り】(高床様式室屋)が元形でした。その高床式のルーツは、現在の雲南省(昆明)であった~

日本人の聖書として書かれた【ホツマツタヱ】(散逸書・ミカサフミは姉妹書)に因ると~「カミのヤ(家)は、【ム】(ホツマ文字のムの形状=鰹木の元形)の民目より、ムロヤ(室屋)建つ。民に教えて屋根を造り直すとある。又【ヤ】(家)の民目を以て~「ヤシロ(社/置き千木を設置した一般的な神社様式)成る」(ホツマツタヱ・17章)~と、記す。

我が国固有の【伊勢神宮・様式】(神明造)は、ソロモンが紀元前967年にエルサレム神殿を創建するが、その ソロモンとサバの女王の子孫(エチオピア系)がルーツと考えられる【南方のターイ族】(紀元前586年・ユダ王国滅亡後に昆明を経由/現在の雲南省)の高床式建築様式が元形(『雲南からの道』日本人のルーツを探る・鳥越 健三郎.編講談社発行である。その元初的な屋根の形状(原初の角刺的形状は千木とは言えない)に対し、ホツマ文字の【チ】(イプシロン=Yの形状)と【キ】(ケイ構え=冂形状との合字)との合字形状を用い、三輪氏系「ヲコヌシ」(南方語音=【倭】の呉音は【ワ】が、室屋の屋根を造り変えたと記している。

つまり、「イワユル(所謂)ジンダイ(神代)文字の論」の著者である山田 孝雄(ヤマダ.ヨシオ)氏が言う処のジンダイ文字の【】と【】の形状を用い、ヲコヌシ(大国主)が元来は高床式の倉庫として用いていた室屋の屋根を造り変えた。従って、此れを以て初めて【チキ】(千木)と定義付けられ、日本の社殿建築様式が確立したのである~!!。

その【千木】(置千木)の語元は、大阪府八尾市竹淵に建立する郷社⛩【タコチ・神社】(神武東征物語に起因)の呼称【タ・コ・チ】(タY400+コΧ600=チ・千)が語元である~

日本の国語学者「山田孝雄」(ヤマダ ヨシオ/イワユル神代文字論の著者)氏が言う【国語・ヤマト言葉】。その「1文字で母音と子音を言い表す方式」のルーツは、原アラビア文字(紀元前1300年頃の原カナン文字から分布)系の【サバ語】(最初は29文字/古典エチオピア文字はサバの女王に関連しサマリアヘブル語に因る聖書も作成された)である。そして、インド諸語のルーツとしては後期アラム語系、つまりセム系アルファベットと成っている~

【倭】(=サバの女王系タイ族)から【日本】(ヤマト=アロン・サドク系大祭司に率いられたダビデ氏族)に切り替わった事を記すのが「大国主の国譲り物語」である。

その切り替え方式は、エルサレム第二神殿の陥落(AD70年)をヤマト(日本)氏族が知った事(卑弥呼時代)に起因する。そしてそれは、伊万里(ヰマリ)の語元数価【358】(創世記49・9~10・メシアと同義語イエバシロー数価358)を用い、ミマキイリヒコ(崇神天皇)の12年の時とするミコトノリ(詔)~「民(タミ)に負(オ)オスル暇空(イトマアケ)、弓弭(ユハズ)手末(タズエ)の、貢止(ミツギトメ)~肇国知らす、ミマキ(崇神)の代(秀眞伝34章ミマキの代・任那の章)等と記す~。 

 

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