【複製】№2【日本建国・創建史学】の構築(古語拾遺に付いて)!! | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

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★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

ΙΑΩ=ヤオ】(大阪府八尾市の名称)の語元に始まる日本建国史…より

◆(2017年11月4日作成ブログの複製/世界史)…

 

★…『古語拾遺』(コゴシュウイ)は「神代文字の存在」を記している

 

…下部画像文面は、『古語拾遺』の著者「齋部廣成」の後裔(コウエイ)である「忌部政通」(インベマサミチ)著『神代巻口訣』(ジンダイカンクケツ)の一部分です。

 

…【神代文字】(ジンダイモジ)存在に対する否定者達(戦後の古代史系文献史学者達)は何の根拠も示す事が出来ないにも拘わらず、『古語拾遺』に記す或一文を用いて否定説の砦としている。然し、その一文の文言は、【ジンダイモジ】(神代文字)の存在を肯定する内容である。では何故、戦後(大東亜戦争後)に設定された日本史の中の古代史分野にあっては、【神代文字】の存在を否定しなければならなかったのかと言えば、それは、戦後(昭和20年=1945年終戦・大東亜戦争後)の我が国は、アメリカ筆頭による連合国政策(GHQ・政策)によって、【日本・国学者】(江戸後期の国学者/平田篤胤に始まる)達は我が国の教育現場から排除されたからである。それで、戦後から現在にあっては、【日本建国・創建史学】的な国学は在りません。つまり、戦後に設定された「日本・歴史学」(古代史を含む)に対しては、【GHQ】(連合国軍最高司令官総司令部)政策の一貫として、【日本国の弱体化政策】ウォ-・ギルト・インフォメ-ション・プログラム)が行われたからである。従って、我が国の古代史(国学)に詳しい人達は排除され、尚、【日本神話】も学校の学問から削除された。そして、間違った「日本・古代史観」が、学校の授業を通じ若い人達に植え付けられる事となり、現在(蔓延)に至っている。

 

…ちなみに、現在に言う【国学】とは、現実的には【国語学】(言語学や文法等の学問)の事。それも奈良時代頃(漢字時代)以降の言語を研究する学問である。従って、「和銅3年=AD710年」頃、以前の言語に付いては全く解らないとするのが現状である。そもそも、現在に於ける我が国の【言語学】の基礎は、『万葉集』(五・七調和の歌を基本とする)を構成する【万葉仮名】(1文字1音の訓読を基本とする)である。尚、その【万葉仮名】とは、元来【1文字1音・方式】の【カミ名・文字】神代文字/ジンダイ文字文化時代の【ワカ=和歌】此の語はワカ姫が考案した事に由来する)と言う女性(ヒルコ姫=ワカ姫)の御名が、その語元(の意ではありません)であり起元でもある。

 

…【ワカ】の語元は、【ワカ・姫】(天照大神の長女=ヒル子)の御名に起因する。此れらの事が解ったのは、【ホツマツタヱ】(秀真伝)と言う全文面が【神代(ジンダイ)文字】で書かれていた文書が再発見(昭和41年・1966年)されたからである。然し、現在に至っても、「知らぬは亭主(戦後・我が国のアカデミ-的文献史学者達)ばかりなり」と言う事に成っている。

 

…『古語拾遺』の著者である「齋部廣成」の後裔「忌部政通」は…《【神代文字】は【象形文字】である》…として、【神代巻口訣】文書を用い、その【象形文字】の1つ、つまり、【ホツマ文字】(神代文字)の(円形=○に横一線の形状)の字を確と明記したのである。

 

…「忌部政通」(インベマサミチ)が言う処の、その象形文字=神代文字下部画像/に横一記号)は、『神代巻口訣』文書を以て説明すれば、「右二行目、上から二番目」に位置する円形状文字 、即ち 「円に横一線の記号文字」の事です。此の「ジンダイ(神代)文字」は、【秀真(ホツマ)文字のと読む。そして、此の文字()の語意が意味する処は、「朝、東の水平線から大陽が南天高く立ち上がる状態」を表し、4方位の【南】(昼の語意に対応)をも意味表す言語文字である。


         (下部の画像は「忌部政通」著【神代巻口訣】文書の一部分


 

 

…次ぎ、下部画像の文言文字は…ホツマ文字の母音記号【O・冂・△・弓・囗と、子音記号、即ち、Υ】(ヨッド)の字を分解した形状(I/T/Χ/V)を合体(組み合わせ)させて考案された文字を用いて書かれている

 

… 【神代巻口訣】に記入されたに横一線入り記号文字」の形は、下部の文字フォントの中に在ります。つまり、画像文字「右2行目。上から5番目」に位置する円記号「○に横一線入り」状の文字の事で、と読む。

 

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★…上段の右から左へ読むと…

一段目左から~

…ヒコオヌフアウエヲヤ、

…ミモユノワホエ形記号は水を意味する母音記号)タテ、

…ル(ろ/?・変態文字)イスカ=変態文字)ナヰラセ、

…ロヰチシハキ ク=変態文字)、

…ネノリレケムツソ」45文字/文字順不揃い

 

…此の記号文字の配列的文言には意味はあません。此の画像文字は、或【文字フォント・サイト】にあったから貼り付けたもの。つまり、此の【秀真文字】(ホツマ文字)…の形状を紹介する為に貼り付けたものです…元来の【ホツマ文字】と、其の文字配列方式を見ようと思えば、「Google・検索」(ホツマ文字で検索/下の画像=五・七調 アワのウタ)で見る事が出来ます。

 

  「ホツマ文字「サ」」の画像検索結果  「ホツマ文字「サ」」の画像検索結果  

★…上、右側画像(に横一)文字は、ホツマ文字の【】と読む

 

★…「齋部廣成」著の『古語拾遺』神代文字の存在の肯定/筆者説に関しては、次ぎのURL… http://erusaremu4654.jugem.jp/?eid=9 ← ドラッグ・クリックして検索…に記しています。

 

 

『古語拾遺』文中の文言(【日ノ本・カミ代物語】より抜粋す)…天日鷲神與津咋見神穀木種殖之 以作白和幣 是木綿也 已上二物 一夜蕃茂也 令天羽槌雄神 「倭文遠祖 織文布 令天棚機姫神織神衣 所謂和衣/古語=爾伎多倍」(後文略す)。

 

…上記、漢文の訓読(原文に近い表記)を記す…「あめのひわしのかみと、つくひみのかみとをして、かぢのきをうえて、しらにきて/これはゆふなり/かみのふたつものは、ひとよにおいしげれり/をつくらしむ。あめのはづちのかみ/しとりがえんそなり/をして、しつをおらしむ/。あめたなばたつひめのかみ(上=God)をしてかむみそをおらしむ。いわゆるにぎたえ/古語=ニギタエと言う」(日神の石窟幽居の部分に記るされている)…ちなみに「木綿や麻で織った布】を「アラタヘ」(日神の石窟幽意の条)と記す。

 

…此の文言中の「倭文遠祖」(天羽槌雄神)と「機文布」。つまり、此の文面に言う「倭文文布」が意味する処は、我が国に於ける【日ノ本・カミ代物語】(自説=此の時代はAD1世紀~4世紀中頃迄の物語に当る)時代には、既に【倭・文字】(ホツマ文字と、その文字を書く【織り布】(ニギタエが在ったと言う事を記している。つまり元を正せば、『古語拾遺』とは、【ホツマツタヱ】(秀真伝)と言う文書を元典としていて、尚、その後の出来事を集約した内容なのである。

 

…早い話が、読んで字の如く…「当時(カミ代・時代)、我が国の公式文書」…としては、つまり、漢字を導入する以前(AD5世紀中頃より以前)にあって、我が国(ヤマト国家)には既に独自の【カミ名・文字】(ジンダイ文字=神代文字)が存在していた。そして、その文字は【ニギタエ】(木綿&麻布)を書く材料として用い、文字を書いていた」…と言う事である。

 

…従来(戦後)に言う『古語拾遺』の冒頭に記す此の文言、即ち…「 蓋聞 上古之世 未有文字」(ケダシキク・ジョウコノヨ・モジアラズ )…に言う…未有文字」とは、我が国(ヤマト=日ノ本国)には未だ漢字が導入されてなかった」…と言う意味である。「そして…「書契より以来」(ショケイヨリコノカタ)とは、「カミ代文字で書かれた文書が出来た時から」(BC1世紀終り頃からと言う意味である。

 

…此の『古語拾遺』文言…「貴賤老少、口々に相伝へ、前言往行、存して忘れずと聞けり。書契より以来、古を語る事を好まず」(仮名訳=キセンロウショウ、クチグチニアイツタエ、ゼンゲンオウコウ、ゾンシテワスレズ。ショケイヨリコノカタ、イニシエヲカタルコトヲコノマズ)…と記す部分の【書契】(ショケイ)の語意は、イスラエルのカミ(Yahweh=ヤハウェ)との契約の意に関連し、我が【日ノ本国】(ヤマト)に於ける【契約文書】(日本人の為の聖書)の意を意味表す。次の…【書契より以来(コノカタ)、古(イニシエ)を語る事を好まず】とは、「ホツマツタヱ文書の完成(4世紀中頃)以後、それ以前(イニシエ/ユダヤ教時代)に於ける出来事等の話は避けるように成った。

 

…つまり、我が日本の国に…「漢字導入以前は神代文字が無かった」…と、今でも言い張る、その戦後(大東亜戦争後)に於ける我が国の文献史学者達(アカデミ-的・古代史系史学者達)は、『古語拾遺』の読み方を全く知らない事、然りである。その証拠の1つが、『古語拾遺』に記す……《天羽槌雄神(シトリ=倭文が遠祖)をして、しつ文布)を織らしむ》……の記述部分である。此れは読んで字の如く…文書を書く為の織り布文布日神の石窟幽居の部分に記す)の意である。つまり、倭語(1文字1音/訓読の神代文字言語)で書かれた文言に対し、漢字に書き換える時、その語意を解りやすくする為の当て字を付すにあっては、その意味(語意)を重視した漢字を以て当て字した。それがつまり文布】(倭語/訓読=しつ)である。要約すれば、我が国、即ち【日ノ本・カミ代物語】(1世紀~4世紀中頃)時代にあっては、既に、カミ名・文字】(カナ・文字/仮名の語元が存在していたと言う事を、「齋部廣成」(インベヒロナリ)は、『古語拾遺』文書の作成を以て、確と、明記したと言う事である。

 

…然し、戦後(大東亜戦争後)に於ける【GHQ・連合軍政策】(日本国の力を削ぐ政策)にのっとり、戦後の我が国の古代史系的な史学者達(江戸後期の国学に対しては素人に等しい人達)は、「我が国には神代文字はなかった」と言う説を唱えるしか方法がなかったのである。

 

 

以下【追記】(平成29年11月11日/土曜)…図表(神代巻口訣の一部)の【追記】と解説

 

…『古語拾遺』(齋部廣成・著)の此処の文面は【ホツマツタヱ】(秀真伝)文書を底本として書かれている。その2つ目の証拠となるのが、齋部廣成の『古語拾遺』に記す処の…「(素戔嗚の追放)…阿波礼 阿那於茂志呂 阿那多能志 阿那佐夜憩飫」仮名訳アハレ、アナヲモシロ、アナタノシ、アナサヤケ、ヲケ)と記す部分である。此処の部分は【ホツマツタヱ】(秀真伝)の【第7章…ノコシフミ・サガヲタツアヤ】(№7/遺文・性質ヲ絶の章)の部分に当る。その【ホツマツタヱ】(秀真伝)の此処の部分は、天の岩戸から【ウヒルキ】(天照大神の幼名)が現れ…「アハレ、アナヲモシロ(面白)、アナタノシ、アナサヤケヲケ、サヤケヲケ、アハレヲモシロ、サヤケヲケ、アナタノシ」と言った事に関連し、始めて此処に天照大神】(ヲモシロ=人の顔の表面を照らす意味と言う呼称(名称)が成立した事を記しいる。

 

…然し、何はともあれ…『古語拾遺』(齋部廣成)に記す…「蓋聞 上古之世 未有文字( ケダシキク・ジョウコノヨ・モジアラズ )…と言う文言に対し、我が国の戦後(大東亜戦争後)に於ける文献史学者達が…「我が日本の国には漢字が導入される迄は文字(神代文字)は無かった(証拠無し/何の根拠も示す事出来てない)…等と言う愚説(グウ説/オロカナな説)は、本末転倒である。

 

ちなみに、「文献史学者」と言うのは、文献で在れば、どのような文献であれ選り好みせずに検証するのが仕事である。従って…「文献を選り好みする我が国の戦後(大東亜戦争後)に於ける文献史学者学者」…は、既に、此の時点で「文献史学者」とは言えません。

 

★…上の画像(神代巻口訣)の文面…「書以廣道(忌部政通)、而求深旨、神代文字象形也O・冂・△・弓・囗=秀真文字の母音記号)。 應神天皇御于、異域(古代ユダヤ民族地域)典經(モ-セ5書/ギリシア語訳の聖書)、始來朝以降至、 推古天皇、聖徳太子、以、漢字附、和字(ルビ。後、百有餘歳(100有余年)、而(然し)、字中にが入る/す?)、是書(国記/天皇記)、イズクンゾ/100年後には、どうなっているのか」(後文略す)と書かれている。
 
…上記、文言を要約すれば、つまり…「齋部廣成」(インベヒロナリ)が書いた『古語拾遺』に記す処の…「 蓋聞 上古之世 未有文字」(ケダシキク・ジョウコノヨ・モジアラズ )…と言う文言に対し、廣成の後裔(子孫)である【忌部政通】が言うには…「上古(我が国の黎明期~BC31年迄頃)の世、此の島国(日本列島)には文字が無かった。然し、新に創案し作成された【神代文字】は象形文字であった」…等と言う事を説明している。そして、又(而/然し)、その【神代文字】(和字)で書かれた文面に対し、推古天皇時代(AD593~628年)の聖徳太子は、漢字を用いて和字(神代文字)に当て字ルビ/万葉仮名等での当て字する方式(欽明天皇2年=540年から始まる)を用い、公文書(国記&天皇記等)を選録(AD620年)した。従って、此の年(推古天皇28年=AD620年)から「百有余年」後(100年後頃)には「どうしているのか(焉/いずくんぞ)と言う事を記している。その意味する処は、「養老4年」(元正天皇6年=620+100=720年)の時、全てが漢字を用いて書かれた【日本紀】(逸書/ニホンギ)が作成(上奏)された事を示唆してる。
 
…つまり、最初(上古/我が国に於ける黎明期~BC31年頃迄)は、此の極東の島(日本列島)の住民は文字を持っていなかった。だが、聖書(旧訳聖書に関連する文書)を有した人達(クムラン秘儀教義宗団)が、異域(古代ユダヤ民族地域)から此の島に移動して来て、それ迄の自分達の文字(ヘブル文字&ギリシア文字等)に変わる新たな文字(秀真文字=神代文字)を創案し、「日本人の為の聖書」(秀真伝と三笠文/文書)を完成させた。その後年(欽明天皇2年=540年)に於いて、「和字(神代文字)が読めない人達」の為に、和字を漢字に書き換える事が始められた。その後、物部氏族が蘇我氏と聖徳太子の連合軍に滅ぼされ、国史や天皇記等の文書管理が、聖徳太子側(大臣は蘇我氏)に移った。従って、国史を称德太子が漢字を用いて書き換えた。此の頃、伊勢神宮に保存されていた「神代文字による文書」が、小野妹子と秦河勝によって探し出され、此の「神代文字文書を漢字に書き換え」編輯した。つまり、それが『先代匶事本紀大成經』(72巻本)である。そして、此の年から百年後の養老4年(AD720年)の時(元正天皇/女帝)、大部分が漢文一部分=和歌等は万葉仮名で記述で書かれた【日本紀】(ニホンと読む/逸書)が奏上(完成)されたと言う事を、此の画像の文面(神代巻口訣文書の一部)は説明している。
 
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