・「下等社会(大衆)」が侵してはならない 『お上』の領域
高校生、大学生ゲストで政治の話(Live配信2020/12/14) - YouTube
動画34分半ばあたりで、日本の学校教育における「政治的中立」(単なる枕詞)が横行している事実を、女子高校生の方が「(小学校から)18年間、一度も先生が政党の名前すら言わなかった」という事実をご指摘され、なるほどその通りだなと思いました。
一方で・・・『朝鮮学校』出身者(幼小中高)である拙ブログ共同管理者の在日コリアン友人の話では、「自分たちは政治と常に一心同体だった」と・・・彼の世代はDPRK(朝鮮民主主義人民共和国/北朝鮮)の拉致問題や核ミサイル開発等で、日本社会における在日朝鮮人へのヘイトが高まっていた時期(00年代)でしたので、授業中(高2)のころに右翼街宣車が押し掛けてきたり、DPRK国旗を持ち、学生総出で日比谷からデモ行進もやりました。
もちろん、それ以前(90年代)から『チマチョゴリ切り裂き事件』など、歴史的に見ても迫害と差別を受けざる得なかった在日コリアンは、就職差別や外国人登録証の指紋押し撤廃など、他の誰よりも社会問題や政治問題への関心を持たなければ、自らの生活を維持することは出来なかったので、非常に多くの方々が、政治に関する意識が高かったのは言うまでもありません。
こうしたギャップをよそに・・・日本人の政治に関する「非主体性」について調べると、その歴史は古く明治時代にまで遡ります。
福沢諭吉 『明治24年(1891年)頃の肖像』 Wikiより
日本の大資本家の「御用番」で、『帝室(天皇)』への忠誠と反民主主義と掲げ、人種差別や性差別主義者で、朝鮮や中国への侵略主義を剥き出しに・・・国民(臣民)は国家のために命を捧げねばならないとした“全体主義者”であることは、以前の記事でお話致しました。
1年以上のコロナ騒動によって、狂った公(政治/世間)が暴走し(インフォデミック)、あらゆる『表現の自由』や『生きる権利』が蔑ろにされる現状で(マスク真理教と自粛命令)、それら不条理を突破するために「主権者たる国民」が、能動的な政治参画によって知見を蓄積し、民主主義を守るために「一人ひとりが考える」ことの重要性が、何よりも大切なのです。
前回の記事では、コロナ禍によって加速する「日本の地獄」が、あらゆる世代を呑み込んで、経済死や自殺などの“破局”を生み出す危険性に触れ・・・このまま黙って『組織』の言うことを聞いていても、彼らは私たちを「捨て駒」にしか思っていないので、用が済めばポイっという・・・「リクルートスーツ≒学徒動員」のごとく、その先に待っているのは“漆黒の闇”なのです。
-【修正加筆】“鬼滅”の劇場版アニメーターの給料がひどすぎる件-
福沢諭吉は、そうした日本人の「従順さ」や「無気力さ」を・・・、時に称賛したり、嘲笑ったりしながら、皇族や華族の「上等社会」、士族中心の「中等社会」、それ以下大多数の一般庶民・貧民を「下等社会」と位置づけ、これら階級構造を『遺伝的なもの』であると絶対視した。
彼は自著『すすめ』で、政府・人民(国民=臣民)の「分」なるものを掲げ・・・結局、人民は自らの部を守って政府に従うことを「美徳」とし、それはどんな不満があろうと「社会人の厳しさ」というレッテルや思い込みで口をつぐむ、現代日本人の姿と酷似するだろう。
無論、これは仕事だけでなく言論や学問、出版であれ、「例外」は存在せず、公(政府/世間)に異を唱える言説は「非主流」として憚れるものであり、これら“官民調和”の様相を福沢は「『あたかも全国を一家の如くに調和して、その全力を一政府に集め、まず政権を強大にして・・・・・・』(⑤253)」(『天は人の下に人を造る 「福沢諭吉神話」を超えて』 杉田聡著 インパクト出版会 20頁より)と、その先にあるものは「国権皇張の路に進むの一事」(同 21頁より)という“全体主義”であり、現代のコロナ騒動で『公への従属・追随』を求める連中は、もれなく「各種権利の行使を自己抑制」し、それは「マスク着用」や「自粛営業」に体現される。
こうした意味で「過去」と「現在」は“地続き”であり、感染防止なるスローガンで「生命至上主義」を提唱するなら、戦争遂行で「日本民族の存続」を掲げた大本営と、いかほどの差異があるというのだろうか。
そこに「異論(他者)」が入ることを拒絶し、もとをただせば日本の学校教育も、福沢諭吉は『国権拡張のための便宜』に過ぎず、「報公心」の植えつける社畜訓練所がせいぜいで、自分の考えを持ったり、表現させない意味では、巷で「自虐史観の植えつけ」と攻撃される『左翼教育』は、最初から存在していなかった。
女子生徒であろうと、遅刻したら「頭をかち割られる」し、まさにキ〇ガイ以外なにものでない洗脳を、それぞれの個々人から『自己肯定感』を奪い、非人間的な社会を維持するための歯車とされるのが関の山です。
こうした『学校教育の本質』を喝破するにあたって、福沢諭吉は「権力を批判する自由の放棄━政府による教育への介入の容認」を唱え、国民が『報公致死』を「自発的に行う(自由な絶対的従属)」社会が実現した現代において、彼の創設した慶應義塾やより広くの一般の学校で、学生や生徒たちが「政治の思想」をもつことは必要とされても、政治には断じて関与すべからずと主張しました。
「学問をもって政事の針路に干渉せず」
「政を施すにもやすく・・・・・・双方の便利これより大なるものなかるべし」
『天は人の下に人を造る 「福沢諭吉神話」を超えて』
杉田聡著 インパクト出版会 53頁より
という具合に、『学問・教育の政事への完全無関与』を述べ、そもそも民主主義社会において自由権の一つとされる「学問の自由」は、それを担保するために政治にガンガン関与して良いし、社会問題など万般の事象を研究し批判する自由がなければ、もはや学問としての体裁は保てなく、福沢の詭弁は「政治の動き(政府や政治家、運動家、世間の主流言説)」に対する批判を一切慎めと論ずるに、その悪癖が現代にまで存続しているにおいて、日本の民主主義は“砂上の楼閣”であると言えるだろう。。。
<参考資料>
・Youtube動画 『高校生、大学生ゲストで政治の話(Live配信2020/12/14)』
・同 『90年 神戸高塚高校 校門圧死事件』
・『天は人の下に人を造る 「福沢諭吉神話」を超えて』 杉田聡著 インパクト出版会
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