神社【千木】の語元発見(日本語の起元解明に繋がる)の経緯に付いて~ | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

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★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

昭和25年=1947年夏の或る朝、私(2歳11ヵ月)は【言葉の始まり】が知りたいと思いました。その経緯は(  http://erusaremu4654.jugem.jp/?eid=2 )~

 

それは歩いての夜逃げ(昭和24年=1949年冬の新年1月6日~2歳6ヵ月の時/家財道具は鳴石の楠久炭鉱社宅裏の窓から直ぐの岸壁に横付けした叔父の船に積んでいた状況を私は夜中に目を覚まし観ていた)に始まり、夜明け頃に追﨑峠の崖下に位置す叔父の家の真上に到着。そしてその日から私の6人家族は叔父の家での生活が始まりました。その最初の夏の事、叔父の家(浜辺の一軒家/焼塩と瓦製造所)の海岸際に生えられた3本の木の葉の間に黄色いもの(昨日は無かった)を見た瞬間、私はその美しさに驚き母の元に走り寄り状況を説明した。然し、その起元に付いては家族の誰も知らなかった。唯「木の花」と言う。その時私は言葉の不思議さに気が付き何故、誰が「木と名付けたのか」等と「木の語元」(黎明(レイメイ)的語意を有す語源の意ではない)を母にを訊(キ)きました。すると「大昔に名付けた人に訊いてこい」等の母の返事だった。その6年後(昭和29年7歳/小学1年)の或日の朝御飯(何時も麦3割程混ぜた麦飯)には細かく刻まれたソウメンが混ぜられていた。麺類が嫌いだった私は、それを見ただけで食欲が無くなり何も食べずに学校(昼迄)へ行き昼に下校し、空腹で脱力状態の私は祖父の発動機船(瓦製製造の原料・赤土運搬船)の上に仰向けでボンヤリ空を見ていた、その一瞬の事~「光が私の額を突き抜けた」。フト我に返ると、何時しか「自分にしか出来ないことがある」(無意識下の脳裏に刻み込まれていた)と言う言葉が私の頭に刻み込まれていました。


…私が小学3年5月に佐賀県伊万里市の県道(後の国道204号線)拡張工事に伴い浦之崎の追﨑「高尾の鼻」付け根断崖下に位置す叔父の家(我が家族も同居)は半強制的に立ち退きを余儀なくされていた。その6年後の小学校3年家庭訪問の日だった事でで早く家に帰ってみると、毎年夏の間ずーと黄色い美しい花を咲かせていた3本の木(それから54年後の昭和63年にフト、汐水と真水が混じる処に咲く花と叔父が言っていたのを思い出し原色日本植物図鑑で調べ、佐賀県絶滅危惧種指定【ハマボウの木】だった事を初めて知る)は、見るも無惨に切り倒され切り刻まれていた。その変り果てた木を目の当りにした時の悲しさと哀れさは今でも忘れる事が出来ません。然し、その悲しみと悔しさを何時も癒してくれていたのが小学3年春頃の音楽授業で1回だけ習ったメロディ-(音楽の教科書は買ってくれなかっので曲名は覚えてないので定年退職後の平成29年=2009年に調べた結果シモネッティ作曲Madrigal(マドリガル)のメロディーと言う事を知る)だった。従って、カミの啓示的【自分にしか出来ない事がある】を探す為に脱サラ(26歳)し、自分探しの旅(自由業/インナートリップ)に出る。その旅の途中(29歳)に【by(バイ) Chance(チャンス)】(際会)的に知り合った彼女(11歳年下)との出会いに起因し、私は昭和61年=1986年8月22日金曜日の毎日新聞夕刊コラム欄の哲学者梅原猛氏が題す【柱と鳥について㊤】の記事に出会い、内容に感化された私は、早速【千木】の語元(ギリシア文字Χ(キー)は数価千を表す文字/日本語の起元解明に繋がる)を発見しました。

 

            《ヤマト言葉【語元学】etymology(エティモロジー)のすすめ》
現在、上記表題「エテモロジーのすすめ」に付いて執筆中です!!

【カバラ】数価図表↓ ↓ ↓口伝数秘術/単語文字数の合計で答えを解す方式)!

 


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