夕陽に照らされて綺麗な一枚が
撮れました。
「岩崎城」の旗が反対向いてますね😆
岩崎城(歴史史料館・展望塔)です。
「どうする家康」の中でも小牧・長久手で池田勝入(恒興)と森長可が
「三河中入り作戦」を画策、
家康の拠点である「岡崎を攻めれば、徳川は崩れる」として
小牧山がスルーしてしまい岡崎へ侵攻しよとする筋に
「岩崎城」がありました。
「岩崎城」は16世紀の初頭、織田信秀(信長の父)に
よって築城されたと伝えられています。
しかし尾張と三河国境にあるこの城は
松平清康(家康の祖父)に攻め落とされましたが
清康が家臣に殺されてしまう(守山崩れ)で衰退し
一時期「岩崎城」は空き城となりました。
そこへ松平氏の案内人として
本郷城を居城としていた丹羽氏清が1538年頃に入城し、
丹羽氏の4代の居城としました。
その後、織田信長に支えていましたが
信長が本能寺の変で討死したからは、
信長の次男・信雄に支え
「小牧・長久手の戦い」で織田信雄・徳川勢として
「三河中入り作戦」の進軍を阻止するために戦いました。
城主は4代目丹羽氏次で、氏次は兵を連れて小牧山に
いましたが、岩崎城には氏次の弟16歳氏重は
7000兵に対して岩崎城にいる兵は役300名と圧倒的な
兵力の差にも関わらず最後まで戦い、全滅、落城して
しまいます。(岩崎城の戦い)
しかし、ここで少しでも足止めをする事ができたので
池田勝入隊の後続の兵に小牧山隊(信雄・家康)が
追いつき戦いとなり、先頭隊も長久手に引き返し
戦いとなり、池田勝入・森長可は討死をして
「長久手の戦い」に信雄・家康軍は勝つ事ができました。
その後氏重らの活躍を大いに喜んだ家康は城主であった
氏次は家康の下で活躍、関ヶ原の合戦後が現在の豊田市で
一万石の大名となり岩崎城は廃城となったそうです。
夕方になり閉館近いため、
ゆっくりはみられませんでしたが、
後日、ゆっくり資料をみて楽しみました。
つづく…