・よって一切の権利擁護いらぬ

 

 

福沢諭吉 『明治24年(1891年)頃の肖像』 Wikiより

 

福沢はかつて、日本人民の、「家に飼いたる痩せ犬のごとく、実に無気無力の鉄面皮というべ(き)」性格(③46)を、「一身独立」をはばむ悪癖として、いらだちをもって眺めていた。だが今や、日本人ひいては職工(労働者)のこの性惰をむしろ逆用して、福沢にとって望ましい労使関係を創造・維持せんとする。そして福沢は、その範例を地主と小作人との間に見ている。

 

「その〔=地主と小作人の〕関係、」はなはだ滑らかにして情誼の温かなる〔は〕、父子のごと(し)、」と福沢は記している(⑮582)。

 

そればかりか東北地方その他では、小作人は「地主の催促をも待たず定めの小作料を納めてかつて偽ることなく、耕作の外にも主家の急に走りその家事を助けて・・・・・・かの極楽世界とも称すべき地主と小作人との関係・・・・・・」(⑥134f.)とさえ記すのである。

 

※傍点はアンダーライン

 

『天は人の下に人を造る 「福沢諭吉神話」を超えて』 杉田聡著 インパクト出版会 

188~189頁より

 

福沢はこのように、日本の大衆(貧民=下等社会)をあげつらう言説を並べていますが、1890年代の労働争議や明治政府の労働立法を嫌って、あたかも地主と小作人との関係「父子のごとき」としたことから、それは必然的に資本家と労働者の関係にも適用される。

 

よって「父子(親子)間に法律がいらないように、資本家と労働者を律する法律はいらない」と定義づけます。

 

さらに雇用主と雇用人との関係は、西洋のそれと「根本的に違う」として、まずもって日本の雇用契約『主人と従者』の関係であり、冒頭の「地主と小作人」の関係と同じ論理を展開しています。

 

 

・続けて「ブラック労働」を絶賛

 

 

また別方面では、日本人の「従順さ」をほめたたえる。

 

「わが日本国人が特に商工事業に適して他の得て〔=とても〕争うべからざる次第を述べんに・・・・・・性質順良にして長上〔=上司〕の命に服し」

 

同 196頁より

 

つまり日本の労働者は、とんな低賃金であろうとも、文句ひとつ言わず、『昼夜の二交代制』(12時間労働)が実施されてなお、ますます労働環境が劣悪極まりない状況と化すなか、福沢は「昼夜を徹して器械の運転を中止することなきと・・・・・・賃金安き」(同196頁)という具合に、ちなみに二交代制を導入したのは、同書によると1883年に大阪紡績会社が始めたそうで、この会社は福沢諭吉とも親しい、かの有名な渋沢栄一の創業会社です。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その8(日本資本主義は「朝鮮の犠牲」の上に成立した)‐

 

上述の赤文字に帰する意味で、常に『全体としての利潤を最大化』させ、非人間的な労働福沢はいとも簡単に合理化し、渋沢経営の大阪紡績企業の雇用者数(1897年)が、1万2000人とされながら日給30銭の者はわずか387人程度、その他1万人は日給17銭以下であり、福沢の『実業論』でも、1892年段階紡績職工の賃金男女平均1日16銭5厘、横山源之助が1896年の情報として「一日一人につき七銭あらざれば生活する能わず」(同197頁)が実態とするなら、家族持ち(当時は大家族が中心)の場合は、容易に幼児も工場へ駆り出さなくては生活できない状況へと追い込まれる。

 

そんな状況を、福沢は良しとし、欧米比較(最低賃金)「ニューヨークの8倍、英国の同10倍以上、最低廉のイタリアにしても日本の5倍」(『実業論』より)という事実が浮き彫りになれば、「むしろ価格競争に勝てる」と踏んで、「英国と競争して必ずしも遅れを取らずとの立言も、空想にあらざるを証すべし」(『同』より)と論理を展開する始末です。

 

こうした“ブラック企業万歳主義”と相まって、今度は『労働時間の制限は無用である』と、この老爺はキ〇ガイじみた御託を並べる。

 

仮に労働時間は8時間に絞られれば、結果的に労働者の賃金が下がり、「妻子とともに手をむなしゅうして、空腹を忍ぶ外なし」(『天は人の下に人を造る 「福沢諭吉神話」を超えて』 杉田聡著 インパクト出版会 199頁)と、そんな状況を憂いて、むしろ「喜んで労働に従事する」と述べた。

 

いや、だったら賃金上げろよという話。

 

横山によれば、当時男工の労働時間は一〇時間とのことだが、実際にその労働で生活をまかなえないため残業につくのが一般的であり(現在の日本でも同じ)、そのため結局彼らが手にするのは、「十三時間ないし十六時間の労働に服してかろうじて得るところの賃金のみ」である(横山252)。鉄工の場合、休暇は月二回が通例だったというが(同253)、いずれにせよ過度の労働に服さざるを得ないことになる。

 

『通弊一班』では、労働日の休憩時間十~十二時間労働の場合三〇分ていどとされているが、紡績、製糸工場ではその間機械を止めないために、わずか五分の休憩ですぐ操業する場合があると指摘されている(隅谷②55)。

 

同 199頁より

 

これだけ見ても、恐ろしすぎる世界ですが、福沢はこの状況を改善しようとする動きに、とことん反対の意見表明をする。

 

 

・徹底した 女性と子ども蔑視

 

 

「ねぼけまなこで、朝の五時から弁当箱さげて/工場通いのいぢらしさ 娘ざかりを塵の中/晩にゃ死んだよになって寝る」

 

「死んでしまおか 甘い言葉につい欺されて/来てみりゃ現世の生地獄 出たくも出られぬ鬼ヶ淵(鐘ヶ淵にかける)/どうせ生かしちゃ帰すまい」(大久保209f.)

 

同 200~201頁より

 

この歌は2008年まで『カネボウ』の名前で存続した「鐘ヶ淵紡績」の工場を舞台にしたもので、工女の逃亡を防ぐために、鉄格子で覆うという異常な光景があったそうな。

 

1890年ごろ、女工の数は非常に増えていて、当時35万人におよぶ工場労働者のうち3分の2は、「製糸・紡績などに働く女子労働者」とされ、先の1883年以来に導入された『深夜業』(二交代制12時間労働)によって、1日12時間~15時間労働を強いられ、こと渋沢栄一の大阪紡績会社では、年齢15歳~20歳が最多時には15歳未満で、ひどい場合は7~8歳の女児すらいる有様でした。

 

しかし、福沢はそんな事実をことごとく無視し、本書を拝読すれば明らかになりますが「男女を同権にするがごときは衝突の媒介」として、薄幸な貧しき女性「人間以外の醜物」「人類の最下等にして人間社会以外の業」などと、目を疑うほど口汚いヘイトスピーチを繰り広げます。

 

さらには「児童労働」を容認し、そもそも貧乏人(貧民=大衆<下等社会>)の教育『貧知者』を生み出し、福沢が所属する士族中等社会や、皇族・華族の上等社会を脅かす存在になりえないから、その人たちの教育を徹底的に妨げ国権拡張や資本主義発展の部品として、ボロボロになるまで使い込んで、壊れたらポイという、財界の御用番としての立場を明確にします。

 

 

<参考資料>

 

・『天は人の下に人を造る 「福沢諭吉神話」を超えて』 杉田聡著 インパクト出版会

 

 

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