『日本書紀』(日本紀の下書き文書)は【ホツマツタヱ】(戦後に発見)が底本である ! | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

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★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

★(大同2年=807年初版)『古語拾遺』(齋部廣成・著)には【神代文字】文書にしか記載が無い部分(ホツマ7章)、つまり、天照大御神が磐戸(岩戸)から出現した時の様子を漢字で記述しています。仮名に直せば~「アハレ、アナオモシロ、アナタノシ、アナサヤケ、オケ、サヤケ~」(後文略す)。

★因みに、齋部廣成が言ったとする文言(前文略す)~「上古の世、未だ文字有らざるとき、貴賤老少、口々に相伝へ、前言往行、存して忘れず」(後文略す)と言う意は、ヤマト国家の創建に着手した当時(AD1世初頭)には未だ漢字が無かったと言う事です。

 

★因みに、ヤマトの国の創建者達は極東への移動(紀元前1年/王莽が政権を簒奪した頃)以前、既に作成済の象形文字(母音と子音文字との合字・サバの女王系エチオピア文字をルーツとする物部文字&ホツマ文字)を持っていました。つまり、齋部廣成は神代文字文書にしか記載が無い文面を漢字で~「阿波礼・阿那於茂志呂・阿那多能志・阿那佐夜憩・飫憩」(アハレ ・アナオモシロ ・アナタノシ ・アナサヤケ ・オケ/後文略す)と記していたのです。従って、その後年に於いて、その語意を肯定する文書を忌部政通(インベマサミチは齋部廣成の子孫)は【神代巻口訣】文書を用い~「神代文字は象形也」と言い、推古天皇の御代に至り聖徳太子が古来からの象形文字(ホツマ文字)に漢字を当てた(『先代旧事本紀大成経72巻本の完成/その後、その文書の中の旧事等を抜き出すを以て『日本書紀』の底本と成る)等と記している。

★早い話が、齋部廣成時代(古語拾遺初版・大同2年=807年)以前(765~767年/孝謙&称徳女帝時代)に、弓削の道鏡が神代文字を焚書にしていた。当時、その事に異を唱えた三輪氏の赤坂比古は自害し、子の代々彦は「和仁估」と改称するを以て淡州菅浦(滋賀県)に蟄居し『ホツマツタヱ』文書を隠し置く。それが現在のホツマ文書のルーツです。因みに、齋部廣成はそれから約40後の人でした。

★因みに「天照オン神」のルーツは、聖書地名で古代エジブトの【太陽の町ヘーリオポリスに祀られた【ON=オン】(オンとはGodエロヒムの御魂の別称/ギリシア神話ではヘリオス=太陽光線の意)でした。又、その数価(ONの御魂数価300+倭語カミ数価58=358)は、創世記の最初の預言文言のカルデア語(アラム語)「イエバシロー」(日本語訳~シロが来るであろう/創世記49・9~10)。更に要約すれば「メシアが来るであろう」と言うフレーズ文字(IBASILH/イエバシロー)数価【358】と文言と同義語となる。

★つまり、【ホツマツタヱ】文書の本質は、エルサレム第二神殿陥落(AD70年/以後、ユダヤの人々は亡国の民となる)の翌年を間接的、聖書的に日本の歴年史に接続(ホツマ最後の景行天皇の即位年は意図的にAD71年に成るように設定)させる為に編輯された文書と言う事になります~

★要約すればホツマ文書のミマキイリヒコ(崇神)12年=AD351年(八尾のアラヒトの詔=ハツクニ知らすミマキの代)の年から、メシア来臨数価358年過去へ遡った紀元前7年に行き、その年を反逆者の長髄彦討伐開始年(甲寅・天鈴暦51年)としてハルマゲドン的最終6年戦争(死海文書の【戦いの書】に記す)物語を挿入する。つまり、6年戦争を勝利した神武(タケヒト)の即位元年はクムラン大地震年ヘロデ王の第7年)から数えGodエロヒム数価「31年目」(AL=31)の年(幻の西暦1年目・辛酉年/天鈴暦58年)と定義するするを以て【ホツマツタヱ】(景行天皇迄の日本最古の歴年史)と題し、それ迄の歴年史は書き換えられ(卑弥呼の宗女「壹与・13歳」は第6代考安天皇の后オシ姫に当たる)、再設定されました~

「景行天皇(ヲシロワケ)の即位元年設定方式」は、世界史的に後漢の歴年史に照合して設定されています~因みに、「景行天皇28年・唐の章和帝12年」(太神宮諸雑事記第一の景行天皇条)とは、後漢の和帝時代の事。従って「和帝の章和元年=AD87年+和帝12年=AD98年-景行天皇28年=AD71年」は、Jerusalem第二神殿陥落の翌年に合致する。その著【太神宮諸雑事記第一】とは、「伊勢神宮の創建~平安末期」迄の主要事項を編年体で記し、それは皇大神宮の禰宜の荒木田一族の手で書き継がれた文書ある~

 

◆カミ代文字で書かれた『ホツマツタヱ』(秀真伝)を偽書と言うのは「本末転倒」である!!

因みに、日本最古の歴史書とされる現存『日本書紀』とは、養老四年(AD720年)に元正女性天皇に奏上された【日本ギ】(ギ→紀/現在は逸書となっている)の下書き文書が、早速、その翌年に行われた【日本紀】の講筵(講義)にテクスト的に使用(例会は康保2年=965年頃迄ほぼ30年に1回宮中で行われていた)された、その下書き文書を、明治時代に経済雑誌社が編輯し刊行した本。つまり『日本書紀』(ヤマトフミ)とは、【日本紀】(逸書・日本紀)の下書き写本伝承本だった。

つまり、講筵の例会で使用されていた【日本紀】の下書き文書の写本伝承文書(佐々木旧蔵本・田中本・岩崎本)等、多々ある文書が、明治30年(1897年)~明治34年(1901年)に『日本書紀』(ヤマトフミ/黒板勝美・校訂)と題し、尚、他の本を合せた17冊を国史大系として経済雑誌社が刊行した本である。

その昔、隠されていた土笥(ハニハコ/カミ代文字文書に因るカミ代の時代~景行天皇迄の春日氏文書【ミカサフミ】を保存していた埴土の箱)。その50笥(箱)を小野妹子が平岡宮(枚岡ではない/神津嶽本宮=平岡表記は『先代旧事本紀大成経・72巻』本に記載/現在地は東大阪市出雲井町7番16号)から。又、秦の河勝も四国の泡(アワ)輪(ノ)宮から三輪氏文書【ホツマツタヱ】をそれぞれ「聖徳太子」(厩戸皇子)が探し出し、両名に命じてカミ代の文字で書かれた文書を持ち帰えらせた。此れを以てカミ代と先史(神武天皇~景行天皇迄/AD1世紀~AD4世紀末頃迄)の事が明るみになる。そして尚、隠されていた【6家】(吾道=アチ・物部・忌部・卜部・出雲・三輪)文書、及び中臣御食子の文書。又、推古女性天皇歴年文書等を合せ、漢字編輯に因る『先代旧事本紀大成経』(72巻本)を聖徳太子が完成させました。後年、その「72巻本」の中の「天皇紀」(帝紀)や「宮廷内物語」(旧辞?)等の文章を底本として取り込み書かれたのが明治時代に書かれた『日本書紀』の元本であった【日本紀】(ニホンギ文書は現在逸書だが扶桑略記・名文抄にはカミ代の年代部分が取り込まれ保存済み)である。

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★【日本紀】(養老四年=AD720年に元正天皇に奏上)が完成し、元正女性天皇(第44代/元明女性天皇​の譲位に因る)に奏上された翌年(AD721年)、早速、宮中で「講筵」(こうえん/講義)が行われた時、【日本紀】の下書き文書がテクスト的に用いられ、その後もその【講筵】(例会)は康保2年=965年頃迄ほぼ30年に1回行われていた。早い話が、現存『日本書紀』(黒板勝美・校訂)とは、逸書【日本紀】の下書き文書の編輯本である。従って、現存『日本書紀』に在るはずの系図が抜けているのである。然し、その文書の一部分は「名文抄」(続群書類従書/雑部・巻第886)として、少なくともカミ代の系図に関する暦年(鈴木暦/スズキコヨミ)が、鸕鷀草葺不合尊迄で「179萬2476歳」(『神道五部書・倭姫命世記』とほぼ同じ)として保存されています。 

【古事記】(フルゴトフミ/口述の文書化)は、歴史書でないので、此処では言及致しません~

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